〇 今日の一献  写真を撮るポーズ

―― 観光地ローマでのポーズ

 誰もが、撮るならよいアングルを探して、満足がいく写真を撮りたいに決まっている。
 だから皆一生懸命だ。でも、そのために、自分がなにかしら、おかしなポーズをとっている事には気がつかないものだ。
 
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 目の前の娘と教会の伽藍を一緒に撮りたいお母さん。
 スリ、ひったくり、置き引きの被害が多いローマ。
 娘のリュックは彼方に置いてあるけど、大丈夫なのかな。

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 傍らに立つ彼と、三脚とセルフタイマーで一緒にカメラに収まろうと、かなりの時間をかけてよいアングルを探すお嬢さん。
 彼女の涙ぐましい努力に比べて、いとも淡白な彼。

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 大聖堂を写す大仰角のアングルを探して、とうとう仰向きに道路に座り込んだお姉さん。
 さすがに仰向けに寝ることまではしなかった。

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 子供を乗せたバギーカーを牽いてきて、店の中に見つけた対象に、思わず手を離して夢中になってカメラを構えるお父さん。

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 スマホの「自分撮りステイック」を使って、二人が画面に収まるアングルを探すのに思わず片目をつむるお姉さん。

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 それでだが、このスマホの自分撮り道具は、わが国に伝わってまだ日が浅いのか、その呼称は未だ固定していないようで、日本では「自分撮りステイック」、「自撮り棒」、「セルカ棒」、「セルフィースティック」、「MONOPOD」などと一定しない。

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 どうやらこの器具の流行の起源は東アジアの国からのようで、彼の国の人たちの間では、このステイックが流行っているようだ。
 (フィレンツェにて)

「1995年に出版された『役に立たない日本の発明』」
http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/406286/

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 ただでさえ、片手でカメラを高く掲げてめくら撮りをするのは、撮影術の中でも相当高度な技なのだが、娘を肩車しながらそれを行おうというのは、撮影勘だけでなく相当の体力も要する技だ。

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 娘の指が、尖塔の先を摘むアングルを、時間をかけて一生懸命に探すお父さん。


 しかし、こうして揶揄してかく言うこのわたしも、他人から見れば、いつも撮影に夢中になってきっとおかしなポーズで写真を撮っているに違いないと思うのだ。



〇 今日の一献  Ciao l'Italia その9 ローマにて

―― 古代から現代に続く、人間世界の展示場。ローマ

塩野七生の『ローマ人の物語』1~43巻+スペシャル・ガイドブック
 2千年前に地中海世界に大帝国を築いた、古代ローマ人の栄光とその滅亡までの長編歴史物語で、文庫本にして43冊と写真ブックの大著だ。
 新潮社のハードカバー単行本で、1992年から年に1冊ずつ刊行され、2006年12月の15作刊行本で完結している。
 ラテン語での表題も "RES GESTAE POPULI ROMANI"「ローマの人々の諸行」としているように、塩野女史自身、この作品を「歴史」ではないとしており、歴史的出来事を叙述するよりも、それぞれの時代を生きた主要な人物に光を当てながら、その行動を中心に描くスタイルとなっている。
 塩野作品の底流には、それぞれの登場人物のその男に対して、いつも塩野女史の「女の目」が注がれているような気がしてならない。

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 なお、2002年から2011年にかけて、単行本の1巻を、2冊から4冊に分けた新潮文庫が刊行された。実は、わたしはこの文庫本の『ローマ人の物語』で塩野作品に触れたことで、以後、耽溺することになってしまった。

 古代都市ローマの始まりは、アペニン山脈に発して300キロも流れてきたテヴェレ川の東に、集中的に位置する7つの丘を中心として形成されていったことから、「ローマの七丘」と呼ばれる。
 七丘とは、パラティーノ、アヴェンティーノ、ヴィミナーレ、エスクイリーノ、カンピドリオ、クイリナーレそしてチェーリオ の丘だ。

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 これらの7つの丘の集落が紀元前6世紀の初めまでに合体して、都市を形成したと言われている。そして、テヴェレ川と七丘に守られた平地が中心地になっていき、やがてパラティーノの丘の北に、ローマの政治・経済の中心となる広場「フォルム・ローマーヌム」が築かれる。
 また、前4世紀の初頭には、外敵から守るために七丘を囲むセルウィウス城壁が築かれた。

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 昔からローマ人は、ローマを建国(紀元前735年)したのは、母狼の乳で餓死を救われた双子のうちのロムルスだと信じているから、その姿がローマの都市の紋章になっている。
 (ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアの床のモザイクから。)


 ローマは、紀元前8世紀の建国から紀元後5世紀にかけて、王政ローマ、共和政ローマ、帝政ローマの時代を経過する。

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 異民族の侵略への防御のため、ローマ皇帝アウレリアヌスとプロブスの治世の271年から275年に建設された、「アウレリアヌス城壁」に囲まれたローマと、現代のローマ。

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ローマの西を流れるテヴェレ川。
 ここから30キロで海に至る。

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城壁の門
 アウレリアヌス城壁は19世紀まで使われていたため、現在も市内各所に遺跡の部分を見ることができる。

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ローマの最大版図00_edited-1

トラヤヌス帝時代のローマ帝国の版図
 領土を拡大してきたローマ帝国は、トラヤヌス帝(98~117年在位)のドナウ川北岸のダキア(ルーマニア)征服で、帝国の領土は最大となった。


● コロッセウム

 コロッセウムは、「健全な常識人」のヴェスパシアヌス帝治世の75年に始まり、ティトゥス治世の80年から使用されるようになった。
 「ラウィウス円形闘技場」が本来の名前だが、ネロ帝の黄金宮殿の跡地に建てられ、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたことから、コロッセウムと呼ばれるようになったといわれる。
 コロッセウムは、皇帝が統治政策の一環として、百万都市のローマ市民への娯楽を提供する場であり、自分の統治への賛意や批判を受ける場所でもあった。

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 構造はローマン・コンクリート(火山灰を利用したコンクリート)だけで鉄骨が使われていないが、これまでの地震にも崩壊しなかったのは、全体が円筒形で力学的に安定しているからだという。

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 現在は、大理石もはき取られてむき出しとなっているが、柱などの壁面の穴は、建設時の足場用の木材を挿入するための穴だったといわれる。

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 かつては大理石で化粧が施され、輝いていたコロッセウムも、ローマ帝国がキリスト教国になってから、大理石等の建材は、中世を通じて教会の建築資材などとして転用され続け、現在は無残なむき出しの原型をとどめているだけだ。
現に、コロッセウムの大理石が、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも使用されているという。
 しかし、原型とはいえ今も往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられてきたため、ある種の聖地となっていたからだそうだ。

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  1階の柱は重厚なドーリア式、2階の柱はすっきりしたイオニア式、3階の柱は繊細なコリント式と、階ごとに柱のスタイルを変えることによって、重苦しく単調になるのから救っている。

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 皇帝の座
 ギリシア人の創案した劇場は半円だが、円形の劇場はローマ人の創案だった。
 規模は、長径188m短径156mの楕円形で、高さ48m、45,000人を収容できた。また、天井部分は開放されているが、帆船の帆のように日除け用の布を張る設備もあった。

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コロッセウムの競技場下の内部
 競技場部分は消失し、地下にあった施設がむき出しになっている
 初期においては、競技場にローマ水道から引いた水を張り、模擬海戦も行われた。また人力エレベーターが設置され、剣闘士の入場や猛獣の出演時に使われた。

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コロッセウムの舗装道路

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コロッセウムの舗装道路


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● コンスタンティヌスの凱旋門
 コロッセオのすぐ脇に、多神教のローマをキリスト教国としたコンスタンティヌス帝の凱旋門がある。
 コンスタンティヌス帝は、313年に「ミラノ勅令」を出してキリスト教を公認し、最高統治者の皇帝の権力が市民から委託されたものから、唯一絶対神から授けられたものへと転換する道を開いた。
 この凱旋門は、西の副帝であったコンスタンティヌスが、正帝マクセンティウス帝に勝利し、西ローマの唯一の皇帝となった事を記念して315年に建造された。
 なお、コンスタンティヌス帝は、324年には東の正帝を破りローマ帝国全体の皇帝となり、次いで330年には、首都をコンスタンティノープルに移転させる。

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 コロッセオの2階から見た凱旋門の裏面
 高さ21m、幅25.7m、奥行き7.4m。3つの門があり、中央の門の高さ11m、幅約6.5m、左右の門の高さ7m、幅3mで、ローマにある凱旋門では最大のものだ。

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 基礎と下の部分の構造は石灰華、最上部は煉瓦で外装は大理石、円柱は黄色大理石、それ以外は白大理石で構成される。装飾は古い建築物からの転用材が使われているという。


● パラティーノの丘などの中心地区

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ローマ帝政期のパラティーノやフォロ・ロマーノなどの中心部の平面図と、現在の鳥瞰画像。
 (右下:パラティーノ、右上:フォロ・ロマーノ、左上:皇帝たちのフォルム、左下:カンピドリオのそれぞれの地区がある。)

● パラティーノの丘
 キルクス・マクシムス(大競技場)から見たパラティーノの丘
 古代ローマ建国の英雄ロムルスとレムスが住んだとされる丘であり、初代皇帝アウグストゥスなど歴代の皇帝の邸宅、ドムス・アウグスターナ(皇帝の私邸)が置かれた。

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● チルコ・マッシモ(大競技場)
 向こう側がパラティーノの丘で、手前がアヴェンティーノの丘。チルコ・マッシモは二つの丘の間にあり、長方形の窪地のように見えるが、ここはかつて25万人が収容できるローマ最大の競技場で、古代ローマの戦車競走の中心となっていた。紀元前50年ごろには、ユリウス・カエサルによって縦約600メートル、横約225メートルの規模に拡大された。チルコ:競技場、マッシモ:最大という意味。
 ネロ帝の治世の64年7月に発生した、有名な「ローマの大火」の火元になったのがここだったという。

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○ ローマ 古代遺跡00

● フォロ・ロマーノ

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フォロ・ロマーノへの入り口
 パラティーノの丘の北側に広がる低地は、干拓事業によってはじめの頃は市場に使われていたが、少しずつ公共の建造物が占めるように変わり、フォロ・ロマーノと呼ばれる地区となった。
 これにより、紀元前6世紀頃から293年にかけて、フォロ・ロマーノは国家の政治・経済の中心地となる。
しかし、帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国の滅亡後はついに打ち捨てられ、やがて土砂の下に埋もれた。
 19世紀になって、発掘が本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに各種の建造が繰り返されたことで、様々な時代の遺構が混在しており、発掘調査は困難となっている。
 このため、現在わたしたちが目にする遺跡は、大部分が帝政時代以降のものとなっている。


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コロッセオから見たウェヌスとローマ神殿
 正面にウェヌスとローマ神殿、その右に、マクセンティウスのバシリカ(公会堂)。
 神殿の左には、ティトゥスの凱旋門が見える。

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 フォロ・ロマーノから左にパラティーノの丘

○ ローマ 古代遺跡01

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ウェヌスとローマ神殿
 フォロ・ロマーノの東端に、141年にネロ帝のドムス・アウレアの遺構の上に建てられた、古代ローマで遺構の分かる最大の神殿で、女神ウェヌス・フェリクスと女神ローマを祭っていた。

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パラティーノの丘へつづく
 フォロ・ロマーノの発掘は現在も続けられているが、様々な遺構が混在しており発掘調査はなかなか難しいようだ。
 また、ローマの市街地には地下鉄も走るが、建設に当ってあちこちで遺跡に突き当たり、それごとに調査保存が行われ、完成までに20年を要したという。

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クラウディア水道橋の遺構
 クラウディア水道は、ラティーナ街道の10キロ地点にあった濾過池から、水道橋を使って皇帝宮殿があるパラティーノの丘まで続いていた。流量は1日あたり19万m3で、市内の全14区に水を供給していたという。
 
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 市内に残る水道橋の遺構
 古代ローマでは、都市機能の維持のため、郊外の水源地から厳格に水質管理されたクラウディア水道を始めとするいくつもの水道路線が整備されていた。
 ポンプ圧送のない当時は、水源地からは自然流下で供給するために、傾斜に配慮した水道橋が建設されたのだ。


 
 驚くべきことに、古代ローマ人は、領土に組み込んだ地域に建設した全ての都市で、首都ローマと同程度の都市機能を実現させようとしたことだ。そのためのインフラとして、上下水道、道路、橋梁、神殿、浴場、劇場などが建設・維持管理されたが、それを可能にさせたのは、ひとえにローマン・コンクリートとアーチ型構造ではなかったか。

 この後も続くローマの旅を通して、塩野女史の『ローマ人の物語』の膨大な物語の中でしか知らなかったわたしに、ローマとは古代から現代(いま)に続く「人間世界の展示場」であると思わせた。



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