〇 今日の一献 クラシックカーの耐久レース「ラ・フェスタ・プリマベラ2018」

―― 偶然遭遇した 往年のクラシックカーのラリー

 いつものように、モーニングサービスの喫茶店を出たら、目の前を懐かしいクラシックカーが列を成して走っていった。

 或いはと思って、自転車で後を追って近くのトヨタ産業技術記念館に行ってみたら、クラシックスポーツカーの祭典「Le Festa Primavera 2018」(ラ・フェスタ・プリマベラ2018)の参加車だった。

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 LANCIA AURELIA B20S(1957)

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 MERCEDES BENZ 280SL(1968)

 手に入れたパンフレットによると、毎年開催の名古屋をスタートし近畿地方を中心にクラシックカーで1000kmもの長距離を走る公道ラリーで、今年は10周年の記念大会だという。

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 ALFA ROMEO GIULIA SPIDER(1962)

 通過ポイントとなったトヨタ産業技術記念館では、車好きの多くの中年、シニアがカメラを構え、盛んにシャッターを切っていた。
 (名古屋市内 トヨタ産業技術記念館)

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 トヨタ 2000GT(1968)

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 PORSCHE 356 ABRIOLRET SC(1964)

 今年参加した車は、総計65台、熱田神宮をスタートして産業技術記念館などを通過点に、3日間で三重〜和歌山〜奈良〜大阪〜京都を巡る。

 気がつくのが遅かったから見損なってしまったが、先行車には1920年代のBENTLEY、BUGATTIなども参加していたようだ。

 なお、このラリーには、ラリーレーサーの篠塚健次郎氏がHEARLEY SILVERSTONで、またタレントでクラシックカー好きの堺正章氏もMASERATI MISTRAL(1967)で参加しているようだ。

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 ASTON MARTIN DB5 VANTAGE(1965)

  Le Festa Primavera 2018の予定コースは、
 4月13日は名古屋市内から三重県内
   14日は和歌山県から大阪府、奈良県内
   15日は大阪府から京都府内を駆け抜けるという。

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 MG MGA(1958)

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 MG MGA(1959)

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 後半の参加車しか観られなかったのは残念だったが、各車のコックピットに座る人たちの高揚した顔は、心なしか誇らしげに輝いて見えた。

 このラリーの参加車は、みな1920年代から60年代に生産された名車ばかりだから、もう60年から90年以上も経た今も、堂々と格好良く公道を走っていることに驚かされるとともに、車にかける所有者の情熱と拘りに頭の下がる思いで眺めていた。

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  「Le Festa Primavera 2018」のパンフレット

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  しばらくラリーカーを見送った後、家に帰ってから、せめてもとミニチュアカーを、いくつか取り出してみた。

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〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 安土城天主台跡から下山する帰り道のコースに、信長が築城時に建立した摠見寺(そうけんじ)がある。

 摠見寺は天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中に位置し、創建時には近隣にあった現超光寺や甲賀・長寿寺など多くの寺院の建物を移築し、当時は本堂をはじめ22棟の建物が立ち並び、城下の町人の通行が許されていた百々橋口道から城内を訪れる人々が、この伽藍群を見ながら境内を通ることを予定していたと考えられる。
 こうした堂塔伽藍を備えた壮大な寺院が城内に建てられているのは、後にも先にも安土城だけである点にも注意を払いたい。

 このように、ある意味では信長の仕掛けた装置の一つである摠見寺は、本能寺の変の直後の天主・本丸炎上時には類焼を免れ残ったものの、江戸時代末期の1854年(嘉永7年)になって伽藍中枢部を焼失し、先に見たように現在は大手道脇の伝・徳川家康邸跡に仮本堂を移している。

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  摠見寺跡から琵琶湖方面の西の湖の展望

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 焼失を免れた摠見寺の「三重塔」(特別保護建造物 重要文化財)
 1454年に建造され1555年に修理した記録が残るこの塔は、元々あった甲賀・長寿寺から移築されたものとされている。

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 焼失を免れて残る摠見寺「二王門」へ下る。
 信長に臣従した甲賀の山中俊好が、1571年に寄進したものとされる。

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 百々橋口道の石段から見上げた摠見寺「二王門」(特別保護建造物 重要文化財)

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 二王門の仁王像
 木造金剛二力士立像 特別保護彫刻 重要文化財に指定されている。

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 入山の有料化に伴い、現在は二王門を出て安土城下の百々橋口へと下る石段が通行止めとなっており、山中の道を回って再び伝・羽柴秀吉邸跡に出て、大手道を下り関所へと誘導している。

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 かつては、麓の道路際に見事なサクラの大木の並木があり花見も楽しめた安土城跡だが、駐車場の整備などを理由に伐採され、山麓のサクラの数は少ないが、それでもちらほら見えるサクラは満開だった。

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 この安土城跡の山麓一帯は、臨済宗妙心寺派の摠見寺が所有・管理しているが、築城時に信長によって建立されたものの檀家を持たず、幾多の経緯を経て江戸時代末期から明治期に寺領を失って衰退しており、TVの歴史ブームとともに入山する者が増加し、管理のために「入山料」を徴収するようになったのもやむをえないともいえる。

 なお、大手門は、ここから約80m下がったところにあったとされる。


 今見てきたばかりの安土城跡を後にしながら改めて思うのは、山城とはいえ、例えば南山裾帯曲輪の大手口や虎口の低い石垣、左右に家臣団の屋敷を配してはいるとしても駆け上がり易い直線に伸びる広い大手道、隅櫓や虎口も設けない七曲がり道、城下から続くほとんど塀も石垣もない百々橋口道など、これらは防御面を極端に考慮しない城の造りとなっており、われわれがこれまで抱いてきた既成の城の備えのイメージからすると、やはり特異なものに感じるのだ。

 ところで、行政が管理している施設では、危険防止のためとしてやたらと柵や建て看板などが目立つが、ここでは自己責任なのか通行止め標識だけで、かえって潔く景観にも煩わしさを感じない。

 だだし、築城の際に不足した石を補うために階段に使われている石仏の全てに、今では「石仏」の表示と賽銭缶が置かれているのは、少し艶消しだった。

 「安土城郭資料館」(近江八幡市安土町小中700)
 JR東海道線の安土駅前には、市立の安土城郭資料館がある。
この資料館の最大の見所は、20分の1のスケールで制作された精巧な安土城天主で、観覧者があると電動で内部を見られるように城の模型が二つに分かれる仕掛けがあって楽しい。

 他に屏風絵風陶磁版壁画などの展示や信長の活躍した時代を中心に資料を集めた安土文庫などが設けられている。

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 資料館内1階に展示されている幻の名城”安土城”の模型
 絵図資料などが無い安土城の姿は、当時の「信長公記」や「安土日記」、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」などの記述に基づいた研究によって、石垣は自然石をそのまま用いた野面積で、地下1階、地上6階建てで、高さは35m程と推定されている。

 また、外観は、階層ごとに壁が塗り分けられ、黒い漆塗りの窓が配された白壁の層や、朱色の八角堂の上に金色の最上階があり、青く見える瓦が葺かれ、最上階には金箔瓦が使われていたとされる。

 なお、安土城天主の構造及び外観については諸説の研究があるが、この模型は故名古屋工業大学名誉教授内藤昌氏の復元案により制作されている。
 (この復元案の諸説は、『安土城天主の構造及び外観に関する復元考察』佐藤大規 に詳しい。)

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 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える仕掛けになっている。

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 安土城の推定内部構造
 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える。5階の八角堂の中に、信長の姿が見えるのがご愛嬌で微笑ましい。

 城の内部は、地階から3階まで通ずる吹抜けが設けられ、地階には仏舎利の入った宝塔が置かれており、1階から3階までの各階には複数の部屋があり、壁には花鳥や中国の故事を題材にした華麗な障壁画で飾られていたとされる。

 また、八角形の5階は、外側の柱は赤色、内側の柱は金色で、壁には釈迦の説法図が描かれており、最上階6階の3.3mの正方形の部屋の壁は金色で、狩野永徳が描いた中国神話の帝王や孔子、七人の賢人などの絵が描かれ、漆塗りの鉄の扉があった。

 これまでの戦国時代の城の天守は、本来は戦のときの防御施設であり、居住する施設ではなかった。
 しかし、この安土城では、初めて石垣の上に建てられた天主に信長自身が居住し、その外観は華麗さと威容を示し、そして内部は壮大・壮麗さと宗教的空間を「見せる」ことで、見る者を畏怖させることを強く意識した政治的装置としての城だったと考えられている。

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 安土城屏風の推定復元図「屏風絵風陶磁版壁画」
 天正少年使節が信長から託された屏風絵を、ローマ法王に献上するまでの4つの場面を描いた陶磁版壁画の一部

 ところで、外国人宣教師と親交のあった信長は、自分の権力を誇示するため当時の日本画壇の代表的な画人、狩野永徳に描かせた安土城の金箔屏風をイエズス会の司祭・巡察師ヴァリニャーノに贈り、彼の帰国に同行した天正遣欧使節によってローマ法王グレゴリオ13世に献上されたとの記録が残る。

 この屏風が法皇庁で発見されれば、当時の安土城の姿を知る決定的な資料となるのだが、2007年にも地元安土町(現・近江八幡市)の派遣調査団による調査も行われたが、現在になるも発見に至っていない。

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 試着ができる信長の鎧兜

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 安土山の手前にはJR東海道線の列車が走る。

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 歴史公園「近江風土記の丘」の「文芸の郷」
 安土城跡の南東には、国の史跡・観音寺城跡のある南北に伸びる繖(きぬがさ)山(標高432.9m)を背後にして歴史公園「近江風土記の丘」があり、滋賀県下から移築された歴史的建造物をはじめ、滋賀県立安土城考古博物館(写真中央)や安土城天主信長の館などで構成される「文芸の郷」の施設がある。

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 歴史公園「近江風土記の丘」にある、旧柳原(りゅうげん)学校校舎
 1876年(明治9年)当時の高島郡新儀村の初等科小学校校舎として建設された和洋折衷の建築物。

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 JR安土駅から眺めた観音寺城跡のある繖山
 観音寺城は、室町時代から戦国時代にかけて佐々木氏、後に六角氏の居城として、繖山の頂上付近に築城された先進的な総石垣造りの山城で、二階建ての屋形はあったものの天守は無かったといわれる。
 また、山腹を整地して家臣団の屋敷も整備されていたようで、安土城の築城に当たっては、この総石垣造りや家臣団の屋敷地造成の手本になったと考えられる。

 なお、この近く、琵琶湖の西岸、今の大津市坂本穴太(穴太ノ里)の出身者の穴太衆が、それまでの寺院の石材建設の技術の高さをかわれて安土城の石垣を施工したことで、その技術水準の確かさが広く伝わり、以後、江戸時代初期まで全国各地の築城・石垣造りに携わる契機となったことも興味深い。

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 旧安土町の下水道のマンホールの蓋
 信長が勝運を期して永楽通宝を刀の鍔に刻印して愛用した、「まけずの鍔」をデザインしたもの。

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 JR安土駅から安土城跡への所要時間は徒歩で20分ほどだが、他に見て廻ることも考慮して、わたしたちは駅前のレンタル自転車を利用したが、これは時間効率もよく快適だった。

 ともあれ、お陰でこの山行を含めて、この日の全行程の歩数は、自転車走行分を除いて17,900歩を数えた。


 了




〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その1

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 春休みに我が家へやってきた孫たちを、次の予定地に送るついでに、久しぶりに安土城跡へ登ってきた。

 もう10年以上前になるが、当時学生だった息子たちとともに、ここにやって来たときには無かったのに、発掘・整備が進んで歴史ブームでスポットが当たり始めた2006年に関所ができたようで、今回は700円也の入山料を払って入場した。

 安土城は、天下布武を目指し清洲城から、小牧城、岐阜城へと順次拠点を進めてきた信長が、いよいよ天下統一のための拠点として1576年(天正4年)丹羽長秀に普請を命じ、3年をかけて滋賀県安土山(標高199m)に築いた山城で、天正7年1月に天主が完成すると信長は5月にここに移っている。

 しかし、1582年(天正10年)6月の本能寺の変で信長が倒れると、まもなく天主や本丸は焼失してしまい、わずか3年半の短命な城となった。

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 南山裾帯曲輪の「大手口 西虎口1と西虎口2」
 最近の発掘調査によって、大手口の左右に新たに4つの虎口が見つかり、復元されている。

 もっとも、その後も安土城は織田家の城として秀吉の庇護により清洲会議のあと信雄や孫の三法師が居城としたが、天正13年の小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると廃城となった。

 国の特別史跡に指定されていたとはいえ、短命で文献・資料も少なく、長らく荒廃したままだった謎多き安土城は、昭和15、16年になってようやく天主・本丸の調査と仮整備が行われ、昭和35年以降には本丸周辺から黒金門にかけての石垣修理など城跡の整備が行われた。

 次いで、新たに平成元年度から始まった城跡の保存とその活用を図る『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年をかけて実施され、2009年までに伝・本丸御殿及び、天主台のほぼ全容が判明した。なお、主要部の伝・三ノ丸跡、本丸取付台、伝・二ノ丸東溜りも、レンチ調査で建物の礎石などが確認されている。(調査済みは、史跡指定面積の約20%(17ha)に過ぎない。)

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 復元された安土城大手道
 大手口から直線に、幅8m(両側に1mほどの側溝)で、長さ180mの石段の大手道が続く。
 左側が「伝・羽柴秀吉邸」、右側が「伝・前田利家邸」がある。

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 安土城跡の順路図
 安土山に築かれた安土城は、山頂の天主を中心とする主要部分だけでなく、織田家臣団の屋敷が山腹を取り巻くように配置されていたようだが、現在見学のできる範囲は、全体の30%程度に留まるとのことだ。

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 「伝・羽柴秀吉邸跡」
 下段部分から上段石垣を見る。
 
 安土城の特色のひとつは、縄張り構造に石垣を多用した近世城郭の最初の城であり、400年を経過しても崩壊しないその優れた自然石の積み上げ技術だといわれる。

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 下段部分から上段に続く武者走りには、スミレの花が咲いていた。

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 上段曲輪の屋敷跡には、当時の礎石が残る。

00-「伝羽柴秀吉邸」の再現図

 「伝羽柴秀吉邸」の再現図
 上段郭が高麗門と屋敷があり、下段郭には櫓門と庭・厩があったと推定され、上下段の間には武者走りがあった。

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 伝羽柴秀吉邸跡上段から大手道の右側上部に見えるのが、摠見寺の仮本堂で、この場所は徳川家康の邸宅跡と伝わる。
 
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 幅広く長い大手道が続く。

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 「大手道の階段の石仏」
 信長の期待に応えて築城を急いだのか、三重や丹波篠山方面から運搬した石材の他に近在の野仏なども集めたようで、大手道の階段のそこここに石仏が使われているのが見られる。
 戦国時代に築城された城には、こうした石仏や仏塔などが石垣などに使われている場合が多いといわれる。

 しかし、単に不足する石材を補うための石仏であれば、宗教心に篤い者なら裏を向いて組み込むだろう。
 むしろ、ここでは信長は踏みしめる石段として、石仏を意識的に配したのではないかと思いたい。

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 「伝・武井夕庵邸」跡
 やがて大手道は左に曲がり、その先の左には信長の右筆だった武井夕庵の邸跡の石柱が立つ。

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 「七曲り」
 大手道の幅が狭まり、右へ左へと曲がる急峻な七曲りと呼ばれる場所。

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 「黒金門の虎口」跡
 大手道の終点でいよいよ城の中枢部へと入る入口を守るのが黒金門。
 石垣を構成する石は大きく、組み上げも緻密で高い。この門を境に、下は家臣団の屋敷群、この上は信長の居住区画などの生活空間と天主などに分かれる。

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00-安土城主要部曲輪配置図

 安土城主要部曲輪配置図 (滋賀県安土城郭調査研究所作成)
 安土山の最も高い(標高180m)ところに天主を中心に、東西180m、南北100mに本丸、二の丸、三の丸などの主要な曲輪で構成されるー帯は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立している。
 高石垣の裾を幅2~6mの外周路が巡り、山裾から通じる城内道と結ばれている。また、外周路の要所には、隅櫓、櫓門などの入り口が数カ所設けられている。

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 黒金門を過ぎると、黒金門の虎口を抜けた風景。左正面は二の丸石垣で、二の丸、本丸へは右手へ進む。石段付近に「二の門」があった。左石垣上は二の丸、本丸、天主へ向かう  

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00-Panorama 20180328-03天主・本丸

 「本丸」跡
 東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地の本丸跡。
 左は天主台の石垣、正面右石垣の上は三の丸(名坂屋敷)。

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 天主台へ続く石段

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 「天守台」
 国指定の特別史跡「安土城跡」天主台跡の礎石
 八角形の敷地に20m四方程の範囲に、柱と柱の間が7尺(約2.1m)で軸線がほぼ正方位(真北)となる碁盤目状に並んだ大型礎石111の石が並ぶ。
 物理探査の結果、天主台は自然の岩盤層を整形した上に築かれていることが明らかになっている。

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 天主台の地階となる礎石配列
 中央の礎石の欠けた部分に、仏舎利塔が置かれていたとされる。
 五重七層の巨大な天主が、総石垣の上に建てられた最初の城だった。

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 天主台跡から北の琵琶湖や比叡山方面を望む。
 築城当時は、琵琶湖の水が安土山の麓まで迫っており、北面の防衛を担わせるとともに、湖上を行く船に堂々とした安土城を見せる効果もあったと見られるが、昭和時代に入ってからの干拓で、現在は手前に西湖ができ、その先に遠く琵琶湖が見えるようになっている。

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 琵琶湖方面のパノラマ展望

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 天主台跡から南にあった旧城下町方面を望む。

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 〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2につづく






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