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〇 今日の一献 静岡3城めぐりの旅 その1 浜松城

―― ダイエットした模擬天守の浜松城

 3城めぐりの旅で、静岡に行ってきた。

 まずはじめは、徳川家康が遠州攻略の拠点として、1570年(元亀元年)に岡崎城を信康に与え浜松に移り住み、大規模な城を築いた浜松城だ。

 領国の拡大で1584年(天正14年)に家康は、さらに西の駿府城へ移るが、秀吉の命で天正18年には関東移封となり、その後浜松城には、家康への抑えとして堀尾吉晴が入封し11年在城した。
 結局家康は、三方ケ原の戦いなどを通じて、29歳から45歳まで17年間この城に住み、城下町の整備も行った。

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 徳川政権の江戸時代になると、徳川の譜代大名が代々相次いでこの城に入封し、老中など幕府の要職に就いたことから「出世城」とも呼ばれた城だった。

 城主が代々の譜代大名で幕府の要職を占めたということは、領主が頻繁に変わり、その目は領民や領国の経営よりも、専ら幕閣・幕政に向けられていたのではなかったかと思う。

 明治になって1873年の廃城令により浜松城も建物や土地の払い下げが行われ、二の丸や三の丸の宅地化が進行し、市役所や小学校が建てられているが、天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、1950年には浜松城公園が開設されて現在に至っている。

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 本丸に建つ、羊歯の前立てを持つ若き日の家康の像

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 本丸から野面積みの石垣に沿って、天守曲輪にある天守門へ向かう坂道

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 天守門の外側
 天守曲輪の入口には、明治6年に取り壊されたままだった櫓門である天守門が復元されている。

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 内側から見た天守門
 天守閣の無かった時代、この櫓を備える天守門は、城中の最も高い場所にある望楼施設として、天守の役割を果たしていた。

 この門は、資料を基に木造瓦葺の漆喰塗り壁で、総工費1億7,000万円をかけて2014年(平成26年)3月に復元されたばかりだ。

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 天守門の内側柱組の状況

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 天守望楼から見下ろした天守門

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 復元された天守門をくぐると、天守は本丸の右手に位置している。

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 圭岩の野面積みの天守台の上には、1958年(昭和33年)に市民の寄付(6割)など1,400万円で、郷土博物館を兼ねて望楼型の3層3階地下1階コンクリート造の模擬天守が建設されている。

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 浜松城は梯郭式平山城で、天守閣は、標高40mの山頂に東西50mほどの天守曲輪の天守台上に築かれていた。
 現在の模擬天守には、望楼を備える。

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 天守台の石垣と載っている模擬天守の関係をよく見ると、ダイエットした女性が、以前のダブダブのスカートをはいている様な姿に見える。

 実はこの天守閣は、堀尾吉晴の時代には存在していたようだが、その後大地震などで倒壊し、天守台を残して江戸時代を通じて長らく再建されることが無かった。

 わずかに伝わるのは、現在の240㎡(70坪)の天守台上に4層5階建ての堂々とした天守だったとされるが、現存する資料は無くその姿は不明のままだ。
 
00-20160915 浜松城-04

 このため、ダイエットした今の模擬天守の姿は、昭和33年の天守再建に当たって、資料不足のうえに市民の浄財の資金不足もあって、福井県の丸岡城などを参考に天守台の大きさに比べて小規模な、3層3階の望楼型天守として建設されたことによる。

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 天守台の石垣は、建設当時の状況を残しているとされ、天守曲輪の実測図と残存する石垣などから推測してみると、天守台上り口石段右手の長方形の石組みは、その上に櫓があったことを暗示しており、さらに上り階段はS字形に蛇行し天守入口に続く。
 それは壁があれば枡形を形成することから、場合によっては天守に連結した付櫓となっていた可能性もある。

 そういえば、この天守閣を創建した築城の名手 堀尾吉晴が、このあとの移封先で築いた国宝の松江城にも、防御を強化するために天守に連結した付櫓を備えている。

 また、天守台の北西には、八幡台と通称される突出して一段高い石垣が残り、天守閣に付属して独立した小天守のような櫓があったことも暗示している。
 さらに、天守台の西面は北方向に傾斜して台形に広がっており、この天守閣が巨大で複雑な姿であったに違いないことを物語っている。

 なお、堀尾氏が松江城天守閣内の地下に籠城に備えて設けた井戸が、この城でも設けられていた。

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 天守入口から見下ろした、上り口へのスロープ
 上り階段はS字形に蛇行し天守入口に続く。
 右手に長方形の石組みが見える。

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 天守台の北西にある八幡台は、面積40㎡(10坪)の天守曲輪で最も高い石垣となっているが、ここには八幡大菩薩が祀られていたといわれている。
 
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 したがって、復元天守閣を天守台の東隅に寄せて建設したため、本来複数あると見られる石落しが、南東の一ヵ所しか設けられていないことにも気がつく。

 計画的な静岡市民なら、まずお金が貯まるまで再建に着手しないだろうが、ここ浜松市では、「あれこれ考え悩むより、まず行動しよう。」という浜松人気質の『やらまいか』精神が、このときも働いたのだったろうか。

00-浜松城 縄張り図_edited-1のコピー

 城郭概要図
 当時の浜松城は、東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台へと連なりながら、順次高さを増していく梯郭式平山城の堂々とした城構えだった。

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 現在の地図に当時の城域を重ねた図 
 右上の堀で囲まれた「田」の字型の城域(米蔵)は、浜松に移り住んだばかりの家康が居城とした、曳馬城(浜松古城)の跡。

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 天守からの眺め
 二の丸の左方向には小学校があり、右方向に市役所がある。

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 右足元に天守曲輪の井戸があり、右へ下れば枡形の石垣に沿って埋門へ続く。

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 埋門跡の石垣

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 浜松城天守閣内にある「浜松時代の若き徳川家康公像」

 当時31歳だった家康が、武田信玄と戦った三方ケ原の戦いに曳馬城(浜松古城)から出陣する姿を、古文書などを元に当時の静岡文化芸術大の磯田道史教授(日本史)の制作アドバイスを受けて忠実に再現した蝋人形。




 




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