〇 今日の一献 遅れてきた青年 ウエスターオートロール(Wester Autorol)

―― 最後発組のスプリングカメラ

 もう古い作家だが、大江健三郎の作品で『遅れてきた青年』(1962年)というのがある。
 地方の山村に生れ育った青年が、勇敢な兵士として死ぬはずの戦争に遅れ、60年安保闘争やポスト安保の安逸な時代精神にも遅れた、戦後世代共通の体験を描いた「遅れてきたものの自己弁護」の半自伝的小説だといわれる。

 ここで紹介するWester Autorolは、なぜかこの小説『遅れてきた青年』を彷彿させるカメラだ。

 このカメラのメーカーの西田光学工業は1936年に設立され、1950年代まで様々な規格のレンズやシャッターを専門に生産し当時の中小のスプリングカメラのメーカーへ供給する傍ら、戦中・戦後を通じて前玉回転式のセミ判(4.5×6)カメラの生産も行っていた。
 
 戦後もセミ判のSemi Westerや、6×6判のWester Chrome Sixを生産したが、1955年発売のSuper Westerから全群ヘリコイド二重像合致式連動距離計を備えた高級スプリングカメラの生産へと移行する。

 このWester Autorolは、全群ヘリコイド二重像合致式連動距離計を備え、その上フイルムの自動巻止め(セミオートマット)やカウンターの自動復元と二重撮影警告表示機構を追加した西田光学工業の最上級カメラとして1956年に発売された。

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 この会社が生産するカメラに付けられる「Wester」の名前の由来は、一般には西田光学工業の「西(West)」と「田(「ter)」から採用されたものとされているが、一方では「Wester」は英語で「(強い)西風、洋風」の意味があり、海外に輸出しても受け入れられやすいだろうとの目論見もあったと思う。


● レンズとシャッターの機構

 レンズは、自社製の単層コーティングされたトリプレットタイプ(3群3枚構成)の標準75mm f3.5のWESCON F.Cが付いている。

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 シャッターは、これも自社製のNKKプロンタータイプのセルフタイマー付きのシャッターで、シンクロ接点は普通のドイツ式接点。
速度は B、1~1/400秒。
 絞りは、f3.5、4、5.6、8、11、16、22。

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 撮影には、鏡筒の上にある小さいノブを下げてシャッターチャージしておいてから、本体の右側にあるバー(ボディシャッター)を下してシャッターを切る。


● 焦点調節とフィルム巻上げ機構

 梨地にクロームメッキが美しい軍幹部には、右に逆ガリレオ式透視ファインダーと左に採光ブライトフレームがあり、その間に誇らしげに赤地に銀色の「Autorol」の浮き出し文字がデザインされている。

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 ピント合わせは、一眼式のレンジファインダーを覗きながら、鏡筒上部にあるかまぼこ型の焦点調節レバーをスライドして鏡筒(レンズの全群)をヘリコイドで前後させて行う。

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 ファインダーは思ったよりも明るく、フレーム中央に黄色の四角いブライトフレームが浮かび上がっており、この二重像を重ねるピント合わせは容易だ。
  
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 ピント合わせは鏡筒部のヘリコイド(螺旋溝)を前後させて行う。
 レンズのピント合わせの方式は、レンズの前玉だけを回転させて前後移動してピントを合わせる前玉回転方式と、レンズの全て(全群)を前後移動してピントを合わせる方式がある。

 一般に前玉回転方式はレンズの繰出し量が2mmほどだから、鏡筒の周囲に目盛が付けやすく、距離計非連動の低価格カメラに多用されてきたが、距離計連動式の高級カメラでは、繰出し量が多い全群繰出し式が使われている。
 ただし、ドレーカイルによる距離計連動式の高級カメラであるスーパーイコンタだけは、前玉回転方式が採用されている。

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 鏡筒部の側面と蛇腹の繰り出し固定タスキ。
 タスキに西田光学工業の略称、NKKがプレスされている。

 フィルム装填は、他の120ブローニーフイルムを使うスプリングカメラと同じで、比較的に容易だ。
 フィルムは左から右へ移動するから、120ブローニーフイルムを左室内に装着し、フィルムの端を右の巻取りスプールに通して巻き取る。

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 フィルムの巻き上げは、軍艦部の右の大型ノブを回して行う。
 ノブに描かれた矢印の方向に回して装填したフィルムを巻いてゆけば、セミオートマット機構が働いて、背面のノブの下にある順算式フィルムカウンターが1で停止する。

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 撮影後に、軍艦部の背面のノブの下にあるレバーを横にスライドしてロックを解除してから、次のコマへと巻き進めると、カウンターが2で自動停止する。最終コマ数12を撮影後は、そのまま最後まで巻き取り、裏蓋を開けてフィルムを取り出す。

 二重露出防止装置は付いていないが、シャッターを押して撮影すれば、ファインダーの中に赤の印が出て、二重露出の防止を警告してくれる。
 この印しは、ノブを回してフィルムを巻き取れば、解除されて消える。

 規格が同じで転用したからだろうか、裏蓋の背面のグッダペルカには、前のモデルのWester Sixの文字が入っている。

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 軍艦部の上部には、大きな簡易露出表が付けられている。
 距離計連動ファインダーが大きく軍艦部が広くなったから、こうした設計をしたのに違いないが、これを美観が損なわれると観るか、親切設計で好感を持つかだが、、、。
 たまにドイツカメラで見かけるのだが、わたしには邪魔なものにしか思えない。
 
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 蛇腹を折りたたんで鏡筒部を格納すれば、コンパクトになるのがスプリングカメラの一番のメリットだ。

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 カメラの鏡筒格納部の蓋上部にあるボタンを横に押すと、スプリングの力で折り畳み式の蛇腹が自動起立して撮影状態に組上がる。

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 60年経過した今でも立派に通用する、しゃれたデザインの革ケース。

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 西田光学工業は、Wester Chrome Six Rにはオリンパスの高級ズイコーレンズを付けて競合他社との差別化を狙ったり、1956年(昭和31年)にこの最上級スペックのWester Autorolを発売したりして経営の挽回を図った。

 しかし、このころにはすでに同程度のスペックを備え、高級レンズを装着した有名メーカーのマミヤ6-I型(1940年)やスーパーフジカ6(1955年)などが発売されており、トリプレットのレンズで低価格路線を狙ったものの、時代は35㎜フイルムカメラへと進んでいる時期でもあって、もはや最後発組の遅れてきた青年だったことは否めなかった。

 さらに末期には、レンズやシャッターのスペックダウンの低価格機種を発売したり、35mmレンジフアインダーカメラAuto Westなどの生産にも進出するなど、短期間に様々な対応策を講じたものの、折からのカメラメーカーの厳しい淘汰の波には抗いきれず、ついに1958年1月に倒産した。


● Wester Autorolの仕様

○ Blog wester autorol  20160200


● Wester Autorolの取扱説明書と宣伝広告
 
  Wester Autorolの取扱説明書の一部

● WESTER AUTOROL-01

● WESTER AUTOROL-02

● WESTER AUTOROL-03

  Super Westerの宣伝広告
  (Wester Autorolの広告が見つからないので、とりあえず代用で。)

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● 撮影例

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 早春の梅の花
 Kodak Ektar100
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 早春の梅の花
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 村社 六所社の佇まい
 1/200sec f11

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 新幹線がスピードを上げる区間
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 名古屋市営地下鉄の車内
 1/100sec f3.5

















〇 今日の一献 美しい日本庭園と大観の作品で有名な 足立美術館

―― 山陽・山陰を巡る旅 その5


 足立美術館は、戦後に大阪で不動産投資で成功し一代で財産を築いた当地、島根県安来市の出身の足立全康氏が、71歳だった1970年(昭和45年)に私財を投じて開設した美術館だ。

 この美術館は公益財団法人足立美術館が運営しており、収蔵展示する130点におよぶ横山大観の作品や近代日本画壇の巨匠たちの作品など総計1,500点とともに、よく整備された日本庭園の美しさで有名で、いまやこの地域の観光の目玉ともなっている。

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 足立美術館の正面入口
 この美術館は、もともと絵画収集してきた足立全康氏の個人コレクションを基に開設されたもので、絵画収集にかけた情熱は並々ならぬものがあったといわれ、1990年(平成2年)12月に享年92歳で没している。

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 美術館の入口を入ると、美しい日本庭園が広がる。

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 目が洗われる、美しい枯山水の庭園。
 米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本国内900カ所の名所・旧跡を対象にした日本庭園ランキングで、初回の2003年から2015年まで、13年連続で庭園日本一に選出されている

なお、2015年のランキングは、1位:足立美術館(島根県)、2位:桂離宮(京都府)、3位:山本亭(東京都)、4位:養浩館庭園(福井県)、5位:御所西京都平安ホテル(京都府)となっている。

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 長崎平和公園の平和祈念像の作者として知られる北村西望の『将軍の孫』(1918年)ブロンズ像。

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 景色を切り取る工夫
 「庭園もまた一幅の絵画である。」との足立氏の考えから、美しい日本庭園が整備され、館の建物にもその景色を切り取る「ピクチャー・ウインドウ」の設計が随所に見られる。

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 掛け軸の「生の山水画」ともいえる、茶室・寿楽庵の床の間の仕掛け

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 茶室に続く「苔の庭」

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 松揉みの手入れの行き届いた、苔の庭の奥にある茶室の中待

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 島根県安来市生まれの彫刻家冨田憲二の『雲』(1986年)ブロンズ像。

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 同じく冨田憲二の『女と猫とヴィオロン弾き』(1970年)ブロンズ像。

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 横山大観の出世作といわれている『無我』(1897年)
 (足立美術館のHPから)

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 大観の水墨画の中でも五指に入る名作『雨霽る』(あめはる)(1940年)
 (足立美術館のHPから)

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 大観作品の中でも、最も絢爛豪華といわれる屛風画『紅葉』(1931年)の風景

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 童画展示コーナーの風景

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 「白砂青松庭」の眺め

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 アートミュージアム・ショップ

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 足立美術館
 島根県安来市古川町320
 https://www.adachi-museum.or.jp/



● 月山富田城跡の遠景
 月山富田城は標高184mの月山を中心として、飯梨川、南の塩谷、北の新宮谷に囲まれた山に築かれた戦国時代屈指の要害で、山陰・山陽十一州の覇者、尼子氏の居城だった。

 時代が移り、1600年(慶長5年)に堀尾氏が遠江国浜松からこの地へ入封し松江藩24万石を開いたが、1611年(慶長16年)に堀尾吉晴が、先に訪れた松江城(平山城)を築城して居城を移し、富田城(山城)は廃城となった。(島根県安来市広瀬町富田)

 今回は残念ながら訪れることはできなかったが、足立美術館の敷地からその遠景が眺められた。

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 足立美術館に向かう途中、飯梨川の向こうに月山富田城跡が見えた。
 
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 足立美術館の駐車場から眺められる、国指定史跡の城跡の遠景


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 かくして、パ-トナーとともに駆け抜けた、わたしたちの2泊3日の山陽・山陰を巡る旅は終わり、最後は岡山に出て再び新幹線で帰途に着いたのだった。






〇 今日の一献 ようやく国宝指定の望みがかなった 松江城

―― 山陽・山陰を巡る旅 その4

 松江城は1611年(慶長16年)に堀尾吉晴によって、南に流れる京橋川を外堀とし、宍道湖の北側湖畔の亀田山の山頂に築かれた輪郭連郭複合式の近世平山城で、日本三大湖城の一つだ。

 明治の廃城令によって、多くの建物は払い下げられ撤去されたが、天守だけは地元の有識者の活動によってあやうく破却を免れ、山陰地方で唯一の現存天守として残った。

 その姿は、戦国末期から江戸初期への過渡期の戦闘的な城郭の姿を色濃く残しており、2015年(平成27年)7月に国宝に指定され、松江のシンボルともなっている。

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 天守は、外観四重で黒板張りで覆われ、内部は五階、地下の穴倉1階の構造となっており、石垣の高さは7.5mあり、その上に22mの天守が建つ。
 また天守の南には、天守に迫る敵に対して正面と側面からの攻撃ができる地下1階を持つ平屋の付櫓を備える。

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 大手門の前に立つ「松江開府の祖」堀尾吉晴の像
 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏が月山富田城(山城)に入城して松江藩(24万石)が成立した。しかし、時代が求める近世城下町の形成のためには山城は不便だったことから、これに代わる城として、堀尾吉晴・忠氏父子がかつて末次城のあった亀田山に新しく城を築いたものだ。

 そもそも堀尾吉晴は、豊臣秀吉と徳川家康に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残した城普請の名人であり、忠氏亡き後も幼い孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築いたが、惜しくも城の完成直前に逝去した。

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 松江城の鳥瞰地図
 城の周りを囲む堀川は、宍道湖とつながっている。
 東西100m、南北170 mの本丸を中心に、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭があり、西から南にかけ上の段と下の段に分かれた二の丸が囲む。
 また二の丸の南には、さらに一段低く三の丸が配されている。

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 二の丸上の段の南櫓と中櫓
 平成13年に125年ぶりに復元された。

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 三ノ門跡前から本丸天守を見上げる
 左の野面積みの高石垣には、本丸の武具櫓があった。

 石垣積の手法には、「野面積み」と「打ち込み接」があり、この城にもその両方が見られる。
 石垣の建設作業には大坂から招いた穴太衆があたり、松江城の完成に要した5年間のうちの3年間を石垣に費やしたといわれる。

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 横矢掛けの石垣
 本丸から武具櫓方向を見ると、石垣が折れ曲がっている場所は横矢掛けという、死角をなくして石垣をよじ登ろうとする敵兵を横から射るための構造だ。

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 本丸北の搦手道にあたる水ノ手門跡
 この虎口は厳しく巧妙に造られおり、敵兵は右、左と2度曲がらないと上にある腰曲輪までたどりつけない。

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 西南方向から見た天守は戦闘的な古武士を連想させる
 牛蒡積といわれる天守台の石垣の上に建つ天守閣の壁は、一・二重目と大入母屋までは全面黒の板張りで、三・四重目と付櫓はこれも黒の下見張の板で覆われている。

 三重目の大入母屋破風は白い漆喰で固められ、黒ずくめのこの城に唯一優美さを添えており、その形が鳥の千鳥に似ていることから千鳥破風と呼ばれ、この城の別名を千鳥城とも言われるもとになった。

 望楼階である最上階の廻縁は、山陰地方の寒冷で雨や雪が多い風土から防寒・腐敗防止のために設計が途中変更されたようで、室内に取り込まれた形式となっている。
 最上階の屋根には、銅版で覆った木製の鯱が載っている。

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 天守への入口は、付櫓に付いており、付櫓の壁には突上戸や矢狭間と鉄砲狭間、石落しなどが装備されている。

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 いよいよ天守内部に入城
 天守への入口は付櫓から、扉は鉄板で覆われている。
 
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 入口を入って付櫓の階段を1階に上がるまで4回屈折して、防御側の攻撃を受けながらようやく天守の地下に至る。
 ここには昭和の解体修理以前の、古い高さ2mの木製銅板張りの鯱鉾が展示されている。

 篭城戦に備えて、堀尾氏の以前の居城の浜松城と同じように水を確保するため、天主内に深さ24mの石組みの井戸が設けられている。

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 突上戸(つきあげど)は、防御のために戸が格子の外に上から吊り下げられており、必要時に外側に跳ね上げて開く。

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 内部から見た連子格子窓(武者窓)と狭間
 窓の格子の角柱は45度傾けて連なって設置されており、外からは見えにくく、内部からは広い視界が確保できるようになっている。
 窓の下には、天守に近づく敵に対して矢や鉄砲などで攻撃する狭間の口が開いている。

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 包板と寄木柱
 天守を支える柱を見ると、松の柱に包板と呼ばれる板を張って鎹や鉄輪で留められているものに気がつく。
 天守にある総数308本の柱のうち、包板は130本に施してあり、柱の割れの隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている。

 また、松の一本の柱の外側に厚板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が造られているもの(寄木柱)は、柱の強度を増す工夫と、太い木材がなかったための苦肉の策と見られている。

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 天守1階内部の柱は全て寄木柱だ

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 各階を繋ぐ桐の階段
 階段は、幅1.6m、階段を引き上げるときの軽さや防火と腐敗の防止効果をねらって、厚さ10㎝の桐板が使われ、1階から4階の各階の間に設けられている。

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 階下の眺め
 材料不足もあってか、長大な通し柱を用いることなく、上層になるほど平面が縮小する天守の構造に対応している。

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 天守最上階(5階)
 望楼式最上階は、東西南北全てを展望できる。

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 天守最上階の天井の梁組

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 天守最上階(南面)の展望
 眼下に本丸跡に復元された南多聞櫓と一の門が見え、遥かに宍道湖の嫁ヶ島を望む。

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 天守内に展示されている甲冑・武具類

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 国宝指定の経緯を報ずるTVの番組
 松江城は、昭和30年代に国宝指定に向けての市民運動や陳情が行われたが、築城年を証明する史料などがないとの理由で指定には至らなかった。

 このため、再び指定に向けての気運の盛り上がりで、2009年(平成21年)以降、史料探しに懸賞金まで掛けて探した結果、かつて天守閣地下の柱に付けてあった城の建築時の祈祷札が、平成24年に城内二の丸上の段に鎮座する松江神社から見つかり、これに書かれていた「慶長拾六年正月吉祥日」が決め手となって、ようやく昨年(平成27年)7月に悲願だった国宝に指定されたものだ。

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 堀川めぐりの遊覧船
 堀を周回し観光する遊覧船が3カ所から出ており、約4kmを50分で遊覧できる。

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 橋の先に塩見縄手がある。

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 塩見縄手に面して残る小泉八雲の旧居
 城の西の堀に沿って伸びる道路が塩見縄手と呼ばれており、この地区には武家屋敷が多い。その中に有名な帰化文人の小泉八雲の旧居が記念館とともに並んで建っている。
 この地区には、当時の五百石から千石程度の武家屋敷の遺構も残っており、江戸期の風情を楽しむことができる。

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 松江で見つけた大黒様の鬼瓦(須山)
 さすが出雲大社のお膝もとの地方だけあってか、鬼瓦に大黒様のお顔が付いているのを見つけていたく感心した次第だ。
 なお、「鬼瓦」は家に魔が入るのを防ぐもので、大黒様の場合には「須山」というそうで、幸福を呼び込むものだと解釈したいがそこは聞きそびれた。

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 松江のお土産品の数々
 小泉八雲の名を使ったお土産も見られる。

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 しじみのつくだ煮のお土産
 宍道湖は、大きな大和しじみの産地として有名だ。

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 ついでに、いつものマンホールの蓋
 松江城下に残る武家屋敷の長屋門と石畳をデザインした、汚水管マンホールの蓋

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 宍道湖の嫁ヶ島と近くに建つ石燈籠、松江市の花のつばきや市の木の松をデザインした、カラー版の消火栓の蓋


● 立ち寄った境港の大漁市場
 境港は鳥取県の西部の日本海側の大砂州である弓ヶ浜半島の北端に位置し、自然条件に恵まれ、冬の紅ズワイガニや夏のマグロが全国一の水揚量を誇る山陰地方随一の良港だ。
 
 境港市は「ゲゲゲの鬼太郎」の漫画で有名な水木しげるの出身地でもあり、町おこしを狙って商店街を始め市内にはこの漫画に登場する妖怪たちの像などが溢れ、観光客をひきつけている。

 今回わたしたちは、昼食のため境港にある巨大な海産物の販売施設「大漁市場 なかうら」に立ち寄った。

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 海産物の販売施設「大漁市場 なかうら」
 境港市にある流通団地、竹内団地内にあり、施設の正面には水木しげる氏に「がいな鬼太郎」と命名された巨大な鬼太郎の石像が目を引く。
 その足元には鬼太郎を守る一反木綿も描かれている。

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 『がいな』とは 当地の方言で大きいことを意味し、高さ7.7mもある「がいな鬼太郎」の石像は、左手には松葉ガニを抱きかかえたユーモラスな姿でこの施設の看板にもなっている。

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 地元で獲れた魚たちが店内に並ぶ
 はじめて見たこの不思議な魚は、「タナカゲンゲ(田中玄華)」といい、鳥取地方では「ばばぁ」とか「ばばちゃん」とか呼ばれる名物の魚だそうで、刺身や鍋物などに調理して食される。

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 いわずとしれた 紅ズワイガニ
 ズワイガニよりも水深の深い場所に生息し、全体に暗褐色だが加熱すると鮮やかな紅色になることからこの名が付いた。

 大漁市場 なかうら
 鳥取県境港市竹内団地209
 http://www.e-tairyo.com/










〇 今日の一献 古代からの癒しと美人の湯 玉造温泉に行ってきた

―― 山陽・山陰を巡る旅 その3

 島根県松江市にある玉造温泉は、時期は定かではないがおおむね奈良時代には開湯した古湯といわれ、733年に成立した『出雲国風土記』にはその効能から「神の湯」と記され、また清少納言は『枕草子』117段で、全国の三名泉の一つだと紹介するほど知られた山陰地方を代表する名湯とされている。

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 玉造温泉街にある足湯の施設

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 『出雲国風土記』には、「一度入れば肌がしっとりすべすべとなり、二度入ればどんな病気や怪我も治ってしまう。その効能が効かなかったという話は聞いたことがないから、世の人々は「神の湯」と呼んでいる。」と書かれ、湯上りの肌がツルツルになる美肌効果が高いことから、女性たちの密かな人気温泉となっている。

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 出雲神々 縁結びの宿『紺家』の露天風呂

 【泉質】ナトリウム、カルシウム、硫酸塩、塩化物泉
 【効能】神経痛・リュウマチ、外傷後遺症
 【源泉温度】72度C

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 路上にあった元湯跡のプレート
 むかし地元の男が白鹿を追って山に入り、この温泉を発見したとの故事と三種の神器の一つの八尺瓊勾玉がこの地の特産のメノウで造られた(玉造)との伝説を表している。

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 玉造温泉の街中を流れる玉湯川沿いには桜並木と旅館などが立ち並び、路の傍らには日本書紀や古事記の神話を題材にした、8つの「神話の情景オブジェ」が設置されている。

 須佐之男命の「八俣の大蛇退治」の神話オブジェ(ブロンズ 2011年)

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 この「神話の情景オブジェ」は、平城遷都1300年記念事業のマスコット「せんとくん」を制作して馴染みのある、大阪出身の東京芸術大学大学院教授の籔内佐斗司氏のブロンズ作品群だ。

 「因幡の白兎」の神話オブジェ(ブロンズ 2011年)

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 玉造温泉の『神様さがし』
 玉湯川沿いに設置された8つの「神話の情景オブジェ」を探して、温泉街を逍遥するのも楽しい。

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 玉湯川に棲む小魚を狙って佇むアオサギ

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 玉作湯神社
 出雲国風土記に見える神社で、温泉街の山に近い外れにある。櫛明玉神、大名持神、少毘古那神の三柱が祀られ、本殿は出雲大社と同じ大社造となっている。

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 玉作湯神社の収蔵庫
重要文化財の出雲国玉作跡から出土した玉類や砥石、硝子塊、坩堝残片等が収蔵されている。

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 温泉街の夜景
 玉湯川の左右に並ぶ温泉旅館の前には、自前で架けた橋が多い。

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 夜の「八俣の大蛇退治」の神話オブジェ

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 足湯のある姫神広場に設置された、籔内佐斗司氏の「姫神の像」(ブロンズ 2010年制作)
 「神の湯」とされている玉造温泉は、出雲神話と美肌にちなんだ「姫神の湯」をコンセプトとしている。

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 ついでに、合併前の旧玉湯町の勾玉・管玉のデザインの汚水管マンホールの蓋

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 同じく、合併前の旧玉湯町の勾玉の首飾りと出雲玉作史跡公園で復元されている竪穴式住居のデザインの汚水管マンホールの蓋

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● 玉造温泉への途中、出雲大社に参拝してきた。
 出雲大社は、大国主命を祀る神社で、古代から杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれてきたが、1871年(明治4年)に出雲の国に因んでか「出雲大社」と改称されて現在に至る。
正式名称は「いづもおおやしろ」だが、一般には「いづもたいしゃ」と呼ばれる。拝礼作法として、「二拝、四拍手、一拝」で拝礼するものとされている。

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 出雲大社の二の鳥居

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 拝殿の大注連縄
 出雲大社をはじめ島根県の神社では、一般の右縫いとは逆に左から綯う「大黒締め」と呼ばれる注連縄になっている。

 そもそも注連縄は、社の結界として機能するもので、魔の進入を防ぐものとされているが、出雲大社の注連縄が逆綯いとなっているのは、社の中から外に出ないように防いでいるのだとの説を唱える歴史家もいて興味深い。

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 出雲大社の拝殿(左)と中央の奥は本殿

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 中央奥に見えるのが大社造の本殿(国宝)

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 境内の石畳に印された、発掘された3本組の柱の跡
 現在の本殿の高さは約24m、大屋根の面積177坪という破格の大きさの出雲大社だが、いにしえの本殿の建物はさらに大きく高く、古代(飛鳥時代ころ)には32丈(約96m)、また中世には16丈(約48m)だったこと、さらに平安時代から鎌倉時代にかけての200年間に本殿が数回倒壊したとの言い伝えもある。

 現に、2000年には本殿前の地下から、1248年(鎌倉時代)に完成したとされる直径1.35mの木を3本組に金輪で束ねて直径3mの柱とした巨大な柱の根元部分が発掘され、伝わってきた古文書に記された記録と符合することが確認されたことで、にわかに高さ48m(15階建てのビルに相当する)の説も実在した可能性が高まっている。

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 縁結びの絵馬の奉納
 出雲大社では縁結びのご神徳に因み、紅白の結びと男女の人形の絵が描かれた絵馬を中心に、それぞれの願いを書いた絵馬が奉納されている。

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 出雲大社
 島根県出雲市大社町杵築東195
 http://www.izumooyashiro.or.jp/



● 「出雲大社はオオクニヌシの怨霊を鎮めるための神社」だった?
 井沢元彦の通史『逆説の日本史』1古代黎明編によると、「しめ縄が普通の神社と反対の張り方をしている。」、「本殿の主神オオクニヌシの神座は横を向いている。」、「本殿に並んで祀られた五霊の客神はヤマト系の神で、オオクニヌシが神殿から出ないように監視している。」、「亡ぼしたオオクニヌシを丁重に祀るために、平安時代のわらべ歌にあるように本殿は日本で一番大きく立派な建物だった。」、「出雲の「雲」は死の象徴で、礼拝作法も四拍手である。」ことなどを例に挙げて、征服者のヤマト政権にとって「出雲大社はオオクニヌシの怨霊を鎮めるための神社」だったとの説を唱えている。

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 出雲そばは、「わんこそば」、「戸隠そば」と並んで三大ソバの一つに数えられ、島根県出雲地方で割子そばや釜揚げそばなどとして、広く食べられ有名だ。

 もともとソバは痩せた土地で栽培されるもので、産地として信州が有名だが、江戸時代に信州からこの地に改封された藩主が、ソバの栽培を奨励したことで盛んになったとの説があるという。

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 出雲市のマンホールの蓋
 日本一の高さの石造りの日御碕灯台に、旧大社町(出雲市)の鳥だったウミネコと観光船のグラスボートをデザインした、汚水管マンホールの蓋







〇 今日の一献 渓谷の清流に沿って走る 単線「錦川清流線」

―― 山陽・山陰を巡る旅 その2

 「錦川」は、山口県の北東部の周南市の山地を水源として、岩国市内の渓谷を北から南へ延長110kmを縦貫して流れる県下最大の二級河川だ。

 この錦川の渓谷の清流に沿って走るのが「錦川清流線」で、かつては山陽線岩国駅から途中の錦町まで開通していた旧国鉄の岩日線と呼ばれていたが、赤字が続いたため1987年(昭和62年)になって新たに錦川鉄道株式会社を設立しJR西日本から転換されて開業したものだ。

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 錦川清流線の営業区間は、川西駅から錦町駅間の駅数13駅(起終点駅含む)で、路線距離32.7 kmをワンマン運転で毎日10往復する、全線が非電化の単線鉄道だ。

 すべての列車が岩徳線に乗り入れており、岩国駅 - 錦町駅間で運行されている。

 わたし達の旅は、ここから山陽路を離れ、錦川清流線の下り列車に乗って錦川の上流へ向かい、中国山脈を越えて山陰路へと下ることになる。

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 「清流新岩国駅」の佇まい
 2013年(平成25年)3月に、それまでの御庄駅から改称して「清流新岩国駅」となった。
 駅の北隣に山陽新幹線新岩国駅があり300mの連絡通路で結ばれている。

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 「清流新岩国」 10:07
 改札のない無人駅で、待合室はコンテナ緩急車の車掌室部分を改造したものとなっている。
 わたしたちが乗車を待つホームに、9:51にJR岩徳線「岩国駅」を発車した、サクラを描いたピンクの車両の「NT-3002 ひだまり号」が入ってきた。

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 この日は複数両連結ではなく、ワンマンの単機運転だった。

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 「南河内駅」 10:15
 無人駅で、春先には駅西側の田園地帯が菜の花でいっぱいになるという。

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 「北河内駅」 10:27
 清流線で唯一の上り・下りの列車が行き違う駅だ。
 下り列車が待機する中、車体にカワセミを描いた森のグリーンをイメージした、上りの「NT-3003 こもれび号」(2008年2月導入)がやってきた。

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 この駅の近くにはニリンソウやしゃくなげの群生地がある。

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 無人駅の多い錦川清流線のワンマンカーは、料金徴収器を備える。

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 下り列車は、もっぱら錦川の清流を右に見ながら走る。

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 椋野(むくの)~南桑(なぐわ)間にある「かじかの滝」は観光徐行ポイントとなっており、列車は徐行しながら進む。

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 「河山駅」 10:52
 かつてこの駅は、近くの鉱山で採掘した苦席の積み出し駅だったという。

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 車両の長さは18 m、貫通扉とトイレ付きで、座席はセミクロスシートとなっている。

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 列車内に設置されたお手洗い
 ワンマン列車にトイレを備えているのは、無人駅の多いこの路線では、駅に設置することを省くためとも思われる。

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 「錦町駅」 11:01
 終点の錦町駅に到着する。
 ホームにはブルーの車体の「NT-3001 せせらぎ号」が、車庫にはイエローの車体の「NT-3004 きらめき号」が見える。
 「きらめき号」(2008年12月導入)の車体にはホタルが描かれ、ホタルの光をイメージしたイエローに塗られている。

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 「NT-3001 せせらぎ号」(2007年導入)の車体は、清流をイメージしたブルーに塗られ、アユが描かれている気動車 (NDC)だ。

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 わたしたちが乗ってきた「NT-3002 ひだまり号」(2008年2月導入)の車体は、サクラをイメージしたピンクで、サクラの花が描かれている気動車 (NDC)だ。

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 清流線の終点駅「錦町」の駅舎
 駅舎内には錦川鉄道株式会社の本社があり、駅員配置駅となっている。
 また駅舎内には自動券売機が設置されており、近距離ならJR西日本線との連絡きっぷの発券も可能となっている。
 駅併設の車庫に隣接して、観光用のタイヤ付き遊覧車とことこトレインの錦町駅がある。

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 「錦町駅」の改札口

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 駅舎内にある土産品販売コーナー

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 平成26年度の輸送実績は、年間18万8千人、1日につき312人で、これまでの年間20万人を下回り減少傾向が見られる。

 運行する錦川鉄道株式会社では、沿線自治体などとの協力を得て年間を通じて様々なイベントを企画するなど、観光客の取り込みを図って奮戦しているものの、主力の鉄道事業の営業収支は赤字で苦戦が続いている。

 ● 錦川鉄道株式会社
    http://nishikigawa.com/index.php

    設 立 昭和62年4月1日
    資本金 1億2000万円
    鉄道事業・バス運行事業・遊覧車運行事業・指定管理事業・錦帯橋事業・飲食物沿線土産品販売事業
    従業員 計71名

  平成26年度の決算
    鉄道事業の営業損益 7800万円の赤字
    国、県、沿線市町村からの補助金 8400万円
    当期最終損益 2300万円の赤字
    累積赤字 4600万円
 


● 錦川清流線に乗るまえに 岩国錦帯橋に寄って来た
 錦帯橋は、山口県岩国市の錦川下流の川幅約200メートルに架橋された4つの橋脚を持つ5連の木造の美しいアーチ橋で、全長193.3m、幅50mで日本三名橋に数えられる。

 岩国を訪れるなら一度は見てみたいものだと願っていたが、その望みがかなって錦川清流線の列車に乗るまえに立ち寄ることができた。

 この橋は、吉川広家が築城した岩国城と対岸の城下町をつなぐ橋として、中国の杭州の西湖にある島伝いに連なる6連の橋から着想を得て、木組みの技術を生かし1673年(延宝元年)に架橋されたといわれる。

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 錦川に架かる5連の木造のアーチ橋の姿は、背後の山頂の岩国城と相まって美しい。

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 城下から仰ぎ見た岩国城
 一般に岩国城と呼ばれるこの城は、横山の山頂に建つことから別名横山城ともいい、1608年(慶長13年)に築城された連郭式山城だったが、1615年(元和元年)に廃城となった。
 麓には平時の居館である「土居」が整備されていた。

 現在の天守閣は、1962年にRC造で復興されたものだ。

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 錦帯橋の観光土産『錦帯せんべい』
 橋の袂にある、文政8年(1825年)創業という老舗吉田秋栄堂のいわゆる玉子煎餅のお菓子
 最初はその湾曲した包み紙の姿から、全てが太鼓橋のような大きな煎餅になっていると錯覚したが、そうではなくて小さく食べやすい大きさのお菓子が箱に並んで入っている。こんなの普通ないからアイデアは分かるけど、湾曲した箱が嵩張って持ち運びが不便かもしれない



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