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〇 今日の一献 秀吉写真クラブ第5回写真展 ミニ講演会『クラッシクカメラの楽しい世界』

 ―― 豊臣秀吉の生誕の地の地元で活躍する写真クラブの写真展

 去る2018年10月17日(水)から22日(月)までの6日間にわたって、名古屋中村の地下鉄本陣駅ギャラリーで「秀吉写真クラブ」の第5回写真展が開催された。
 秀吉写真クラブは、豊臣秀吉の生誕地、尾張中村、現在の名古屋市中村区の中村公園近くにある、ローカルの小さな喫茶店の常連客の写真好きの高齢者が中心となって、近年自然発生的に始まった写真クラブだ。

 これは、その会期中の関連イベントとして開催された、ミニ講演会『クラッシクカメラの楽しい世界』の講演録である。

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● 柊サナカの文庫本 『谷中レトロカメラ店の謎日和』

 名門中学校への受験をめざして入試に向けて勉強に励んでいた小学5年生の坊やが、あるとき、たまたま模擬試験の成績が下がったことを、母親から「古いカメラ好きのおじいさんの真似をして、古カメラに遊びほうけているから、勉強がおろそかになった。」といって、ひどくしかられました。
 
 これはゲームでも同じようなもので、どこにでもありそうなお話ですね。

 ところが、それに腹を立てたのか、この坊やは、ある日、自分の部屋にある家具類を全て廊下に出して近寄れなくして、部屋の窓や壁、ドアまでも黒い布を貼って暗くした部屋に、ひとり閉じこもってしまったとしたら、引きこもりへの術を知らないおろおろする母親だけでなく、だれでも、やっぱり心配になるでしょうね。

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 ここに柊サナカという若い女性作家が書いた、「谷中レトロカメラ店の謎日和」という、レトロカメラを扱ったおもしろい短編小説集があります。(2015年9月初版出版)
 
 いまのお話はこの文庫本の中にある短編の「暗い部屋で少年はひとり」という題の物語で、東京・谷中でクラシックなレトロカメラ店を営む3代目の今宮という青年とアルバイトの女性、来夏(ライカ)を巻き込んで、いくつかのカメラの名機をめぐって次々と起こる心温まる七つの連作ミステリーのひとつです。 

 物語は、今宮の機転で少年の部屋はしばらくして黒い布がはずされ、家具も元通りに納まり、少年は引き続き受験勉強に戻るのですが、この連作の中には、今日の後半でお話しするコダック・シグネット35やベッサなど14種類のカメラが出てきます。 


● 見えたままを残したい 写真という物の歴史 ー1

 ここで少し時間をとって、写真とカメラの歴史を見ておきたいと思います。
まず初めは、「写真というモノの歴史」ですが、、、、

 そもそも写真の起源は、 「見えたままを残したい」という物の歴史のうちの「偶然の発見」から始まります。

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 物の本には、紀元前のエジプトで、家の壁に開いた小さな節穴から入ってくる光で、外の風景が暗い部屋の壁に映し出されることに気がついて、この不思議な現象が起こることを知っていたとされていますが。

 これは、「ピンホールカメラ」、つまり「針穴写真機」の原理の発見ということになります。
 皆さんの中にも小学校時代に、理科の工作でこの「針穴写真機」をお作りになったことがあるかもしれませんね。

 その後、長い空白の時代が過ぎて、15世紀ごろのヨーロッパで文芸や芸術が盛んになると、画家の中にも見えたままのものを正確に描くために「ピンホールカメラ」の原理を応用して、初めは持ち運びができる、レンズを付けたテントの部屋「暗い部屋」から、もっと便利な小さな「暗箱」を作って、紙に映し出された画像を手でトレースして輪郭を描くようになります。

 現在われわれが写真機をカメラと呼ぶのは、この装置の名が「カメラ・オプスキュラ」(ラテン語で「小さな・暗箱」)と呼ばれたことからきており、これが「カメラの歴史の始まり」ということです。

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 いま東京の上野の森美術館で展示会が開催されている、17世紀のオランダの画家で『真珠の耳飾りの少女』の絵で有名なフェルメールも、彼の生真面目な性格からか素描の下絵を遠近法で精緻に描くために、このカメラ・オプスキュラを使ったのではないかといわれています。

 先日、目医者の帰りに本屋の「ジュンク堂」によりましたら、日本人によほど人気なのか、フェルメール関連の本がたくさん出ていました。
 いま東京のほうではこの展示会の便乗講演会も盛んなようで、その講演会の中で、「実はフェルメールは、当時この「カメラ・オプスキュラ」の研究をしていた人の近くに住んでいて、その人の研究ノートのデッサンを書いていたという話があって、それでは使っていたことは多分間違いないだろう。」とのことを昨日知らせてくれた方がありました。
 東京の展覧会の後、フェルメール展は、残念ながら名古屋を飛ばして、次は大阪で開かれるようですが、、、。

 ところで、、、、先ほど「母親にしかられて、ひとり暗い部屋に閉じこもった少年」のお話をしておきながら、そのままにして、たしかその理由、種明かしをまだしていませんでしたね。

 しかし、もう皆さんお分かりのように、この「古いカメラを収集していたおじいさんの影響を受けて、古カメラを趣味」にしている少年は、自分の部屋の窓や壁、ドアまで黒い布を貼って、光の入らない「暗くした部屋」を作って、外の風景が壁にどんな風に映し出されるかどうか、「カメラ・オプスキュラ」の実験をしたということです。

 だから、この実験が成功して原理を確かめた後は、どうしたらよいのかはらはら心配していた母親を尻目に、この探究心の強い少年は自分で部屋を元通りにして、何事もなくまたもとの受験勉強に戻って、めでたしめでたしというお話の結末となっています。 

 実はわたしも、いまお話をしているこの部屋で、スクリーンの後ろにある窓と後ろの壁を使って「カメラ・オプスキュラ」の実験をしてみようかと考えてみましたが、室内を真っ黒にしても、ギャラリーの外の改札口辺りの明るさがいまいちですから、結果はあまり期待できないものになると今回は断念しました。
 

● 見えたままを残したい 写真という物の歴史 ー2
 
 アスファルトは、道路の簡易舗装に使われている黒い色の舗装材で、冷えると硬く固まることを、皆さんよくご存知だと思います。

 1826年、19世紀になると、フランス人のニセフォール・ニエブスという人が、アスファルトが光に当たらない冷えた部分から硬化するという性質を使って、8時間かけて風景の撮影に成功します。
 しかし、8時間というのは、やっぱり長いですね。

 この成功を知ると、ヨーロッパではもっと短かい時間で光に反応する優れた化学物質、つまり感光材を探し出すことと、あわせて使い方の研究・開発が活発になります。いわゆるこれが「写真フィルムの歴史の始まり」となります。

 こうして銀メッキ銅版にヨウ素蒸気を当てて撮影し、水銀蒸気で現像する露光時間が20~30分の「ダゲレオ式銀板写真」(1839年)や、昨年この場でお話した、尾張の幕末の殿様、徳川慶勝が撮影に使った湿板(コロジオン湿板)法が完成(1851年)し、露光時間が数秒から2分程度へ短縮するなど、次々と技術が進んでいきます。

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 丁度この頃、ヨーロッパでは、産業革命で中産階級の金持ちが増えると、それまで王侯貴族だけが画家に描かせていた一点モノの高価な肖像画や風景画から、安くてより正確・忠実に写り記録できる写真が大流行し、イギリス・フランスでは木製蛇腹式カメラの製造が盛んになるとともに、高性能レンズの開発も進み、街には写真館が増えました。

 日本でも、幕末から維新にかけて写真の技術が輸入されると、新物好きな坂本竜馬が写真館で自分の肖像を撮ってもらったものなどが数多く残っていることは、ご存知のとおりです。

 1871年になって、ガラス板に臭化銀をゼラチンに混ぜた感光乳化材をネガにしたゼラチン乾板、『乾板法』が完成されると、この方法は、感度が高く、露光時間がさらに短くなることで動くものが撮れるようになり、次いでこの原理から携帯・保存ができるロールフィルムが開発され、工場での大量生産が可能となって、安価で機能性が飛躍的に進んでいきます。

 また正確・忠実に写り記録できる写真は、戦争の時には偵察用あるいは戦果確認のための重要な兵器の一つとなっていきます。
 おもしろい話ですが、第一次世界大戦には、伝書鳩にカメラを付けてゼンマイ仕立てのタイマーで、敵方の陣地を空から撮影することも行われました。「鳩カメラ」ですね。
 放たれた鳩が勝手に飛ぶわけですから、目標となった敵陣が写っていたかは定かではありませんが、、、、。


● カメラの開発経過の概念図「職人の技から精密光学機器へ そして電子製品に」

 いままで写真というものの歴史について、お話をしてきましたが、ここではその写真を撮る道具、カメラの開発経過をお話したいと思います。

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 ラテン語の「小さな・暗箱」である「カメラ・オプスキュラ」からカメラと呼ばれるようになった写真機は、19世紀中ごろから先ほどお話した湿板(コロジオン湿板)法や『乾板法』といった写真技術の先進国だったイギリスやフランスで、「家具職人の技術」で木製の蛇腹式の大型乾板カメラが盛んに作られました。

 1889年(明治22年)に、アメリカのイーストマン・コダックがセルロイドに感光材のゼラチンを塗った、格段に安い「ロールフィルム」を発売すると、それまで撮影すると割れやすいガラス乾板を一枚ずつ交換していた大型カメラは急速に小型化が進み、蛇腹の折り畳み携帯カメラが主流となって、家族写真や旅行・山岳写真とかスポーツ写真などが紳士や淑女のたしなみ・趣味として、盛んに写真が撮られるようになります。

 これはブロニー判ロールフィルムを使う蛇腹カメラの時代で「写真・カメラの一般大衆化の始まり」といってよいでしょう。
 このロールフィルムを発売したコダック社は、その後フィルム製造では世界の巨人へと発展し、フィルムの販売のためにカメラを製造するまでになって行きます。

 そのうちドイツが科学技術や精密工業で台頭してくると、カール・ツアイスやフォクトレンダーの優秀な高性能レンズや金属製蛇腹式カメラなどの精密光学機器が開発・製造されるようになって、ドイツはロールフィルムの「蛇腹式折り畳みカメラの先進国」となりました。

 第一次世界大戦で負けて莫大な賠償金を払うことになったドイツでは、ツァイスの製造した高級カメラを賠償金の代わりの一部にしたほどでした。

 一方、「工業化が遅れていた日本」では、当時の工業先進国のドイツの工業技術を追いかける立場で、カメラの分野ではドイツのレンズを輸入して、模倣したカメラに付けて国内で販売していました。
 たとえば、日本の老舗である小西六の初期の蛇腹カメラ「リリー」などは、輸入したテッサーレンズを付けています。

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 1925年、大正14年は、今年93歳になったわたしの母が生まれた年ですが、この年ドイツ人のカメラ技師オスカー・バルナックが、35mmの映画用フィルムを短く切ってそれを入れて撮影できる35mm金属製小型カメラを発明し、ライツ社から「ライカA型」が発売されると、カメラの小型化が一気に進みます。

 それまでのカメラは、手札判とか大名刺判といった大きさの現像されたフィルムを印画紙に密着して、同じ大きさのプリントが作られていましたが、ライカは撮影後にフィルムを暗室で現像してから引伸ばし器を使って拡大プリントするという、現在の写真システムを確立したことになります。
 バルナックは、彼の奥さんより背が低い小男でしたから、これまで使っていたカメラは大きすぎて、いつも持ち運びに苦労していたようで、それできっとこの小型化のアイデアを思いついたに違いありません。

 金属の筒を楕円形に押して成形したボデイーは、小さいけれどわたし達の手によく馴染む大きさで、発売以来レンズの優秀さとその操作感の精密さ、高性能で、人々に受け入れられ大人気となりました。

 このライカの成功で、ドイツ光学メーカーの巨人、ツァイスでは、会社の名誉・威信をかけてコンタックスを発売するなど、35mmカメラの開発競争が起こり、以後「35mm小型カメラの時代」へと移っていきます。

 余談ですが、36枚撮りのフィルムの長さを決めたのは、小男のバルナックが現像処理するときに、フィルムの両端を持って両腕を広げたときの長さだったともいわれています。

 このころ、ドイツではフランケ&ハイデッケ社が、ピントレンズと撮影レンズの二つを縦に並べたちょっと変わった二眼レフカメラ、ローライコードやローライフレックスを開発(1929年)します。このカメラは、その後も高性能な高級カメラとして様々なタイプに発展し、その信頼性の高さから報道プロ用カメラとして使われるようになって、息の長いシリーズとして続いていくことになります。

 第2次世界大戦が始まって、ドイツからの高性能カメラの輸入が途絶えると、イギリスのリード、アメリカのカードンといったライカの性能を上回ろうとする軍用カメラの研究・開発が軍によって開始されますが、それが完成したのは戦争が終わってからでした。

 日本でも機械歯車の塊のような複雑なコンタックスではなく、基本設計が優れているライカの模倣カメラの製造(後のニッカカメラ)に精を出すのですが、その性能はいまいちで、そんな中、戦時中にドイツの潜水艦Uボートが南アフリカの喜望峰を回って、同盟国の日本に運んだドイツの最新兵器の設計図などに混じって、軍用のライカカメラが積み込まれていたことは有名なお話です。

 第2次世界大戦でドイツが負けると、ドイツカメラの特許がはずされ、世界のどこでもドイツカメラの特許技術を使うことが可能になると、戦後復興中の日本では、朝鮮戦争の景気回復も手伝って、この後お話しする空前の二眼レフカメラのブームが始まり、家内製造の安いカメラメーカーが乱立することになります。

 また、35mm小型カメラでは、ニコンやキャノンなどがレンズ交換ができる高級機のライカの模倣・コピーカメラやレンズ交換ができない低価格のレンジフアインダーカメラの製造を開始します。

 そんな中、1967年に本家ドイツで「究極の超精密な35mmカメラ」、ライカM3が発売されると、いままで模倣・追従してきた日本のカメラメーカーは、とてもその技術を真似できないという大きな衝撃を受けます。

 一時はこのショックに立ち止まったものの、日本のカメラメーカーは方針の転換を図ろうとします。
 これが、フアインダーから見えたままを写すことができる、ペンタプリズムを備えた一眼レフカメラの開発でした。

 1959年にニコンが一眼レフカメラ、ニコンFを発売すると、その堅牢な金属ボデイとレンズの優秀さで世界のプロカメラマンたちの高評価を得て、いままで「安かろう、悪かろう」という日本のカメラに対する悪いイメージが払拭され、日本のカメラが世界で独壇場の地位を確立していくことになります。
 1964年に開催された東京オリンピックで、世界の報道カメラマンたちが使っていたカメラのほとんどが、このニコンFだったとのことです。

 ここまでのカメラがフィルムを使うマニュアルカメラで、その後はボデイも金属製から強化プラスチックで軽量化し、自動焦点、自動露出機能を備えた自動カメラへと進化してしていきます。

 1995年(平成7年)は、カメラ業界にとっては特別の年となりました。
 この年、日本のカシオが、デジタルカメラ「CASIO QV-10」を6万5,000円で発売します。

 ご存知のとおり、デジタルカメラは、フィルムに相当する面に光を感じる素子、撮像素子(CCDやCMOSなどのセンサー)を何十万個も並べて、受け取った光の情報を電気信号に変えて記録したものが画像となるもので、従来の感光材を塗ったフィルムというものを使わない、アナログの世界とはまったく概念の違うものです。

 カシオのQV-10は、撮像素子を25万画素備えた小型・軽量のコンパクトカメラで、世界初のカラー液晶モニターを搭載した一般向けデジタルカメラとして、低価格と優れた携帯性・操作性によりデジタルカメラ普及のきっかけとなり、「デジタルカメラ時代」が始まります。

 実は、このカシオのQV-10が発売される20年も前(1975年)に、「フィルムの巨人・コダック」がデジタルカメラを発明していたのです。 しかし、当時は画像を電気信号に変えて記録処理するためのコンピュータは、まだまだ一般には普及しておらず、またフィルムを使わないデジタルカメラではフィルムが売れなくなることを怖れてか、コダックはこの技術を発展させることはありませんでした。
 その結果、デジタルカメラが主流になると、フィルムが売れなくなって倒産するという、皮肉な結果となってしまいました。

 2002年(平成14年)には、とうとうデジタルカメラの出荷台数は2億4千万台を越えてフィルムカメラの出荷台数を上回り、「デジタルカメラの時代」となった現在も、日本が世界に先駆けてデジタルカメラを発売したこともあって、先行した日本のデジタルカメラが世界をリードしていることは、もう皆さんのご存知のとおりです。

 ここまでお話をしてきて、わたしのイメージでは、古典的な「クラシックカメラ」とは、乾板やブローニー判など大・中判のフィルムを使う蛇腹式折りたたみカメラ、古めかしい「レトロカメラ」とは、ボデイが金属製のマニュアル(非自動)のフィルムカメラとなるのかなと勝手に考えています。


● クラシックカメラの魅力 その長短をデジタルと比べて

 それではここで、クラシックカメラとデジタルカメラの長所・短所を比べながらクラシックなフィルムカメラの魅力を探ってみましょう。

 まず比較しやすいように、いつもわたしが携帯してスナップなどで便利に使っているデジタル小型カメラ『PanasonicのTZ―30』と、時にはゆったりとした気分で出かけて撮影したいときに持ち出すお気に入りの、ドイツコダックが60年以上前に製造したフイルムカメラの小型カメラ『レチナⅡa』で見ていきたいと思います。

000-写真展講演 03クラシックカメラの魅力

 まず項目の、「操作性・仕様」では、クラシックカメラのレチナⅡaでは、操作の全てがマニュアルですが、デジタルカメラでは全て自動操作の電子カメラですから、操作性が簡便で迅速・連続撮影できます。
 また軽合金で電子基盤を使ったデジタルカメラの方が軽くて小さいから、軽量・コンパクトで携帯性に優れているといえるでしょう。デジタルカメラには20倍ズームレンズがついていますから、いくら、かつては優秀といわれたテッサータイプのクセノンレンズが付いているといっても、レチナⅡaは単焦点レンズですから、デジタルの方が、撮影用途が万能で、広い場面で使えます。

 次に「経済性(ランニングコスト)」では、レチナⅡaはフィルムカメラですから、当然、撮影するごとにフィルムを買って交換しなければなりませんし、現像代もかかりますから、けっこうお金がかかるし、面倒です。
 おまけにデジタルが大勢を占めた現在、今後のフィルム会社の生産中止の不安もあって、今後のフィルムの供給も心配です。
 これに比べると、デジタル時代のいまのカメラは、SDカードを一度買って入れておけば、いちいちフィルムを買うことも、現像代のコストもかかりませんし、交換の煩わしさもありません。

 ここまでは、断然、新しいデジタルカメラのほうがやはり勝っていることばかりですね

 ところが、少し写真やカメラについて慣れて、撮り始めると、便利で手軽だったデジタルカメラの限界や機能に、それが何かはわからないままに不満を感じるようになります。

 比較するものもなく、こんなものだろうと思えばそれまでですが、デジタルカメラの画像の描写が平板に感じられます。このデジタルカメラは、受光板に並べた1,410万画素の電子MOSセンサーで感じた光で記録されていますが、最大限に画像を拡大していくと、規則的に並んだ四角い色の集合となっていることが判ります。

 これに比べてフィルムは銀塩の粒子の集まりで、その粒子に様々な色が含まれていますから、拡大していくと画像はあいまいな輪郭となって見えてきますが、しかし人の目の補完作用によってこちらのほうがなにが写っているのかがより判りやすいのです。
 このことから、フィルムで撮った画像はなぜかしら写っているものが、より見たままの立体感を覚えることになるようです。

 最後に「耐久性」ですが、この10年ほどのうちに、いままで液晶がある日突然見えなくなったり、ダイヤルやスイッチなどの不具合で、どうせ高い修理代を払うならと買い換えた結果、わたしが現在使っているデジタルカメラのTZ30は4台目です。

 いまやカメラは、数か月ごとに次々と新製品が出てきて古い機種が陳腐化する電子製品となり、故障した時の修理は基盤をそっくり変えることになり、その保存も10年未満ですから、よほど高額カメラでもない限り、修理するより新品の購入のほうを勧められるがことが多く、出費がかさむようになりました。
 これでは、持っているカメラに対する愛着が湧くはずもありません。

 それに、ある日引き出しの中にSDカードが見つかっても、そのままではわからないからコンピュータを立ち上げて中身を確認しないと、画像が残っているのかどうかもわかりません。

 そもそも急激に進歩するAIシステムの変化・革新で、今の画像記録媒体や保存・呼び出しシステムが将来にわたって継続するのかも不安です。
 むかし使っていたNECやDOSのコンピュータが、Windowsに変わり、また、引き出しからフロッピーデスクが出てきても、もうなにが書いてあるのかわからないままに、捨てざるを得ないことを経験された方も多いのではないかと思います。

 それに比べれば、フイルムカメラのレチナⅡaは、発売からすでに①60年がたったものですが、少しの不便を我慢すれば今でも立派に撮影に使えますし、②120年以上前のガラス板やフィルムでも、なにが写っているのか直接見ることができ、またそれを基に新しいプリントを作ることもできます。

 それにいまも③機械カメラの修理業者が健在ですから、手元にある一台は、故障しても買替えする必要もなく、修理してもらえる。そんな安心できるところが、まだまだ使えるクラシックなフィルムカメラの魅力であり、楽しみ方になるのではないかとわたしは思っています。

 これまで長々と写真やカメラの歴史の堅いお話をしてきましたが、これからわたしが持っているいくつかのクラシックカメラの中から、それにまつわる物語といいますか、肩のこらないおもしろ話を少し聞いていただきたいと思います。


● クラシックカメラの物語 カメラのおもしろ話
  1 競い合ったドイツ2大巨頭


 「さて、お立ち会い。手前、ここに取り出(いだ)したるは、陣中膏(じんちゅうこう)、ガマの油」の「ガマの油売り」ではありませんが、、、、

 ここにとり出しましたのは、当時のカメラの先進国、ドイツ精密光学機械メーカーの2大巨頭、ツアイス・イコン社が開発した1934年発売の「スーパーイコンタ(Ⅰ型)」とフォクトレンダー社の1936年発売の「スーパーベッサ」で、両方ともテッサーレンズなど先鋭な描写をする有名なレンズが付いています。

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 ここにはスーパーイコンタ(Ⅰ型)で撮った、鶴舞公園の奏楽堂を写した画像を載せていますが、大判フィルムのテッサーレンズは、70年以上経って今も立派に機能しています。

 また両方とも、当時主流だったブローニーフイルムの6×9判(cm)の画像が撮影できる、折りたたんでコンパクトになる蛇腹式カメラで、頭にスーパーの名前がついているのは、当時のカメラは距離計がなくて目測で距離を測ってピントを合わせるのが普通で、連動式の距離計が付いているのは高級機だったからです。

 スーパーベッサの距離計は、フアインダーを覗きながら調節ダイヤルを回すと、ロッドで連結したレンズの載ったベッド全体が前後して焦点を結ぶ方式で、この後も多くのカメラに使われました。

 一方、ツアイスのスーパーイコンタは、レンズのピントを合わせるときには、こうして格納されているこの距離レンズ付きの腕を立ててから、フアインダーを覗きながら調節ダイヤルを回すと、距離計の2枚に合わさった楔形の対物レンズ(プリズム機構)がそれぞれ反対に回転する事で焦点調節し、それに合わせて撮影レンズの前面レンズだけが回転しながら前後して焦点を結んでいます。

 さて、この姿、改めてつくづく見直すと、何かに似てはいませんか。
 日本では、カメラ好きの間では、この腕を立てたところが日本の愛くるしい動物の置物「招き猫」の腕に見えることから、このカメラ、「招き猫」の愛称が付いています。

 しかし、これがツアイスが開発した自慢の「ドレイカイル方式」の焦点調節方式で、コンパクトに折りたたんだカメラを引き出すこのタイプのカメラは、レンジフアインダーとレンズの連結機構の工作はかなり難しいのですが、連結部分がないこの方式であれば、連結の狂いが起こることがない堅牢な優れた方式になっています。

 たまには、わたしもカメラを分解整備することがあるのですが、この「招き猫」の腕、ドレイカイルレンズを手にとってその動きを覗いて見ると、まあこんな巧妙なことを、よく考えたものだと驚かされます。

 ツアイスは、よほどこの方式が気に入ったと見られ、蛇腹式小型カメラやコンタックスなどにも使っています。もっとも、使おうとしてもこの方式の距離計は、当時の特許で保護されていたので、ツアイスのカメラしか使えませんでした。

 性能はほぼ互角ですが、両方とも、こうして折りたたんで見てみますと、スーパーイコンタのボデイは角ばっていて男性的に見えますが、スーパーベッサの方は、手になじむ丸みのある曲線のボデイで、なにやら女性的で、わたしはどちらかといえば、こちらのほうが好きです、、、、。


 2 戦後の二眼レフブーム AからZまであった国産二眼レフ

 次に、二つもレンズを付けた、二眼レフカメラと呼ばれるカメラについてお話しましょう。

 ここに2台の国産二眼レフカメラを出しました。
 先ほどお話しましたように、二眼レフカメラの本家はドイツのローライカメラで、上のレンズは画像範囲の確認と焦点調節用、下のレンズはシャッターや絞りが付いた撮影用と役割分担しています。

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 戦後の復興期の一時期、朝鮮戦争の好況となると、ブローニータイプのロールフィルムで撮って6×6cmの比較的大きなプリントが得られる二眼レフカメラは、引き伸ばしのコストもかからない経済性から国産の二眼レフの大ブームとなりますが、その元となったのは、ほとんどこのローライカメラの模倣カメラでした。

 二つのレンズをそろえれば、機構はごく簡単なカメラですから、工作も簡単で、その頃にはブームに乗って家内生産する弱小メーカーが雨後の竹の子のように発生し、数多くの様々な名前の二眼レフが発売されていましたが、あまりの多さに、その名前を後で調べたら、アルファベットのAからZまであったといわれています。
 しかし、中には家内工業製品で品質の悪いものも多く、それを揶揄して「4畳半カメラ」とも呼ばれたものでした。

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 この表は、2006年に刊行された「写真工業8月号」の別冊『魅力再発見・二眼レフ』に載っていた表ですが、スクリーンからは小さくて見難いので、お手元に配布した資料をあわせてご覧ください。

 表で見ると、Aで始まる名前のACCURA(アクラフレックス)から最後のZで始まるZENOBIA(ゼノビアフレックス)まで並んでいます。途中、J、U、Xで始まる頭文字の名前のものがまだ見つかっていませんが、数えてみると確かに当時120種類もの二眼レフがあったようです。

 この表にあるAの最初となるべき初めのACCURA(アクラフレックス)や次のAMI(アミフレックス)は、希少品と見えてなかなか見つかるものではないようで断念し、割りと入手し易かった3番目のAIRES Frex(アイレスフレックス)を(仮の)最初のカメラだとして、「その上、五十音順では正しく最初になるはずだ。」と言い張りながらここに挙げております。
 そしてその右には、まさしく最後のZで始まるZENOBIAを挙げています。

 さて、左上の画像の2台の二眼レフは、いまお話したアイレスフレックス Z型という1951年9月に発売された割と質のよい同タイプのカメラで、一見するだけではわからないのですが、2台は別々の会社のレンズが付いており、左のオリンパスのズイコーレンズ付きが当時33,000円、右のニッコールレンズ付きは42,000円と9千円も値段が高かったものです。

 なぜレンズの違いで値段がそんなに違うかというと、日本工学のニッコール(Q.C. 75mmF3.5)レンズは、この頃には『世界に誇るレンズ界の王者』として定評があって、その人気ブランドがこの値段に反映されていたようです。なお、ズイコーレンズもニッコール.レンズも、75mmF3.5のテッサータイプの(3群)4枚構成になっています。

 アイレスフレックスの下の画像は、ズイコーレンズで撮った名古屋市科学館の球形のプラネタリウムの写真ですが、当時はこれも定評があったレンズです。
 ズイコーレンズ付きのアイレスフレックス Z型は、展示室入口のガラスケースに展示しておきましたので、お帰りに見ていただけます。

 結局、ニコンは自社では二眼レフを造ることはありませんでしたが、唯一アイレスにはレンズ供給したことから、ニコンレンズがついているカメラとして、その希少性からいまでもニコン付きは、中古市場では高い値段で取引されています。

 わたしはこのニコンレンズ付きアイレスフレックスを、インターネットのオークションで格安に手に入れました。
 もとの所有者が載せていた写真には、汚れがひどく、貼ってある皮も破れて、レンズの名称も不鮮明でホコリまみれのカメラが写っており、そのためか誰も入札する者はありませんでしたが、わたしはこの画像を拡大して見て、きっとニッコールレンズだと確信できたので、救出することができました。

 落札後に送られてきたカメラは、やはり見るも無残な状態でしたが、少し分解整備して皮も張り替えたら、このようにそれなりに見られるようになりました。

 また、こっちのカメラが、名前が最後のZで始まるゼノビアフレックスで、「第一光学」という小さな会社の製品ですが、割と丁寧なつくりで、機能的には申し分のないカメラです。

 これは大須の台湾ラーメンで有名な「味仙」の店内で撮った写真ですが、このカメラに付いている「ネオ・ヘスパー」レンズもテッサータイプで、アイレスに負けない良い写りをしています。


 3 ミッキーマウスと呼ばれるカメラ

 三つ目のお話として、ここでめずらしいアメリカ製の35mm小型カメラ、シグネット35についてお話してみたいと思います。

 大体において、カメラの世界では、当時の先進国ドイツかあるいは遅れ馳せながら世界を席巻した日本のカメラが有名です。
しかし、世界のフイルムメーカーの巨人、アメリカのコダックが、フィルムの販売促進を目的に、1951年(昭和26年)に米国内で95ドルの廉価で売り出したシグネット35は、全身アルミダイキャスト製で510gと少し重いのですが、その分、堅ろうで、取り扱いも簡単でしたから、アメリカ軍の軍用カメラとしても使われました。
 ところが安いからといっても、このカメラについている44mm f3.5のテッサー型エクターレンズの先鋭な描写から、当時から人気の高かったカメラです。

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 わたしが仕事の現役の頃、あるとき出張で出かけた地方都市の駅前で、わたしの首から下げていたこのカメラを認めて、若い美しい女性が通りすがりに「まあ、かわいい。」と言ってくれましたが、「可愛い」と言われたおじさんは、その時、ただ、ただ、戸惑うばかりでしたが、今ではこのカメラはレトロカメラ好きの、特に女性の間では人気のカメラであるということです。

 それでは、どこが可愛いのでしょうか。
 この小さなボデイのカメラの上には、同じ大きさの大きな丸いフィルムの、巻上げダイヤルと巻き戻しダイヤルが左右についていて、前面には距離計の二つの窓が、これも左右対称についています。
 そしてその下に、小ぶりな撮影レンズが突き出しています。

 そうすると、このシルエット、もうみなさん、お分かりですよね。
 そうです。「ミキーマウス」です。

 アメリカ製のカメラだからといって、コダックの設計者はディズニーの人気者「ミキーマウス」を意識して設計したとは思いませんが、このカメラを見てそれを連想できる、女性の感性というのは鋭いものがあるということでしょうか。

 改めてこうして近づけてみると、本当に似ていて、よくも「ミキーマウス」と言ったものだと感心します。

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 ところで、一般に普通のレンズには、製造番号がレンズの淵に書かれているだけで、製造年まではわかりません。しかし、このシグネット35のエクターレンズには、製造年が隠されています。

 この画像は、いま見たこのカメラのエクターレンズの画像ですが、レンズ周りに「RE16219」と書かれているのがご覧いただけるでしょうか。
 この「RE」のアルファベットがミソで、コダック独自のレンズの製造年を示すシリアルナンバーとなっています。

00Kodak Signet 35 010

 この図に見るように、「CAMEROSITY」のアルファベットを1から0の数字に当てはめた下二桁が製造年としていることから、このレンズの表示は、「RE」ですから「54」となり、1954年に製造されたエクターレンズだということになるわけです。

 初めの方でお話しました、柊サナカの「谷中レトロカメラ店の謎日和」にも、『開かずの箱の暗号』という短編で、このコダックレンズの製造年を示すシリアルナンバー表を使ったトリックのお話が出てきますから、興味を持たれた方はぜひお読みいただければと思います。


● 近年ブームの「カメラ女子」

 若い女性に、可愛いといわせる「ミキーマウス」カメラのお話をしましたついでですが、、、

 以前、明治村に撮影に出かけたとき、若い女性がフィルムのバルナック・ライカで撮影しているのに出くわしました。
 その姿があまりにも堂に入っていたので、思わずシャッターを押しました。

00-ライカ女子P1080626

 近年、『写ガール』という女性向写真誌も出ているようで、若い女性の中では、クラシックなレトロカメラを何気なく首にかけて出かけて撮影する、「カメラ女子」がブームになっているようです。

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 漫画「京都女学院物語」、「東京シャッターガール」、「彼女とカメラと彼女の季節」

 また最近では、こうしたレトロカメラを扱った、若い女性向けの漫画も多く出ています。

 しかし、もうフィルムで撮影しても、現像やプリント、いわゆるDPEをしてもらうところがないのではと、心配される方もあるかもしれませんね。

 名古屋駅の地下街「メイチカ」には、名古屋のDPEの老舗、ダイヤモンドカメラのDPE店「Chou-Choute (シュシュ)」があって、ここでは女性スタッフだけで店を切り盛りしています。
 撮影したフィルムの現像を頼んでおいて、となりの喫茶店「コンパル」で、新聞でも広げてコーヒーを飲みながら30分も待てば仕上げてくれますから、まだまだ安心です。

00-20181001 校正後の互換 写真展の小出資料-012

 ダイヤモンドカメラDPE「Chou-Choute (シュシュ)」


● むすび クラシックカメラとは ~

 いろいろお話をしてきましたが、この辺りでまとめに入っていきたいと思います。

 わたしは小さい頃から目覚まし時計を分解して組み立てたりするなど機械いじりが好きで、中学の修学旅行に親にせがんで中古の二眼レフカメラを買ってもらったときから、フィルムの機械カメラを使ってきました。

 「レンズをつけた暗箱に、感光フィルムを装着した」という、そんなカメラの単純な基本を押さえておいて、機械仕掛けのより使いやすく、よりよい写真を撮影できるようにしようとする、機械カメラの設計技術者たちが、情熱を注いで、様々な工夫をしながら長い時間をかけて開発してきた、クラシックなレトロカメラにいまも強い関心を持ち続けています。

 こんなわたしが、わたしなりに考えるクラシックカメラとは、、、、

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 1 わたしの年齢の70歳以上を経たロートルなカメラでも、当時の開発設計者が込めた情熱や工夫で、いまも元気で立派に活躍できる現役のカメラです。

 2 いまやデジタル、スマホカメラの時代で、写真は自動化されて手軽に簡単に「写せる、写るのが当たり前」となってしまいました。それは便利でとても良いことなのですが、しかし、あまりにもそうであるがために、なにかしら物足りない、達成感の感じられない、はっきりとはしない不満が残ることがあります。
 一方、フィルムカメラの場合は、カメラに残っているフィルム残量とコストを気にかけながら、一コマ一コマを、チャンスを覗いながら撮影し、後に現像に出してから出来上がるまで、うまく写っているかどうか気を揉みながら待つ時間の後、出来上がった画像の中からうまく写った画像を見つけ出したときの喜びは、その人にとっては何物にも代えがたい達成感のうちに、貴重な記録や思い入れのある一枚になるのではないかと思っています。

 3 これもデジタル、スマホカメラの自動化された便利さに比べれば、フィルムカメラは、露出やシャッター速度、ピント調節などのマニュアルの一連の手順、いわば撮影作法が必要となります。それらは、言い過ぎかもしれませんが、あたかも伝統文化の茶道などのお手前にも似た「物を使うことをいやでも実感できる。」カメラとも言うべきかもしれません。

 4 かつて日本では、長屋の一軒を建てる値段が500円した頃に、高級輸入カメラは800円もした時代があったそうです。
 時代が変わったいまでは、使う人が減ったからでしょう。当時の高級カメラは、わたし達の手の届くような、ずいぶん安い値段で手に入るようになっています。

 先日、「のりたけの杜」で出会った、上海出身の両親を持つ名古屋に住む高校生は、インターネットでいまも東欧からわずかながら手に入る真空管などを使って、自分でオーデオのアンプを設計するという電気にめっぽう強い若者でしたが、彼の首から下げていたのは、35mmフィルムカメラ、1956年発売で底部トリガー巻き上げのキャノンのVT型でしたが、わたしの目からは、その姿がとてもカッコウ良く、頼もしく見えたことでした。

 最後に、「あなたもこれを機会に、時にはゆったりとした気分で出かけて撮影したいときに持ち出す、お気に入りの一台を手に入れて、この奥深いクラカメの世界を楽しんでみませんか。」と申し上げたいと思います。


(了)

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