〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その2

―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して

〇 山車まつりを支えた青物問屋の財力
 西枇杷島の山車まつりを経済的に支えた本格的な青物市場の起源は、徳川家康による名古屋の城下町の建設とそれに伴う消費地・ご城下への生鮮食料品の青果物の安定供給のための市場開設だったと考えられる。

 もともと、清州城下に青物を供給するため、二つの街道の交わる枇杷島(橋のたもと辺り)で下小田井の市場が開かれていた。しかし、名古屋城の築城(1612年(慶長17年))と城下の整備を行い、清洲越による名古屋への人口移動を進めるため、1608年(慶長13年)ごろに渡船に代わる手段として枇杷島橋の整備を行うとともに、1614年(慶長19年)に、地元の山田九左衛門らに命じて市場を開設して問屋業を始めさせた。

 これにより、この地は、濃尾平野の農村地帯の生産物が美濃街道や岩倉街道を通じて集積し、枇杷島橋を渡って円滑に大消費地・名古屋へ供給する最適地となって毎日市が立つようになると、市場の繁盛と共に橋詰や庄内川の堤防の上に数百戸の商家が軒を連ね、次第に街道筋と市場を中核とする商業の町、枇杷島の基礎ができあがっていった。

 記録によれば、1671年(寛文11年))には、戸数436、人口1,865であったといわれ、下小田井の市は、名古屋市内南部にある「熱田の魚市場」に対して「枇杷島の青果市場」として、城下町名古屋の台所を預かるようになり、「江戸の神田」、「大坂の天満」と共に、「三大青物市場」と言われるほどに発展することになる。

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 江戸期以降、美濃街道(東海道宮の宿-中仙道垂井宿)と岩倉街道(岩倉-枇杷島)などを使って、濃尾平野の農村地帯の生産物が下小田井の市場に運ばれた。
 青物問屋の取り扱った品目は、蔬菜に留まらず、海産物・薪炭・綿・茶・寒天など、多種にわたっていた。

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 江戸時代の『尾張名所図会』に描かれた、庄内川の花見
 左に枇杷島橋が描かれ、対岸のはるか向こうに名古屋城の天守閣が見える。
 枇杷島橋は、中島に大橋と小橋が架かる。

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 問屋記念館 (清須市西枇杷島町西六軒20番地)
 江戸時代の青物市場(問屋)の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の住居を、1992年(平成4年)に移築復元し、記念館として開放されている。
 明治の初期に建てられ、美濃街道を形成してきた町家のなかでも江戸時代の青物問屋の様式を伝える貴重な建物だ。母屋98.82㎡、離れ屋52.80㎡

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 生産者と仲買業者で賑わう、当時の山田九左衛門家のジオラマ(問屋記念館)

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 江戸時代の『尾張名所図会』に描かれた、下小田井青物問屋の賑わい
 
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 「にしび夢だいこん」のモニュメント(橋詰町内)
 下小田井の市の賑わいをしのぶため、『尾張名所図会』(前の画像)の中に描かれた、「大根を担いだ男」をモニュメントに再現したもの。


〇 枇杷島市場の移転と山車まつり
 1614年(慶長19年)に青物市場が開設されてから、拡大する取扱量と新政府によるご維新の風潮のなか、1868年(明治元年)には枇杷島橋の東にも青物市場が開設され、次いで1910年( 明治43年)になって、愛知県市場取締規則によって下小田井の市の名称は、「枇杷島市場」となる。

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 1900年代初頭の西枇杷島青物問屋の風景

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  枇杷島市場問屋配置図 (昭和5年3月の青物市場調査)


 1955年(昭和30年)には、対岸の名古屋市西区内(東枇杷島)に新市場が建設され、西枇杷島地区を離れて「中央卸売市場枇杷島市場」として移転・開場したが、移転先が近隣地であったことから、西枇杷島地区には市場に関係する居住者が多かったという。
 その後、1983年(昭和58年)になって、名古屋の北部に隣接する西春日井郡豊山町(北名古屋市)地内において青果と魚を扱う総合市場「中央卸売市場北部市場」が開設され、300年にわたって続いた枇杷島市場の名称も幕を閉じることとなった。

 なお、2005年(平成17年)には、西枇杷島町、新川町、清洲町が合併し、新たに「清須市」となった。

 清須市の資料によると、5両の山車は、清須市指定有形民俗文化財(昭和60年4月20日)の第1号から5号に指定されており、その所有者は、各々の町内会となっている。

 2000年(平成12年)に発生した、東海豪雨の大水害を契機として、これまでに進められてきた庄内川補強工事の影響などにより、旧問屋街周辺は民家の移転や改築と堤防周辺の改修が進み、かつての面影もなくなりつつある。

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 美濃街道沿いに、修復保存しながら今も残る町屋

 最近の「清須市の自治会区域図」の中から、山車を保有する町内会の世帯数を取り出してみると、下の表のようになる。

 そもそも、この限られた地域に、5両もの山車が今も運行されていることは驚くべき事なのだ。青物問屋の財力が相当あった当時にあっても、毎年、山車を曳くことは負担が大きいことから、2~3年に一度の割で曳いていたそうだ。

 現在は、文化財継承の見地から、行政からのそれなりの支援があると聞くが、山車曳の運行にあたっては、人形の操り方、囃子方、曳き方などを始めとする有形・無形の人手と、準備・練習のための膨大な時間を要することから、それぞれの町内では、若手の後継者不足が切実な課題になりつつあるといわれる。

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現在の枇杷島橋から名古屋駅方面を望む



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