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維新で破却された南信州飯田城の痕跡を訪ねて その2

  ―― その2 いよいよ城の核心 本丸と山伏の丸へ

 二の丸から冠木門を通り枡形を抜けると本丸への入り口、本丸御門(一ノ門)があった。

 この通路を除き、二之丸と本丸との間には、南北に防御のための堀切があり、いまでは北部分は埋められて道路が通るが、南部分には橋が架けられ、まだ残された深さ10m、幅15mほどの巨大な堀切を見ることができる。
 
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 南の堀切
 右が二の丸、左が本丸で、巨大な堀切は段丘の下まで続いている。

● 「本丸」と柳田國男館や長姫神社

 本丸御門(一ノ門)をくぐった本丸は、北側には石垣が設けられ、周囲には白壁の塀が巡り、南と北東には物見櫓が建てられていた。ここには藩主の本丸御殿(412坪)があり、本丸の敷地のほとんどを占めていた。

 現在は長姫神社や柳田國男館、日夏耿之介記念館などが建てられている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「本丸」

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 飯田城本丸御殿と山伏丸の復元図

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 柳田國男の胸像プレートがはめ込まれた、柳田國男館の入口
 日本民俗学の創始者・官僚であった柳田国男が、1927年に東京都世田谷区成城の自宅書斎として建てた「喜談書屋」を移築したもの。

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 柳田國男館
 イングリッシュ・コッテージの木骨様式の建物の館内では、柳田の著作や民俗学資料の展示、柳田と飯田のかかわりなどを紹介している。
 平成28年国の登録有形文化財に登録された。

 柳田國男(旧姓松岡)は、明治8年、兵庫県田原村の医者の六男に生まれ、東京帝国大学法科を卒業し農商務省農務局農政課に勤務。明治34年、元飯田藩士の柳田直平(大審院判事)の柳田家の養嗣子として入籍し、柳田姓となった。明治37年に、柳田直平の四女・孝(17歳)と結婚。

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 北側には、二の丸から本丸にある長姫神社まで直線道路が整備されている。

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 長姫神社の西の鳥居

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 西鳥居の左右に立つ石灯籠のうち、右の石灯籠の台座には寄進した柳田國男の名前が彫られている。

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 石灯籠の台座に寄進した者に混じって柳田國男の名前も見える。

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 長姫神社の本殿
 「ご三霊さま」の異称をもつ長姫神社は、飯田藩主の堀氏の系譜、堀秀政、堀親良、堀親昌の歴代の霊を祭神として祀る。
 もともと山伏丸に置かれていたが、その後城内を遷座しながら、ようやく明治33年(1900年)になってこの地に社殿が建てられ鎮座した。

● 「山伏丸」と温泉ホテル 三宜亭本館

 本丸の埋門の先、段丘の最も東の先端にある曲輪が山伏丸で、坂西氏がこの地に初めて城を築く前までは山伏の修験場であったことから、この名が付いたといわれる。
 それだからか、山伏丸から段丘を少し下ったところに熊野権現が祀られていた。
 曲輪の周囲には白壁の塀が巡らされ、南西と北東の隅に櫓があり、番所や御蔵(武庫)が建っていた。

 飯田城で最も眺めがよく、遠くに伊那山脈と南アルプスを望むことができ、現在は、温泉ホテルが建っている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「山伏丸」

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 温泉ホテル 三宜亭本館
 明治の廃藩置県後に山伏丸の土地が払い下げされ、料亭・旅館が建てられた。
 平成7年になって深度1,300mからの天然温泉の出湯に成功し、現在は飯田城址の高台に建つ“天空の城 三宜亭本館”として営業している。

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 山伏丸から眺めた、北の谷川の向こうの段丘

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 山伏丸の先端から眺めた、東方段丘崖の下。

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 飯田城の中で最も眺めがよく、手前に谷川が流れ、遠くには伊那山脈と南アルプスを望むことができる。

● 飯田城址の雑感

 飯田城は南信州の政治経済の拠点として、河岸段丘の天然の堅固な要害に守られ、中世から近世まで拡張・整備されながら長きに渡って存続してきた城だった。

 しかし、現在この城域にはこれまで観てきたように、唯一残る桜丸御門(赤門)のほかには往時を偲ぶ石垣や堀・土塁といった曲輪の遺構を見ることはできない。
 
 外様小藩で江戸時代を通して財政に窮してきた飯田藩主の堀家は、小藩生き残り策の結果幕閣を出すなど幕府中枢にあって4代の将軍に仕え、譜代となったものの出費を重ねた。
 幕末動乱期には、第11代藩主 掘親義は、京都治安維持責任者の一人、京都見廻役に任じられたことで、薩・長倒幕派の恨みも買っていた。
 これが災いし藩主の無策もあってか、明治新政府下の廃藩置県の折には、城内の全ての堀の埋立てを始め、建物や立木・石垣の解体・払い下げや破却が徹底して行われ、城の遺構は消し去られた。
(この時の払い下げなどによって、市内には城内にかつてあった二の丸の御門(市内の個人宅)、家老安富家の屋敷門(経蔵寺山門)、桜丸西門(雲彩寺山門)が今に残る。)

 また、江戸期の城下町の風情を残し、南信州の小京都といわれた城下の町並みも、1947年(昭和22年)に発生した飯田大火により市街地の8割(22万6千坪)を焼失させ、焼失家屋4,011戸、被災者は17,800人に及んだといわれている。

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 ところで、飯田城には、もともと天守閣が有ったという議論がある。
 江戸初期に描かれた絵図には天守の存在は認められないから、もともと無かったというのが通説だ。
しかし、現存する古文書などから、江戸期以前の10万石を領した織豊系大名の支配の時代には、他国の例と同じく城には当然天守が建てられていたはずだとの説があり、松本藩へ転封された小笠原秀政が、松本城乾子天守の部材として運んだ(距離90km以上)という記録も残るが真偽のほどは不確かだ。
 
 近世の城郭には規模の大小は別にせよ、城の中核施設である天守閣は付き物となっており、ここは、やはり飯田城にも有ったと思いたいところだ。
 この場合、天守閣は眺望の良い先端の山伏丸の南角にあって段丘下を睥睨していたが、三の丸の拡張と城下町の整備が進められる過程で、段丘先端に向かって高度が低下する地形では、整備後の城下町から見た天守はもはや役割を終えたものとされた。
 そして天主台に使われていた石材や土砂は、本丸北部分の石垣造成に再利用し曲輪が拡張され、部材も御殿などの整備に使われたにちがいないと、勝手な推測をしてみるのも楽しい。
 (各地点の海抜:飯田駅512m、中央交差点491m、本丸482m、山伏の丸480m、崖下の水の手交差点435m)

 だから、現在の飯田城には天守閣はない。
 しかし、中央自動車道飯田ICを降りて国道153号線を東に進んだ左手に、「お菓子の里 飯田城」の天守閣が聳え立ってるのが見える。

 この建物は諏訪の高島城の天守を模したもので、中は「赤飯饅頭」などのお菓子工場と売店になっていて観光バスが必ず立ち寄る。

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 「お菓子の里 飯田城」の天守閣
 以前、さくらんぼ狩に観光バスでこの地方を訪ねたときに立ち寄った。





維新で破却された南信州飯田城の痕跡を訪ねて

  ―― その1 河岸段丘の要害に築かれた城

 南信州の飯田城のある飯田市の中心街は、天竜川の「丘の上」に広がっている。
 
 天竜川の流れに沿って伊那谷を北上してきたJR飯田線は、伊那八幡駅(標高414m)を出ると大きく左に急曲線を描きながら3つの駅で標高を稼ぎつつ、ようやく標高差100mを克服して丘の上にある飯田駅(512m)に辿りつく。

 飯田の町は、13世紀に下伊那地方の中心地として坂西(ばんざい)氏によって城が築かれたことで始まり、江戸時代には飯田藩の城下町や荷駄を運んだ三州街道(飯田街道)などの宿場町として栄え、その面影を残す町並や伝わる伝統芸能などから「南信州の小京都」とも呼ばれてきた。

 今回訪れた南信州阿智村から少し足を伸ばして、いつかはと願っていた飯田城址に行ってきた。

● 河岸丘の東端に築かれた飯田城

 飯田城は、西の山地から流れ出る天竜川の支流の松川と谷川によって刻まれた舌状の段丘崖が天然の要害となって、東へ突き出した部分に位置している。

 さらに水堀や空堀で区画された城の曲輪は、段丘の東端に向かって、三の丸、桜丸、出丸、二の丸、本丸、山伏丸と直線に並ぶ「連郭式」に配置され、中世の段丘を利用した平山城となっていた。

惣構え-そうぼり
 
 飯田城の曲輪と惣構え
 城のほか城下町一帯も含めた外周を、堀や石垣、土塁で囲い込んだ曲輪を惣構えといい、飯田城でも城下町と北の段丘に寺社を集めて石垣・惣堀で囲い込んでいた。

飯田城の最古の絵図-脇坂氏時代のコピー

 江戸時代初期の絵図(部分)
 脇坂氏(5万5千石)時代の城と城下町

 室町時代の板西氏の築城から武田家の統治時代や織田信長軍による落城を経て、豊臣家臣の毛利秀頼やその娘婿の京極高知の時代(10万石)には三の丸の拡張や城下町の整備が進み、その後一時、江戸幕府の直轄領となるが、元和3年(1617)からの脇坂氏の時代(5万5千石)に惣構えが完成したといわれている。
 寛文12年(1672)になって城主が堀氏(2万石)に替わり、幕末まで12代飯田藩を治めた。

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 「飯田城外廓開墾之図」(明治5年)と「飯田城・城下町散策マップ」

● 「三の丸」(大手門内)と銀座通り

 銀座通りの東側にあった追手御門を挟んで北・南に堀があり、その奥から、桜丸と出丸までの広い範囲が三の丸で、武家屋敷が並んでいた。(現在の追手町一丁目・主税町・常盤町・追手町二丁目の一部)

 城内の入口に建つ追手御門(大手門)を入ると石垣の枡形があった。

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 「飯田城外廓開墾之図」(明治5年)に描かれた「三の丸」

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 銀座通りの南方を望む
 左が城下町、右が三の丸

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 銀座通りの北方を望む

● 「桜の丸」と長野県飯田合同庁舎

 長野県飯田合同庁舎の建つあたりが桜の丸で、桜が好きだった脇坂安元が曲輪内に屋敷を建て多くの桜を植えたことから、桜丸と名付けられたといわれる。
 安政2年(1855年)の大地震で、本丸御殿が壊れた後は、藩主がこの屋敷で政治を執った。
 また、桜丸御殿とも呼ばれた屋敷への正面入口となった桜丸御門(赤門)は、飯田城内に唯一残る当時の施設となっている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「桜の丸」

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 桜丸御門(赤門)
 宝暦4年(1754年)に建てられたもので、飯田市有形文化財となっている。
 明治初年の廃藩置県で、飯田城取壊しの際、この赤門だけが移築されず残り、郡役所などの正門として使われた。

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 木造入母屋造、桟瓦葺、桁行4間(7.3m)、梁行3間(4.28m)。弁柄塗であることから赤門の通称がある。
 赤門は、徳川将軍家の姫が嫁いだ大名家の門だけに許される特別の門として知られるが、この赤門は、9代藩主堀親長が、将軍綱吉の側用人柳沢家から室を迎える際に許されたものといわれる。

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 入母屋造屋根で、妻飾には木連格子とかぶら懸魚が用いられ、屋根の鬼瓦には藩主堀家の家紋「向梅」が刻まれている。

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 桜の丸内側から見た桜丸御門
 門の脇には別屋根の番所が突出して付随している。また門の上部や番所の壁には、漆喰が塗られている。
 向こうに、出丸跡にある追手町小学校の校舎が見える。

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 桜丸御殿跡に建つ長野県飯田合同庁舎

● 「出丸」と追手町小学校

 三の丸の奥にあった鐘の門(出丸御門)を入口とし、弧を描く水堀(槻堀)で区画された曲輪が出丸と呼ばれる。
 本来、城の外部に張り出して設けられるのが出丸だが、ここでは奇妙なことに城内の三の丸と二の丸の間に半円形に張り出していた。
 これは、後世に城が拡張され、三の丸ができたことで、城内に取り込まれたからとすれば納得できる。
城が拡張され三の丸ができる以前には、出丸御門が追手門(城の正門)だったとされ、絵図を見ると二の丸御門(八間門)に至る複雑で堅固な枡形が設けられていた。
 
 現在はこの堀も埋め立てられ、出丸は飯田市立の追手町小学校の敷地となっている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「出丸」

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 追手町小学校のグランドに向かう橋の下には、出丸の堀の痕跡が道路として残る。

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 小学校の校舎の脇に堀の痕跡が残る。

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 明治23年(1890年)に追手町小学校の前身の飯田尋常高等小学校がここに移転した。
 現在の建物は、昭和4年(1929年)竣工の鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建の建築面積3753㎡で、登録有形文化財となっている。

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 「水の手坂」と残る石垣
 小学校の東脇にある水の手坂を南方に下ったところに、「水の手御門」と呼ばれる櫓門があった。

● 「二の丸」と飯田市立美術博物館

 三の丸から二の丸御門をくぐると石垣の枡形・虎口があり、二の丸に至る。
 ここには重臣の家老や御典医の屋敷があって、南と北の崖ぎわには櫓が2棟建っていた。

 現在は、市立美術博物館が建っている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「二の丸」

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 二の丸跡地に建つ飯田市立美術博物館
 美術博物館の塀は、当時の武家屋敷の塀を復元している。

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 武家屋敷の塀内で発掘された御用水の水路跡
 城外から引き込まれた御用水は、段丘の最奥の山伏丸まで引き込まれていた。

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 美術博物館の敷地には、当地出身の日本画家菱田春草の碑が建てられている。
 また、美術博物館では菱田春草の多くの作品を収蔵・展示している。

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 美術博物館の前庭に残る、エドヒガンサクラの一本桜「安富桜」が生えている。
 樹高20m、周囲は6mの大木で、飯田藩家老の安富氏の屋敷の庭に植えられていたとされる。

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 二の丸井戸の跡の印
 消費生活センター脇の歩道上に印されている。


 『維新で破却された南信州飯田城の痕跡を訪ねて』
 ―― その2 いよいよ城の核心 本丸と山伏の丸へ つづく

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