〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その2
〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その1
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の東南隅櫓と西南隅櫓 からの続き
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-478.html
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓
天守閣が城の要であり、戦いの最後の砦であるとすれば、隅櫓は城の周りの要所にあって、天守に至る攻め手への物見や防御・攻撃のための重要な役割を果たしている。
信長の安土城以降になると、天守閣の建物の意匠にも破風や漆喰、屋根瓦などの寺社建築の様式を取り入れた美しい建築装飾がなされ、支配者の権威を誇示するための見せる城となるに伴い、周りの隅櫓にも本来の機能性だけに留まることなく、あたかも天守の華麗さを引き立てるかのように、装飾性が取り入れられるようになる。

名古屋城では、江戸時代に大小取り混ぜて11基あった隅櫓にも様々な建築装飾が施されていたようだが、階高を見ると、本丸から遠い二ノ丸や西之丸に配置された隅櫓は、低い2階建てで配置され、5階建ての天守を取り囲む本丸の隅櫓は3階建てにして、天守からの眺望を確保する一方、この階高別の櫓の配置によって、三之丸の家臣団や城域外の南に広く配した城下町の庶民からも、常時お城の威容・華麗さ、曳いては城主の権威性を見易く、判りやすくさせるための心理的な配置設計がされているように思える。
(名古屋城ではこの外に、巨大な天守上に頂く燦然と輝く金の鯱が遠目にも見え、嫌が上でもその権威をさらに高めていた。)

写真好きの尾張藩14代藩主徳川慶勝が撮影した、幕末当時の二重2階建てだった二ノ丸太鼓櫓と二ノ丸東南隅櫓
しかし、本丸の北西、御深井丸の西北隅に建つ西北隅櫓は、本丸に位置しない隅櫓にもかかわらず、外観三重、内部3階建で、小規模な城の天守とさえ見紛うばかりの華麗な櫓となっている。

名古屋城北西の外堀から眺めた西北隅櫓
この位置から見ると、高く生い茂った木々に天守が隠され、この櫓が城の天守とさえ見紛うばかりだ。

戦前の天守閣焼失前の古絵葉書
多聞櫓や土塀が撤去されているものの、天守と櫓の位置関係が良く分かる。
● 西北隅櫓(辰巳櫓・清洲櫓)
西北隅櫓は、外堀に面した御深井丸の西北隅に位置し、天守や本丸御殿が完成した数年後の1619年(元和5年)ごろに建てられたとされ、当時は戌亥櫓と呼ばれていた。
外観三重、内部3階建、本瓦葺の屋根は入母屋造りで、高さ16.3m、東西13.9m、南北15.9mの規模は、高さ15.7mの宇和島城天守を上回り、高さでは及ばないものの高知城天守(高さ18.6m)に比べれば平面規模では凌駕する立派なものとなっている。

北西方向から眺めた西北隅櫓
この櫓の1階の屋根の堀に面した西・北面には、千鳥破風と出窓型石落が設けられ、装飾性と防御を高めている。
さらに、先に見てきた東南・西南隅櫓の原則とは異なり、三重の屋根と堀に面していない東・南面の1階にも千鳥破風の屋根が設けられ、豪華さを醸し出している。
もともと本丸から遠い、同じ御深井丸の北東西寄にあった弓矢櫓は、この城の原則どおりの二重2階建てのものであったことからしても、外観三重のこの櫓の規模・装飾性は特別であったことが判る。

徳川慶勝が撮影した、幕末当時の西北隅櫓。
石垣上には多聞櫓が櫓に接続している。

西北隅櫓の北・東面

実測「名古屋城西北櫓西側姿図」
出典:名古屋城管理事務所

実測「名古屋城西北櫓縦断面図」
出典:名古屋城管理事務所

東面1階の千鳥破風

城内、御深井丸から眺めた西北隅櫓
南面1階の千鳥破風が見える。

西北隅櫓の位置する御深井丸は、本丸の後衛を担う重要な郭であり、当初は郭の外側の全ての石垣上に武器庫などとなる多聞櫓を建設する計画だったようだ。
しかし、1615年(慶長20年)5月の大坂夏の陣で徳川幕府方が大坂方を滅ぼしたことによる戦乱の世の終焉で、計画は工事途中で変更され、郭の周囲は土塀を巡らせることになったという。
櫓の東・南面にある出入口には、当時既に部分完成していた多聞櫓が接続していたためか屋根がない。

櫓の壁の仕組みを説明したサンプル
竹で編んだ下地に、漆喰の荒壁を施し、その上に4層の漆喰で固められている。

この櫓は、内部の壁が漆喰で化粧されている。

石落からの石垣と堀の眺め。
1階の堀に面した北・西側に設けられた石落。

2階へ上がる階段は、踊り場を持った折り返し階段となっている。

2階も内部の壁は漆喰で化粧されている。
窓は連子が入った武者窓となっている。

千鳥破風の屋根と丸伏せ瓦。銅製の釘で止められている。

大梁の接合状況。

他の建物からの転用が推定される梁材

名古屋城の築城に伴い、1612年(慶長17年)から1616年(元和2年)ごろにまでかけて清洲から名古屋への都市の移転、いわゆる「清洲越し」がおこなわれたため、この櫓は江戸時代から清洲城の天守か櫓を移築したとの言い伝えがあって、「清洲櫓」とも呼ばれてきた。
しかし、1962年(昭和37年)から3年間にわたる櫓の解体修理の結果、複数の建物の古材を転用してはいるが、櫓の完成は1618年(元和4年)以後であることが明らかとなり、清洲城からの移築ではないことが確定したとされる。
確かに移築したのなら、この櫓の完成はもっと早い時期だったかもしれないが、「清洲越し」終了から遅れて築かれたからとしても、現に古材が転用されているとすれば、それまで保管されていた清洲城の部材が使われていないことにはならないだろうと思われる。
もう一つ考えられることは、名古屋城築城に伴い始まった「清洲越し」が全て完了したことを、これまでの清洲の一般庶民(新しい名古屋城下の住民)に対して印象付けるため、西北隅櫓の姿は廃城となった清洲城の天守か櫓に似せて築かれたことにより、一般には移築したものと理解され「清洲櫓」と呼ばれるようになったのかもしれない。
ところで、新築の櫓の建設資材に他の建物の古材が転用されているということに不信感を覚える向きもあろうが、これは昔から城や寺社の建築時には、新材よりもむしろ狂いの少ない乾燥した古材の転用は普通に行われてきたことによるようだ。

最上階の三階内部の北方向
天井の梁がむき出しとなっている。
3階には武者走りの廻り廊下があり、その内側には長押を巡らせて畳が敷かれ、引戸が立てられていたようだ。
結局、この櫓内部の全ての階の壁には漆喰が施されていた。

最上階の三階内部の南方向
南面と東面南側は壁で、窓は設けられていない。

最上階の天井の梁の状況。


連子の入った武者窓と連子のない窓が混在する。

千鳥破風の屋根の軒

北の外堀から眺めた天守と西北隅櫓
〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その3
―― 御深井丸の西北隅櫓は幻の西小天守の代わりだった? に続く、、、。
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の東南隅櫓と西南隅櫓 からの続き
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-478.html
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓
天守閣が城の要であり、戦いの最後の砦であるとすれば、隅櫓は城の周りの要所にあって、天守に至る攻め手への物見や防御・攻撃のための重要な役割を果たしている。
信長の安土城以降になると、天守閣の建物の意匠にも破風や漆喰、屋根瓦などの寺社建築の様式を取り入れた美しい建築装飾がなされ、支配者の権威を誇示するための見せる城となるに伴い、周りの隅櫓にも本来の機能性だけに留まることなく、あたかも天守の華麗さを引き立てるかのように、装飾性が取り入れられるようになる。

名古屋城では、江戸時代に大小取り混ぜて11基あった隅櫓にも様々な建築装飾が施されていたようだが、階高を見ると、本丸から遠い二ノ丸や西之丸に配置された隅櫓は、低い2階建てで配置され、5階建ての天守を取り囲む本丸の隅櫓は3階建てにして、天守からの眺望を確保する一方、この階高別の櫓の配置によって、三之丸の家臣団や城域外の南に広く配した城下町の庶民からも、常時お城の威容・華麗さ、曳いては城主の権威性を見易く、判りやすくさせるための心理的な配置設計がされているように思える。
(名古屋城ではこの外に、巨大な天守上に頂く燦然と輝く金の鯱が遠目にも見え、嫌が上でもその権威をさらに高めていた。)

写真好きの尾張藩14代藩主徳川慶勝が撮影した、幕末当時の二重2階建てだった二ノ丸太鼓櫓と二ノ丸東南隅櫓
しかし、本丸の北西、御深井丸の西北隅に建つ西北隅櫓は、本丸に位置しない隅櫓にもかかわらず、外観三重、内部3階建で、小規模な城の天守とさえ見紛うばかりの華麗な櫓となっている。

名古屋城北西の外堀から眺めた西北隅櫓
この位置から見ると、高く生い茂った木々に天守が隠され、この櫓が城の天守とさえ見紛うばかりだ。

戦前の天守閣焼失前の古絵葉書
多聞櫓や土塀が撤去されているものの、天守と櫓の位置関係が良く分かる。
● 西北隅櫓(辰巳櫓・清洲櫓)
西北隅櫓は、外堀に面した御深井丸の西北隅に位置し、天守や本丸御殿が完成した数年後の1619年(元和5年)ごろに建てられたとされ、当時は戌亥櫓と呼ばれていた。
外観三重、内部3階建、本瓦葺の屋根は入母屋造りで、高さ16.3m、東西13.9m、南北15.9mの規模は、高さ15.7mの宇和島城天守を上回り、高さでは及ばないものの高知城天守(高さ18.6m)に比べれば平面規模では凌駕する立派なものとなっている。

北西方向から眺めた西北隅櫓
この櫓の1階の屋根の堀に面した西・北面には、千鳥破風と出窓型石落が設けられ、装飾性と防御を高めている。
さらに、先に見てきた東南・西南隅櫓の原則とは異なり、三重の屋根と堀に面していない東・南面の1階にも千鳥破風の屋根が設けられ、豪華さを醸し出している。
もともと本丸から遠い、同じ御深井丸の北東西寄にあった弓矢櫓は、この城の原則どおりの二重2階建てのものであったことからしても、外観三重のこの櫓の規模・装飾性は特別であったことが判る。

徳川慶勝が撮影した、幕末当時の西北隅櫓。
石垣上には多聞櫓が櫓に接続している。

西北隅櫓の北・東面

実測「名古屋城西北櫓西側姿図」
出典:名古屋城管理事務所

実測「名古屋城西北櫓縦断面図」
出典:名古屋城管理事務所

東面1階の千鳥破風

城内、御深井丸から眺めた西北隅櫓
南面1階の千鳥破風が見える。

西北隅櫓の位置する御深井丸は、本丸の後衛を担う重要な郭であり、当初は郭の外側の全ての石垣上に武器庫などとなる多聞櫓を建設する計画だったようだ。
しかし、1615年(慶長20年)5月の大坂夏の陣で徳川幕府方が大坂方を滅ぼしたことによる戦乱の世の終焉で、計画は工事途中で変更され、郭の周囲は土塀を巡らせることになったという。
櫓の東・南面にある出入口には、当時既に部分完成していた多聞櫓が接続していたためか屋根がない。

櫓の壁の仕組みを説明したサンプル
竹で編んだ下地に、漆喰の荒壁を施し、その上に4層の漆喰で固められている。

この櫓は、内部の壁が漆喰で化粧されている。

石落からの石垣と堀の眺め。
1階の堀に面した北・西側に設けられた石落。

2階へ上がる階段は、踊り場を持った折り返し階段となっている。

2階も内部の壁は漆喰で化粧されている。
窓は連子が入った武者窓となっている。

千鳥破風の屋根と丸伏せ瓦。銅製の釘で止められている。

大梁の接合状況。

他の建物からの転用が推定される梁材

名古屋城の築城に伴い、1612年(慶長17年)から1616年(元和2年)ごろにまでかけて清洲から名古屋への都市の移転、いわゆる「清洲越し」がおこなわれたため、この櫓は江戸時代から清洲城の天守か櫓を移築したとの言い伝えがあって、「清洲櫓」とも呼ばれてきた。
しかし、1962年(昭和37年)から3年間にわたる櫓の解体修理の結果、複数の建物の古材を転用してはいるが、櫓の完成は1618年(元和4年)以後であることが明らかとなり、清洲城からの移築ではないことが確定したとされる。
確かに移築したのなら、この櫓の完成はもっと早い時期だったかもしれないが、「清洲越し」終了から遅れて築かれたからとしても、現に古材が転用されているとすれば、それまで保管されていた清洲城の部材が使われていないことにはならないだろうと思われる。
もう一つ考えられることは、名古屋城築城に伴い始まった「清洲越し」が全て完了したことを、これまでの清洲の一般庶民(新しい名古屋城下の住民)に対して印象付けるため、西北隅櫓の姿は廃城となった清洲城の天守か櫓に似せて築かれたことにより、一般には移築したものと理解され「清洲櫓」と呼ばれるようになったのかもしれない。
ところで、新築の櫓の建設資材に他の建物の古材が転用されているということに不信感を覚える向きもあろうが、これは昔から城や寺社の建築時には、新材よりもむしろ狂いの少ない乾燥した古材の転用は普通に行われてきたことによるようだ。

最上階の三階内部の北方向
天井の梁がむき出しとなっている。
3階には武者走りの廻り廊下があり、その内側には長押を巡らせて畳が敷かれ、引戸が立てられていたようだ。
結局、この櫓内部の全ての階の壁には漆喰が施されていた。

最上階の三階内部の南方向
南面と東面南側は壁で、窓は設けられていない。

最上階の天井の梁の状況。


連子の入った武者窓と連子のない窓が混在する。

千鳥破風の屋根の軒

北の外堀から眺めた天守と西北隅櫓
〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その3
―― 御深井丸の西北隅櫓は幻の西小天守の代わりだった? に続く、、、。