〇 今日の一献  思い出探しのマレーシアの旅 その12

――No.12 Selamat Tengahari Malaysia マレー半島の先住民族 オラン・アズリの精霊彫刻

 マレーシアの国民の太宗を占めるマレー系民族が、数千年前に中国雲南方面から来往するもっと以前に、オラン・アズリ(Olan Asli)は、約6万年前にアフリカ方面から渡ってきたものと推定されており、独自の民族言語、宗教、生活様式を保有し、今も約6万人が主に山岳地帯を居住場所にしながら移動生活をおくっている。

 こうした彼らの独特な宗教観―自然信仰(アミニズム)から導き出される精霊信仰を具現化したものが、アズリ人形といわれる一連の木製の彫刻群で、一見して奇妙・奇怪な人形と見られがちではあるが、その芸術性は高く評価されている。

 KL在住中のころ土・日の休みには郊外の山岳・密林地帯に通い、熱帯蝶の採集を趣味にしていたわたしは、いつもの採取ポイントへ行く途中で休憩のために立ち寄る場所が、Olan Asliの集落の傍にあったアズリ人形の販売店だった。

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 この頃のわたしは、ろくな知識もなく、奇妙な人形だとは思いながらも、その不思議な魅力に駆られていつしか立ち寄るごとに買うようになり、そのうちの数体が今も手元に残っている。

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 全ての作品には、製作者の氏名、年齢などの情報が書かれたタグが付けられていた。
 政府は、Olan Asliの生活水準を高めるため、定住保護やイスラム教化策を講じており、現金収入に繋がるこうした木彫のピー(アズリの精霊)の人形の制作・販売を奨励していた。

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   〇 今日の一献 熱帯の森の煌びやかな演舞者たち その1
      http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-62.html


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 今回は短期の滞在で現地には行けなかったから、代わりにKL市内の国立博物館の隣にある「Orang Asli Crafts Museum」に行ってきた。

Orang Asli Crafts Museum
 Jabatan Muzium Malaysia, Jalan Damansara, 50566 Kuala Lumpur

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  Orang Asli Crafts Museumの看板
 博物館の場所は、KLセントラル駅の南にあり、案内書では駅から徒歩10分とのことだ。現に駅の裏から博物館の建物が見える。
 しかし、タクシーを使えば遠回りになるけれど、まあものは体験として、KLセントラル駅からチケット制のタクシーを使った。
 チケット制やメーター制のタクシーは、交渉がないからなんと言っても楽で安心できる。
 
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 平日の午前。小さな施設の見学者はわたしたちだけだったから、担当の一人だけの国家公務員の女性職員は歓迎してくれた。

 入館料は、国立博物館と同額の一人5MRGなり。ご丁寧に、入館署名を求められた。

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 さすが、博物館、大振りな作品がいくつも展示されていた。

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 最も新しい作品だというドラゴンの木彫は、2m弱の大作だ。

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 Olan Asliの作家が制作する風景のジオラマ展示。

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 木彫のピー(アズリの精霊)の人形

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 彼らが祭りに使う木彫の面

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 現在展示されているAsli Craftsの制作者たちの出身地を示す地図。
それは、Orang Asliの集落の分布状況をも示している。

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 往きはKLセントラル駅からタクシーを使ったが、帰りは違う体験のためにビュンビュン車の走る高架道路に設けられた細い歩道を使って、炎天下を駅まで戻った。


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 少数民族の制作するAsli Craftsについての情報は、現地の一般の関心度が薄いこともあってか、あまり流布されていないようだが、一度時間をかけて探索してみたいと思う。








〇 今日の一献  思い出探しのマレーシアの旅 その11

――No.11 Selamat Tengahari Malaysia 買い物にいつも通った、ショッピングセンター
  
 1970年までのKL市内には、百貨店、スーパーを除いてショッピングセンターと呼ばれる商業ビルはなかったようで、71年になって、ようやく最初のショッピングセンターが市の中心部を少し外れたアンパン大通りにオープンした。
 これがアンパンパーク・ショッピングセンター(Ampang Park SC)で、わたしの自宅から一番近い店だったから、わが家の買い物にはいつも家族で通ったものだ。

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 建物の前面に大きな駐車場を擁し、地上3階建て。1階の一部には食品を中心としたスーパーマーケット、2階、3階の各半分に百貨店を配置し、これらを中核に衣料品、靴、家電製品、レストランなどの個別店舗によって構成され、そこへ行けば何でも揃い買物を楽しみながら時間が費せるということで、市民の入気を集めた。

 この最初の大型ショッピングセンターの成功が、地元の大手流通費本の強い関心の的となり、以来、市内のあちこちに大型SCの建設が始まり、ブーム期を迎えたという老舗だった。

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 1980年代当時のKL市内のSCの配置図

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 あれから30年経って訪れてみたが、建物は老朽化し道路の大幅拡幅で正面の駐車スペースを全て失ったものの、新しくできたRapid KL電車のAmpang Park駅とペデストリアンデッキで直結されたことで、駅利用者の利便性を確保したからか、いまだ健在だった。

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 Ampang Park SCの1階道路に面して、セブン・イレブンのコンビニが入居していた。

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 コンビニの店内風景

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 SC1階のスーパーマーケット
 他の新しくできたSCのスーパーマーケットに比べて、品揃えや店舗管理は明らかに見劣りがする。

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 入居する個店ロットの風景

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 マレー系の女性のスカーフを扱う個店
 以前と違って、中華系の店は少なくなり、それに代わってマレー系の店が多くなっているような気がする。
 かつては、土曜日の午後、そしで日曜日ともなれば、駐車場は車で埋り、若者達や家族がそろって買物を楽しむ風景でにぎわい、娯楽の少ない市民の憩いの場ともなっていた。

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 マレー系の揚げ菓子パンの店
 これはわたしの直感でしかないが、この30年の間に市内各所に新たに多くのSCが誕生し、地下鉄、モノレールなどの交通機関が整備され人の移動が便利となったことと相まって、施設の老朽化によりさしもの老舗SCといえども、集客力の低下がこのSCを寂れさせているのだろうと思う。
 だから、店舗の賃料を下げたことでマレー系店舗の増加を促したのではないかと感じた。

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 これに比べ、以前からホテル、商業施設が集中するブキット・ビンタン(星が丘)地区は、SCの改装、新築が継続して行われており、若者を中心として平日の夜も賑わいを見せていた。




 一昨日前、「マレーシアの思い出探しの旅」シリーズの作成中、訃報の手紙を受け取った。
 それはわたしの在馬中に、現地で知り合った日本人の友人の逝去を知らせるものだったから、驚いてすぐ彼の自宅に電話を入れた。奥様が出て、遠隔地に住む方も含めご家族全員がそのときに立ち会うことが出来たという。

 ご本人の強い意志で、葬儀は近親者だけで済ませたとの話だった。

 彼は、当時民間企業から日本の現地政府機関に派遣され、広報の仕事を担当しており、 彼の自宅が、わたしのフラットにも近く、学生時代から始めたゴルフの手練で、どうしても上達しないわたしのゴルフの師でもあった。
 お互い日本に帰国してからも、たまに会うほか年始の音信を続けてきた。

 バランスの取れた快活な男で、壮年になって得たこの病がなければ、その企業の有力な社員の一人となっていたはずだったのが惜しまれる。
 仕事と病の療養との両立を続け、退職後ようやく療養に専念できるようになってから、しばらく経ってのことだった。

 瞑目して、心から冥福を祈りたいと思う。










〇 今日の一献  思い出探しのマレーシアの旅 その10

――No.10 Selamat Tengahari Malaysia 推理小説『熱い絹』とボーティーと

 推理小説『熱い絹』は、わたしの駐在中の1985年に刊行された、松本清張の長編推理小説だ。

 日本の軽井沢の別荘で起きた殺人事件から、マレーシアの高原地帯のリゾート地、キャメロン・ハイランド(Cameron Highlands)で1967年に実際に起きたタイの「シルク王」といわれたアメリカ人、ジム・トンプソンの失踪事件を下敷きにしながら、同地の密林などを舞台に繰り広げられる禍々しい連続殺人事件の小説だ。

●Blog資料 マレーシア今昔 20150400

 松本清張の推理小説『熱い絹』の上・下巻は、1985年4月に講談社から発刊された。

 小説の舞台が、マレーシアの有名なキャメロン・ハイランドであり、マレーシアの民族的風俗・習慣なども驚くほど詳しく活写されていたから、当時の日本人駐在員たちは挙って読んだものだった。

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 当時、現地の日本人商工会議所の調査委員会で会報誌の編集を担当していたわたしは、86年2月号でこの小説のことを紹介している。

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 キャメロン・ハイランドは、KLの北150km、イポーから東へ20 kmの場所に位置し、半島マレーシアを南北に貫く背骨に当る山脈の一部にある。
 今回は、近くのイポーまでは行ったけれど、短期の訪問だったから時間がなくて、この地にまで足を伸ばさなかった。
 
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 スーパーの棚に並ぶ各種のキャメロン・ハイランド産の紅茶
 キャメロン・ハイランドは、パハン州にある標高1,500mの高地で、英国植民地時代に熱帯の暑さに弱い英国人が、避暑のためのリゾート地として開発した別荘・ホテル地帯だ。

 いまではお茶の栽培地としても知られ、その茶葉から生産されるのが「ボーティー(BOH Tea)」で、味が円やかで、紅茶特有の渋みもなく飲みやすいことで有名だ。
    (主力老舗のBOH社が生産する紅茶だから「BOH Tea」と呼ばれる)。

 小説『熱い絹』の中では、たしか静岡県出身の第2次世界大戦の残留日本兵が、この地で茶の木の栽培を始めたことになっていた。
 
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 そんな訳で、今回はキャメロン・ハイランドは逸したが久しぶりにその味を楽しもうと、土産にBOH Teaを始めキャメロン・ハイランドの紅茶を幾種類か買ってきた。


 ところで、当時の駐在員の間で実しやかな噂話として語られたことだが、『熱い絹』の執筆にあたっては、「松本清張本人は来馬せず、清張の事務所のスタッフが来て調査・取材して作成した取材カードを、清張が駆使しながらこの小説を書いた。」というもので、真偽のほどは別にして、「さすがは、巨匠 !!」と一同唸ったものだった。





〇 今日の一献  思い出探しのマレーシアの旅 その9

――No.9 Selamat Tengahari Malaysia  マレーシアのお金

 マレーシアの通貨には、リンギット(RM)とその100分の1のセン(¢)があり、1980年代当時のレートは、1RMが約100円で比較的安定していた。
 しかし、1997年7月に起こったアジア通貨危機で、東南アジアの国々の通貨はいっせいに暴落し、経済危機に陥ったタイ、インドネシアや韓国ほどではなかったものの、マレーシア経済も相当の打撃を受けた。

 現在は、1 RMが約35円程度で推移しており、それでも以前と比較すると4割ほどの価値に下落している。
 このため、以前よりも現地の物価が上昇しているとしても、わたしのような日本から旅行する者にとっては、マレーシアの通貨はかつてよりも値打ちに感じることができる。

〇 マレーシアの現行硬貨(コイン)
 現行の流通硬貨は、50¢、20¢、10¢、5¢(ニッケル貨)、1¢(銅貨:現在はほとんど流通していない。)がある。
 画像上段は1990年代の硬貨、1 RM、20¢、10¢、5¢、1¢。

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〇 マレーシアの現行紙幣
 現行の紙幣は、100 RM、50 RM、20 RM、10 RM、5 RM、1 RMが流通している。
 表には、初代の元首(アゴン)のアブドル・ラーマンの肖像が描かれており、画像にある50 RM、5 RM、1 RMの裏には「パーム・ヤシ」、「KL国際空港、ペトロナス・ツインタワー」、「ワウ・ブラン(凧)」が描かれている。 


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〇 1980年代の流通硬貨(コイン)
 これは、わたしが駐在していた当時の硬貨だ。
 画像の右にある貨幣の表面には、民主主義を象徴する連邦議会ビルとイスラム教国の象徴の新月と14州を意味する14条の光芒をもつ星が描かれている。裏面には、流通額面金額と国花のハイビスカスが描かれている。
 ほかの1 RM硬貨は、1977年8月発行の「独立20周年」記念硬貨、1981年12月発行の「第4次マレーシアプラン」記念硬貨、1982年9月発行の「独立25周年」記念硬貨などだ。

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〇 1980年代の流通紙幣
 マレーシアでは、1957年8月に英国から独立したが、1967年6月になってようやく国立銀行から独自の紙幣(100 RM、50 RM、10 RM、5 RM、1 RM)が発行されるようになった。
 これは、わたしが駐在していた当時の紙幣だ。
 紙幣には、初版から初代元首アブドル・ラーマンの肖像が描かれており、この紙幣もそれを引き継いでいる。裏には中央に国立銀行の紋章であるシカが描かれている。
 また、現在の流通量は稀だが、1968年9月から1,000 RM紙幣が発行され、1982年には500 RM、20 RM紙幣も発行されるようになった。
 
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〇 旧日本軍統治下の紙幣、『Banana Note』
 これは、わたしがいまもわたし自身の戒めのために保管している、旧日本軍統治下の紙幣だ。
 1942年から1945年にかけて発行されたこの紙幣は、表の中央にバナナの絵が描かれていることから、現地の古老は「バナナノート」と呼んでいる。
 詳しくは、わたしのブログ「〇 今日の一献 古い、バナナノートの語るもの」をお読みいただきたい。

  〇 今日の一献 古い、バナナノートの語るもの
   ―― 旧日本軍統治下の紙幣、『Banana Note』
 
    http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-92.html

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〇 国立博物館の旧日本軍に関する展示
 第2次世界大戦のころ、旧日本軍は当時は英国植民地でマラヤと呼ばれたこの地を占領し、1942年から45年までの3年間統治した。
 日本軍の統治期間が短いこともあってか、国立博物館の旧日本軍に関する展示は、英国、オランダなどの展示に比べて小さく、これだけだ。


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 ところで、生来収集癖のあるわたしは、帰国に当ってこの国の紙幣も記念に持って帰ろうとしたが、一瞬頭を過ぎったリスクの文字に逡巡し、当時流通していた1,000 RMと500 RM、100 RMといった高額紙幣だけは、結局モノクロの複写したものを持ち帰った。
 だからその後のリンギットの価値の暴落で、今ではそれが正しかったのだとほっと胸をなでおろしている。

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参考資料
 Public Bank 公共事業部 1983年
  「Currency Through the Ages」





〇 今日の一献  思い出探しのマレーシアの旅 その8

――No.8 Selamat Tengahari Malaysia 『マレーシアハンドブック’85』

 わたしの駐在中には、現地では様々なエポックッメーキングなことが多かった。

 日本人社会のことでは、日本からの進出企業を中心として83年に設立された、マレーシア日本人商工会議所(JACTIM)もその一つだ。
 当時の東南アジアの国々では、日本人商工会議所が有ったのはタイとインドネシアだけで、マレーシアは3つ目の会議所だったから、関係者には熱気がみながり、各種の活動が活発に行われていた。

 そのうち、今後の日本からの進出企業のためにも、この国の社会・経済状況を網羅したハンドブックを作成しようという機運が盛り上がった。

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 着手に当っては、先行してハンドブックを出版していたタイの会議所のものを参考としながら、1985年の12月に初版である『マレーシアハンドブック’85』が完成した。

 執筆に当ったのは、現地に駐在する日本人ビジネスマンを中心とする67人で、編集はJACTIMの調査委員会が担当した。

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 目次にあるように、地理・歴史、政治・行政、社会・文化・生活、経済・産業、経済関係制度、マレーシアと日本の関係の6分野で構成され、最後に参考資料がまとめられていた。
 装丁は、A5変版、503ページの大部の書籍となった。

 当時は、まだ日本語のワープロ専用機も出る前だったし、パソコンは高価で現地会議所にはなかった。普段のビジネス上のやりとりも、まだテレックスを使っていた時代だったから、印刷・製本を日本に発注するのは非効率だった。
だからハンドブックの印刷・製本は、すでにJACTIMの会報作成に実績の有ったシンガポールの華人系印刷会社に発注し、華人の女性社員が邦文タイプライターを使って活字を打ったものだった。
(作業の途中、編集委員の一人が連絡のためにこの印刷所を訪れたところ、日本語を知らなくても、彼女は手書き原稿の文字を見ながら活字を拾っていたから驚いたと聞いた。)

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 調査委員会に所属し編集担当の一員だったわたしは、地理、気候、歴史、国民・文化、社会生活の様相の執筆と、掲載写真の全てを提供したが、当時のことだから図表などの原稿も全て手造りだった。

 編集作業の最終段階には、編集委員全員が編集長だったJETROのS事務所長のお宅に数日間泊り込んで集中合宿して仕上げたものだったから、わたしにはさらに思い出深いものとなった。
 

〇 『マレーシアハンドブック2014』
 昨年、JACTIMのハンドブックの最新号が出版されたことを知った。
 85年の初版が出版されて以降、JACTIMでは3年ごとに版を重ねており、この最新号で10版となったようだ。
   書籍体裁:A5変版 全476ページ

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 目次を見ると、初版を継承しながら内容がさらに充実していることがわかる。
 このハンドブックは、現地のJACTIMや日本書籍を扱う書店で販売されているが、今では東京の日本商工会議所でも手に入るようだ。

     日本商工会議所 国際部
     〒100-0005 東京都千代田区丸の内2-5-1
     TEL:03-3283-7876 E-MAIL:kokusai@jcci.or.jp


〇 JACTIM 会報(1986年2月号)
 ところで、JACTIMでは、設立当初から会員機関誌として年4回会報を発行していた。
 
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000会議所会報の表紙

 
 この会報の編集も、当時は調査委員会のメンバーの数人が交代で担当していたが、いまでは広報渉外委員会が担当し、最新号が131号を数えるそうだが、これもわたしにとってはなつかしい思い出の一つだ。

 なお、84年の設立当時に182社の会員だったJACTIMは、現在585社となっている。







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