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〇 今日の一献 一念発起の『花のクッキー売り娘 レジェンド』名古屋ゆかり組の公演を観てきた

―― 中高年の素人ミュージカル劇団は 名古屋の都市伝説になれるか

 昨夜(2018/9/15)大阪を拠点に活躍する劇作家・演出家の秋山シュン太郎が率いるシニアミュージカル劇団『発起塾』の名古屋ゆかり組の『花のクッキー売り娘 レジェンド』が、名古屋の熱田文化小劇場で開催され、パートナーと共に出かけてきた。

 この公演は、いままで演劇経験のない50歳以上の素人を対象に募集し、一年間をかけてレッスンしてきた劇団の成果を問うもので、パートナーの親しい友人が参加していることから楽しみに期待していた。

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 この作品は秋山氏のオリジナル作で、数十年の歴史を持つ劇場のかつては華やで憧れの的だった「花のクッキー売り娘」も、いまでは50歳台後半の身となって、経営不振の続く会社からのリストラの怖れにもめげず、過去の栄光を隠してきたレジェンドのOGの援けとともに、健気にも新しい境地を拓いていくというストーリー。
 中高年が持つ特有・独特の可笑しさや悲哀などを、余すところなく描いて、われわれ同年代の共感を呼ぶユーモラスな作品に仕上がっている。

 公演が始まってから、最初のうちはハラハラする部分もあって、これは何だと思ったが、ストーリーが進むうちにようやく引き込まれ、そのうち舞台に立つ出演者と己の年齢を重ね合わせたからだろうか、思わず目頭が熱くなる場面もあった。

 最後は、劇中劇の中で歌と踊りの舞台と観客との共演もあって、場内全体がヒートアップの最高潮のうちにハッピーエンドで大団円を迎えた。

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 公演が終わって、観客や出演者のまだ熱が覚めやらぬ劇場ロビー

 出演者全体に台詞のやりとりの間(ま)の悪さが目立ったものの、その中で長台詞を無難にこなしたレジェンドの主人公役や、特に(多分)最高齢の女性記者役の枯れた雰囲気と、そこから醸し出されるモノローグの味が光った。

 この公演は、はかなくも、この日一夜だけ。 名古屋の都市伝説(レジェンド)になっただろうか、、、、。

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 シニアミュージカル劇団『発起塾』の名古屋ゆかり組は、名古屋出身の演劇俳優 天野鎮雄氏の提案により、名古屋市中村区にあるかつての水道の「稲葉地配水塔」を活用した「演劇練習館 アクテノン」で、公演に向けて一年間の練習を積んでいる。

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  東海地方の方で、ご関心の向きは、以下の連絡先へ。
  きっと貴方も、いままで気がつかなかったご自分の深層にあった、新たな才能を発見されるかも、、、。

  『シニアミュージカル 発起塾』 0120-86-2615


〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その3

〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その2
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓  からの続き
 http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-479.html


―― 御深井丸の西北隅櫓は幻の西小天守の代わりだった?

 それでは、今まで見てきた本丸にある西南隅櫓、東南隅櫓、(北東隅櫓―戦失)は、巨大で3階といっても二重の櫓であるのに対して、なぜ本丸に位置しないのにもかかわらず、御深井丸(おふけのまる)の西北隅櫓は三重3階の小規模な城の天守とさえ見紛うばかりの華麗な特別の櫓として建設されたのだろうか。

 江戸時代には、西北隅櫓は清洲城の天主あるいは櫓を移築したものとされ、「清洲櫓」とも呼ばれてきたが、「その2 名古屋城の名古屋城の西北隅櫓」でみたように、近年それはなかったことが確認されている。

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● 西への備えとして築かれた名古屋城

 名古屋城の築城は、1903年(慶長8年)に家康が江戸に幕府を開いたものの、いまだ健在であった大坂の豊臣氏や臣従が疑われる外様の西国大名などへの西の備えとして計画するとともに、要請されたが当然豊臣氏は従わなかったものの、外様の西国大名の財力を削ぐための天下普請で建設された城だ。

 このため必然的に、西方を睨むことを意識して設計されているとみられ、天守も入母屋造の屋根の平を西方に向け、天主上に輝く雌雄の金鯱を左右に載せた据え方となっている。

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 その天守の北西に位置する御深井丸は、本丸の前衛を担うべき重要な馬出しの曲輪であり、弓矢倉を築き、当初は武器や食料の庫や攻撃・防御の施設などとなる多聞櫓を、曲輪の外側の全ての石垣上に建設する計画だったようだ。


● 軟弱地盤で幻となった西小天守

 そもそも、家康がゾウの顔が西を向いた形で南北に連なる、この名古屋台地の最北端(ゾウの頭の先端)に城を築くことを決めたのは、高さ10mの台地の崖の北と西には泥湿地が広がり大軍の移動・攻撃が難しく、東遠方の猿投台地からの伏流水で台地上でも井戸水の確保が可能な上、堀の水も湧水により枯れることのない天然の要害の立地でもあったからだ。

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 「名古屋城築城普請助役の丁場割」

 だがそれは、同時に天守の北に位置する曲輪の御深井丸などの地盤が、軟弱であることも意味した。
 このため、天下普請の外様大名が曲輪の石積をするに際して、御深井丸の北・西面の石垣造りに崩落が何度も発生するなど相当な苦労があったともいわれ、石垣の高さを6mほどに留める代わりに、水掘りの幅を通常の30mをはるかに超える70mもの巨大な堀を城の北から西に巡らせている。
 (さらに、築城時の資材水運用として台地の西に沿って南の熱田の宮の渡し(ゾウの鼻の先)までの6kmが開削された堀川は、幅が22mから87mと広く、西側の防衛線の役割も果していた。)

 また、築城に際しての「大工頭中井家関係資料」に残る当初計画では、天守台地階の石垣の西に連結する小天守を建設し、御深井丸と接続することで、本丸・天守地域での戦闘に際しての人的・物的な補給経路あるいは、天守からの城主の最終的な脱出・退路として機能させるものだったようだ。

 しかし、この計画は御深井丸地域の軟弱地盤が災いして、結局頓挫し「幻の西小天守」となったようで、今も残り天守台西面の地階位置部分に見られる一部の石垣の乱れた積み方を指して、その痕跡とされる。


● 本当にそうだろうか。

 熊本城の壮大・堅固な築城で天下にその名を知られ、どうせ普請助役として石垣造りをさせられるなら、最も堅固な天守台造りを担当したいと真っ先に名乗りを上げ、完成した天守台の四隅の石垣に誇らしく自分の名前を刻んでみせた加藤清正が、天守台の西面の一部に乱れた石積みをするはずがなく、あらかじめ計画が有って連結部の切抜を造るなら、せめて石枠なども美しく設けたと思うのだがどうだろう。

 それでもこの石積の乱れが天守の完成時からあったとするならば、清正はこの部分を連結部としての切抜として計画通り完成させたが、その後西小天守計画の断念で天守建設を担当した大工頭中井正清が石で塞ぎ、その上に大天守が造営されたのかもしれない。

 実は天守台は、築城から140年ほど経った寛延3年(1750年)頃には、やはり軟弱地盤のためか天守台の不等沈下や西側石垣の孕みで、大天守本体の北西方向への傾斜が激しくなり、1752年(宝暦2年)になって4年間をかけた大修理が行われている。

 このときの大修理は、天守を曳き上げて石垣を積みなおすという曳き家技術を使った大土木工事で、近年発見された「大天守周辺仮設物配置図」によると、天守台の西と北には工事のための仮設施設として大桟橋が架けられていたことがわかる。

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 「大天守周辺仮設物配置図」
 出典:「名古屋城大天守宝暦大修理における仮設工事について」
     日本建築学会計画系論文集第74巻 2009年10月

 この配置図には、現在見られる西側の石垣の乱れの部分に符合する場所に「切抜」の印が認められ、地階への工事の出入にも使われたものと見られることから、ここはやはり誇り高き清正の責に帰するのではなく、むしろ大修理の準備に当たって天守周辺の解体と石垣の「切抜」が行われ、修理の最終段階でこの切抜きを塞いだときの石垣の乱れであろうと考えるべきだと思う。


● 西北隅櫓は幻の西小天守の代わりだった?

 名古屋城の天守は「連結式」という構造で、小天守が大天守への堅固な防衛の入口として連なっているのが特徴となっている。

 しかし、隣の地階付き五重5階建ての壮麗な大天守の華麗さに比べて、小天守は堅固で巨大な建物ではありながら、その外観は地階付きの二重2階建てで、1階南北屋根に千鳥破風の装飾を持つだけの機能重視のあまりにも簡素な造りとなっている。

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 1930年(昭和5年)ころの大・小天守閣の航空写真

 名古屋城の備えは、西方からの敵の大軍を意識して計画され、北西に位置する御深井丸は、その前衛となるべき曲輪として計画されたものの、軟弱地盤などによって天守に接続する西小天守の計画が潰えたことで、本丸への連絡は北の不明門からだけとなり、戦闘中の本丸地域を横断せず、御深井丸と天守とを直接繋ぐ迅速な補給・退去の経路を実現できないまま、築城の着手からわずか2年後の1612年(慶弔12年)ごろまでには城の全容がほぼ完成し、町ぐるみの清洲越しが行われた。

 この後、家康と豊臣家の対立が先鋭化し、本格的な戦闘となった1614年(慶長19年)の大坂冬の陣などを経て、次の年の慶長20年5月の大坂夏の陣で大坂城内の秀頼と淀殿が自刃し豊臣家が滅亡したことで、ようやく150年近くも続いた戦乱の世の終焉(元和偃武)を迎える。

 これにより、名古屋城の整備計画にも変化が生じ、御深井丸でも当初は曲輪の全ての石垣上に建設する計画だった多聞櫓は、北の西弓矢多聞櫓と西の鋳多聞櫓の整備のみに留め、曲輪の他の周りは塀を巡らせ、弓矢櫓の他は曲輪の東と西南の隅の櫓台にはもはや櫓が造られることなく残り、攻防の機能が縮小される。

 そして御深井丸の機能は、当初の戦いの前衛から、本丸の奥にある後方支援ストックヤードへと変化していくことになる。

 やがて城の機能は本来の戦の攻・防の砦から、城下町や領国の経営・治安維持のための政庁への色彩を強めていくことになるが、その変化の魁として御深井丸の西北隅櫓は、1619年(元和5年)ごろになってようやく完成する。

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 『尾張名所圖會』前編1巻「名古屋府」より
 出典:愛知芸術文化センター愛知県図書館所蔵

 この絵図は、江戸後期の1844年(天保15年)に刊行された『尾張名所圖會』に描かれた名古屋城を西方から眺めた鳥瞰絵図だ。

 ここに描かれた名古屋城は、築城からすでに220年以上が経過しているとしても、明治期の取壊しや戦災後の現代の写真で見る姿とは異なり、江戸時代後期にほぼ築城時の姿のままに名古屋城が機能している姿として観ることができるだろう。

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 『尾張名所圖會』「名古屋府」の絵図6枚をパノラマに合成・加工したもの。
 左から新御殿、御深井丸、天主、西の丸の景観が広がる。

 さらに、このパノラマに描かれた連続する6枚の絵図を合成・加工してみると、航空機もなかった時代にもかかわらず、当時の尾張藩士で画家の描いた3次元認識の鋭さに驚くばかりだが、名所図会の名のとおり、一般庶民が名所として近づいてお城を眺められる、最も美しいと思われる景色が描かれているとすれば、それは庶民が立ち入りが許されない武家屋敷の集積する城の南の三の丸地区方面からの遠景ではなく、やはり城のかつての正面の西方からだったと思われる。

 そんなことを思い巡らせながら改めてこの絵図を眺めてみると、御深井丸の北西隅櫓の場所は、まさしくこの城の正面、顔でいう鼻の位置に当たり、大小の天主や本丸の隅櫓の完成から遅れること7年、藩主の居宅・政庁の本丸御殿でさえ既に4年前に完成し、世は戦乱のない時代に移り変わりつつあった頃に遅れて出現した北西隅櫓は、未だ記憶に残る幻の西小天主を、ここに仮体する華麗なものとして建てられたとしても、決して不思議ではないと思われるのだ。

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 西面から眺めた現代の名古屋城
 ホテル・ウエステイング・キャッスルからのパノラマ画像。
 現代の城域には大きな木々が鬱蒼と生い茂り、城内の施設の眺望を遮っている。

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 いまではもう御深井丸には、樹高10mを越えるクロマツやスギ、エノキなどの多くの樹木が生い茂り、堀端から見ると天主の姿を認めることはなかなか難しい。

 しかし、同じ位置から撮った戦前の絵葉書を見てみると、壮大華麗な大天主を背景に、小規模とはいえ華麗な姿で建つ北西隅櫓の姿は、まさに幻の西小天主だと、わたしには見えた。

 (了)





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