〇 今日の一献 夜の厳島神社 鳥居のくぐり抜け遙拝
―― 山陽・山陰を巡る旅 その1
今回の旅は、新幹線で岡山まで行き、そこからまず手始めにバスで岡山県の倉敷に寄ってから、山陽・山陰の各観光地を巡るものだった。
倉敷の次に訪れた厳島神社は、広島県廿日市市の広島湾に浮かぶ厳島(宮島)にある神社で、背後に聳える弥山(標高535m)を始め島全体をご神体として、1400年以上も前から海人びとを中心に広く崇敬を集めてきた歴史がある。

宮島へ渡るフェリーから眺めた厳島神社と弥山
日本三景のひとつとされ、1996年には世界文化遺産にも登録されている。

干潮時の寝殿造りの社殿と大鳥居
嚴島神社は海を敷地とする朱塗りの美しい寝殿造りの特異な社殿で、本殿、拝殿などの20棟がすべて回廊で結ばれており、建物は国宝や重要文化財に指定されている。
また境内の沖合約200mには、楠造りの大鳥居が建てられている。

拝殿から幣殿を見る。最奥に宗像三女神を祀る本殿がある。

宮島から見る瀬戸内海

宮島の浜に立つ平清盛の像
平安時代末期に安芸守となり瀬戸内海の海上交通を抑えた平清盛が、1168年(仁安3年)に現在と同規模の社殿を造営して平家の氏神としたことから、社勢はさらに隆盛した。平家一門が作成し奉納した、『平家納経』があることも有名だ。

厳島神社の大鳥居と社殿の夜景
ライトアップされた厳島神社の美しい夜景を眺めながら、古の瀬戸内海を行き来した海人びとたちのように海上の船から神社を遥拝する観光船が出ている。

ライトアップされた大鳥居
社殿の沖合200mに建つ大鳥居は、高さ16m、支柱の周囲10mの柱の両方に補足する脚を備えた「両部明神鳥居」形式で、主柱はクスノキの自然木、控柱はスギ材でできている。
鳥居の基礎は地中に打ち込まれてはおらず、杭を打って石で固めた土台の上に、柱の重さと箱状の内部に石を詰め込んだ島木と笠木の重みだけで自立しており、風波にも耐えているというから驚く。

この夜は、午後7時過ぎには満潮を迎え波も穏やかだったので、沖合から近づいたわたし達の乗った船は、難なく大鳥居をくぐり抜けた。
よく見ると、沖側の扁額には「嚴嶋神社」と記され、神社側のものにはもう一つの書式の「伊都岐島神社」が記されている。

この大鳥居は、奈良の春日大社や敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられている。

ライトアップで、海上に幻想的に浮かび上がった社殿に向かって遥拝する。
わたしが初めてここを訪れたのは、高校の修学旅行のときだったから、もう半世紀が過ぎ齢を重ねたからか、参拝して改めて得た印象は感慨深いものとなった。

ついでに、島内で見つけた合併前の旧宮島町の汚水管マンホールの蓋。
亀甲模様で中央にかつての町章の「宮」がデザインされている。
2005年11月に、佐伯郡宮島町は、対岸の大野町とともに廿日市市に編入合併された。

宮島主要部の地図

厳島神社社殿の配置図
● 久しぶりに立ち寄った 倉敷の町
江戸時代に天領となった倉敷の旧市街地には、高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ、水運を利用した年貢米の集積地として栄え、さらに倉敷代官所が商人たちの自治を認め優遇したことから、川岸には富を得た商人たちの蔵屋敷が軒を連ねている。
高校の修学旅行で来て以来、久しぶりに倉敷の町を訪れた。

倉敷川沿いの白壁の町並みが、重要伝統的建造物群保存地区として「倉敷美観地区」となっている。

大原美術館
この美術館は、倉敷紡績の社長などを務めた大原財閥の大原孫三郎によって、日本で最初の西洋美術や近代美術を展示する美術館として1930年に開館した。
50年を経たいまでも、そのとき美術館の正面左右に青さびにまみれたまま立っていたロダンの『聖ヨハネ』と『カレーの市民(ジャン・ダール)』のブロンズ像の質感や、当時は美術の副読本の小さなモノクロの写真でしか見たことのなかった、エル・グレコの『受胎告知』やモローの『雅歌』などの実物の筆使いを眼近で眺めたことを思い出す。

美術館に隣接する、壁にツタが絡まり赤いテント屋根の入口の喫茶店「エル・グレコ」の佇まいは、今も当時と変わらない。

ついでに、いつものマンホールの蓋。
昭和60年ごろから倉敷の市花、藤の花を描いた蓋が使われるようになった。これは、倉敷美観地区で見つけたカラー版の雨水管マンホールの蓋。

市花のフジと中央に「クラ」を図案化した市章のある汚水管マンホールの蓋
今回の旅は、新幹線で岡山まで行き、そこからまず手始めにバスで岡山県の倉敷に寄ってから、山陽・山陰の各観光地を巡るものだった。
倉敷の次に訪れた厳島神社は、広島県廿日市市の広島湾に浮かぶ厳島(宮島)にある神社で、背後に聳える弥山(標高535m)を始め島全体をご神体として、1400年以上も前から海人びとを中心に広く崇敬を集めてきた歴史がある。

宮島へ渡るフェリーから眺めた厳島神社と弥山
日本三景のひとつとされ、1996年には世界文化遺産にも登録されている。

干潮時の寝殿造りの社殿と大鳥居
嚴島神社は海を敷地とする朱塗りの美しい寝殿造りの特異な社殿で、本殿、拝殿などの20棟がすべて回廊で結ばれており、建物は国宝や重要文化財に指定されている。
また境内の沖合約200mには、楠造りの大鳥居が建てられている。

拝殿から幣殿を見る。最奥に宗像三女神を祀る本殿がある。

宮島から見る瀬戸内海

宮島の浜に立つ平清盛の像
平安時代末期に安芸守となり瀬戸内海の海上交通を抑えた平清盛が、1168年(仁安3年)に現在と同規模の社殿を造営して平家の氏神としたことから、社勢はさらに隆盛した。平家一門が作成し奉納した、『平家納経』があることも有名だ。

厳島神社の大鳥居と社殿の夜景
ライトアップされた厳島神社の美しい夜景を眺めながら、古の瀬戸内海を行き来した海人びとたちのように海上の船から神社を遥拝する観光船が出ている。

ライトアップされた大鳥居
社殿の沖合200mに建つ大鳥居は、高さ16m、支柱の周囲10mの柱の両方に補足する脚を備えた「両部明神鳥居」形式で、主柱はクスノキの自然木、控柱はスギ材でできている。
鳥居の基礎は地中に打ち込まれてはおらず、杭を打って石で固めた土台の上に、柱の重さと箱状の内部に石を詰め込んだ島木と笠木の重みだけで自立しており、風波にも耐えているというから驚く。

この夜は、午後7時過ぎには満潮を迎え波も穏やかだったので、沖合から近づいたわたし達の乗った船は、難なく大鳥居をくぐり抜けた。
よく見ると、沖側の扁額には「嚴嶋神社」と記され、神社側のものにはもう一つの書式の「伊都岐島神社」が記されている。

この大鳥居は、奈良の春日大社や敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられている。

ライトアップで、海上に幻想的に浮かび上がった社殿に向かって遥拝する。
わたしが初めてここを訪れたのは、高校の修学旅行のときだったから、もう半世紀が過ぎ齢を重ねたからか、参拝して改めて得た印象は感慨深いものとなった。

ついでに、島内で見つけた合併前の旧宮島町の汚水管マンホールの蓋。
亀甲模様で中央にかつての町章の「宮」がデザインされている。
2005年11月に、佐伯郡宮島町は、対岸の大野町とともに廿日市市に編入合併された。

宮島主要部の地図

厳島神社社殿の配置図
● 久しぶりに立ち寄った 倉敷の町
江戸時代に天領となった倉敷の旧市街地には、高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ、水運を利用した年貢米の集積地として栄え、さらに倉敷代官所が商人たちの自治を認め優遇したことから、川岸には富を得た商人たちの蔵屋敷が軒を連ねている。
高校の修学旅行で来て以来、久しぶりに倉敷の町を訪れた。

倉敷川沿いの白壁の町並みが、重要伝統的建造物群保存地区として「倉敷美観地区」となっている。

大原美術館
この美術館は、倉敷紡績の社長などを務めた大原財閥の大原孫三郎によって、日本で最初の西洋美術や近代美術を展示する美術館として1930年に開館した。
50年を経たいまでも、そのとき美術館の正面左右に青さびにまみれたまま立っていたロダンの『聖ヨハネ』と『カレーの市民(ジャン・ダール)』のブロンズ像の質感や、当時は美術の副読本の小さなモノクロの写真でしか見たことのなかった、エル・グレコの『受胎告知』やモローの『雅歌』などの実物の筆使いを眼近で眺めたことを思い出す。

美術館に隣接する、壁にツタが絡まり赤いテント屋根の入口の喫茶店「エル・グレコ」の佇まいは、今も当時と変わらない。

ついでに、いつものマンホールの蓋。
昭和60年ごろから倉敷の市花、藤の花を描いた蓋が使われるようになった。これは、倉敷美観地区で見つけたカラー版の雨水管マンホールの蓋。

市花のフジと中央に「クラ」を図案化した市章のある汚水管マンホールの蓋