〇 今日の一献 『谷中レトロカメラ店の謎日和』

 近年若い男供に比べ、元気な女性の各分野への進出は目を見張るばかりで、重いレトロなフィルムカメラを首に提げて街を闊歩する姿も見られる。
 だから近頃では、女性専用のカメラ雑誌『女子カメラ』などまで定期で刊行されているし、名古屋では名駅地下街のサンロードには、女性だけで切り盛りするフィルムカメラのDPEの店もある。

 そうした時流の中で、今年9月に宝島社から発行されたのが、柊サナカ著の文庫本『谷中レトロカメラ店の謎日和』だ。

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 カメラの「修理の基本は観察です。」と言うのが口癖の、東京・谷中でレトロカメラ店を営む3代目の今宮龍一(34歳)とアルバイトの山之内来夏(24歳)を巻き込んで、いくつかのカメラの名機をめぐって次々と起こる心温まる七つの連作ミステリー。 

 先日立ち寄った書店で見つけて、面白いから1日で読んでしまった。

 伏線が張り巡らされたストーリーの面白さにつられて読み進めれば、知らず知らずのうちに、名機のレビューとカメラ・写真の魅力と撮影の基本が身に付いたような気分にもさせられるから、これはレトロカメラウイルスの罹患者やその予備軍の病勢を鎮めるためばかりでなく、初心者にも格好の読み物だろう。
 
 ストーリーの中で、正面から見て似ているからいまの女性たちがミッキーマウスと呼ぶ、名玉エクターレンズが付いた米国コダックのシグネット35がでてくるが、エクターレンズに刻まれた記号がストーリーの謎を解く鍵ともなっているからまた面白い。
 
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 ところで、コダックは、「CAMEROCITY」の文字を「1.2.3.4.5.6.7.8.9.0」に対応して、最初の2文字(アルファベッド)をレンズの製造年の下二桁として刻んだ。

 だからわたしのシグネット35に付いたエクターレンズには「RE」となっているから、製造年は、1954年製となる。

 「カメラと同じように、人もまた、ひとりひとりの心の中に暗い部屋を持っているのかもしれない。瞬きをすると、一瞬の光がその部屋の中に取り込まれていく。嬉しいことも、悲しいことも、普段は開くことのない部屋だけれど、本当は、誰かに開けられる日を待っている。、、、、、」

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 作者は、実際に日本カメラ博物館ですべてのカメラを手にとって確かめ、館の学芸員の監修も受けているというから、相当のリアリテイもある。

 なお、作中出現するカメラは次の通り。
 ドリュー、コダック・シグネット35、ピクニー、ベッサⅡ、ピンホールカメラ、ハリネズミカメラ、リコーオートハーフ、ポラロイドSX-70、ニコンF、ステレオグラフィック、ブロニカS2,ローライドスコープ、ライカⅢf



 


〇 今日の一献 Ciao l'Italia その7の2 イタリアで見たミステリアスな風景

―― Ciao l'Italia その7の2 The Italian strange or mysterious scenery.

● その5 バチカン教皇の遺体保存(エンバーミング)と公開

 わたしがこの旅で最も奇異に感じたのが、このバチカン教皇の遺体保存の公開展示だった。

 イタリア観光の最後の見所の観光地として、バチカンを訪れたのだが、この中心となるサン・ピエトロ寺院大聖堂には、1963年に死亡したローマ教皇ヨハネ23世の遺体が、顔を蝋のマスクで覆われクリスタルガラスのボックスに収められて公開されている。

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 バチカン教皇庁のサン・ピエトロ大聖堂

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 公開されている教皇ヨハネ23世(John XXIII)の保存遺体
 1881年11生まれ。ローマ教皇在位:1958年~1963年6月3日。他教会や他宗教との対話に積極的であったといわれる。


 もともと「死者の復活」を信じるカトリックでは、教会法で「火葬せよとの遺言は、これを執行してはならない。」と定められていたことから、遺体の土葬が一般的であったけれど、国によっては土葬の場所や死んだ場面などによってはその支障が出てきていた。生前にローマ教皇ヨハネ23世が召集した第2バチカン公会議は、教皇が会期途中で世を去った1963年に「火葬はカトリックの教義に反しない。」との見解を示し、このとき事実上火葬は解禁された。

 だから、1963年に死亡したヨハネ23世の遺体はもともと埋葬されていたが、サン・ピエトロ大聖堂に移送されるために2001年になって発掘されたとき、防腐処理され三重の棺の中で保存されていた遺体は、ほぼ元の姿のままで発見されたことから、以来ここに公開されているのだという。

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 日本の宗教では、輪廻転生はあっても肉体の復活という概念はないから、遺体は専ら土に返すことを主眼にして埋葬方法も土葬や火葬にこだわることはない。ましてや防腐保存処理(エンバーミング)までした遺体を公開する習慣はまずもってないのだから、こうした光景を見るとやはり戸惑いを隠せない。

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 サン・ピエトロ大聖堂の地下の埋葬施設を、透かして見えるように床にはめ込まれた蓋。
 そもそもカトリックの教会は、聖人の遺体が埋葬された上に建てられる施設だった。


 ところで、遺体の公開といえば、永久保存を目的としたレーニン(ロシア)、ホー・チ・ミン(ベトナム)、毛沢東(中国)、金日成・金正日(北朝鮮)の遺体などがあるが、これらは多分に政治的目的があると思われる。


● その6 イタリアのコウモリ傘のような「ローマの松」

 ミラノ、ヴェネチア、フェレンツェと旅してローマに入ったわたしは、最初にローマの遺跡、コロッセオの回りなどの並木を見たとき、ここでは選定方式として下枝と木を楕円形に傘のように丸く刈り取ってあるのだと思っていた。

 しかしこれは剪定したからこうなるのではなく、成長して30年ほど経つと自分で傘を広げたような独特の樹形になる松の種類で、イタリア、フランスやスペインなど地中海沿岸地方に分布する「イタリアカサマツ」(Italian stone pine)というのだそうだ。

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 コロッセオの回りの並木の「イタリアカサマツ」。
 「ローマの松」とも呼ばれる。

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 ローマ市内の「ローマの松」の並木

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 バチカンの城壁の上に立つ「ローマの松」


 日本で見慣れた松は主にアカマツやクロマツが有名で、成長すると幹や枝が横に曲ったり張り出したりするのが普通で、松というのはその樹形の姿の美しさを愛でるものだとわたしは思っていたから、こうゆうものを見ると少し戸惑うことになる。
 
 『ローマ人の物語』などをよく読み返せば、かつて古代ローマの街道にはこの「ローマの松」で並木が植えられ、旅人や進軍する兵士たちへの木陰や馬をつなぐ場所を提供していたそうだから、当時の公共施設である遺跡に通じる路の並木が笠松で、結果としてローマの市内であちこちに見られるというのもうなずけることだ。

 特にこの樹種は、成長すると高さ25mほどとなり、赤ちゃんの頭ぐらいの大きな松毬を付けるようになって、その種子はいわゆる松の実として食用となるから、イタリアではこの松の実を入れたバジルペースト(ジェノヴェーゼ)やケーキ、ビスケットなどにも使われている。

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 ローマ郊外の「ローマの松」の林

 なお、イタリアのボローニア地方出身の作曲家オットリーノ・ レスピーギが作曲した管弦楽曲「ローマ三部作」の内の交響詩に「ローマの松」(1924年)というのがあり、1部が「ボルゲーゼ荘の松」、2部は「カタコンブの松」、3部は「ジャニコロ(丘)の松」、4部は「アッピア街道の松」の4部構成となっている。

 【演奏:NBC交響楽団】 ローマ三部作 【指揮:A・トスカニーニ】
 http://nviewer.mobi/player?video_id=sm20026902



● その7 イタリアの落書き

 わたしだけに限らず、多くの人が決して快く思わないだろうと思うのは、落書きだ。
 イタリアのいくつかの都市の街中を歩いていて目に付いたのは、建物の壁などにスプレーで乱雑に描いた文字やストリートアートを気取ったグラフィティの多さだった。

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 ローマの街角の建物にスプレーで描かれた落書きの文字

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 ローマの街角


 ご存知の通り、落書き自体は洋の東西を問わず、古くから人類の抑えようのない行為の一つとして行われてきたことだというから、いつも身近に多くの貴重な文化施設や遺跡の中で暮らしているイタリア人だからといって、なにも特別に非難するような狭小な度量を持ち合わせていないはずのわたしだが、それでもあまりにも目に余る光景をそこかしこに見ると、やはり気が滅入るものだ。

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 ミラノの高速道路沿いのスロープに描かれたグラフィティ

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 ローマの鉄道橋に描かれたグラフィティの落書き


 ところで、この「グラフィティ」というのは、1970年代のニューヨークで建物の壁や列車などにスプレーなどを使って落書きすることが流行り始め、80年代になって前衛芸術として持て囃されることに至り、わが国をはじめ全世界に広がったものとされている。
しかし、前衛のストリートアートだからとか、一般の落書きとは峻別されるものといくら強弁しても、いずれにせよ公共の施設などに許しも得ないでゲリラ的に描いて逃げる行為は、器物破損に当たる犯罪行為に違いはない。

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 ヴェネッィア・サンタ・ルチーア駅に停車するFS E.464電気機関車に描かれたグラフィティ

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 ヴェネッィアの駅を出て走る客車に描かれたグラフィティ

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 ローマ・テルミナ駅に停車する列車に描かれた落書き


 また、この列車に描かれたものを、グラフィティの分類の中では「トレインボム」と呼ぶそうだが、この国ではあまりにも数が多いからか、ダイヤの都合もあって消せずにそのまま走っているように思えた。もっとも、海外の多くの国々を旅する人たちからは、こんな光景は良く見られるものですよと言われるかもしれないけれど、渡航経験の少ないわたしにはやはり強烈な印象となった。

 なお、初期のグラフィティのライターには、描く対象を公共の施設や交通機関、巨大な建物などに限るとの仁義もあったようだが、いまやライターのモラルの低下で個人商店や住宅など、どこでもお構いなしに描くようになったことがさらに問題を深刻にしているようだ。


● その8 彫像のレプリカとコピーについて 

 いまさらの話であるけれど、この国のいわゆる観光地といわれる場所には、野外のそこここに裸体の彫像などが惜しげもなく風雨に曝されながら置かれている。

 わたしがここで話そうとしているのは、公共場所での裸体作品などの展示の問題ではなく、特に野外展示されている作品の多くが原作(オリジナル)ではなくレプリカだったりコピーだったりすることについてだ。

 たとえばフェレンツェのヴェッキオ宮殿の前に立つ身の丈5.17mのダヴィデの像だが、ミケランジェロが1504年に制作した当時には、オリジナルがここに置かれたそうだけれど、いまは1910年に設置された「コピー」に代わっていて、原作は1873年から市内にあるアカデミア美術館に展示されている。
 だから、フェレンツェの街を一望にできるミケランジェロ広場の中心にある銅製のダヴィデの像も、もちろんオリジナルではないと聞けば、なんだ模造品かと見る者は失望するのだろうか。
 
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 ヴェッキオ宮殿前のダヴィデ像(左)とミケランジェロ広場の銅製のダヴィデ像(右)

 つまり、野外展示することで、貴重なオリジナル作品が風雨や時には暴漢によって毀損される危険を避けるため、それに代えてレプリカあるいはコピーを設置することが許されないと考えるべきだろうか。
 現にダヴィデの像も1527年の反メディチ革命時に、暴徒によって左腕を損壊しているし、美術館に所蔵された後でさえ1991年には、観覧者によって左足を破壊され修復が行われている。

 ところで「レプリカ」と「コピー」とは、どう違うのだろうか。

 「模刻・模写」という言葉がある。いわゆるコピーだが、古くはギリシア時代やローマ時代には美術蒐集品のために美術品を複製したり、芸術家や造形職人の技術習得の必須の手段として盛んに行われており、その価値はオリジナルとコピーには差がなかったといわれる。
 しかし時代が下ると、芸術鑑賞・作品蒐集の要求が高まるにつれて贋作・偽作としてのコピーの問題が現れてくるようになる。
 
 一方「レプリカ」も、ローマ時代には、ギリシア彫刻の模刻を意味していたが、ルネサンス期になると原作者自身やその工房で制作されたオリジナルの写しを意味するようになり、その作品の価値はオリジナルとほぼ等価と考えられていたそうだ。
この流れから、現代美術においても、レプリカとは原作者やその監督のもとに再制作された作品あるいは原作者から再制作することを許可・奨励された作品を指すようになったという。

 もう一つ、
 これは『ラオコーンの像』で、左はバチカンのピオ・クレメンティーノ美術館に所蔵されている大理石製の古代ギリシア彫像だ。1506年にローマの遺跡、ネロ皇帝の宮殿の近くから発掘されたもので、紀元前40年ごろの作品だといわれ、ミケランジェロに鑑定させた教皇ユリウス2世が入手したものだ。

 右は、前にも書いたフェレンツェのウフィツィ美術館に展示されているコピーで、1515年の戦いで勝利したフランス国王の要求に、この像を引き渡すことを惜しんだ教皇レオ10世がコピーを造らせたものの、結局は要求を無視してフランスへ送らなかったことで残ったものだ。

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 それでは、オリジナル(左)とコピー(右)の違いを見てみよう。
 オリジナルでは、発掘された時のそのままに、ラオコーンの右手と息子たちの右手や海蛇の胴体が部分的に欠落しているが、レプリカではそれが補われ、さらに完全復元された像になっている。
 また、ラオコーンの復元された右腕の所作は、手首が欠損しているとはいえオリジナルの右腕のそれとは明らかに違っており、またオリジナルに見られる左手で掴まれている海蛇の頭は、コピーでは欠損していることに気がつかれたことだろう。

 実は、16世紀にローマで発掘されたときのラオコーンの像は、すでにラオコーンの右腕や左右の息子たちの腕や手は損壊し、失われていたそうだ。
 教皇ユリウス2世が、この欠損した腕がどのようなものだったかを当時の彫刻家たちに考察・提案させ、ラファエロに審査させた結果、ラオコーンの右腕は大きく高く伸ばされていたものとした方が英雄に相応しいと判断されたことから、このオリジナルは右腕が伸ばされた状態で修復され、あわせて二人の息子の腕と手も復元された。
 だから、教皇レオ10世がコピーを造らせた時には、このオリジナルの右腕は伸ばされた状態で、息子達の腕と手もあったわけだ。

 しかし、20世紀の1906年になって、ローマで発見された大理石の右腕の彫刻の破片が、1950年になってようやくオリジナルの右腕の一部だと判明し、この曲がった右腕が取り付けられるとともに、16世紀の修復で取り付けられた息子達の腕は再び除去され、現在の姿となっているという。

 このように、一口にレプリカやコピーなどといっても、それぞれに様々な物語で溢れており、劣悪な模造品とは違って、オリジナルに真摯で忠実に制作されたものの美術的価値は、十分に認められるべきものだろうと思うのだ。


 なお、美術品のレプリカ、コピー、フェイク、イミテーションなどの論考については、西野嘉章氏(東京大学総合研究博物館)の『真贋のはざま』に詳しい。

真贋のはざま cover

 『真贋のはざま』
 西野嘉章 東京大学総合研究博物館 平成13年10月

 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/index.html



〇 今日の一献 Ciao l'Italia その7の1 イタリアで見たミステリアスな風景

―― Ciao l'Italia その7の1 The Italian strange or mysterious scenery.

 所変われば品変わるといわれるけれど、今回のイタリア旅行を体験してみて、この国で特にわたしが感じた奇妙・珍妙でミステリアスな風景や事情について、2回に分けて書いてみたい。

● その1 イタリアの水事情

 ご存知の通りイタリアは大理石の生産国で、ローマ帝国時代の古くから建材や彫刻にも豊富で美しい大理石が使われてきた。
 このことは、この国の水道水は石灰質が多い硬水(カルシウムやマグネシウムの含有量が高い)で、また地方によっては砒素なども含まれているというから飲むには決して安全といえないことになり、当のイタリア人は、水道水を飲むのを避けてもっぱらミネラルウォーターを飲んでいるようで、水は買うものというのが常識になっている。
 
 では、硬水のイタリアの水道水は本当に飲めないかというと、飲んでもお腹をこわすことはほとんどないそうだけれど、水道水を沸かしてみると白濁し始め、仮に200mlの水を蒸発させると大匙2杯くらいの石灰が後に残るそうだから、そういった水を飲み続ければ石灰が溜り血管が詰まったり、虫歯の原因にもなると聞けば、もうこれは避けたほうが賢明だとの結論となる。

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 ミラノのスフォルツェスコ城内の水道栓

 一方、日本の水はというと、水道水は軟水で飲料として浄水処理が徹底されており、水道の蛇口を捻って流れ出る水を普段何の不思議とも考えずに飲んでいるから、日本人の感覚からするとイタリアに限らず外国の水事情の面倒くささは、旅行してみるとかなりのストレスとなり、ようやく日本の水のありがたさを思い知ることになるのだ。
 (昔ベストセラーとなった本の中に、「日本人は、水と安全はただだと考えている。」『日本人とユダヤ人』というのがあったと記憶しているが、それから約半世紀、今も日本人の感覚は変わらない。)

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 ミネラルウォーターのプラスチックボトル
 現在、イタリアでは200近い会社が、250種類以上のミネラルウォーターを生産しているそうだ。


 だから、外国人のわたしたちもイタリアではミネラルウォーターを飲むことになるのだが、レストランでは500mlのボトルがコークやセブンナップと同じ値段の4ユーロ、街中の売店でも1ユーロはするから、そのうち旅に慣れてきたら、わたしたちはスーパーへ行き半額以下のミネラルウォーターを手に入れることになる(気のきいたホテルでは、部屋の備え付けボトルは無料だ。)

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 レストランでは水を注文するとミネラルウォーターのボトルが出てくる。

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 街中の商店で売られているミネラルウォーターのボトルの山

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 ローマ市内の道路脇の水道栓


 しかし、飲むのは控えるとしてもこのイタリアの強い硬水、洗濯をすると干した後の衣類は石灰分が残りゴワゴワするそうだから、上着だけでなく肌着にまで全てアイロンをかける必要があるから主婦の毎日の苦労は大変だという。また、普段入浴・洗面などに使う水も当然硬水だから、長年使っていれば決して肌に良い訳はないと思う。
 この点、歳をとっても変わらない日本の女性の肌の肌理の細やかさは、わが国の水が軟水であることのお陰であるとも言われる。

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 なお、かつてのローマ帝国領の全ての都市では、水源から水道橋などを使って水を供給する水道が整備され、家庭や公共施設などへの引込には鉛の導水管が使われていたから、「帝国の崩壊は鉛毒だった。」という新説を唱えた学者が居たそうだが、鉛管は使っているうちに内側に石灰が沈着し、結果的には石灰でコーティングされることで、実際には鉛毒の実害はなかったそうだ。

 ところで、団塊の世代の方々は覚えておられるだろうが、かつて日本の水道管は家庭の引込み管は石綿管と鉛管が使われていた。先進国とされる日本では、健康への問題が喧伝される前に今ではすべてPBCパイプに置き換わっていると思っていたけれど、最近の新聞によると、全国でまだ347万世帯、5,752kmが使われており、家庭や事業所の敷地内の水道管の取替えは自費で行わなければならないからか、まだまだ古いままで残っているというから驚きだ。


● その2 届かない、、、イタリアのトイレ(小便器)事情

 先に水の話が出たから、ついでに水つながりでイタリアのトイレ(小便器)事情について書いてみる。
 女性の皆様にはご関心の薄いことだけれど、男は小用を足すには普通、トイレの壁にかかった朝顔形の小便器に向かって立つことになる。

 この通常陶器製の便器が壁に設置してある高さは、その国の男性の身長から割り出して位置が標準化されているとのことだが、今回の旅でトランジットした北欧のスオミの国のヘルシンキ国際空港のトイレの小便器は、わたしにとってはかなり高かった。
 たしかにフィンランドを始め北欧のバイキングの末裔の男たちの身長は高いから、これは致し方ないのかもしれないけれど、それでも世界の民族が使う国際空港なんだから、、、、、、と思う。

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 フィンランドのヘルシンキ国際空港ビル内のトイレ

 しかしだ。イタリアに到着して、直面したのは日本人と背の高さはそんなに変わらないイタリア人なのに、なぜか観光地やレストランなど、どこへいっても件の器の位置が高くて困ったことだ。

 なぜか朝顔形の器ばかりが高い位置に設置されており、日本のような床まで伸びた汎用型の器は見当たらないのだ。いったい、当のイタリア人の背の低い男たちは困らないのだろうか。

 もっとも身長172cmのわたしは、それでも何とか届いて用を足せたけれど、身長の低い脚の短い日本男子の多くは背伸びしても相当苦労するのではないかと思う。
 まして子供はどうするのかなとまで考えてみる。
 (まあここは潔く降参して、割り切って個室を使うしかないのだろう。)

 帰国してから、改めて自分の背で測ってみたのだが、その高さは80cmぐらいは裕にあったのではないかと思う。

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 ミラノの『ガリレオ リストランテ』のトイレ

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 フィレンツェのリストランテ『サバティーニ』のトイレ


 トイレ事情といえば、個室の座式のトイレについては、イタリアの公共施設などにあるトイレには便器の上の便座がないところが普通にある。この理由は簡単で、便座は付けてあると盗まれるから初めから付いていないということだそうだ。さすがレストランや商店では便座があったから安心して使えた。
 しかし改めて考えてみれば、全世界から毎年何千万人もの観光客が押し寄せるイタリアなのに、なぜかトイレ事情については失望させられるのが普通のようだ。

 特に、中世やそれ以前の歴史的街中の施設では、下水道施設などもその当時の遺跡をそのまま使っている場合が多いから、現代の使用頻度と使い方では軽く当時のキャパシティを超えて流れも悪くなり、現地の紙はそもそも硬いから詰る恐れもあって流さないで個室内に備え付けたゴミ箱に入れるなど、遺跡の中で暮らす者や訪問者にとっては、トイレについてもそれなりの我慢し守るべきマナーがあるのだと考えるしかないのだろう。

 さて、日本に帰ってきて、早速一番初めに使ってホッと安心できたのは、言うまでもなく空港のトイレだった。

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 中部国際空港ビル内のトイレ

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 中部国際空港ビル内のトイレ


 なお日本では、『高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律』、いわゆる『バリアーフリー法』があって、その施行令で「不特定かつ多数の者が利用し、又は主として高齢者、障害者等が利用する男子用小便器のある便所を設ける場合には、そのうち一以上に、床置式の小便器、壁掛式の小便器(受け口の高さが35cm以下のものに限る。)その他これらに類する小便器を一以上設けなければならない。」などと細かく規定されているそうだ。
 
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 ついでに
 フィレンツェの宿泊ホテルの室内のトイレ
 洋式トイレの向こうには、かの有名で醜悪な古式に則ったビデの器が並ぶ。
 今回の旅行中に宿泊したどのホテルのトイレ兼浴室にも、洗面台と便器とビデが三位一体で備わっていた。
 日本のウォシュレットの先進性、快適性、すばらしさとは到底比較にはならない。


● その3 イタリアの喫煙事情

 近頃、喫煙者にとっては世界的に肩身の狭い状況にある。
 イタリアでも2005年1月に多額の罰金つきで「新禁煙法」なるものが施行されて、学校や駅、病院などの公共施設や飲食店、企業、ホテル、ゲームセンターやディスコなどの娯楽施設まで、屋内(喫煙ゾーンが設置されていれば可。)での喫煙が禁止されるようになった。

 しかし、屋内では厳格に禁煙となっているのだけれど、屋外ではそれが問われないことになっているのが実は曲者なのだ。

 イタリアの観光地の街角や駅の構内などに設置されたゴミ箱には、ほとんど必ずといってよいくらい灰皿が付属している。
 また街角の雑貨屋でタバコは売られているし、治安のよい日本以外ではあまり見られないはずの自動販売機も、タバコの自動販売機だけはしっかりあるから、結果として愛煙家が屋外で喫煙(歩きタバコも)する姿が普通に見られることになる。

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 街中のいたるところにある様々なデザインのゴミ箱には灰皿が付いている
  
 イタリア人は食事の合間にタバコを吸いたくなったら、レストランの外に出て吸ってから戻るようだし、ただでさえ経済状況の厳しいイタリアが、世界から金を携えて来る大事な観光客に対して、どだい分煙や全面禁煙の規制まではできないようだ。

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 フィレンツェやローマの街角
 結局、街中での喫煙は許されている。


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 フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅
 フィレンツェS.M.N駅のホームに設置されたゴミ箱には灰皿が付いており、分煙されていない。また、初めは理解できなかったことだが、喫煙マナーもまったく守られていないからか、列車の発着ホームの下の線路は、タバコの吸殻で一面が積もっている。

 灰皿がないミラノ国際空港ビルの車寄せでは、屋外ということで罰金が課されないからか、それはそれは、もっと酷いことになっていた。



● その4 イタリアの観光地の警備事情

 イタリアの観光地や街角で目に付いたのは、警備する警官の多さだった。

 旅行ガイドブックの説明や添乗員からの話で、イタリアでは特に観光施設などではスリや泥棒が多いから貴重品の入ったバックなどには注意するように言われ、特にパスポートがなくなればその再取得のために旅程を離れて自費で専念するという不幸に見舞われるなどと、犯罪手口の解説とともに相当脅されながらの旅が始まった。

 先に書いたように、日本人は「安全もタダだ。」と考えている節があって、たしかに治安のよい日本では長年日本に住んでいると外国人といえども警戒心が弛緩してしまい、自国に帰ってから被害に遭って驚くことになるとも言われる。

 とはいえ、まあそれなりに気をつけていればいいでしょうと高をくくっていたわたしも、フィレンツェのウフィツィ美術館をガイドしてくれた日本人女性が、イタリアに10年間住んでいて3回もスリに遭った事があると聞いて、さすが少し考えを改めたのだった。

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 フィレンツェのシニョリーア広場の真ん中で警備に当る女性警官

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 フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で警備するパトカー


 実は、スリ・強盗とかいった窃盗犯罪も多いイタリアだけれど、それだけではなくて、むしろ豊富に存在するイタリアの貴重な文化遺産を守るということに主眼があると思われる。
 1972年5月にはヴアチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジエロの傑作、ピエタの像のマリアが精神異常者に破壊されたのを始め、1993年5月にはウフィツィ美術館の近くで自動車爆弾が爆発し通行人らが死亡・重軽傷を負い、美術館の建物や収蔵品などが被害を受けた事件など、文化的に貴重な建物や美術品の破壊・損傷事件の発生は枚挙に暇がないようだ。
 
 このため観光地などの多いイタリアでは、警備が警官だけでは手が足らず、ミラノやヴェニチアの観光地でも制服姿を見かけたように、軍の兵士もこれに当たっているとのことだった。

 なお、ウフィツィ美術館やヴアチカンなどの施設への入館に当っては、自衛策として持ち物検査が行われているし、こうした警官などが警備する姿が実は大きな抑制力となっているのだと思われる。(わが国でも、最近訪れた東京上野の国立博物館では、入館に当って簡単な所持品検査を行っていた。)

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 フィレンツェの街中を巡回する警官

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 ヴェニチアの波止場で巡回する警官

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 ローマのトレビの泉の前で警戒に当るパトカー


 ところで、そういった注意のおかげもあってか、わたしたちの旅行グループでは、旅行中になにもトラブルに遭遇することもなく、無事に旅行を楽しむことができたのは幸いだった。




〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の4 フィレンツェ

―― メディチ家の支配後のフィレンツェと現代の賑わい

 トスカーナ大公国となったフィレンツェは、1743年にメディチ家の最後の相続人アンナ・マリア・ルドヴィーカ・デ・メディチ(女性)の死去であっけなく断絶する。

 その後、またもフィレンツェは、数奇な支配の歴史を辿ることになる。
メディチ家の断絶でその支配から解放されるはずが、今度はフランスのロレーヌ地方の支配者ロレーヌ公フランチェスコ(フランツ)の支配下に置かれ、その夫人がオーストリアのマリア・テレジアであったことから、実質的にハプスブルク家の影響下に入ることになる。

 一時期、ナポレオン時代にフランスの領土となるが、領土交換により再びオーストリア領となり、1860年になってイタリア王国に編入されることで、ようやく独立を勝ち取ることになるのだ。


○ レプッブリカ広場
 フィレンツェの中心に位置する「レプッブリカ広場」(共和国広場)は、古代ローマ時代には公衆浴場や公共施設が集まったフォロ・ロマーノだった。

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 1861年にエマヌエーレ2世がイタリアを統一し、1865年からの5年間、イタリアの首都がトリノからフィレンツェへ移され1866年に現在の姿の「レプッブリカ広場」の建設が始まり、広場の象徴にもなっている大きなアーチ門が作られた。かつては市場があり、旧市場とも呼ばれる。

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 この広場の中心には、ドナテッロ作の「豊饒」像が載った「豊穣の円柱」と呼ばれる円柱があり、子供も楽しめるメリーゴーランドと共に、広場の目印となっている。
 (実は、1721年にドナテッロの「豊饒」は、円柱から落ちて粉々に破壊され、現在あるのはジョバンバッティスタ・フォッジーニの作品のコピーだという。)

 広場の南には、百貨店ラ・リナシェンテがあり、ここの屋上にある屋外の喫茶店からはフィレンツェの街のパノラマが楽しめる穴場のスポットとなっているから、機会があったらぜひお勧めしたい場所だ。
 

○ 新市場のロッジアの「幸運の子豚」
 現在の共和国広場にあった市場を旧市場と呼ぶのに対して、こちらは新市場(メルカート・ヌオーヴォ)と呼ばれ、その回廊(ロッジア)はかつて絹織物や毛織物になどが売られていたそうだが、現在は革製品の屋台などが並ぶ安価なショッピングの場となっている。

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 この回廊(ロッジア)の南側脇にはブロンズ製の「幸運の子豚」と呼ばれるフィレンツェのシンボル・イノシシの像が設置されている。
この像は、は1640年頃ピエトロ・タッカが制作したもので、なぜかイノシシのはずが当時から子豚の愛称で呼ばれてきた。

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 「このイノシシの像の鼻を撫でると幸運がもたらされる。」との言い伝えがあり、金色に光った鼻を撫ぜる観光客で賑わっている。
このイノシシの像はレプリカで、オリジナルはバルディーニ美術館に保管されている

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 アルノ川下流方向のアメリゴ・ヴエスプッチ通り

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 アルノ川に設けられたサンタ・ローザの堰

〇 フィレンツェの街並み
 フィレンツェは町全体が美術館とも言われ、中心部には14世紀~16世紀の石造りの重厚な建造物が立ち並び、壁には立派なレリーフや聖人の像などの装飾を持つ建物が多い。
 このため、フィレンツェは歴史的な町並みが広範囲かつ集中的に保存されており、ルネッサンスの芸術、文化を眼前にみることができるという理由で、1982年に「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。
また、1986年には欧州文化首都に選ばれた。

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 市街の中心部は、「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。だからどこへ行っても100年、200年前の街並みがつづく。

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● 窓のルーバー付き雨戸
 ここフィレンツェに限らず欧州の街中には、狭い路地を挟んで階数の多い建物が建ち並ぶ。
 だから、ほとんどの窓には、通風・採光を確保しながら外からの視線を遮ぎり、お互いのプライバシーを確保できる、観音開きのルーバー付き雨戸が付けられている。

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 ところで、この雨戸の中程部分が撥ね上式になっていることの効用はわたしには良く分からないが、強いて推測すれば、部屋の住人が紐に吊るしたバスケットを使って外から買い物をするときや、窓の下の通りを覗くときには、プライバシーを最大限確保しながら最小限の開口部として使うのではないだろうか。

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 建物の全ての窓に付いたルーバー付き雨戸の効用は、とかく単調となりかねない階数の多い建物の壁面のアクセントとして、その建物を美しく飾っているように見える。

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○ 路面電車(トランヴィア)が走る市街
 市域の道路混雑の緩和のため、2010年2月に開通したばかりの路面電車(トランヴィア)。
 早朝5時から夜の12時まで運行され、14の亭留所があり、「レオポルダ駅」、カッシーナ公園の中を横断してフィレンツェのベッドタウン「スカンディッチ」、「中央駅」を往復運行している。

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○ 路上画家・マドンナーロの作品鑑賞
 フィレンツェの街中を歩いていて見かけるのは、舗装道路にチョークで見事な絵を描く画家の姿だ。
 レプブリカ広場からヴェッキオ橋に続くカリマラ通りあたりで多く見られるこの画家たちは、マドンナーロ(Madonnaro)と呼ばれ、イタリア語で「聖母を描く人」または「聖母を描く仕事」を意味する。

 中世のヨーロッパでは町から町へ移動しながら、教会前の広場などで絵を描いて、道行く人に食べ物やお金をもらって、生活していた人たちもいたようで、エル・グレコがイタリアからスペインへ行くときに、路上で絵を描きながら旅を続けたという逸話もあるという。

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 現代では、ストリートペインティング、チョークアートなどと呼ばれ、イタリア・マドンナーロ協会の主催でマントヴァ近くの教会広場で地面に絵を描き、技術を競うコンクールも開催されているという。

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○ 街中のお土産の雑貨屋台とスイーツと
 日本でも有名な、童話『ピノッキオの冒険』の作者カルロ・コッローディが、このフィレンツェ生まれということに因んでか、町中にはピノッキオ・グッズを扱うお店が多い。
 このショップは、シニョーリア広場からサンタ・クローチェ教会へ抜ける通りの左側にある。

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 屋台でも様々な雑貨に混じって、ピノッキオの操り人形が売られている。

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 イタリアの町ではどこへ行っても女性好みのジェラードアイスクリームの店と種類は多い。

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○ フィレンツェ市民の食材は
 サンタ・マリア・ノヴェッラ駅近くの小規模スパーのハム販売コーナー

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 この店では、タコが売られている。
 欧米人がほとんど食べないタコを、イタリア人はサラダやアッフォガートといったタコ料理にして食べる習慣がある。
 トスカーナの魚料理では、小さく切ったタコを弱火でじっくりと煮込んだカチュッコと呼ばれる伝統料理もあるという。

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 ホテル近くの中規模なスーパーの野菜売り場
 イタリア料理でよく使われるトマトやパブリカ、ブロッコリーなどの野菜が積まれている。

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▲組写真イタリア料理画像20141005 Frolence01-010

 ホテル・ラフアエロ内のレストランで夕食
 ポルチーニ入りのフエトチーネパスタ
 チキン
 カントッチ(ビスコッテイ)



〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の4 その8 フィレンツェからローマへの列車の旅
―― イタリアが誇る振り子超特急「銀の矢」"FrecciaArgento"ETR600型 へつづく
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〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の3 フィレンツェ

―― マキャヴェッリが見つめた、共和国の存亡

 塩野七生の『わが友マキャヴェッリ』1~3巻
 16世紀のフィレンツェに生まれ、共和国に官僚として仕えたニコロ・マキャヴェッリ。
 共和制、君主制など小国に分かれたイタリアと西ヨーロッパの激動する政治状況の下で、理想的な政治体制を求めて近代政治学の古典といわれる『君主論』を著した彼の目を通して見た、フィレンツェの存亡の歴史物語。
 マキャヴェッリは「なにを見たか」(1巻)、「なにをしたか」(2巻)、「なにを考えたか」(3巻)の塩野文学の3部作。

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 フィレンツェの起源は、古代ローマ時代にさかのぼり、5世紀にローマ帝国が滅亡するとゴート人、ビザンティンのギリシア人、ランゴバルド人、カロリング朝のフランク人によって支配された。

 これら外国支配者の最後のトスカーナ辺境伯マティルデ(女性)が1115年に死んでフィレンツェは共和国となるが、1434年以降は、共和国とは名ばかりで、実質的にはメディチ家の一族が支配する状況が続き、1530年にメディチ家の当主アレッサンドロがフィレンツェ公という称号を名乗って共和制を廃止するまで、都市国家フィレンツェ共和国は存続した。

 しかし、1537年にアレッサンドロが暗殺されると、あとを継いだメディチ家のコジモ1世が混乱を鎮め、69年以後にはトスカーナ地域全体を支配する領域国家「トスカーナ大公国」となり専制君主制が1743年まで続く。

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 フィレンツェの街並み
 (グーグル・アースによる衛星写真)
 1434年から1737年まで、途中の曲折はあったものの実質的にフィレンツェを支配したメディチ家の街だ。


 ウフィツィ美術館で美術品の洪水を浴びて、ウフィツィ酔いが覚めやらぬままに、石畳のシニョーリア広場に出てくると、右手にマキャヴェッリも通った見上げるばかりの「ヴェッキオ宮殿」の建物が聳え、左手には「ランツィの回廊」が横たわっている。

〇 ヴェッキオ宮殿(パラッツォ・ヴェッキオ(古い宮殿))
 シニョーリア広場の南に面する位置に共和国の政庁舎として、1299年から1314年にかけて『芸術家列伝』の著者としても知られるジョルジョ・ヴァザーリの設計で建設された。

 弁護士の息子マキャヴェッリは、1498年に共和国の内閣官房副長官補に採用され1506年に官僚の職を失うまで、当時はこの政庁舎へアルノ川の対岸の自宅からヴェッキオ橋を渡って毎日通勤していたはずだ。

 またメディチ家も、アルノ川の対岸に建設したピッティ宮殿へ移るまでの1540年から65年まで住居としていた

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 中2階を含めて4階建ての内部は、ルネサンス様式の豪華絢爛な装飾が施され、当初は、共和国の「政庁舎(シニョーリア)」の名称から「シニョーリア宮殿」と呼ばれたが、メディチ家のコジモ・ルイ・ヴェッキオが住居としたことから『ヴェッキオ宮殿』と呼ばれるようになったという。
 現在も、フィレンツェ市庁舎として使われている。

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 宮殿の中心には、壁に大時計が取付けられた「アルノルフォの塔」と呼ばれる高さ94mの鐘楼があり、物見台と鐘を鳴らして時を告げる役割を果たしている。建物全体は、ゴシック様式の外観で中世の堀を有しない威圧する砦(城砦建築)のような印象を受ける。

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 宮殿の塔の頂上には金箔を張ったブロンズ製のレリーフを2枚合わせた獅子の「風見獅子」と、頂上にはフィレンツェ市の象徴であるアヤメの花が付いている。

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 宮殿入口の上部に2頭のライオンの像がある。
 ライオンは、悪霊から守るシンボルとされ、フィレンツェの象徴として様々な場所で見ることができる。

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 宮殿と共和国の行政機関の事務所だったウフィツィ美術館とを結ぶ、中空の連絡橋。


〇 『ルネサンスとは何であったのか』
 1,000年続いた中世キリスト教の支配で、人間の裸体をも自由に表現した古代ローマ・ギリシア時代の彫像、絵画などが破壊されたが、14世紀のルネサンスの古典・古代文化復興運動によって、あらためて芸術の花が開くことになった。

 当初メディチ家が支配するフィレンツェから始まったルネサンス運動の中心地は、その後メディチ家出身のローマ法王が支配するローマへ移り、次に共和制が最後まで続いたヴィエネチアへと遷ることになる。

 しかし、16世紀になると、さすがその熱も冷め始め、宗教裁判などのキリスト教の反動により終焉を迎える。(しかし、このキリスト教の破壊運動にもかかわらず、当時心ある篤志家が、彫像などを土に埋めたりして秘匿したものが多数あったそうだ。)

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 公共の場であるヴェッキオ宮殿の入口の左右に立つ男女の彫像の下腹部が、イチジクの葉で隠されているのが、その反動を象徴していように思える。

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 また、宮殿入口前には左にミケランジエロ作の「ダヴィデ」の像と右にはバンディネッリ作「ヘラクレスとカークス」の像が置かれている。

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● 「ダヴィデ」の像(コピー)
  ミケランジエロ作 1504年
 高さ5.17m。この像のオリジナルは、100年前にアカデミア美術館に収蔵されている。

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● 「ヘラクレスとカークス」
  バッチョ・バンディネッリ作 1533年
 1530年当時のメディチ家の当主アレッサンドロが、共和制を廃止しフィレンツェ公という称号を名乗った。
 バンディネッリはメディチ家お抱えの彫刻家で、この像は、メディチ家(神話の英雄ヘラクレス)が共和制(怪物カークス)を倒したことを象徴しているという。
  しかし、ミケランジエロの作品と並んでしまったことの不幸からか、酷評が絶えない。

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● 「ネプチューンの噴水」
  バルトロメオ・アンマンナーティ作1575年
 宮殿左隅のネプチューンの噴水は、完成時には別名「大きな白いでくのぼう」と呼ばれ酷評された。
 足元には、青銅製のギリシア神話の下半身が山羊の怪物、サチュロスがいたりする複雑な構成だ。

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● 「コジモ1世の騎馬像」
  ジャン・ボローニャ作 1594年
 コジモ1世の息子フェルディナンド1世が、初代トスカーナ大公であった父親を称えるためにメディチ家のお抱え芸術家、ジャン・ボローニャに制作させた青銅像。
 メディチ家に気に入られ、他国に取られることを恐れてフィレンツェから出ることを禁じられるほどだった、ジャン・ボローニャの作品は多い。

〇 シニョーリア広場とランツィの回廊の彫刻群
 この広場は、ヴェッキオ宮殿前に広がるL字形の広場で、かつてのローマ時代には都市のフォーラムだった。
15世紀にはフィレンツェ政界の抗争とキリスト教会の勢力が台頭し、1497年にはメディチ家を追い出した扇動修道僧サヴォナローラが、書籍や贅沢品をこの広場に集めさせて燃やした「虚栄の焼却」が行われた。
 しかし、ローマ法王との確執に負け民心の離反を受けた彼は、1498年にこの広場で処刑され、メディチ家の支配が復活する。
この時代の広場の舗装は、現在の石舗装ではなく、赤いレンガだった。


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 ヴェッキオ宮殿前のシニョーリア広場とランツィの回廊


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 広場の南側にある巨大なアーケードのランツィの回廊は、公的な式典や市民の集会を行う場所として、ベンチ・ディ・チョーネとフランチェスコ・タレンティが1376年から1382年にかけて建設したもので、幅広いアーチはコリント式柱頭のある束ね付柱となっており、正式名前は「シニョーリアのロッジア」という。

 かつては、共和国の僭主、メディチ家の息子たちが、この広場で行われる式典などを観覧したが、後に神聖ローマ皇帝軍がローマへ遠征する折に、ここにドイツ人傭兵(ランツィ・ケネッティ)が野営したため、「ランツィのロッジア」とも呼ばれるようになった。

 現在は、古代およびルネサンス美術彫刻群の野外展示場になっている。

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 彫刻群の野外展示場になっているランツィの回廊

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● 「獅子の像」古代ローマ時代の作品
 正面の階段を上がったところにフィレンツェの象徴である2体の大理石の獅子像がある。向かって右のこの像は、古代ローマ時代のもの(向かって左はフラミニオ・ヴァッカが1598年に制作したもの。)。
 もとはローマのヴィラ・メディチにあったが、1789年にここへ移設された。

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● 「メデューサの頭を掲げるペルセウス」
  ベンヴェヌート・チェッリーニ作1554年
 ギリシア神話のペルセウスが、髪の毛が蛇で目を見ると石にされてしまうというメドゥーサを退治して、血が滴り落ちる首を掲げるブロンズ像作品。
 もともと金細工師の職人出身の彫刻家で、ヴェッキオ橋の上に彼の胸像がある。

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 大理石の台座には、四面にジュピター、メルクリウス、ミネルヴァ、ダナエーのブロンズ製の小像が配置され、レリーフはペルセウスのアンドロメダ姫の救出を描いている。
 これは複製で、オリジナルはバルジェロ美術館に所蔵。

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● サビニの女たちの略奪」
  ジャン・ボローニャ作1582年
 ランツィの回廊の右端に設置された、3人の人物が複雑に絡み合った彫像は高さ4.1mあり、ジャン・ボローニャの最高傑作とされる。
 フランドル生まれの建築家だが、フィレンツェに移り住んでからメディチ家の重要な宮廷彫刻家の1人となったジャン・ボローニャが、古代ローマの伝説を基に、当時のフィレンツェで過去最大の白い大理石の塊から、「あらゆる側面からの鑑賞に耐える、上に向かう螺旋状の動きを持った像。」を制作したもの。1583年にここに設置された。

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 なるほど、しからば見る方もその意図に応えて、天に向かって螺旋状に伸びる群像をあらゆる側面から鑑賞できるようにと、一巡りして撮影し、掲載に当って、画像処理して邪魔な背景の削除を試みたのがこの組写真。大方のご感想や、如何。

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● 「ネッソス(ケンタウロス)を打つヘラクレス」
  ジャン・ボローニャ作1599年
 ギリシア神話に登場する半人半馬の怪物、ネッソスを棍棒で打って退治するヘラクレスを大理石の塊から制作したもの。
 これは1841年にここへ移された。

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● 「ポリュクセネーの陵辱」
   ピオ・フェンディ作1865年
 トロイ戦争の敵方の娘ポリュクセネーに恋をして自分の弱点を伝えたために殺されたギリシアの英雄アキレスの恨みを果たすため、息子のネオプトレモスがポリュクセネーを生け贄のために掠奪するところを、止める母親に剣を振り下ろそうとするシーンを制作した、ピオ・フェンディの作品。

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 この彫刻は、19世紀イタリア彫刻の代表作とされており、古代ローマやルネッサンス時代の作品が展示されているこの回廊の中では唯一の19世紀作品となっている。


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〇 アルノ川に架かるヴェッキオ橋
(ウフィッツイ美術館の第二廊下の窓から見たポンテ・ヴェッキオ)

 ヴェッキオ橋(古い橋)は、フィレンツェの町を東から西に流れるアルノ川に架かる最古の橋だ。
中世以前からここには橋が架けられていたが、アルノ川の氾濫などによる流失で何度か建て直されており、現在の橋は1345年に再建されたものだ。
 第2次大戦時には、交通遮断のため連合軍により全ての橋は爆撃されたが、この橋はその美しさから爆破を免れ残ったため、文字通りフィレンツェで最も古い橋となっている。

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 またこの橋は、珍しい二階建てになっているが、この二階部分はメディチ家の専用通路として、政庁であったヴェッキオ宮殿からヴェッキオ橋の上を通って対岸にあるメディチ家の住居のピッティ宮殿まで繋がる延長1kmの回廊となっており、ヴァザーリの回廊と呼ばれている。

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 この回廊は、誰にも姿を見せることなく安全に移動するための専用の通路として、コジモ1世がウフィツィ美術館の建物を設計したジョルジョ・ヴァザーリに命じて1565年に設けられたものだ。

 現在、回廊の中には700点を超える様々な時代を代表する世界中の画家による肖像画が展示されている。

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 橋の上には、金細工などの宝飾店が並ぶ
 建設当時の橋の両側には、肉屋、なめし屋、鍛冶屋が並んでいたそうだが、1593年にその騒音と悪臭を理由に、大公フェルディナンド1世が撤去させ、代わって金細工などの宝飾店を入れさせたという。

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● ベンヴェヌート・チェッリーニの胸像
 ランツィの回廊にある「メデューサの頭を掲げるペルセウス」などを制作した16世紀に活躍した彫刻家チェッリーニの記念碑。
彼はもともと金細工師の職人の出身であったことから、1800年代にヴェッキオ橋の金細工職人の組合が「金細工師の父」を記念して設置したもの。

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 ヴェッキオ橋の中央から見た、アルノ川下流方向とサンタ・トリニタ橋

〇 バッソ要塞
 鉄道駅であるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅の北側にあるバッソ要塞は、正式名を「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ要塞」といい、1537年に当時の神聖ローマ帝国の皇帝カール5世がトスカーナ公アレッサンドロ・メディチに命じて建設させた五角形の大建造物だ。

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 もともとローマ時代からこの街には城壁があり、町の拡大とともにそれを取り巻く城壁は拡張されてきた。

 このバッソ要塞は、建築家のアントーニオ・ディ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの設計で、中世の城壁のファエンツァの門の周りに建設され、多くの三角形の突端部を持つ星形要塞となっている。


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 星形要塞は、大砲など火器の発達に対応するため、15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式で、「イタリア式築城術・星形要塞」といわれ三角形の多くの突端部を持ち、それぞれがお互いをカバーするように設計されている。
その築城方式は、函館の五稜郭にも取り入れられている。

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● リストランテ『サバティーニ』で昼食
         Via Panzani, 9/a Firenze

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 グリーンサラダ
 フィレンツェ風ビフテキ
 3種のアイスクリーム
 コーヒー
Ristorante Sabatini
Via Panzani, 9/a Firenze
 Tel 39-055211559
http://www.ristorantesabatini.it/contacts.html



〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の4 フィレンツェ
―― メディチ家の支配後のフィレンツェと現代の賑わい へつづく


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