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〇 なばなの里の「ホタルまつり2018」に行ってきた

―― 光芒を引いて飛翔する ゲンジボタルの饗宴

 かねてから三重県長島のなばなの里では、この季節になると施設の中を流れる清流の岸に発現するホタルの観察会「ホタルまつり」が開催され、多くの観客で賑わう。

 うちのパートナーが年間パスポート会員となっていることから、わたしたちは折々の季節の花を愛でにここを訪れるのだが、今夜はゲンジボタルを観に出かけた。

 ゲンジボタルの成虫は、体長15mmほどと国内では大型のホタルで、幼虫が清流に棲むカワニナを食餌としながら生育することから、世界に分布する2000種のホタルのうち、タニシを食餌とするヘイケホタルとともに8種の水生ホタルの一つとされている。

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 毎日午後8時に定点観測している「なばなの里」のWebサイトによると、わたし達の訪れた夜(6月3日)のボタルの発現数は、810匹だったとのことで、これは既にこのところ数年のピーク数を上回って発生しているようだ。

 (2018 発現数の推移:6/3 810匹←6/2 820匹←798←327←355←312←355←290←204匹←)

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 日中は川岸の草木の葉の裏などに休んでいるホタルは、日没とともに光を点滅させながらメスを求めて飛翔を始め、午後8時ころにはピークとなり、やがて疲れたのか午後10時すぎまでには飛ぶ数を減らしていく。

 先に、5月一杯まで名古屋城の外堀で発現していた、か細く短い時間で点滅を繰り返しながら飛翔する陸生のヒメボタルは、写真に写すと鎖線の光跡となるが、6月ごろから発現する水生のゲンジボタは、力強く長時間発光しながら飛ぶ光跡は線となって残る。

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 世界に2000種も生息するホタルは、主に熱帯から温帯にかけての多雨地域に分布するが、それぞれの場所によって発生時期や発光の仕方にも特徴があるようだ。

 かつて熱帯地方の半島マレーシアで観察した水生のホタルは、乾季には数を減らすものの年間を通じて発生し、川岸の木々に群れて留って発光を繰り返すのが見られた。

 経験的には、ホタルの発光は、しばしのインターバルを置きながら点滅を繰り返すうち、次第に周囲のホタルの発光と競うかのようにシンクロ(同調)しながら強い発光を繰り返し始めるときがシャッターチャンスとなる。

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 「ヒメを追い つづくゲンジも ホタル酔い」


 なばなの里
 三重県桑名市長島町駒江漆畑270

 「ホタルまつり」
 http://www.nagashima-onsen.co.jp/2018_nabananosato_hotaru/






〇 古代の聖域の花飾りか 豊橋の「賀茂しょうぶ園」

―― 「しょうぶ園 賀茂の丘への 花飾り」

 「賀茂しょうぶ園」は、愛知県豊橋市の中心部からかなり離れた北部の、もう新城市や豊川市の方が近い石巻地区の賀茂町にある賀茂神社の参道入り口一帯を、市の観光開発事業として1970年(昭和45年)に整備・開設された花ショウブを中心とした大規模な庭園だ。

 5月の下旬、そろそろ花ショウブが見頃との報を聞き、わたしの属する地域の写真クラブの仲間とともに初めて撮影に訪れた。

 花ショウブは、水はけの良い原野に生い茂るアヤメから園芸種として改良されてきた豪華な美しい花で、湿り気のある土地を好み、花びらの付け根が黄色く色づいているのが特徴で、古くから梅雨の風物詩として日本人に愛されてきた。

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 天平元年(729年)に、山城国の賀茂別雷神社を勧請して創建されたといわれる賀茂神社の参道入り口には、水路を跨ぐ赤い太鼓橋が架かっており、その向こうに広大なしょうぶ園が広がっている。

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 赤く塗られた太鼓橋は印象的で、このしょうぶ園の一つのモニュメントともなっているようだ。

 敷地面積9,900m2という広大なしょうぶ園には、江戸系、伊勢系、肥後系と呼ばれる3系統の300種の花ショウブ、3万7,000株が植えられており、毎年5月下旬から6月中旬の開花時には「花しょうぶまつり」が開催され、夜間にはライトアップも行われて観光客で賑わう。

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 特に、江戸時代後期から武士による園芸品種としての改良が進み、変化に富み多彩な「江戸系」と呼ばれる花ショウブが有名だ。
 このショウブは、白と紫の網目のコントラストが鮮やかで美しい。

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 弁が垂れ、はかなげな雰囲気をもつのが特徴の「伊勢系」の花ショウブ。
 外花被が3枚で三英花とも呼ばれる。

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 近くに流れる間川からの導水だろうか、水門を備えた立派な水路が整備されている。

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 「芯」と呼ばれる立派な雌しべが立った、花ショウブ。
 この芯が花弁とマッチして立つことで、花全体の姿を美しく際立たせる。

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 園内は整然と区画され、ショウブの造園面積は3,700m2に上る。

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 熊本で武士階級の手で改良が進められた、ボリューム感のある豪華な花が特徴の「肥後系」と呼ばれる花ショウブ『新玄海』。

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 開花した花ショウブの花期は、わずか三日間と短命で、その短い間に刻々と変化するはかない花の美しさを愛でるものとされる。

 株は次々と花を咲かせるが、このときは、まだ園全体では3分咲きとのことだった。

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 園内の池で栽培されている、6月から11月にかけて花を咲かせる水生多年草の「ヒツジグサ」

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 水路脇に連続して植えられた、アジサイも咲き始めていた。

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 しょうぶ園の背後には、賀茂神社のある丘陵地の森が広がる。

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 しょうぶ園を抜けると、高低差の大きい丘陵地を上がる森の中の長い参道が続き、その先に1200年以上の歴史を刻む賀茂神社の本殿が鎮座する。

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 賀茂神社境内の神山古墳(円墳)
 長い参道の途中の木々の間には、古墳時代後期(6世紀頃)のものと見られる直径28m、高さ3.5mの県内有数の円墳の神山古墳が、ほぼ完全な形で残されており、未調査のために詳細は不明であるものの、市の指定史跡とされている。

 このほか、この丘陵地には、かつては弁天塚古墳(前方後円墳)や行者山古墳、照山古墳、小照山古墳などといった、この地域を支配した古代の豪族の墳墓がいくつか点在し古墳群を形成していたものとみられ、そうした古代の聖域であったからこそ、何らかの霊験灼然を感ずるこの賀茂の丘陵上に、後の時代になって賀茂神社が鎮座されたものと考えられる。

 そのように考えてみると、この「賀茂しょうぶ園」は、賀茂神社のみならず、古代の聖域である賀茂の丘陵に、ショウブの花を供えて飾るための役割も果たしているのではないかとさえ、わたしには思えてくるのだ。

―― 「しょうぶ園 賀茂の丘への 花飾り」

20180525 豊橋 賀茂神社しょうぶ園

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 平成30年度花しょうぶまつりは、6月10日(日曜日)まで。
 (日没から午後9時00分までライトアップ)

 『賀茂しょうぶ園』
 豊橋市賀茂町字鎌田地内
 入場及び駐車場 無料
 花しょうぶまつり期間は、JR豊橋駅からから臨時直行バスが運行(所要時間:約40分)
 東名高速道路・豊川ICから、所要時間10分







〇 名古屋城外堀のヒメボタル 2018

―― 夜毎、名城の外堀で繰り広げられる華やかな光の乱舞

 天下の名城、名古屋の都心にある名古屋城の外堀は、築城当時から水のない空堀で、かつては窯業の盛んな瀬戸で生産された陶磁器を名古屋の堀川の水運で港まで運び、そこから輸出するために敷かれた名鉄瀬戸線が走っていた。

 この外堀を通る区間の東大手~堀川は、瀬戸電の「お濠電車」とも呼ばれ市民に親しまれたが、1976年(昭和51年)に廃止され、現在の瀬戸線は「東大手駅」から地下隧道を通って都心の繁華街「栄町駅」まで乗り入れている。

 名古屋城外堀のヒメボタルは、このお濠電車の廃止前後の頃、瀬戸電関係者が堀内の大津町駅周辺で陸生ホタルの群生を発見したとされ、以後ボランティアの手で保護されており、いわば都会の中でホタルが見られる全国的にも珍しい場所となっている。

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 日中の木々が生い茂った外堀と石垣

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 ヒメボタルが見られる、日中の外堀を跨ぐ本町橋周辺
 
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 夜の本町橋周辺

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 日本固有種で陸生のヒメボタルは、その名のとおり体長が7mmと、ゲンジボタルやヘイケボタルより一回り小さく、オス、メスともに発光するが、メスは翅が退化して飛べないので、飛翔するのはオスだけとされている。

 また、ホタルといえば、川辺や田圃で発生するゲンジボタルやヘイケボタルはよく知られるところだが、ひと気のない森林などに発生する陸生のヒメボタルは、一般にはあまり知られることはなく、ホタルは水生のものとの固定概念を持つかつてのわたしのような者にとっては、新鮮で驚かされる存在だ。

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 ゲンジボタルやヘイケボタルの発光は、強さがゆっくりと変化しながら飛ぶので、光跡は線となって残るのに比べ、0.5秒と短いサイクルで点滅しながら飛ぶヒメボタルの光跡は、点線になって写真に写ることになる。

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 外堀の石垣、堤上の林の中を飛翔するヒメボタルの光跡。
 毎年5月の連休以降、夜毎、名古屋城の外堀では華やかな光の乱舞が観られる。

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 日中の外堀の堤上の林と杣道の状況。

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 外堀のヒメボタルの発現する場所は、最初に発見されたかつての瀬戸電大津橋駅跡周辺から、年とともに移動しているかのように思われ、現在は本町橋周辺や愛知県護国神社境内で多く見られる。

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 ゲンジボタルの発光が夕刻の午後8時ごろ以降なのに比べ、ヒメボタルが飛翔し始めるのは午後10時以降から午前2時ごろと遅く、また、発生の時期は5月から6月初旬までとされ、ヒメボタルのピークを過ぎた頃から各地でゲンジボタルの発生がニュースとなる。

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 名古屋城外堀のヒメボタルの情報については、以下のボランティア団体のウエブサイトに詳しい。

 「来て!見て!名古屋城外堀ヒメボタル」
 http://himebotaru.blog.so-net.ne.jp/



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 日中の愛知県護国神社の境内

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 愛用の撮影機材。
 撮影には、三脚、電子レリーズ、レンズフードが必要。
 
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 NHK名古屋放送局が放映した、外堀のヒメボタルの番組。

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 今年の発現のピークは、5月20日の3,340匹だった。

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 今年の出現が、ほぼ終了した旨を告げるボランティア団体の掲示。

 なお、最近のボランティア団体のウエブサイトによると、曇り日の5月28日の深夜1時ごろの気温は20℃、湿度が72%だったとされ、ヒメボタルは全体で69匹が観察されたとのことだ。











〇 今日の一献 マミヤ6の「オート・アップ」レンズの使い勝手

―― 写したいものを よりクローズアップして撮る

 現代のズームレンズや接写機能の付いた多機能のカメラとは違い、かつての単焦点の標準レンズが装着されていたレトロなレンジファインダーカメラでは、そうした接写や広角・望遠撮影などはできなかった。

 それでも、出来ないとなると人はいろいろ工夫するもので、このオート・アップレンズは、中判ブローニーフィルムを使うマミヤ6のズイコーレンズ用に、接写(クローズアップ)撮影を簡便に可能にする便利なアクセサリーとして開発されたものだ。

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 オート・アップレンズを装着したマミヤ6オートマット

 接写レンズ自体は単なる凸レンズで、カメラ本体側のレンズに被せるだけだが、問題は距離計の役割を果たすレンジファインダーとの連動が必要で、その設計が開発者の腕の見せ所といえる。

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 連動接写器 「オート・アップ」(1m~0.5m用)
 レンズ部分枠にあるネジを緩めてレンズにはめ込み、ネジを締めるだけで簡単に装着できる。

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 連動接写器 「オート・アップ」の裏側
 レンジファインダーの前に置かれる部分も凸レンズとなっているが、焦点を結ばせるために、その距離との関係も計算されている。

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 オート・アップレンズを装着したマミヤ6オートマットの正面

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○ マミヤクローズアップ 20180415-001

 オート・アップレンズを装着して、レンジファインダーを覗きながらより対象物に接近してピントを合わせるだけだから、見え方もアップする。

 マミヤ6オートマットの75mmズイコーレンズの最近接距離は1.mまでだが、この装置を装着すると0.44mまで近寄れる。


● オート・アップレンズの装着前後の撮影例。

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 オート・アップなしの通常撮影(最短1m)

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 オート・アップを装着しての撮影(0.5m)

 このように、対象物に近接することで、人物、花、複写などの近接(クローズアップ)撮影が可能となる。


● 連動接写器 「オート・アップ」の説明書

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〇 今日の一献 クラシックカーの耐久レース「ラ・フェスタ・プリマベラ2018」

―― 偶然遭遇した 往年のクラシックカーのラリー

 いつものように、モーニングサービスの喫茶店を出たら、目の前を懐かしいクラシックカーが列を成して走っていった。

 或いはと思って、自転車で後を追って近くのトヨタ産業技術記念館に行ってみたら、クラシックスポーツカーの祭典「Le Festa Primavera 2018」(ラ・フェスタ・プリマベラ2018)の参加車だった。

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 LANCIA AURELIA B20S(1957)

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 MERCEDES BENZ 280SL(1968)

 手に入れたパンフレットによると、毎年開催の名古屋をスタートし近畿地方を中心にクラシックカーで1000kmもの長距離を走る公道ラリーで、今年は10周年の記念大会だという。

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 ALFA ROMEO GIULIA SPIDER(1962)

 通過ポイントとなったトヨタ産業技術記念館では、車好きの多くの中年、シニアがカメラを構え、盛んにシャッターを切っていた。
 (名古屋市内 トヨタ産業技術記念館)

000-P1070622-1968 TOYOTA 2000GT

 トヨタ 2000GT(1968)

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 PORSCHE 356 ABRIOLRET SC(1964)

 今年参加した車は、総計65台、熱田神宮をスタートして産業技術記念館などを通過点に、3日間で三重〜和歌山〜奈良〜大阪〜京都を巡る。

 気がつくのが遅かったから見損なってしまったが、先行車には1920年代のBENTLEY、BUGATTIなども参加していたようだ。

 なお、このラリーには、ラリーレーサーの篠塚健次郎氏がHEARLEY SILVERSTONで、またタレントでクラシックカー好きの堺正章氏もMASERATI MISTRAL(1967)で参加しているようだ。

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 ASTON MARTIN DB5 VANTAGE(1965)

  Le Festa Primavera 2018の予定コースは、
 4月13日は名古屋市内から三重県内
   14日は和歌山県から大阪府、奈良県内
   15日は大阪府から京都府内を駆け抜けるという。

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 MG MGA(1958)

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 MG MGA(1959)

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 後半の参加車しか観られなかったのは残念だったが、各車のコックピットに座る人たちの高揚した顔は、心なしか誇らしげに輝いて見えた。

 このラリーの参加車は、みな1920年代から60年代に生産された名車ばかりだから、もう60年から90年以上も経た今も、堂々と格好良く公道を走っていることに驚かされるとともに、車にかける所有者の情熱と拘りに頭の下がる思いで眺めていた。

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  「Le Festa Primavera 2018」のパンフレット

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  しばらくラリーカーを見送った後、家に帰ってから、せめてもとミニチュアカーを、いくつか取り出してみた。

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〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 安土城天主台跡から下山する帰り道のコースに、信長が築城時に建立した摠見寺(そうけんじ)がある。

 摠見寺は天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中に位置し、創建時には近隣にあった現超光寺や甲賀・長寿寺など多くの寺院の建物を移築し、当時は本堂をはじめ22棟の建物が立ち並び、城下の町人の通行が許されていた百々橋口道から城内を訪れる人々が、この伽藍群を見ながら境内を通ることを予定していたと考えられる。
 こうした堂塔伽藍を備えた壮大な寺院が城内に建てられているのは、後にも先にも安土城だけである点にも注意を払いたい。

 このように、ある意味では信長の仕掛けた装置の一つである摠見寺は、本能寺の変の直後の天主・本丸炎上時には類焼を免れ残ったものの、江戸時代末期の1854年(嘉永7年)になって伽藍中枢部を焼失し、先に見たように現在は大手道脇の伝・徳川家康邸跡に仮本堂を移している。

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  摠見寺跡から琵琶湖方面の西の湖の展望

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 焼失を免れた摠見寺の「三重塔」(特別保護建造物 重要文化財)
 1454年に建造され1555年に修理した記録が残るこの塔は、元々あった甲賀・長寿寺から移築されたものとされている。

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 焼失を免れて残る摠見寺「二王門」へ下る。
 信長に臣従した甲賀の山中俊好が、1571年に寄進したものとされる。

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 百々橋口道の石段から見上げた摠見寺「二王門」(特別保護建造物 重要文化財)

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 二王門の仁王像
 木造金剛二力士立像 特別保護彫刻 重要文化財に指定されている。

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 入山の有料化に伴い、現在は二王門を出て安土城下の百々橋口へと下る石段が通行止めとなっており、山中の道を回って再び伝・羽柴秀吉邸跡に出て、大手道を下り関所へと誘導している。

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 かつては、麓の道路際に見事なサクラの大木の並木があり花見も楽しめた安土城跡だが、駐車場の整備などを理由に伐採され、山麓のサクラの数は少ないが、それでもちらほら見えるサクラは満開だった。

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 この安土城跡の山麓一帯は、臨済宗妙心寺派の摠見寺が所有・管理しているが、築城時に信長によって建立されたものの檀家を持たず、幾多の経緯を経て江戸時代末期から明治期に寺領を失って衰退しており、TVの歴史ブームとともに入山する者が増加し、管理のために「入山料」を徴収するようになったのもやむをえないともいえる。

 なお、大手門は、ここから約80m下がったところにあったとされる。


 今見てきたばかりの安土城跡を後にしながら改めて思うのは、山城とはいえ、例えば南山裾帯曲輪の大手口や虎口の低い石垣、左右に家臣団の屋敷を配してはいるとしても駆け上がり易い直線に伸びる広い大手道、隅櫓や虎口も設けない七曲がり道、城下から続くほとんど塀も石垣もない百々橋口道など、これらは防御面を極端に考慮しない城の造りとなっており、われわれがこれまで抱いてきた既成の城の備えのイメージからすると、やはり特異なものに感じるのだ。

 ところで、行政が管理している施設では、危険防止のためとしてやたらと柵や建て看板などが目立つが、ここでは自己責任なのか通行止め標識だけで、かえって潔く景観にも煩わしさを感じない。

 だだし、築城の際に不足した石を補うために階段に使われている石仏の全てに、今では「石仏」の表示と賽銭缶が置かれているのは、少し艶消しだった。

 「安土城郭資料館」(近江八幡市安土町小中700)
 JR東海道線の安土駅前には、市立の安土城郭資料館がある。
この資料館の最大の見所は、20分の1のスケールで制作された精巧な安土城天主で、観覧者があると電動で内部を見られるように城の模型が二つに分かれる仕掛けがあって楽しい。

 他に屏風絵風陶磁版壁画などの展示や信長の活躍した時代を中心に資料を集めた安土文庫などが設けられている。

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 資料館内1階に展示されている幻の名城”安土城”の模型
 絵図資料などが無い安土城の姿は、当時の「信長公記」や「安土日記」、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」などの記述に基づいた研究によって、石垣は自然石をそのまま用いた野面積で、地下1階、地上6階建てで、高さは35m程と推定されている。

 また、外観は、階層ごとに壁が塗り分けられ、黒い漆塗りの窓が配された白壁の層や、朱色の八角堂の上に金色の最上階があり、青く見える瓦が葺かれ、最上階には金箔瓦が使われていたとされる。

 なお、安土城天主の構造及び外観については諸説の研究があるが、この模型は故名古屋工業大学名誉教授内藤昌氏の復元案により制作されている。
 (この復元案の諸説は、『安土城天主の構造及び外観に関する復元考察』佐藤大規 に詳しい。)

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 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える仕掛けになっている。

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 安土城の推定内部構造
 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える。5階の八角堂の中に、信長の姿が見えるのがご愛嬌で微笑ましい。

 城の内部は、地階から3階まで通ずる吹抜けが設けられ、地階には仏舎利の入った宝塔が置かれており、1階から3階までの各階には複数の部屋があり、壁には花鳥や中国の故事を題材にした華麗な障壁画で飾られていたとされる。

 また、八角形の5階は、外側の柱は赤色、内側の柱は金色で、壁には釈迦の説法図が描かれており、最上階6階の3.3mの正方形の部屋の壁は金色で、狩野永徳が描いた中国神話の帝王や孔子、七人の賢人などの絵が描かれ、漆塗りの鉄の扉があった。

 これまでの戦国時代の城の天守は、本来は戦のときの防御施設であり、居住する施設ではなかった。
 しかし、この安土城では、初めて石垣の上に建てられた天主に信長自身が居住し、その外観は華麗さと威容を示し、そして内部は壮大・壮麗さと宗教的空間を「見せる」ことで、見る者を畏怖させることを強く意識した政治的装置としての城だったと考えられている。

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 安土城屏風の推定復元図「屏風絵風陶磁版壁画」
 天正少年使節が信長から託された屏風絵を、ローマ法王に献上するまでの4つの場面を描いた陶磁版壁画の一部

 ところで、外国人宣教師と親交のあった信長は、自分の権力を誇示するため当時の日本画壇の代表的な画人、狩野永徳に描かせた安土城の金箔屏風をイエズス会の司祭・巡察師ヴァリニャーノに贈り、彼の帰国に同行した天正遣欧使節によってローマ法王グレゴリオ13世に献上されたとの記録が残る。

 この屏風が法皇庁で発見されれば、当時の安土城の姿を知る決定的な資料となるのだが、2007年にも地元安土町(現・近江八幡市)の派遣調査団による調査も行われたが、現在になるも発見に至っていない。

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 試着ができる信長の鎧兜

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 安土山の手前にはJR東海道線の列車が走る。

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 歴史公園「近江風土記の丘」の「文芸の郷」
 安土城跡の南東には、国の史跡・観音寺城跡のある南北に伸びる繖(きぬがさ)山(標高432.9m)を背後にして歴史公園「近江風土記の丘」があり、滋賀県下から移築された歴史的建造物をはじめ、滋賀県立安土城考古博物館(写真中央)や安土城天主信長の館などで構成される「文芸の郷」の施設がある。

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 歴史公園「近江風土記の丘」にある、旧柳原(りゅうげん)学校校舎
 1876年(明治9年)当時の高島郡新儀村の初等科小学校校舎として建設された和洋折衷の建築物。

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 JR安土駅から眺めた観音寺城跡のある繖山
 観音寺城は、室町時代から戦国時代にかけて佐々木氏、後に六角氏の居城として、繖山の頂上付近に築城された先進的な総石垣造りの山城で、二階建ての屋形はあったものの天守は無かったといわれる。
 また、山腹を整地して家臣団の屋敷も整備されていたようで、安土城の築城に当たっては、この総石垣造りや家臣団の屋敷地造成の手本になったと考えられる。

 なお、この近く、琵琶湖の西岸、今の大津市坂本穴太(穴太ノ里)の出身者の穴太衆が、それまでの寺院の石材建設の技術の高さをかわれて安土城の石垣を施工したことで、その技術水準の確かさが広く伝わり、以後、江戸時代初期まで全国各地の築城・石垣造りに携わる契機となったことも興味深い。

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 旧安土町の下水道のマンホールの蓋
 信長が勝運を期して永楽通宝を刀の鍔に刻印して愛用した、「まけずの鍔」をデザインしたもの。

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 JR安土駅から安土城跡への所要時間は徒歩で20分ほどだが、他に見て廻ることも考慮して、わたしたちは駅前のレンタル自転車を利用したが、これは時間効率もよく快適だった。

 ともあれ、お陰でこの山行を含めて、この日の全行程の歩数は、自転車走行分を除いて17,900歩を数えた。


 了




〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その1

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 春休みに我が家へやってきた孫たちを、次の予定地に送るついでに、久しぶりに安土城跡へ登ってきた。

 もう10年以上前になるが、当時学生だった息子たちとともに、ここにやって来たときには無かったのに、発掘・整備が進んで歴史ブームでスポットが当たり始めた2006年に関所ができたようで、今回は700円也の入山料を払って入場した。

 安土城は、天下布武を目指し清洲城から、小牧城、岐阜城へと順次拠点を進めてきた信長が、いよいよ天下統一のための拠点として1576年(天正4年)丹羽長秀に普請を命じ、3年をかけて滋賀県安土山(標高199m)に築いた山城で、天正7年1月に天主が完成すると信長は5月にここに移っている。

 しかし、1582年(天正10年)6月の本能寺の変で信長が倒れると、まもなく天主や本丸は焼失してしまい、わずか3年半の短命な城となった。

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 南山裾帯曲輪の「大手口 西虎口1と西虎口2」
 最近の発掘調査によって、大手口の左右に新たに4つの虎口が見つかり、復元されている。

 もっとも、その後も安土城は織田家の城として秀吉の庇護により清洲会議のあと信雄や孫の三法師が居城としたが、天正13年の小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると廃城となった。

 国の特別史跡に指定されていたとはいえ、短命で文献・資料も少なく、長らく荒廃したままだった謎多き安土城は、昭和15、16年になってようやく天主・本丸の調査と仮整備が行われ、昭和35年以降には本丸周辺から黒金門にかけての石垣修理など城跡の整備が行われた。

 次いで、新たに平成元年度から始まった城跡の保存とその活用を図る『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年をかけて実施され、2009年までに伝・本丸御殿及び、天主台のほぼ全容が判明した。なお、主要部の伝・三ノ丸跡、本丸取付台、伝・二ノ丸東溜りも、レンチ調査で建物の礎石などが確認されている。(調査済みは、史跡指定面積の約20%(17ha)に過ぎない。)

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 復元された安土城大手道
 大手口から直線に、幅8m(両側に1mほどの側溝)で、長さ180mの石段の大手道が続く。
 左側が「伝・羽柴秀吉邸」、右側が「伝・前田利家邸」がある。

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 安土城跡の順路図
 安土山に築かれた安土城は、山頂の天主を中心とする主要部分だけでなく、織田家臣団の屋敷が山腹を取り巻くように配置されていたようだが、現在見学のできる範囲は、全体の30%程度に留まるとのことだ。

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 「伝・羽柴秀吉邸跡」
 下段部分から上段石垣を見る。
 
 安土城の特色のひとつは、縄張り構造に石垣を多用した近世城郭の最初の城であり、400年を経過しても崩壊しないその優れた自然石の積み上げ技術だといわれる。

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 下段部分から上段に続く武者走りには、スミレの花が咲いていた。

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 上段曲輪の屋敷跡には、当時の礎石が残る。

00-「伝羽柴秀吉邸」の再現図

 「伝羽柴秀吉邸」の再現図
 上段郭が高麗門と屋敷があり、下段郭には櫓門と庭・厩があったと推定され、上下段の間には武者走りがあった。

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 伝羽柴秀吉邸跡上段から大手道の右側上部に見えるのが、摠見寺の仮本堂で、この場所は徳川家康の邸宅跡と伝わる。
 
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 幅広く長い大手道が続く。

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 「大手道の階段の石仏」
 信長の期待に応えて築城を急いだのか、三重や丹波篠山方面から運搬した石材の他に近在の野仏なども集めたようで、大手道の階段のそこここに石仏が使われているのが見られる。
 戦国時代に築城された城には、こうした石仏や仏塔などが石垣などに使われている場合が多いといわれる。

 しかし、単に不足する石材を補うための石仏であれば、宗教心に篤い者なら裏を向いて組み込むだろう。
 むしろ、ここでは信長は踏みしめる石段として、石仏を意識的に配したのではないかと思いたい。

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 「伝・武井夕庵邸」跡
 やがて大手道は左に曲がり、その先の左には信長の右筆だった武井夕庵の邸跡の石柱が立つ。

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 「七曲り」
 大手道の幅が狭まり、右へ左へと曲がる急峻な七曲りと呼ばれる場所。

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 「黒金門の虎口」跡
 大手道の終点でいよいよ城の中枢部へと入る入口を守るのが黒金門。
 石垣を構成する石は大きく、組み上げも緻密で高い。この門を境に、下は家臣団の屋敷群、この上は信長の居住区画などの生活空間と天主などに分かれる。

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00-安土城主要部曲輪配置図

 安土城主要部曲輪配置図 (滋賀県安土城郭調査研究所作成)
 安土山の最も高い(標高180m)ところに天主を中心に、東西180m、南北100mに本丸、二の丸、三の丸などの主要な曲輪で構成されるー帯は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立している。
 高石垣の裾を幅2~6mの外周路が巡り、山裾から通じる城内道と結ばれている。また、外周路の要所には、隅櫓、櫓門などの入り口が数カ所設けられている。

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 黒金門を過ぎると、黒金門の虎口を抜けた風景。左正面は二の丸石垣で、二の丸、本丸へは右手へ進む。石段付近に「二の門」があった。左石垣上は二の丸、本丸、天主へ向かう  

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00-Panorama 20180328-03天主・本丸

 「本丸」跡
 東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地の本丸跡。
 左は天主台の石垣、正面右石垣の上は三の丸(名坂屋敷)。

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 天主台へ続く石段

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 「天守台」
 国指定の特別史跡「安土城跡」天主台跡の礎石
 八角形の敷地に20m四方程の範囲に、柱と柱の間が7尺(約2.1m)で軸線がほぼ正方位(真北)となる碁盤目状に並んだ大型礎石111の石が並ぶ。
 物理探査の結果、天主台は自然の岩盤層を整形した上に築かれていることが明らかになっている。

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 天主台の地階となる礎石配列
 中央の礎石の欠けた部分に、仏舎利塔が置かれていたとされる。
 五重七層の巨大な天主が、総石垣の上に建てられた最初の城だった。

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 天主台跡から北の琵琶湖や比叡山方面を望む。
 築城当時は、琵琶湖の水が安土山の麓まで迫っており、北面の防衛を担わせるとともに、湖上を行く船に堂々とした安土城を見せる効果もあったと見られるが、昭和時代に入ってからの干拓で、現在は手前に西湖ができ、その先に遠く琵琶湖が見えるようになっている。

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 琵琶湖方面のパノラマ展望

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 天主台跡から南にあった旧城下町方面を望む。

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 〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2につづく






〇 今日の一献 名古屋で眺めた『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』2018-1-31

―― 地球に最も近づいた満月が月内に2度発現して、それが皆既月食した

 今回の皆既月食は、『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』というそうだ。

 いつのころからか、月が地球に最も近づいているときの満月を、「スーパームーン」と呼ばれるようになって、おまけに、月内に発生した2度目のスーパームーンを、「ブルームーン」といい、さらに、皆既時の月が血のように赤く見えるから、「ブラッドムーン」というそうな。

 だから今回の皆既月食は、『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』となるわけだ。

 どうやらこの呼称は、近年、西洋から持ち込まれたようにみえる。

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 月食前の『スーパー・ブルームーン』
 (20:10)

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 食の進行
 (20:44)

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 (20:55)

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 (21:21)

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 (21:35)

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 (21:48)

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 皆既月食の始まり 『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』
 2018年 1月 31日 21時 51分 名古屋
  月   齢 14.439 
  月の輝面比 99.999% 
  月の地心距離 360,145km 
  平均との比率 93.690% 

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 皆既中の『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』
 (22:15)
 今回もわが家のベランダから撮影したのだったが、名古屋市内では皆既後に雲が広がり、食の復元過程は雲の切れ間を縫っての撮影となった。

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 食の復元中の月
 (23:40)

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 (23:50)

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 曇天の中、月食後の『スーパー・ブルームーン』
 (0:45)

000-▲組写真 201802の皆既月食画像

 ともあれ、貴重な画像を手に入れたからには、後始末としていつものようにまとめてみたので、大方の披露に供したい。

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 当夜の撮影機材
 SONY α550 
 SIGMA 70-300mm F4-506 DL MACRO
 GITZO R. No1 521








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