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〇 今日の一献 静岡3城めぐりの旅 その2 掛川城

―― 一豊の残影を継ぐ 復元天守の掛川城

 今まで関東への行き返りに、新幹線の窓からいつも眺めるだけだった掛川城に寄ってきた。

 現在地の掛川城は、今川氏の家臣 朝比奈泰熈によって、龍頭山と呼ばれた山上(35.5 m)に1513年(永正10年)に築城されたことに始まる。
 その後、今川氏を破った家康は、重臣の石川家成を城代として入城させるが、1590年(天正18年)に秀吉が家康を関東移封させたに伴い石川氏も関東へ移ると、その後に家康への押さえとして近江国長浜から山内一豊を入封させた。

 一豊は1596年(慶長元年)に石垣、瓦葺の天守閣を完成させるなど近世平山城郭を拡張し、城下町の整備にも力を注いだ。

 秀吉の目論見に反して家康についた一豊が、関ヶ原の戦いへの功があったとして1601年(慶長6年)に土佐一国を与えられて高知城に移封されると、その後は代々徳川氏の譜代大名の城となった

 しかし、1604年(慶長9年)の大地震で天守は倒壊し1621年(元和7年) に再建されたものの、再び1854年(安政元年)末に発生した安政東海地震で天守を含む大半の建物が倒壊し、その後天守は再建されることはなかった。

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 JR掛川駅から北へ歩いていくと、天守及と太鼓櫓が見え始める。

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 左から太鼓櫓、正面に復元された四足門、右上には木造復元された3層4階の天守、その右に二の丸御殿がある。

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 時を告げる太鼓櫓
 三の丸に残っていた太鼓櫓は、正面の四足門を入って左の見張用の荒和布櫓のあった本丸の現在地に、1955年(昭和30年)になって移築され現存している。

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 現在見る3層4階で白漆喰総塗りで入母屋造の天守は、1994年(平成6年)になって、総工費11億5,900万円(寄付4億6,000万円)により全国初の木造復元天守として再建されたものだが、復元にあたっては残存する古絵図と一豊が掛川城天守と同じ姿に建てさせたといわれる高知城の天守閣を参考としている。

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 本丸から天守までは、ゆるやかな曲線を描きつつ長く急峻な、登城路の石段をのぼる。

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 天守曲輪の入口には、二層の櫓門があったが、現在は冠木門が設置されている。

 天守は、標高35.5 mの龍頭山と呼ばれた山上に築かれた、高さ3.6 mの石垣の天守台に、高さ16.18mで長さ12m×10mの瓦葺複合式望楼型の天守閣(総床面積304.96m2)が建てられている。

 天守への入り口には、白漆喰塗籠の瓦葺で1層1階の付櫓がある。

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 天守曲輪から見上げた天守
 東面には出窓や忍び返しが備えてある。

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 東方向の二の丸御殿から見上げた天守閣

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 天守の南北断面図(東側から見た天守閣断面)
 天守と付櫓、木造復元の柱組などの関係がわかる。

00-御天守台石垣芝土手崩所絵図-1855年(安政2年)

 『遠江国掛川城地震之節損所之覚図』1855年(安政2年)
          ( 掛川市二の丸美術館蔵)

 一豊時代の天守の姿は不明だが、1621年に再建された天守の姿が描かれた史料。嘉永安政地震で崩落した天守台石垣と芝土手の被害状況を、北東の方角から描いている。

 この絵図から、江戸時代に再建された当時の天守の姿は3層4階の入母屋造で、2重目以上は板壁、2重目には唐破風出窓に華頭窓をもつ層塔型で、3重目の壁は戸板で囲まれた内縁高欄で、当初は外縁高欄であったと推測されている。

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 城の北東にある、竹の丸の方角から眺めた天守
 『遠江国掛川城地震之節損所之覚図』などに描かれた天守や高知城を参考に復元されている。

 掛川城の歴代の城主は、今川方の朝比奈氏、家康の家臣の石川氏、秀吉の家臣の山内氏(5万石)、徳川家譜代大名の松平氏(3万石)、北条氏(3万石)、井伊氏(3万5千石)、小笠原氏(6万石)と、最後の太田氏(5万石)など、めまぐるしく交代した。

 しかし、この天守閣を初めて完成させ、城郭の拡張と城下町の整備を行った山内一豊は、掛川市民に最も親しまれている。

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 天守入口には、一豊の家紋「丸に土佐柏」の幟と、高知城にある馬上で槍を持つ山内一豊のミニチュア像が置かれている。

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 一豊の残影を継いで、木造で復元された天守閣の内部
 
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 天守最上階へ続く階段

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 天守最上階から階段下を見る。

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 天守最上階からの南方向の本丸と市街地の眺め。
 眼下の天守丸にある天主下門(模擬)の右には霧吹井戸が見える。
 
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 天守最望楼から南西方向の眺め。
 眼下にはかつて侍町があり、その向こうに逆川の流れが見える。

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 天守台の脇には霧吹井戸が現存している。
 この井戸は1522年に掘られ、深さが45mあり、城郭内の井戸としては日本第3位の深さといわれる。

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 『遠州掛川城絵図』
 幕府が諸藩に命じて1644年(正保元年)に作成・提出させた城下町の地図。
 当時は本丸の南には松尾池と呼ばれた堀があり、さらに南に逆川が蛇行して流れ、二重の防衛線の役割を果たしていた。

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 掛川城の縄張り図

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 本丸内の屋外に展示されているジオラマ


○ 掛川城二の丸御殿

 御殿は、城主の政務と生活の場で、当初は本丸にも造られていたとされるが、老朽化や火災などのより二の丸に移った。現存する御殿は、1854年(嘉永7年)の地震で被害を受けたが、太田氏の時代の1861年(文久元年)までに再建されて現在に至っている。昭和55年には国の重要文化財に指定された。

 現在、全国に完存御殿建築遺構が残るのは、二の丸御殿ではここ掛川城と京都二条城、本丸御殿は越城と高知城の4城だけとなっており、見学の出来る貴重な遺構として保存されている。

00-20160914 掛川城-

 天守最上階からの東方の眺め
 左上方に見える小高い山の天王山に、今川義忠の命により朝比泰熈が1505年(永正2年)に掛川古城を築城した。
 眼下正面には、二の丸御殿(右手が玄関)が見える。

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 御殿正面の式台玄関

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 御殿車寄と式台玄関
 二の丸御殿から復元された天守閣を望む。

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 屋根には、太田道灌の系譜で最後の藩主となった太田氏の家紋、「太田桔梗」の付いた鬼瓦が載っている。

 御殿の建物は、書院棟、小書院棟、諸役所棟、台所、倉庫などの7棟で構成する書院造で、木造瓦葺平屋建て、下見板張りで漆喰真壁となっている。
 内部は、畳を敷きつめた部屋がそれぞれの用途に応じて20部屋に分かれており、各部屋は襖で仕切られている。

 対面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間や、謁見者が控える次の間と三の間からなっている。
総床面積は947㎡(287坪)で、創建当時には台所棟などを併せて1,091㎡(330坪)の規模だった。

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 奥が、床の間を持つ城主の対面所である御書院上の間、手前は三の間、右が次の間。

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 二の丸御殿内部の太田氏の家紋、「太田桔梗」の釘隠し金具。
 藩主の住居および政務所として使われた御殿だが、建材には節材も使われており、思いのほか質素な佇まいだ。

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 施設の渡り廊下と中庭

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 東側から見通した各部屋。

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 東側の二つの出入口
 身分によって入り口が異なっており、藩主や家老は正面の式台玄関を使い、その他の武士は玄関東南の入口から、また中間・足軽は隣にある北側の土間から出入りした。

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 御殿の鬼門方角にあたる東北方向から見る。

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 掛川市の下水道のマンホールの蓋には、掛川城天守が描かれている。







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