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〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その1

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 春休みに我が家へやってきた孫たちを、次の予定地に送るついでに、久しぶりに安土城跡へ登ってきた。

 もう10年以上前になるが、当時学生だった息子たちとともに、ここにやって来たときには無かったのに、発掘・整備が進んで歴史ブームでスポットが当たり始めた2006年に関所ができたようで、今回は700円也の入山料を払って入場した。

 安土城は、天下布武を目指し清洲城から、小牧城、岐阜城へと順次拠点を進めてきた信長が、いよいよ天下統一のための拠点として1576年(天正4年)丹羽長秀に普請を命じ、3年をかけて滋賀県安土山(標高199m)に築いた山城で、天正7年1月に天主が完成すると信長は5月にここに移っている。

 しかし、1582年(天正10年)6月の本能寺の変で信長が倒れると、まもなく天主や本丸は焼失してしまい、わずか3年半の短命な城となった。

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 南山裾帯曲輪の「大手口 西虎口1と西虎口2」
 最近の発掘調査によって、大手口の左右に新たに4つの虎口が見つかり、復元されている。

 もっとも、その後も安土城は織田家の城として秀吉の庇護により清洲会議のあと信雄や孫の三法師が居城としたが、天正13年の小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると廃城となった。

 国の特別史跡に指定されていたとはいえ、短命で文献・資料も少なく、長らく荒廃したままだった謎多き安土城は、昭和15、16年になってようやく天主・本丸の調査と仮整備が行われ、昭和35年以降には本丸周辺から黒金門にかけての石垣修理など城跡の整備が行われた。

 次いで、新たに平成元年度から始まった城跡の保存とその活用を図る『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年をかけて実施され、2009年までに伝・本丸御殿及び、天主台のほぼ全容が判明した。なお、主要部の伝・三ノ丸跡、本丸取付台、伝・二ノ丸東溜りも、レンチ調査で建物の礎石などが確認されている。(調査済みは、史跡指定面積の約20%(17ha)に過ぎない。)

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 復元された安土城大手道
 大手口から直線に、幅8m(両側に1mほどの側溝)で、長さ180mの石段の大手道が続く。
 左側が「伝・羽柴秀吉邸」、右側が「伝・前田利家邸」がある。

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 安土城跡の順路図
 安土山に築かれた安土城は、山頂の天主を中心とする主要部分だけでなく、織田家臣団の屋敷が山腹を取り巻くように配置されていたようだが、現在見学のできる範囲は、全体の30%程度に留まるとのことだ。

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 「伝・羽柴秀吉邸跡」
 下段部分から上段石垣を見る。
 
 安土城の特色のひとつは、縄張り構造に石垣を多用した近世城郭の最初の城であり、400年を経過しても崩壊しないその優れた自然石の積み上げ技術だといわれる。

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 下段部分から上段に続く武者走りには、スミレの花が咲いていた。

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 上段曲輪の屋敷跡には、当時の礎石が残る。

00-「伝羽柴秀吉邸」の再現図

 「伝羽柴秀吉邸」の再現図
 上段郭が高麗門と屋敷があり、下段郭には櫓門と庭・厩があったと推定され、上下段の間には武者走りがあった。

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 伝羽柴秀吉邸跡上段から大手道の右側上部に見えるのが、摠見寺の仮本堂で、この場所は徳川家康の邸宅跡と伝わる。
 
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 幅広く長い大手道が続く。

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 「大手道の階段の石仏」
 信長の期待に応えて築城を急いだのか、三重や丹波篠山方面から運搬した石材の他に近在の野仏なども集めたようで、大手道の階段のそこここに石仏が使われているのが見られる。
 戦国時代に築城された城には、こうした石仏や仏塔などが石垣などに使われている場合が多いといわれる。

 しかし、単に不足する石材を補うための石仏であれば、宗教心に篤い者なら裏を向いて組み込むだろう。
 むしろ、ここでは信長は踏みしめる石段として、石仏を意識的に配したのではないかと思いたい。

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 「伝・武井夕庵邸」跡
 やがて大手道は左に曲がり、その先の左には信長の右筆だった武井夕庵の邸跡の石柱が立つ。

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 「七曲り」
 大手道の幅が狭まり、右へ左へと曲がる急峻な七曲りと呼ばれる場所。

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 「黒金門の虎口」跡
 大手道の終点でいよいよ城の中枢部へと入る入口を守るのが黒金門。
 石垣を構成する石は大きく、組み上げも緻密で高い。この門を境に、下は家臣団の屋敷群、この上は信長の居住区画などの生活空間と天主などに分かれる。

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00-安土城主要部曲輪配置図

 安土城主要部曲輪配置図 (滋賀県安土城郭調査研究所作成)
 安土山の最も高い(標高180m)ところに天主を中心に、東西180m、南北100mに本丸、二の丸、三の丸などの主要な曲輪で構成されるー帯は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立している。
 高石垣の裾を幅2~6mの外周路が巡り、山裾から通じる城内道と結ばれている。また、外周路の要所には、隅櫓、櫓門などの入り口が数カ所設けられている。

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 黒金門を過ぎると、黒金門の虎口を抜けた風景。左正面は二の丸石垣で、二の丸、本丸へは右手へ進む。石段付近に「二の門」があった。左石垣上は二の丸、本丸、天主へ向かう  

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00-Panorama 20180328-03天主・本丸

 「本丸」跡
 東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地の本丸跡。
 左は天主台の石垣、正面右石垣の上は三の丸(名坂屋敷)。

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 天主台へ続く石段

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 「天守台」
 国指定の特別史跡「安土城跡」天主台跡の礎石
 八角形の敷地に20m四方程の範囲に、柱と柱の間が7尺(約2.1m)で軸線がほぼ正方位(真北)となる碁盤目状に並んだ大型礎石111の石が並ぶ。
 物理探査の結果、天主台は自然の岩盤層を整形した上に築かれていることが明らかになっている。

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 天主台の地階となる礎石配列
 中央の礎石の欠けた部分に、仏舎利塔が置かれていたとされる。
 五重七層の巨大な天主が、総石垣の上に建てられた最初の城だった。

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 天主台跡から北の琵琶湖や比叡山方面を望む。
 築城当時は、琵琶湖の水が安土山の麓まで迫っており、北面の防衛を担わせるとともに、湖上を行く船に堂々とした安土城を見せる効果もあったと見られるが、昭和時代に入ってからの干拓で、現在は手前に西湖ができ、その先に遠く琵琶湖が見えるようになっている。

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 琵琶湖方面のパノラマ展望

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 天主台跡から南にあった旧城下町方面を望む。

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 〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2につづく






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