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〇 今日の一献 完成公開されたばかりの名古屋城本丸御殿へ行ってきた

―― 遺された豊富な資料を基に400年前と寸分違わず復元した御殿

 夏休みでやってきた、関東に住む孫たちの課題研究のお付き合いで、先日(6月8日)完成公開されたばかりの名古屋城本丸御殿へ取材に行ってきた。

 本丸御殿は、江戸時代の初期、徳川家康によって建設された名古屋城内に尾張藩主の住居・政庁として建てられ、330年間の長きにわたって整備されながら使われてきた国宝だったが、太平洋戦争の空襲で1945年(昭和20年)の終戦の年に惜しくも天守閣などとともに焼失した。

 一方、名古屋城の天守閣については、市民の浄財を合わせ1959年(昭和34年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものの、本丸御殿の再建は資金調達難などによりかなわず、長らく礎石だけが残されたままに置かれていた。

00-名古屋城天守と本丸御殿

 戦前の焼失前の名古屋城と本丸御殿の航空写真

 しかし、戦前に城郭として国宝第1号に指定されていたことから、本丸御殿は国などによる建物の実測図や写真などの膨大な資料が残されており、また悪化する戦況の下で当時の先人の努力により、あらかじめ天井板絵や襖絵などの動かせる多くのものが疎開されていたことから遺り、1992年(平成4年)ごろから障壁画などの復元模写が続けられてきた。

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00-furusyasin-5本丸御殿

 この間、地道に粘り強く続けられてきた市民団体による再建運動と相まって、やがて一般市民の再建への機運の高まりに押され、名古屋市では御殿復元の寄附金募集を始め、遺された豊富な資料を基に2009年(平成21年)から本格的な復元工事に着手し、ようやく10年の歳月と総工費150億円をかけて、このほど400年前の創建当時と寸分違わぬ御殿が復元されたものだ。

00-本丸御殿平面図 20160729-011

 本丸御殿の復元平面図
 復元工事は、3期間に分けて順次進められ、区間の完成の都度、一般公開がされてきた。
 もともと本丸御殿は、家康の命により1615年(慶長20年)名古屋城とともに九男・義直(尾張藩祖)の住居・政庁として建てられたもので、近世城郭御殿の最高傑作と言われ、京都二条城の二の丸御殿とともに武家風書院造の双璧ともされ、戦前の国宝に指定されていた。

 御殿の規模は、平屋建て総面積3,100㎡で、部屋数は30を越え、最も高いところの高さは12.7m。


● 本丸御殿正面「玄関・車寄」

00-パノラマ 本丸御殿 20160729-011_edited-2

 玄関建物は入母屋造の妻入で、入口の突き出した車寄は杮葺の唐破風屋根となっている。

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 「玄関 一之間」北面
 御殿の部屋毎の襖絵や障壁画などは、当時の日本画壇の一級の絵師、狩野貞信や狩野探幽などの「狩野派」の絵師たちにより描かれ、豪華絢爛に彩られていた。
 復元模写の作業は、現存する原画や写真などを基に、当時の画材などを使いながら制作当時に忠実な再現が行われた。

00-パノラマ 本丸御殿 20160729-11

 「玄関 二之間」北面 金地の障壁画「竹林豹虎図」
 日本に生息しない強い猛獣の虎、豹などは、入手できた毛皮を基に猫の姿を参考にしながら描いたといわれ、玄関を入った来訪者をまず威嚇し、緊張感を高めさせるためだったとも言われている。

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 玄関と表書院を繋ぐ廊下
 領内に産した木曽ヒノキの良材が、建物全体にふんだんに使われていた。
 復元に当たっても、良材の確保が一番の課題であったとされる。

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 金箔が使われた飾釘隠し
 本丸御殿には、建築工事や建具から金具などにいたるまで、当時の一級の職人の技が施されており、復元に当たっても、それらを今も伝承する宮大工や建具・金工職人の技が動員された。


● 尾張藩主の公式な謁見場所として使われた「表書院」

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 「表書院 一之間」北面

00-一之間から上段之間を望む 出典:名古屋城総合事務所03

 焼失前の写真 「表書院 一之間」から「上段之間」を望む
    出典:名古屋城総合事務所

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 尾張藩主が着座した「表書院 上段之間」北面
 座敷飾りとして、床、違棚、廊下側に張出した付書院、帳台構などを備える。


● 藩主が身内など親しい者たちと対面、宴席を開いていた「対面所」

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 「対面所 次之間」北面

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 藩主が着座した「対面所 上段之間」


● 将軍上洛時の専用宿泊施設の「上洛殿」

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 「上洛殿」の外観
 もともと藩主の居住する御殿であった本丸御殿は、1620年(元和6年)に将軍上洛時の専用宿泊施設とすることになり、より格式の高い「上洛殿」が増築され、これ以後、尾張藩主は「二之丸御殿」に居住し政務を執ることとなり、「御成御殿」と呼ばれるようになった。

 なお、この「御成御殿」(本丸御殿)に宿泊した将軍は、秀忠(第2代)、家光(第3代)、家茂(第14代)の3人だけだった。

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 本丸御殿と「上洛殿」の平面図

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 徳川将軍専用の宿泊施設の「上洛殿」の廊下にある、豪華な花鳥の透かし欄間

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 「上洛殿」廊下の透かし欄間の部分拡大
 表裏の絵柄を変え、立体的に彫り出されている。

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 極彩色の花鳥の透かし欄間のある「上洛殿 一之間」
 襖の向こうが、将軍が座る上段之間。

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 「上洛殿 上段之間」の武者隠し

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 「上洛殿 二之間」の黒漆塗金具付格天井の天井画

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 獅子やボタンの花などを組合せた金箔と黒漆象嵌の「花熨斗金具」

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 精巧な組子細工が施された、廊下の明り取り建具。

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 入母屋造の殿舎「上洛殿」の屋根の軒飾

 こうして今回、復元完成した本丸御殿ではあるが、建物は空襲で焼失したものの、天井板絵や襖絵など多くのものが疎開されていたことから焼失を免れ保管されており、現在そのうちの1,047面が国の重要文化財の指定を受けている。

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 名古屋城天守閣と本丸御殿

 ところで、今回孫にとっては、炎暑の中での過酷な御殿探訪だったと思うけれど、軽いブリーフィングを受けた後での現地踏査による写真撮影や資料収集などを意欲的に短時間でこなし、何とか課題研究のまとめに目処が付いたようだった。


● 木造復元を目指して、石垣調査が行われている天守閣

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 1959年(昭和34年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された天守閣は、50年以上を経て、耐震上の問題などから再建する必要性が議論されるようになった。

 現在、天守閣の再建を目指して石垣の耐震調査が行われており、今後5年をかけて500億円の建設費を見込みながら、創建当時の木造による復元の計画が進められている。

00-panoram 天守閣石垣調査-02


● 本丸御殿 余話
―― 名古屋城天守閣や本丸御殿の焼失は米軍の誤爆だったか

 1944年(昭和19年)末から本格的に始まった太平洋戦争の本土への戦略爆撃は、終戦の1945年(昭和20年)8月15日まで、主に焼夷弾の投下を中心とする無差別空襲として連続的に行われ、名古屋を始めとする全国各都市に甚大な被害をもたらした。

 こうした一連の空襲爆撃の下で、1945年(昭和20年)5月14日の大都市市街地爆撃としては唯一の昼間の時間帯に行われた「名古屋空襲」は、ついに名古屋城にも及び、この時本丸御殿、大・小天守、金鯱、東北隅櫓、正門などが焼夷弾の直撃を受けて惜しくも焼失している。

 地元では、名古屋人の戦意を喪失させるために米軍が、名古屋のシンボル名古屋城を狙って爆撃したのだと、長らく伝説として語り継がれてきた。

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 空襲で焼失した、名古屋城天守閣と本丸御殿の惨状(1946年撮影)

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 ところで、先日(7/31)の中日新聞の朝刊によると、米国国立公文書館が開示している米軍の公文書の分析から、米軍は空襲を始める一年以上前から名古屋市街地への周到な爆撃計画を練り上げており、この計画に基づく精密な名古屋空襲で市民ら8千人が犠牲になったとの報道があった。

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 この記事とともに掲載された爆撃地図「名古屋焼夷区画図」をよく見ると、名古屋城のエリアだけがなぜか空白域になっているのがわかるだろう。

 記事には言及されていないことだが、わたしはむしろこの空白のことがひどく気になって調べてみたら、この記事の米軍爆撃地図は特段目新しいものではなく、すでに名古屋城の「爆撃」についての考察に引用されているものが見つかった。

 以下要約すると次のようになる。

 爆撃地図の空白は、空襲爆撃に当たって、米軍は日本の伝統的文化財が集積する、京都、奈良を避けたように、国宝だった名古屋城の爆撃を計画からはずしたわけではなく、むしろ師団司令部が名古屋城内にあったとしても、投下した焼夷弾で延焼する効果が小さいことから目標とはなっていなかったのだろうと考えられる。

 現に東京でも江戸城(皇居)ですら、周辺の赤坂御用地や神宮外苑、新宿御苑、代々木公園などとともに類焼効果が少ない「park areas」に類別されていた。

 こうしたことから、もともと米軍は攻撃目標として名古屋城を狙ったわけではなく、5月14日の空襲がたまたま日中に行なわれたことで日本軍の反撃も大きく、米軍機の被害も多く出た事実から、米軍機としては反撃空域を速やかに離れるために爆弾投下を急いだことが推定され、これによって誤って計画にない名古屋城の「誤爆」につながったものと考えられるという。

  参考:『ピースあいち研究会』名古屋城「誤爆」を推理する◇「名古屋城が炎上した5月―名古屋大空襲展」によせて
      http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201705/vol_90-9.html


 近年判明したこととして、世界遺産の姫路城でも1945年7月の姫路空襲で天守閣に焼夷弾が直撃していたが、幸い不発弾だったために焼失を免れたという逸話がある。

 この戦争では各都市への無差別空襲で、誤爆だったかは別にしてわずか数ヵ月の間に、名古屋城を始め大垣城、岡山城、広島城、福山城、和歌山城、仙台城、首里城といった8つの貴重な城郭文化遺産が失われている。




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