〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 安土城天主台跡から下山する帰り道のコースに、信長が築城時に建立した摠見寺(そうけんじ)がある。

 摠見寺は天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中に位置し、創建時には近隣にあった現超光寺や甲賀・長寿寺など多くの寺院の建物を移築し、当時は本堂をはじめ22棟の建物が立ち並び、城下の町人の通行が許されていた百々橋口道から城内を訪れる人々が、この伽藍群を見ながら境内を通ることを予定していたと考えられる。
 こうした堂塔伽藍を備えた壮大な寺院が城内に建てられているのは、後にも先にも安土城だけである点にも注意を払いたい。

 このように、ある意味では信長の仕掛けた装置の一つである摠見寺は、本能寺の変の直後の天主・本丸炎上時には類焼を免れ残ったものの、江戸時代末期の1854年(嘉永7年)になって伽藍中枢部を焼失し、先に見たように現在は大手道脇の伝・徳川家康邸跡に仮本堂を移している。

00-P1050584.jpg

  摠見寺跡から琵琶湖方面の西の湖の展望

00-P1050586.jpg

 焼失を免れた摠見寺の「三重塔」(特別保護建造物 重要文化財)
 1454年に建造され1555年に修理した記録が残るこの塔は、元々あった甲賀・長寿寺から移築されたものとされている。

00-P1050592.jpg

 焼失を免れて残る摠見寺「二王門」へ下る。
 信長に臣従した甲賀の山中俊好が、1571年に寄進したものとされる。

00-DSC02709.jpg

 百々橋口道の石段から見上げた摠見寺「二王門」(特別保護建造物 重要文化財)

00-20180330 安土城仁王門の仁王像

 二王門の仁王像
 木造金剛二力士立像 特別保護彫刻 重要文化財に指定されている。

00-P1050604.jpg

 入山の有料化に伴い、現在は二王門を出て安土城下の百々橋口へと下る石段が通行止めとなっており、山中の道を回って再び伝・羽柴秀吉邸跡に出て、大手道を下り関所へと誘導している。

00-P1050616.jpg

 かつては、麓の道路際に見事なサクラの大木の並木があり花見も楽しめた安土城跡だが、駐車場の整備などを理由に伐採され、山麓のサクラの数は少ないが、それでもちらほら見えるサクラは満開だった。

00-P1050605.jpg

 この安土城跡の山麓一帯は、臨済宗妙心寺派の摠見寺が所有・管理しているが、築城時に信長によって建立されたものの檀家を持たず、幾多の経緯を経て江戸時代末期から明治期に寺領を失って衰退しており、TVの歴史ブームとともに入山する者が増加し、管理のために「入山料」を徴収するようになったのもやむをえないともいえる。

 なお、大手門は、ここから約80m下がったところにあったとされる。


 今見てきたばかりの安土城跡を後にしながら改めて思うのは、山城とはいえ、例えば南山裾帯曲輪の大手口や虎口の低い石垣、左右に家臣団の屋敷を配してはいるとしても駆け上がり易い直線に伸びる広い大手道、隅櫓や虎口も設けない七曲がり道、城下から続くほとんど塀も石垣もない百々橋口道など、これらは防御面を極端に考慮しない城の造りとなっており、われわれがこれまで抱いてきた既成の城の備えのイメージからすると、やはり特異なものに感じるのだ。

 ところで、行政が管理している施設では、危険防止のためとしてやたらと柵や建て看板などが目立つが、ここでは自己責任なのか通行止め標識だけで、かえって潔く景観にも煩わしさを感じない。

 だだし、築城の際に不足した石を補うために階段に使われている石仏の全てに、今では「石仏」の表示と賽銭缶が置かれているのは、少し艶消しだった。

 「安土城郭資料館」(近江八幡市安土町小中700)
 JR東海道線の安土駅前には、市立の安土城郭資料館がある。
この資料館の最大の見所は、20分の1のスケールで制作された精巧な安土城天主で、観覧者があると電動で内部を見られるように城の模型が二つに分かれる仕掛けがあって楽しい。

 他に屏風絵風陶磁版壁画などの展示や信長の活躍した時代を中心に資料を集めた安土文庫などが設けられている。

00-P1050402.jpg

 資料館内1階に展示されている幻の名城”安土城”の模型
 絵図資料などが無い安土城の姿は、当時の「信長公記」や「安土日記」、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」などの記述に基づいた研究によって、石垣は自然石をそのまま用いた野面積で、地下1階、地上6階建てで、高さは35m程と推定されている。

 また、外観は、階層ごとに壁が塗り分けられ、黒い漆塗りの窓が配された白壁の層や、朱色の八角堂の上に金色の最上階があり、青く見える瓦が葺かれ、最上階には金箔瓦が使われていたとされる。

 なお、安土城天主の構造及び外観については諸説の研究があるが、この模型は故名古屋工業大学名誉教授内藤昌氏の復元案により制作されている。
 (この復元案の諸説は、『安土城天主の構造及び外観に関する復元考察』佐藤大規 に詳しい。)

00-P1050429.jpg

 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える仕掛けになっている。

00-Panorama 20180328-02

 安土城の推定内部構造
 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える。5階の八角堂の中に、信長の姿が見えるのがご愛嬌で微笑ましい。

 城の内部は、地階から3階まで通ずる吹抜けが設けられ、地階には仏舎利の入った宝塔が置かれており、1階から3階までの各階には複数の部屋があり、壁には花鳥や中国の故事を題材にした華麗な障壁画で飾られていたとされる。

 また、八角形の5階は、外側の柱は赤色、内側の柱は金色で、壁には釈迦の説法図が描かれており、最上階6階の3.3mの正方形の部屋の壁は金色で、狩野永徳が描いた中国神話の帝王や孔子、七人の賢人などの絵が描かれ、漆塗りの鉄の扉があった。

 これまでの戦国時代の城の天守は、本来は戦のときの防御施設であり、居住する施設ではなかった。
 しかし、この安土城では、初めて石垣の上に建てられた天主に信長自身が居住し、その外観は華麗さと威容を示し、そして内部は壮大・壮麗さと宗教的空間を「見せる」ことで、見る者を畏怖させることを強く意識した政治的装置としての城だったと考えられている。

00-P1050403.jpg

 安土城屏風の推定復元図「屏風絵風陶磁版壁画」
 天正少年使節が信長から託された屏風絵を、ローマ法王に献上するまでの4つの場面を描いた陶磁版壁画の一部

 ところで、外国人宣教師と親交のあった信長は、自分の権力を誇示するため当時の日本画壇の代表的な画人、狩野永徳に描かせた安土城の金箔屏風をイエズス会の司祭・巡察師ヴァリニャーノに贈り、彼の帰国に同行した天正遣欧使節によってローマ法王グレゴリオ13世に献上されたとの記録が残る。

 この屏風が法皇庁で発見されれば、当時の安土城の姿を知る決定的な資料となるのだが、2007年にも地元安土町(現・近江八幡市)の派遣調査団による調査も行われたが、現在になるも発見に至っていない。

00-P1050445.jpg

 試着ができる信長の鎧兜

00-P1050449.jpg

 安土山の手前にはJR東海道線の列車が走る。

00-Panorama 20180328-01

 歴史公園「近江風土記の丘」の「文芸の郷」
 安土城跡の南東には、国の史跡・観音寺城跡のある南北に伸びる繖(きぬがさ)山(標高432.9m)を背後にして歴史公園「近江風土記の丘」があり、滋賀県下から移築された歴史的建造物をはじめ、滋賀県立安土城考古博物館(写真中央)や安土城天主信長の館などで構成される「文芸の郷」の施設がある。

000-Panorama 20180328-06

 歴史公園「近江風土記の丘」にある、旧柳原(りゅうげん)学校校舎
 1876年(明治9年)当時の高島郡新儀村の初等科小学校校舎として建設された和洋折衷の建築物。

00-Panorama 20180328-18

 JR安土駅から眺めた観音寺城跡のある繖山
 観音寺城は、室町時代から戦国時代にかけて佐々木氏、後に六角氏の居城として、繖山の頂上付近に築城された先進的な総石垣造りの山城で、二階建ての屋形はあったものの天守は無かったといわれる。
 また、山腹を整地して家臣団の屋敷も整備されていたようで、安土城の築城に当たっては、この総石垣造りや家臣団の屋敷地造成の手本になったと考えられる。

 なお、この近く、琵琶湖の西岸、今の大津市坂本穴太(穴太ノ里)の出身者の穴太衆が、それまでの寺院の石材建設の技術の高さをかわれて安土城の石垣を施工したことで、その技術水準の確かさが広く伝わり、以後、江戸時代初期まで全国各地の築城・石垣造りに携わる契機となったことも興味深い。

00-P1050446.jpg

 旧安土町の下水道のマンホールの蓋
 信長が勝運を期して永楽通宝を刀の鍔に刻印して愛用した、「まけずの鍔」をデザインしたもの。

00-P1050622.jpg

 JR安土駅から安土城跡への所要時間は徒歩で20分ほどだが、他に見て廻ることも考慮して、わたしたちは駅前のレンタル自転車を利用したが、これは時間効率もよく快適だった。

 ともあれ、お陰でこの山行を含めて、この日の全行程の歩数は、自転車走行分を除いて17,900歩を数えた。


 了




〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その1

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 春休みに我が家へやってきた孫たちを、次の予定地に送るついでに、久しぶりに安土城跡へ登ってきた。

 もう10年以上前になるが、当時学生だった息子たちとともに、ここにやって来たときには無かったのに、発掘・整備が進んで歴史ブームでスポットが当たり始めた2006年に関所ができたようで、今回は700円也の入山料を払って入場した。

 安土城は、天下布武を目指し清洲城から、小牧城、岐阜城へと順次拠点を進めてきた信長が、いよいよ天下統一のための拠点として1576年(天正4年)丹羽長秀に普請を命じ、3年をかけて滋賀県安土山(標高199m)に築いた山城で、天正7年1月に天主が完成すると信長は5月にここに移っている。

 しかし、1582年(天正10年)6月の本能寺の変で信長が倒れると、まもなく天主や本丸は焼失してしまい、わずか3年半の短命な城となった。

00-Panorama 20180328-17

 南山裾帯曲輪の「大手口 西虎口1と西虎口2」
 最近の発掘調査によって、大手口の左右に新たに4つの虎口が見つかり、復元されている。

 もっとも、その後も安土城は織田家の城として秀吉の庇護により清洲会議のあと信雄や孫の三法師が居城としたが、天正13年の小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると廃城となった。

 国の特別史跡に指定されていたとはいえ、短命で文献・資料も少なく、長らく荒廃したままだった謎多き安土城は、昭和15、16年になってようやく天主・本丸の調査と仮整備が行われ、昭和35年以降には本丸周辺から黒金門にかけての石垣修理など城跡の整備が行われた。

 次いで、新たに平成元年度から始まった城跡の保存とその活用を図る『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年をかけて実施され、2009年までに伝・本丸御殿及び、天主台のほぼ全容が判明した。なお、主要部の伝・三ノ丸跡、本丸取付台、伝・二ノ丸東溜りも、レンチ調査で建物の礎石などが確認されている。(調査済みは、史跡指定面積の約20%(17ha)に過ぎない。)

000-Panorama 20180328-19のコピー

 復元された安土城大手道
 大手口から直線に、幅8m(両側に1mほどの側溝)で、長さ180mの石段の大手道が続く。
 左側が「伝・羽柴秀吉邸」、右側が「伝・前田利家邸」がある。

00-I01MG_20180401_0001_edited-1.jpg

 安土城跡の順路図
 安土山に築かれた安土城は、山頂の天主を中心とする主要部分だけでなく、織田家臣団の屋敷が山腹を取り巻くように配置されていたようだが、現在見学のできる範囲は、全体の30%程度に留まるとのことだ。

000-Panorama 20180328-07

 「伝・羽柴秀吉邸跡」
 下段部分から上段石垣を見る。
 
 安土城の特色のひとつは、縄張り構造に石垣を多用した近世城郭の最初の城であり、400年を経過しても崩壊しないその優れた自然石の積み上げ技術だといわれる。

00-P1050485.jpg

 下段部分から上段に続く武者走りには、スミレの花が咲いていた。

00-P1050491.jpg

 上段曲輪の屋敷跡には、当時の礎石が残る。

00-「伝羽柴秀吉邸」の再現図

 「伝羽柴秀吉邸」の再現図
 上段郭が高麗門と屋敷があり、下段郭には櫓門と庭・厩があったと推定され、上下段の間には武者走りがあった。

000-Panorama 20180328-20

 伝羽柴秀吉邸跡上段から大手道の右側上部に見えるのが、摠見寺の仮本堂で、この場所は徳川家康の邸宅跡と伝わる。
 
00-DSC02661.jpg

 幅広く長い大手道が続く。

00-DSC02673.jpg

00-DSC02671.jpg

 「大手道の階段の石仏」
 信長の期待に応えて築城を急いだのか、三重や丹波篠山方面から運搬した石材の他に近在の野仏なども集めたようで、大手道の階段のそこここに石仏が使われているのが見られる。
 戦国時代に築城された城には、こうした石仏や仏塔などが石垣などに使われている場合が多いといわれる。

 しかし、単に不足する石材を補うための石仏であれば、宗教心に篤い者なら裏を向いて組み込むだろう。
 むしろ、ここでは信長は踏みしめる石段として、石仏を意識的に配したのではないかと思いたい。

00-DSC02678.jpg

 「伝・武井夕庵邸」跡
 やがて大手道は左に曲がり、その先の左には信長の右筆だった武井夕庵の邸跡の石柱が立つ。

00-DSC02675.jpg

 「七曲り」
 大手道の幅が狭まり、右へ左へと曲がる急峻な七曲りと呼ばれる場所。

00-DSC02686.jpg

 「黒金門の虎口」跡
 大手道の終点でいよいよ城の中枢部へと入る入口を守るのが黒金門。
 石垣を構成する石は大きく、組み上げも緻密で高い。この門を境に、下は家臣団の屋敷群、この上は信長の居住区画などの生活空間と天主などに分かれる。

00-P1050573.jpg

00-安土城主要部曲輪配置図

 安土城主要部曲輪配置図 (滋賀県安土城郭調査研究所作成)
 安土山の最も高い(標高180m)ところに天主を中心に、東西180m、南北100mに本丸、二の丸、三の丸などの主要な曲輪で構成されるー帯は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立している。
 高石垣の裾を幅2~6mの外周路が巡り、山裾から通じる城内道と結ばれている。また、外周路の要所には、隅櫓、櫓門などの入り口が数カ所設けられている。

00-Panorama 20180328-16

 黒金門を過ぎると、黒金門の虎口を抜けた風景。左正面は二の丸石垣で、二の丸、本丸へは右手へ進む。石段付近に「二の門」があった。左石垣上は二の丸、本丸、天主へ向かう  

00-P1050574.jpg

00-Panorama 20180328-03天主・本丸

 「本丸」跡
 東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地の本丸跡。
 左は天主台の石垣、正面右石垣の上は三の丸(名坂屋敷)。

00-DSC02692.jpg

 天主台へ続く石段

00-Panorama 20180328-13

 「天守台」
 国指定の特別史跡「安土城跡」天主台跡の礎石
 八角形の敷地に20m四方程の範囲に、柱と柱の間が7尺(約2.1m)で軸線がほぼ正方位(真北)となる碁盤目状に並んだ大型礎石111の石が並ぶ。
 物理探査の結果、天主台は自然の岩盤層を整形した上に築かれていることが明らかになっている。

00-P1050564.jpg

 天主台の地階となる礎石配列
 中央の礎石の欠けた部分に、仏舎利塔が置かれていたとされる。
 五重七層の巨大な天主が、総石垣の上に建てられた最初の城だった。

00-Panorama 20180328-14

 天主台跡から北の琵琶湖や比叡山方面を望む。
 築城当時は、琵琶湖の水が安土山の麓まで迫っており、北面の防衛を担わせるとともに、湖上を行く船に堂々とした安土城を見せる効果もあったと見られるが、昭和時代に入ってからの干拓で、現在は手前に西湖ができ、その先に遠く琵琶湖が見えるようになっている。

00-Panorama 20180328-15

 琵琶湖方面のパノラマ展望

00-DSC02695.jpg

 天主台跡から南にあった旧城下町方面を望む。

00-P1050571.jpg


 〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2につづく






〇 今日の一献 名古屋で眺めた『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』2018-1-31

―― 地球に最も近づいた満月が月内に2度発現して、それが皆既月食した

 今回の皆既月食は、『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』というそうだ。

 いつのころからか、月が地球に最も近づいているときの満月を、「スーパームーン」と呼ばれるようになって、おまけに、月内に発生した2度目のスーパームーンを、「ブルームーン」といい、さらに、皆既時の月が血のように赤く見えるから、「ブラッドムーン」というそうな。

 だから今回の皆既月食は、『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』となるわけだ。

 どうやらこの呼称は、近年、西洋から持ち込まれたようにみえる。

000-DSC01446.jpg

 月食前の『スーパー・ブルームーン』
 (20:10)

000-DSC01470.jpg

 食の進行
 (20:44)

000-DSC01480.jpg

 (20:55)

000-DSC01483.jpg

 (21:21)

000-DSC01535.jpg

 (21:35)

000-DSC01539.jpg

 (21:48)

000-DSC01570.jpg

 皆既月食の始まり 『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』
 2018年 1月 31日 21時 51分 名古屋
  月   齢 14.439 
  月の輝面比 99.999% 
  月の地心距離 360,145km 
  平均との比率 93.690% 

000-DSC01575.jpg

 皆既中の『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』
 (22:15)
 今回もわが家のベランダから撮影したのだったが、名古屋市内では皆既後に雲が広がり、食の復元過程は雲の切れ間を縫っての撮影となった。

0000-DSC01580_edited-1.jpg

 食の復元中の月
 (23:40)

0000-DSC01601_edited-1.jpg

 (23:50)

000-DSC01611.jpg

 曇天の中、月食後の『スーパー・ブルームーン』
 (0:45)

000-▲組写真 201802の皆既月食画像

 ともあれ、貴重な画像を手に入れたからには、後始末としていつものようにまとめてみたので、大方の披露に供したい。

00-P1190487.jpg

 当夜の撮影機材
 SONY α550 
 SIGMA 70-300mm F4-506 DL MACRO
 GITZO R. No1 521








〇 今日の一献 秀吉写真クラブ撮影会 [Sunsetダイヤモンド富士」への序章

―― 自然とは思い通りにはならないもの ましてや富士山をや、、、

 新年事始めの秀吉写真クラブ撮影会、「西湖の樹氷まつりとSunsetダイヤモンド富士」の撮影のため、2018年2月3日の節分の日早朝7時、メンバー4人がいつものクラブサロン「れんげ」へ集合。

 コーヒーとモーニングサービスで軽く腹ごしらえをしながらのブリーフィング後の雑談に移行した頃、このまま長くなるのを早々に切り上げて出発し、東名高速を一路東に向けて疾走を始めた。

00-P1190492.jpg

 高速道路から遥か彼方に富士山が見えるのを確認すると、いよいよ期待が高まる。

00-P1190512.jpg

 高速を下りて一般道に入ると、辺りは雪の世界となる。


● 西湖樹氷まつり2018会場

 この季節、当地の冬の風物詩ともなっている西湖野鳥の森公園で行われている、西湖樹氷まつり2018会場で樹氷を撮影。

 山の天気の変化は目まぐるしく、晴天にもかかわらず、富士山の方角は雲に覆われ、フレームに捉えられず残念だった。

panorama 20180203-00

000-IMG_2198.jpg

 木の枝などで作ったオブジェに長期間水を噴きかけ、夜間の零下の気温で凍結させた樹氷が制作・展示されている。

00-DSC01661.jpg

000-DSC01738.jpg

 森の中の池溏にある樹氷のオブジエ

000-DSC01705.jpg

000-DSC01711.jpg

00-IMG_2207_edited-1.jpg

if_00055302.jpg


● 御坂峠から眺める笠富士と河口湖

 雪が残るきついカーブの山道が続く御坂道を登ること暫し、むかし東国遠征の日本武尊が越えたと伝わる標高1,520mの御坂峠へ。

 ここからは、頂上に雲を頂いた笠富士と眼下には河口湖が眺められた。

000-panorama 20180203-04

00-DSC01767.jpg

00-DSC01850.jpg

000-P1190556.jpg

00-DSC01793.jpg

 峠の脇にある「天下茶屋

00-P1190561.jpg

 ひとしきりの撮影後、峠の脇にある「天下茶屋」で、山梨名物「ほうとう鍋」で昼食。

 初めて食した「ほうとう鍋」は、白味噌仕立ての水団鍋といったところ。
 味は別にしても、寒い身体にはご馳走に感じる。

 御坂峠「天下茶屋」
 昭和9年開設、かつて徳富蘇峰が新聞で紹介し、井伏鱒二の作品「大空の鷲」や太宰治の小説「富獄百景」に現れる。
 山梨県南都留郡富士河口湖町河口2739

00-DSC01854.jpg

 御坂隧道(全長396m・幅員6m・高さ4m)
 昭和6年竣工した隧道の河口湖口の扁額には、当時の内務大臣安達謙蔵の揮毫による「天下第一」の文字が刻まれている。
 冬季期間は通行止めとなっている。


● 河口湖畔から狙った[Sunsetダイヤモンド富士」

 われわれの到着時には、手前に部分凍結した河口湖を置いて、やがて訪れる日没前の太陽が富士に架かって煌くダイヤモンド富士の姿をカメラに収めようと、既に多くのカメラマンが湖畔に砲列を敷いていた。

00-DSC01905.jpg

000-IMG_2262.jpg

00-DSC01910.jpg

000-DSC01947.jpg

 待つこと暫し、いざその時分の到来になって、それまで山頂まで姿を見せていた富士は、遣らずの雨ならぬ厚い雲が広がり始めて富士を隠し、とうとう日没を過ぎても毫も姿を現さす、かくしてダイヤモンド富士の撮影は序章のままで終わった。

000-IMG_2267.jpg

 しかたがないので、先日の皆既月食で、月が湖畔の柵に忘れていった月のうさぎを最後に撮影して、納鏡して帰路に就いた。

00-DSC01962.jpg

 発車後の車内でしばらくの沈黙の後、誰が言い出したか「次、またリベンジしましょう。」の言葉に、一同無言で首肯したことだった。

 なお、この日の旅程は600数十キロ。これを一人で運転していただいた、H氏の運転の腕前の確かさとご苦労に感謝したいと思う。






〇 今日の一献 エミール・ガレの世界が広がる 大一美術館へ行ってきた

―― 地域で光る、東海地方唯一のガラス工芸美術館

 『灯台下暗し』とはこのことだ。
 お恥ずかしながら、同じ中村区内に住みながら、しかも昨年にはもう開館20周年を迎えたという、主として19世紀末フランスのガラス工芸家エミール・ガレの作品群を展示する大一美術館へ、遅ればせながらパートナーとともに行ってきた。

00-P1180835.jpg

 大一美術館は、パチンコメーカーの大一商会が、企業メセナの一環として同社オーナーの収蔵品を元に1997年(平成9年)5月に開館したもので、美術館の敷地は、同社のもと工場跡地に建てられている。

 ここでは、展示物の写真撮影が可能となっている。

00-パノラマ 20180110-01

 正面玄関の二重扉を開けて入ると目の前に、ロビー天井から垂れ下がる火炎のような巨大なガラスのシャンデリアに圧倒される。
 この作品は、アメリカの現代ガラス工芸作家デイル・チフーリの1997年の作品で、600個のガラスで構成され、重さは500kgもあるという。

 正面の階段を上がった2階は、この現代作家チフーリの作品の展示場で、1階ホールの左手から入ったところからガレ作品群の世界が広がる。

00-P1180852.jpg

 目玉作品の一つ、エミール・ガレの「鯉文月光色花器」1878年パリ万博出品。
 ジャポニズムの影響を色濃く受け、葛飾北斎の「魚濫観世音」をモチーフにした作品。

000-魚濫観世音-b0

 葛飾北斎の「魚濫観世音」

00-P1180868.jpg

 「昆虫と風景文花器」1880年
 エミール・ガレの肖像写真を写し込んでみた。

00-P1180883.jpg

 シャルル・マルタン・エミール・ガレは、陶磁器ファイアンス焼きと家具の工場の息子として1846年5月フランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。ガラス製造の技術を習得し、1878年のパリ万国博覧会に出品してから認められ、アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸、陶器などの巨匠となった。1904年9月白血病により死去(58歳)した。

00-パノラマ 20180110-06

 展示場の風景

00-20180110 ガレの大一美術館-02

 左上:「アラベスク文様花器」1889年
 右上:「ダリア文花器」1890年
 左下:「王妃マルゴ文花器」1880年
 右下:「ローズ・ド・フランス」1900年

00-P1180861.jpg

 「蜻蛉文漆風碗」1884年(伊万里焼茶器風ガラス碗)

001-P1180902.jpg

 「ジャンヌ・ダルク文花器」1889年のパリ万博出品

00-P1180923.jpg

 「好かれるための気遣い」
 1889年のパリ万博出品(青緑の4層ガラス)

00-P1180874.jpg

 「龍文花器」1890年(エジプト様式図柄作品)

00-P1180881.jpg

 「花形花器」1900年(中世風作品)

00-P1180912_201801112327508ba.jpg

 「ジャンヌ・ダルク文ランプ」1903年

00-P1180915.jpg

 「菊に蝶文ランプ」1900年(左手前)
 「紫陽花文ランプ」1900年(右)

00-ガレ作品-001 Face Book20180110

 日本の文化工芸品に多大な影響を受けた作品群(陶器作品)
 左上:「薩摩写獅子香炉」1870年
 右上:「装飾扇 菊に蝶」1878年
 左下:「獅子形陶器」1884年
 右下:「蝶文水差し」1880年
 
 わたしたちがエミール・ガレの一連の作品群に、なぜかしら深い親しみを感ずるのは、きっとこのジャポニズム(日本文化趣味)に強い影響を受けた作品が多いからに違いない。

00-P1190033.jpg

 「古代船形人物文飾り花器」1884年(陶器作品)

00-P1190003_edited-1.jpg

 「蛙と魚文貝形陶器」1883年(陶器作品)

00-IMG_20180110_0001.jpg


 ● アメリカの現代ガラスアートの先駆者 デイル・チフーリの作品展示

00-パノラマ 20180110-07

 2階には、現代作家チフーリの作品ガ展示されている。 

00-P1180980.jpg

 ベネチアで修行したチフーリの作品は、ベネチアングラスの系譜を色濃く感じさせる。

00-パノラマ 20180110-09

 デイル・チフーリの肖像写真とその作品
 1941年アメリカワシントン州タコマ出身。ワシントン大学でテキスタイルデザインや建築学を学んでいる時にガラスに出会い、ヴェネチアでガラス工芸を習得し、アメリカ・デザイナー研究所賞、視覚芸術家賞などを受賞し、現代ガラスアートの先駆者として世界で最も注目される作家のひとりとなった。イングランド滞在中の1976年、自動車事故で左目が盲目となった。1992年には、アメリカで初めての人間国宝に認定されている。


● ピエール・オーギュスト・ルノアールの作品展示

00-P1180955.jpg

 ルノアールの「ビスケットを持つ幼児」(1896年)
 収蔵品の企画展、同時開催の「2大巨匠名品との出会い」3月4日まで

00-P1180948.jpg

 「花帽子の若い娘」(1895年)

00-IMG_20180110_0002.jpg

00-P1190043.jpg

 館内のミュージアム・ショップ

00-P1180840.jpg

 市中心部から少し離れた西部地域に立地する施設だが、高品質でエレガントな企画展示が行われており、ガレ作品を中心とする東海地方唯一のガラス工芸美術館として、訪れて決して期待を裏切られることはないと思う。

00-P1180838.jpg

 大一美術館
 名古屋市中村区鴨付町1-22
 開館時間:10:00 – 17:00
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、12月30日~1月1日









〇 今日の一献 郷土戦国武将の故事を訪ねて 清須城へ行ってきた

―― 桶狭間の戦い、清須同盟、清洲会議、清洲越しなどの歴史の舞台となった城

 冬休みでやって来た、武将・歴史好きの孫とともに清洲城へ行ってきた。
 昨年の夏休みには、郷土戦国武将の故事を訪ねて名古屋城、犬山城、岡崎城などを訪れたが、今回は年末に、わが家の近くの秀吉・清正の生誕地である中村公園にある豊国神社や寺々などを巡ったのだった。

 ご存知のとおり、清洲城は織田信長が那古野城からここに移り、小牧城へ移る前の10年間居城とした城(清洲古城)で、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにはこの城から出陣している。

 また、1562年(永禄5年)の家康との同盟の盟約、「清須同盟」、1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が倒れた後の織田家の跡目相続会議、「清洲会議」、関が原の戦い後の1607年(慶長12年)には、家康の九男、後の尾張藩祖の徳川義直が入城するなど、歴史上の重要な舞台となった。

00-P1180725.jpg

00-P1180736.jpg

 馬を駆って馬上から弓を射る、天守内の信長像

00-P1180744.jpg

 天守最上階から見下ろすと、眼下に五条川が流れ、赤い欄干の大手橋が架かる。
 本来の清洲城の位置は川の対岸にあり、新幹線の左手の清洲公園(二の丸)から右(本丸・北曲輪)にかけて曲輪が続いていたとされる。

清須城曲輪1_jpg

 後期清洲城と城下町の復元ジオラマ

 清須会議の後、この城は次男織田信雄が相続し、2重の堀、大天守・小天守などが造営(後期清洲城)されたが、度重なる五条川の氾濫に悩まされる。

 大阪方の備えとして、水攻めを怖れた家康は、東方にある高台の広い名古屋台地に名古屋城と城下町を建設し、1609年(慶長14年)に人も物も全て町ぐるみの移転、「清洲越し」が行われると、この城は廃城となり町は廃墟となった。
 (江戸時代になって街道が整備され、ひとや物流が活発になると、清須の宿として復活する。)

00-P1180745.jpg

 かつての清洲城の曲輪域を貫いて新幹線が走る。

00-panorama 20180107 清洲城から-01

 天守から東方8kmの、「清洲越し」先の名古屋の城下町を望む。

00-P1180775.jpg

00-P1180777.jpg

 天守などの文献資料が乏しく、現在あるのは旧清洲町の町制100周年を記念して、平成元年に京都の伏見城を参考に桃山時代の城を想像しながら再建された模擬天守だが、それでもその姿には力が篭められ堂々として美しい。

 なお、後期清須城の曲輪の研究については、鈴木正貴著『後期清須城本丸考』愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第13号(2012年.5月)に詳しい。

00-1303suzu.jpg

 後期清須城本丸周辺の想定復元図
 『後期清須城本丸考』から

清須城曲輪2_jpgのコピー

 ● 清洲城
 愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
 休館日:月曜日〈休日の場合は直後の平日〉、12月29日から31日
 ただし、桜の花見期間・清洲城信長まつり期間は開館








〇 今日の一献 孫に引かれて 『あいち航空ミュージアム』へ行ってきた

―― 航空機の開発・生産の伝統の地で実機を展示する博物館

 関東に住む孫が冬休みの年末年始にやってきたので、昨年(2017年)11月にオープンしたばかりの県営名古屋空港に併設された『あいち航空ミュージアム』へ、孫を連れてパ-トナーとともに行ってきた。

 鉄骨造2階建ての施設(延床面積7,900m²)のフロアには、戦後初の国産旅客機「YS-11」などの実機が置かれ、2階フロアには、日本の航空史に残る名機百選の模型やサイエンスラボがあり、また展望デッキからは県営名古屋空港に離着陸する飛行機も眺められる。

 ものづくりの盛んな愛知県は、戦前・戦後を通じてわが国の航空機の開発・生産の伝統のある地で、現在では航空宇宙産業の拠点ともなっている。

00-panorama 20171225-03

 あいち航空ミュージアム2階のエントランス
 
00-panorama 20171225-05

 地上フロアには、戦後初の国産旅客機「YS-11」などの実機が並ぶ。
 2階フロアには、名機百選の模型コーナーやサイエンスラボがある。

00-panorama 20171225-08

〇 戦後初の国産旅客機「YS-11」
 YS-11は、第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機で日本の高度経済成長期を象徴する存在となっている。
 1962年8月に初飛行に成功し、1973年(昭和48年)3月の生産終了までに182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造された。
なお、製造は三菱重工業、川崎重工業、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立ては三菱重工業の小牧工場が担当した。

00-panorama 20171225-09

 乗員= 2名、定員= 56~64名
 全長= 26.3m、全幅= 32.0m、全高= 8.98m
 自重= 14,600kg、最大航続距離= 2,200km
 最大巡航速度= 470~480km/h

00-P1180259.jpg

00-P1180290.jpg

 この機体は、航空自衛隊のYS-11P輸送機仕様 52-1152号機
 1965年3月に初飛行し、要人や幹部の移送のためのVIP仕様で航空自衛隊に導入され、52年後の2017年5月に総飛行時間2万3,872時間で退役し、生まれ故郷に戻ってきた機体だ。
 
00-P1180225.jpg

 2階フロアの名機百選の模型展示

00-20171225 コウクウニュージアム名機

 名機百選の模型の一部
 左上:「アンリ・ファルマン複葉機」1909年(明治42年)
 右上:日本海軍夜間戦闘機「月光」1943年(昭和18年)
 左下:日本陸軍戦闘機「飛燕(三式戦闘機)」1943年(昭和18年)
 右下:朝日新聞欧州往還機「神風号」1937年(昭和12年)

00-P1180260.jpg

 地上フロアにある航空整備士職業体験コーナー(航空機の離着陸シミュレーションも体験できる。)

00-P1180262.jpg

 インストラクターの説明で、航空機の点検整備の体験ができる。

00-IMG_1963.jpg

00-P1180237.jpg

 〇 「八〇式名市工フライヤー」

 2017年1月に70mの初飛行に成功した、名古屋市立工業高校の生徒が製作した八〇式名市工フライヤー。
 2010年の試作1号機から数えて7年の、6機目の機体。

00-P1180281.jpg

 トイレの中には「YS-11」の操縦席が広がる。

00-P1180228.jpg

 展望デッキからは、県営名古屋空港を離着陸する航空機が眺められる。

00-panorama 20171225-01

 1階「飛行機の工房」に展示されている「零戦五二型甲」。

〇 旧日本海軍の主力艦上戦闘機「零戦五二型甲」
 零式艦上戦闘機は、第二次世界大戦時の大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機で、零戦(ゼロ戦)の略称で知られ、航続距離2,200km、20mm機関砲2門の重武装と優れた格闘性能を生かして米英の戦闘機に対し優勢に戦い、戦局に寄与した。
 終戦時まで主力戦闘機として運用され、爆撃、特攻任務にも使用された。この「零戦五二型甲」は、その派生型の「三菱4708」号機。

00-panorama 20171225-06-1

 この機体は、1944年に旧三菱重工業大江工場(名古屋市)で生産され、1983年にミクロネシアのヤップ島で発見されたゼロ戦の残骸の部品を使うなどし、2年かけて復元されたもの。

00-IMG_20180106_0001.jpg

00-P1180296.jpg

 『あいち航空ミュージアム』
 愛知県西春日井郡豊山町豊場(県営名古屋空港内)
 10:00-19:00(休館日:火曜/祝日の場合は翌日)

 なお、隣接する三菱重工業小牧南工場内のMRJ最終組立工場5階フロアには、「MRJミュージアム」が開設され、展示室(約1,150㎡)や2階のMRJ実機の製造作業を見学することができる。



〇 今日の一献 いまも佇む 中村公園の「ラジオ塔」

―― 機能を失い、朽ちるに任せたままの歴史的遺物

 いまも時々訪れる名古屋の中村公園は、子供の頃からわたしの遊び場だったが、気がついたときには、この施設はもうここにあった。

 時折、ブツブツと音がしたことがあるけれど、何のための施設か分からなかったが、大人に聞くと「ラジオ塔」だということだったが、その時のわたしの関心はそこまでで、以後はずうっとそのままになっていた。

00-P1160775.jpg

00-パノラマ 20170412 中村公園-1

 生誕地に因んで秀吉の馬印から名前を取った、桜の季節の「ひょうたん池」。

00-P1170520.jpg

 松の木立に囲まれて目立たない場所に、「ラジオ塔」がある。

00-P1170585.jpg

00-P1160771.jpg

 先日訪れたときに気になって寄ってみたら、太く育った松の木立に囲まれて「ラジオ塔」は、まだそこにあった。

 帰ってから調べたら、市発行の『名古屋の公園』の中の「昭和18年の名古屋市公園一覧」の施設に中村公園の「ラジオ塔」が出でいるのがこれだろうから、少なくとも1943年以前には、もうここに建てられていたことになる。

 そもそも「ラジオ塔」は、正式には「公衆用聴取施設」といい、ラジオ受信機とスピーカーが内蔵された高さ2~3mの塔で、1925年(大正14年)にラジオ放送が始まってから、当時はまだ高級品だったラジオを一般に普及させるため、1930年ごろに大阪・天王寺公園にラジオ塔が設置されたのを始まりとして、全国の公園や神社の境内に広がっていったとされ、1941年には全国で460基あったことが確認されている。

 その後、非常時の情報伝達の機能やラジオ体操の会場の役割を担ってきたが、やがてラジオの一般家庭への普及やテレビの出現により、ラジオ塔の役割は廃れていき、いまではその存在すらも忘れ去られたのだろうと思われる。

 その『名古屋の公園』によると、当時は市内の7つの公園に設置されていたようだが、このうち今も残るのはこれを含めて3基のみという。

00-P1160778.jpg

 改めて近づいてよく見ると、わたしが幼いころに気づいた当時には、松の根が太く張ったせいか傾いていた塔は、その後に造られた土台の上に垂直に直されて建ってはいるが、やはり建設から70年以上を経て、壁には亀裂が入り屋根は苔むした、朽ちるに任せたままの状況で、そのうち上部から崩壊するのではないかとの予感さへ伝わる。

 聞くところによれば、所によっては、地域に残るラジオ塔が修復・再建されたり、中には国の登録有形文化財に指定されたものもあるという。

 そんなことを思いながら見回すと、20mほど離れたところに、公園管理事務所があるのだが、、、、、。










最新記事
カテゴリ
プロフィール

2011deko

Author:2011deko
でこちんの
  『いつか ありしこと。』
   のブログへようこそ!
(掲載写真は、クリックする
と、拡大写真になります。)

性 別:男性
住 居:愛知県
趣 味:ブログのカテゴリー

天気予報

-天気予報コム- -FC2-
月別アーカイブ
来場者数
検索フォーム
リンク