〇 今日の一献  Ciao l'Italia その8 フィレンツェからローマへの列車の旅

――イタリアが誇る振り子超特急「銀の矢」"FrecciaArgento"ETR600型

 この日は、フィレンツェからローマへ列車で移動することになっていた。
 おめあては、トレニタリアが運行するイタリアが誇る振り子電車の超特急、その名も「銀の矢」に乗車して、フィレンツェからローマまで、距離にして253.6 km、所要1時間32分の旅だった。

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 フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(フィレンツェS.M.N駅)
 フィレンツェ市内にある主要駅のひとつで1848年開業し、1934年に現在の駅に改築された。頭端式ホームを採用し、高速新線を経由するレ・フレッチェ(旧名称 ユーロスター・イタリア)が折り返し運転している。
 駅名は、近くに所在するドミニク教団のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(13世紀のバシリカ式)に由来する。


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 フィレンツェS.M.N駅構内の様子

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 イタリアの鉄道路線網


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 われわれが乗る超特急「銀の矢」"FrecciaArgento"は、フィレンツェS.M.N駅発の、レ・フレッチェ(旧名称 ユーロスター・イタリア)『9411』列車。
 時刻表では10時38分に発車して、ヨーロッパで初めて開業した高速鉄道路線、「フィレンツェ~ローマ高速線」を走って、ローマ・テルミナ駅には12時10分に到着することになっている。

 しかし、電光掲示板によれば、始発はイタリア北東部のトリエステ。ヴェネッィアを経由して10時30分に到着するはずが、5分遅れているようだから、フィレンツェ発車も5分遅れの10時43分になるだろう。
 日本とは違って、イタリアの列車の遅れは珍しいことではないそうだ。

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 5分遅れで10番線に入線してきた、「銀の矢」"Freccia Argento"(ETR600型)『9411』列車。
 この電車は、高速新線区間と在来線区間を直通運行する、振子式高速列車で、日本の新幹線と同じように各車両が駆動車。ファーストとスタンダードの2クラス制。ファーストクラス利用者にはドリンクとスナックが提供される。7両編成で、最高速度250km/hで運転されている。

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 停車時間8分のうちに、いよいよ列車に乗り込む。
 全席指定の7両編成の列車の4号車に指定席があった。

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 スタンダード座席はオープンサロンタイプで、通路を挟んで2席+2席の配置。
 また、折りたたみ式のテーブル付4人掛け座席と、テーブルのない2人掛け座席が混在している。

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 5分遅れの10時43分に、フィレンツェS.M.N駅発車。
 日本と違って、ホームでの放送もなく、発車のベルも鳴らない。いきなりの発車である。

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 大きな荷物の置き場は、出入口扉のところにある。
 座席の方向転換はできない構造だから、心配の向きは、背中合わせの席の間にスーツケースを入れれば安心できる。

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 後は、ローマまでノンストップ直通運転だから、何の心配もなくゆったりと列車の旅を楽しむことができる。

 すべての車両の座席近くには電子機器用のコンセントが設置されているから、携帯電話の充電やPCを使うこともできる。

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 丘の上には、なにやら由緒のありそうな立派な館が見える。
 とにかくイタリアは、どこへいっても歴史的建造物が残っていて、それを今でも使うという頑固な生活が営まれているように思う。

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 座席の上にはモニターが設置されており、列車の進行に合わせていろいろな情報が掲示される。
   ① 列車の運行状況を示す地図情報。
   ② 到着駅地域の天候情報。
   ③ 利用感謝の案内(最初は、こんな美人さんがこの列車を運転しているのかと思ったが、どうやらモデルさんのようだ。)。
   ④ 列車の乗り継ぎ情報。

 このETR600型列車には、ファーストとスタンダード車両の間に、軽食やドリンクが楽しめるカウンター・バール(ビュフェ)がある。
 (ETR610型列車には、食堂車が付いているという。)

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 あるというなら物見遊山の旅、使わない手はないから早速行ってみた。

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 2号車の3分の1ほどのスペースで、ウエイター一人の座席のないカウンターだけのバール。いちおうセットメニューもあった。

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 車窓に広がる農地の景色。点々と見える白いのは、サギの群れだろうか。

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 いよいよ終点、ローマに近づいた。
 近郊の列車基地には、左からフレッチャルジェント(ETR600型)、ETR 450電車、フレッチャロッサ(ETR500型)、一般用気動車ALn 663などの各列車編成が見える。

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 ローマ・テルミナ駅が近づく。


 今日は晴れていたけれど、この窓には、いつか降った雨の跡がそのまま残っている。
 車内でトイレには行ったが、汚れていてとても写真には撮れなかった。
 ヴェネツィアS.L駅やフィレンツェS.M.N駅でも気がついたが、線路の緑化でもあるまいに雑草が残る。

 要はメンテナンスの問題なのだ。
 イタリアの列車デザインは優れていても、やっぱり日本の新幹線は、トータルシステムとして優れているのだとつくづく思う旅だった。

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 12時10分、終点のローマ・テルミナ駅に到着。
 発車が5分遅れたものの、ローマ到着は時刻表通りだった。

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 駅を出て、いよいよローマの旅だ。


 ローマ帝国時代には、帝国領内の全てにおいてインフラの整備とそのメンテナンスが徹底して守られていたけれど、その崩壊とキリスト教勢力の拡大で破壊・放置され、中世の暗黒時代が続いた。
 人の身体の衛生観念(メンテナンス)についても同じで、中世には猛威を振るったペストの流行を招くことになったのだ。
列車を降りてから、その連想がわたしの頭を過ぎった。
 このメンテナンスに関する感想は、後日、別稿で書きたいと思う。

● フィレンツェS.M.N駅やローマ・テルミナ駅で見られた列車たち

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 イタリアが誇る超特急列車の一つ。"FrecciaRosso"「赤い矢」(ETR500型)
 高速新線区間だけを運行している、1996年にトレニタリア社に導入された高速列車。動力集中方式(機関車方式)で、最高速度は300km/h。
 エクゼクティブ、ビジネス、プレミアム、スタンダードの4クラスの座席を有し、エクゼクティブには食事、ビジネスとプレミアムクラス利用者にはドリンクとスナックが提供され、食堂車も編成している。

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 NTV AGV575 次世代高速列車「イタロ」
 設計上の最高速度は360km/h、2012年に鮮烈な塗装でデビューした。最も高級な座席車の1号車の「Club」には個室もある。
 フランスのアルストム社が開発した、動力分散方式の次世代高速鉄道車両(AGV)。EUの法改正で2010年から国際旅客鉄道輸送が自由化され、参入したイタリアのNTV社(新旅客輸送会社)が運行している。同社は、既存路線を使い、路線を保有していない。

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 FS(トレニタリア) ALe 501/502一般型電車
 営業運転開始は2005年で、最高速度:130 km/h。愛称は「ミヌエット」。








〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の2 フィレンツェ

―― ルネサンスの初めの中心地となった、フィレンツェ

 フィレンツェといえば、メディチ家をおいては語れない。

 「メディチ」とは、イタリア語で薬、医業を意味することから、メディチのもともとの家業は薬屋だったにちがいない。
 現にメディチ家の紋章は、丸薬を連想する6つの丸い球で表されており、この紋章が市内のあちこちの建物や街かどに見出される。
 シエークスピアの『ヴェニスの商人』のシャーロックに象徴されるように、もともと金貸し業は卑しい事業とされ、国も持たず自分しか頼る術のないユダヤ人などが主に携わる家業だったのを、貨幣経済が進展し、中世以降には王侯さえも金が無ければ戦争もできない時代となると、見下しながらも巨額の金の融通を金貸し(金融業)に頼るようになっていった。

 こうした経済状況の下,新たに金融業に進出したメディチ家は、各国に置いた支店からもたらされる独自の信用情報などを基に巨大な財を築き、その富を駆使しながら1434年以降、1530年の共和国の廃止を越えて、1743年のメディチ家の断絶によるトスカーナ大公国の消滅までの、300年の長きにわたって、フィレンツェの支配者として君臨したのだった。

● ウフィツィ美術館
 ウフィツィ美術館は、メディチ家歴代の美術コレクションのうちの、主としてイタリア・ルネサンス絵画を収蔵する美術館として有名だ。

 美術館の建物は、共和国の行政機関の事務所として、コジモ1世の命令により建設に着手され、20年の歳月をかけその息子のフランチェスコ1世の時代の1580年頃に、共和国政庁であったヴェッキオ宮殿の隣に完成したものだ。建物は、1階がドーリア式の回廊で、その上に2階、3階部分が建設されたルネッサンス様式のU字型の建築物で、中空の橋でヴェッキオ宮殿と繋がる。
 だから、美術館の名称の「ウフィツィ(Ufficio)」とは古いイタリア語で、英語のオフィスにあたる。

 このフランチェスコ1世は、数多くの美術コレクションを集めた大変な美術愛好家だったことから、建物が完成すると最上階の3階を自らが所蔵する古代彫刻の展示ギャラリーとし、外国の賓客などに見せたという。

 もともと、歴代のメディチ家の当主やその後のロレーヌ公の君主達が、その財力を背景に多数の芸術家をパトロンとして支援し、美術品の収集に関心が強かったこともあって、所蔵品の展示室は広がり、18世紀末ごろになると現在の美術館の姿に近いものとなっていた。

 これらメディチ一族の一連の活動が、結果としてルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たし、フィレンツェがルネサンスの初めの中心地となっていったのだ。
 現在、4,800点の美術品を所蔵し、45の展示室で2階にはデッサンと版画作品を3階には油絵作品などを展示し、廊下部分に展示した彫刻などを合わせると、約2,000点を常時展示している。

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 入り口の壁にある、メディチ家の紋章
 6つの丸薬で構成されている。


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 ウフィッツィ美術館は8.000㎡の広さがあり、また、古代彫刻や13 世紀から18世紀にかけて描かれたイタリア国内外の絵画や重要なコレクションの数々を所蔵している。


● 美術館の展示物

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 「ガッティのトルソ」 紀元前4世紀ごろのヘレニズム彫刻

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 「とげを抜く少年」 紀元5世紀ごろのギリシア彫刻

▲組写真フエレンツエ美術館画像 01-005

 第一回廊の通路には、メディチ家コレクションのギリシア・ローマ時代の胸像や彫刻が規則的に展示されている。

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 「ローマのバチカン美術館所蔵のラオコーン像」のレプリカ
 わたしたちは、後日この像の本物を、バチカンの美術館で眺めることになるのだが、これは1506年にローマの遺跡、ネロ皇帝の住居(ドムス・アウレア)の近くから発掘されたもので、紀元前40年ごろの作品だといわれ、ミケランジェロに鑑定させた教皇ユリウス2世が入手しローマにあった。
 ところが1515年のミラノ近郊のマリニャーノの戦いで勝利したフランス国王フランソワ1世が、この像を戦利品として引き渡すよう要求したことから、当時のメディチ家出身の教皇レオ10世は、引き渡すことを惜しんでレプリカを造らせたが、結局フランソワ1世の要求を無視して、このレプリカさえも送らなかったことでここに残ったという因縁話がある。
 
 ラオコーンはトロイの神官だったが、アテネの兵士が隠れた木馬を城外に放置し去ったが、これを戦略であると疑ったラオコーンに対して、それを暴かれまいとギリシアのゼウス神と女神アテナがポセイドンの使いの海蛇を送りつけ、ラオコーンと息子たちを殺害したという神話から、この像は、ラオコーン親子が海蛇に噛まれているところを描いている。

 古代ローマを起源とする異様な人物や動植物等に曲線模様をあしらった美術様式をグロテスク (grotesque)といい、回廊の天井には、1579年から1581年にかけてフランチェスコ1世が描かせたグロテスク模様とメディチ家の功績や業績を描いたフレスコ画で装飾されている。

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 廊下天井のグロテスク装飾画

▲組写真フエレンツエ天井画像 01-004

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 ピエロ・デッラ・フランチェスカ作「ウルビーノ公夫妻の肖像」1472~74年頃
 テンペラ・油絵47 x 66 cm
 この作品は、東イタリア山中のウルビーノ公爵、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻の対の肖像だ。
説明によると、この絵の不自然なのは、婦人の顔はデスマスクを手本に描かれ、公爵は右目を失っていたから左横顔が描かれているとのことだ。


● 第8室の「リッピ親子の部屋」

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 フィリッポ・リッピ作「聖母子と天使」1457年頃
  95 x 64 cm
 第8室の「リッピ親子の部屋」にあるこの絵は、フィリッポ・リッピの代表作で、実は修道僧だったリッピがマリアのモデルをした美しい尼僧ルクレティアと深い仲となって駆け落ちし、メディティのコジモ・イル・ヴェッキオのとりなしで俗還することができ、晴れて夫婦となったというエピソードは有名だ。
 描かれた女性は、宗教的なシンボルとしての聖母ではなく、生身の人間としての優しい母親となっており、子供のイエスは、誕生したばかりの息子フィリッピーノだといわれている。

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 フィリッポ・リッピ作「キリストの生誕」1463年

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 フィリッポ・リッピ作「高座の聖母子」ノヴィツィアートの祭壇画

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 フィリッポ・リッピ作「聖母の戴冠」1439年
 前列の左から二人目が、フィリッポの自画像といわれる。

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 フィリッポの息子フィリッピーノ・リッピは、後に父と同じように画家となった。
 フィリッピーノ・リッピ作「聖母子と聖人たち」1486年頃

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 レオナルド・ダ・ビンチ作「受胎告知」1475年
 テンペラ画、98 x 217 cm.
 「受胎告知」の宗教絵画は、中世から最も多く描かれてきた主題のひとつで、父なる神によって遣わされた大天使ガブリエルが、主イエスの受胎を聖母マリアに聖告する場面だ。
 レオナルドの描いたマリアは、予期せぬ大天使の訪問に読書を中断させられ、右手を読んでいた聖書に置き、左手は天使の告知を歓迎又は驚きを意味するように立てた状態で描かれている。
画面から伝わる冷静な若きマリアのこのポーズは、神の母となる役割に服従するのではなく、自信に満ちてそれを受け入れようとすることを意味している。
 若きレオナルドは、この「受胎告知」のマリアを神格化することなく、人間の女性として描いたものという。

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 アレッソ・パルドビネッチ作「受胎告知」1457年

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 ジャコブ・ポントルモ作「最後の晩餐」1525年

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 ヒューゴ・ゴエス作「東方三博士の礼拝」


● 第18室の特別陳列室「トリブーナ」
 収蔵する絵画、彫刻があまりにも多く、到底1日では見て回れない。
. 第18室は、八角形の特別陳列室「トリブーナ」で、フランチェスコ一世が1585年に造らせ、ウフィツィ美術館の原形となったものだ。

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 中央「メディティ家のヴィーナス」紀元200年頃のギリシア彫刻
 右「マルシアの皮屋」紀元200年頃のギリシア彫刻
 左「レスラー」紀元200年頃のギリシア彫刻

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 上のパノラマ写真の中ほどにある「メディチのビーナス」は「ミロのビーナス」と並ぶヘレニズム時代の彫刻で、部屋の壁は、コジモ、ロレンツォなどメディチ家の人々の肖像も飾られている。

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 学校の美術の副読本の画集や世界史の教科書で初めて見た名画がそこここに普通に展示されており、わたしは初めのうちは大興奮だったが、あまりにも展示数が多く内容が濃密だったから、どっと疲れてしまった。

 美術館の中には、見晴らしの良いバルコニーが休憩所として用意され、軽食や飲み物でリフレッシュすることができる。


● 第26室のラファエロの部屋

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 ラファエッロ・サンティ作「自画像」
 第26室は、ラファエロの部屋となっており、彼の多くの作品が展示されている。

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 ラファエッロ・サンティ作「ヒワの聖母子」1507年
 107 x 77 cm
 マリアを中心に、左に洗礼者ヨハネ、右にキリストを描く。洗礼者ヨハネの手にヒワの鳥が握られていることから、ヒワの聖母子の名がついた。
 ルネッサンス時代には、多くのマリアと幼児2人の聖母子像が描かれているが、ラッファエッロの作品では、マリアの頭は画面中心線上にあり、頭から肩、腕、下の岩と下る線と反対側の斜線が、二等辺三角形を形成する安定した構図となっている。

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 ラファエッロ・サンティ作「レオ10世と二人の甥」1516年頃
 154 x 119 cm.
 メディチ家出身のレオ10世は、ジュリオ2世とともに極めてルネサンス的な教皇で、文芸のパトロンとして欠かせない人物だった。

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 サンドロ・ボッティチェッリ作「コジモのメダルを持つ若者」1475年

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 サンドロ・ボッティチェッリ作「春(プリマヴェーラ)」1482年頃
 テンペラ画、203 x 314 cm
 これは、ボッティチェッリの代表的作品で、中央に描かれているのは女神ヴィーナス。右端は、西風の神ゼヒュロスで、彼が抱きかかえようとしているのは、花の女神フローラだ。ヴィーナスの右隣は、花を撒く春の女神プリマヴェーラ。画面左側で踊っている3人の女性はヴィーナスの侍女で姉妹の、「美」、「貞節」、「愛」を象徴する三美神。左端は神々の伝令役を務めるメルクリウスだ。
 この作品の主題は不明で、「春」という題は仮のものだとされるが、描かれている人物の要素が全て生命の誕生を暗示していることから、ロレンツォ・デ・メディチの結婚を記念して描かれたというのが、有力な説となっている。

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 サンドロ・ボッティチェッリ作「ヴィーナスの誕生」1483年頃
 テンペラ画、173 x 279 cm
 この大作は、ウフィツィ美術館を代表するあまりにも有名な作品だ。
海の泡から誕生したばかりのヴィーナスが、西風の神ゼヒュロスが吹きかける息で岸辺に寄せられ、岸辺からは、時と季節の女神ホーラがマントを掛けようとしているところだ。
 ロレンツォのために制作されたといわれ、長年彼が住んでいたカステッロの別荘にあったが、19世紀に入って、ここに移されてきたものだ。

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 ティツィアーノ作「ウルビ-ノのヴィーナス」1538年頃
 油絵、119 x 165 cm
 もともとヴェネツィア生まれのティツィアーノが、ウルビーノ公のために描いた作品だったが、「ウルビーノ公夫妻の肖像」と同じくメディチ家に嫁いだ女性がこの絵画を相続したことで、この美術館に入ったものだ。
 かつては、「この世で最も官能的(卑猥)な絵だ」といわれたこともあるように、長椅子に寄りかかる裸体の女性は官能的で、ローマ神話のヴィーナスを描いた作品とされる。

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 セバスチィアーノ・ピオーボ作「ドニスの死」1521年

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 美術館の売店には、様々なミュージアム・グッズが販売されている。


 古くからあった金貸し業に対する偏見は、金融業で成功し巨万の富を蓄えたメディチ家の王侯との姻戚関係の成立や一族から教皇を出すまでの台頭などによって、事実上払拭されることになったのだ。
 誤解を恐れずに言えば、ある意味でメディチ一族は、革新的でありながらも、成金で、卑しい家業という負い目を背負っていたからこそ、その富の使い道を、ルネサンスという文芸の復興の積極的な支援者(当事者)になっていったのではないかと、わたしには思えてならない。

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 なお、メディチ家の最後のトスカーナ大公ジャン・ガストーネは、1737年に後継者を残さず死去して、メディチ家は断絶する。
 それを相続した、メディチ唯一の血を引くアンナ・マリア・ルイーザは、かつてプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムと結婚したが、子のないまま夫と死別し、フィレンツェに戻りピッティ宮殿に暮らしていた。
 その彼女は、1743年に死去するとき、遺言として「メディチ家のコレクションがフィレンツェに留まり、一般に公開されること。」を条件として、個人財産である全ての美術品をトスカーナ政府に寄贈したことによりフィレンツェに遺り、現在こうしてわたしたちの目に触れることができるようになったのだ。



〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の3 フィレンツェにつづく



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〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の1 フィレンツェ

―― 『ルネサンスとは何であったのか』

塩野七生の『ルネサンスとは何であったのか』
 見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発、それがルネサンスだった。
 ルネサンスが花開いたフィレンツェ、ローマそしてヴェネッィアで、塩野自身が考えた、「ルネサンス」を問う対話形式の作品。

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 ルネサンス(Renaissance)とは、1,000年もの長い間続いた中世キリスト教の支配で、古代ローマ・ギリシア文化の破壊と多様性を失い停滞した社会・文化状況から、14世紀のイタリアで始まった、古代・古典の文化を復興しようとする文化運動(14世紀~16世紀)を指して、19世紀のフランスの歴史家が初めて学問的に使用した、「再生」・「復活」を意味するフランス語だ。

 フィレンツェは、中世には毛織物業と金融業で栄え、共和国としてトスカーナ地方の大部分を支配していたが、15世紀になると、金融業で大成功したメディチ家が事実上の統治をするようになり、ロレンツォ・デ・メディチの個人的嗜好などによって「フィレンツェ・ルネサンス」ともいわれるルネサンス文化の一大中心都市となった。
 現在、フィレンツェの街の中心地区は、ユネスコの世界遺産に指定されている。

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 街の東南の丘の上に位置し展望台として有名な、「ミケランジエロ広場」(丘)から眺めたフィレンツェの夜景
 左にアルノ川とヴェッキオ橋があり、その右の高楼のある建物がヴェッキオ宮殿、なお右に巨大なドームのあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、右端にサンタ・クローチェ聖堂が見える。

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 この広場(丘)の中心には、「ミケランジェロの記念碑」としてダビデの像が置かれていることから、いつのころからそう呼ばれるようになった。
 ただし、この像はレプリカで、本物は市内にあるアカデミア美術館に展示されている。


● サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
 フィレンツェのランドマークといえば、壮大な大聖堂のオレンジ色のクーポラが有名なサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(「花の聖母 大聖堂」)だ。
 この教会は、全長153m、最大幅90m、高さ107mの初期ルネサンスのゴシック・ルネサンス様式の建物で、キリスト教会建築の中では、ミラノの大聖堂に次ぐ世界で4番目の規模だ。
 また、建設期間は、1296年から始まって1436年までの140年の歳月を要した。

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 大聖堂を眺められる展望スポットはいくつかあるそうだが、わたし達が見つけた絶好のビューポイントは、共和国広場の東側にあるデパート“La Rinascente”(リナシェンテ)の屋上。ここには屋外レストランがあり、ゆったりと休憩できる。写真を撮るだけなら無料だ。

 フィレンツェの大司教座聖堂は、大聖堂(ドゥオーモ)と、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つで構成されている。
 大聖堂の天蓋は石積み構造のドームで、規模は世界最大といわれ、天蓋の天頂にあるブロンズ製の球は、レオナルド・ダ・ヴィンチの師である彫刻家ヴェロッキオが制作したものだ。

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 地上100mもの高所で直径42mのクーポラ(ドーム型の天蓋)を造ることは、当時の技術では困難で、13世紀末に建物はほぼ完成していたものの、クーポラは未完成のままだった。

 この後紹介する、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の制作を譲って、ローマで建築の修業・研究をしたフィリッポ・ブルネッレスキは、古代ローマ時代のパンテオンの研究から独自の新技術を確立し、2万7千tにもなるという石を数学的理論に従って規則的に積み上げるとともに、聖堂の天井を覆うクーポラの壁を2重構造にしたことで梁のない巨大空間を造り上げることに成功し、ようやく15年後の1436年に当時世界最大のクーポラを完成させたのだった。

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 ところで、大聖堂のファサード(正面外観)は、ドゥオーモの建設と同時に着工されたものの、様々な議論や変遷の上、ようやくエミリオ・デ・ファブリスにより400年後の1876年に建設が始まり、白大理石を基調にして、緑、ピンクのトスカーナ大理石で装飾されたネオ・ゴシックによる華麗なデザインで、1887年に現在の形で完成する。
 なお、正面の青銅製の巨大な扉は、1903年に制作されたものだ。

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 正面の青銅製の巨大な扉は、1903年に制作された

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 大扉の上にはフレスコ画で、イエスとそれを取り巻く使徒が描かれている。

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 ドゥオーモ広場から大聖堂を望む。
 手前右に、サン・ジョヴァンニ洗礼堂があるが、現在修理中で覆いが掛けられていた。

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 ドゥオーモ内部は、鮮やかで豪華な外観比べ装飾が少なくシンプルなデザインになっている。

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 見上げた八角形の大クーポラの天井には、1568年にジョルジョ・ヴァザーリによって始められ、彼の死後に引継いだフェデリコ・ツッカリによって1579年に完成した、フレスコ画の「最後の審判」が描かれている。

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 主祭壇の左右には、パイプオルガンが設置されている。

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 祭壇上の「十字架」は、1490年にベネデット・ダ・マイアーノによって制作された。

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 色大理石で幾何学模様を描き出した大聖堂の床。

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 西側の壁面には、1443年にパオロ・ウッチェロデイが制作した「24時間時計」がある。
 18世紀までのフィレンツェの一日は、日没と共に大聖堂で行われるミサで始まる「フィレンツェ時」が使用されていた。
 この時計は、針は一本で、一番下を基点として反時計回りに動き、ミサ開始の時刻から何時間経過したかを示すものだ。
 つまり、時をつかさどる権力者は、キリスト教会だったのだ。

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 北側壁面には、アンドレア・デル・カスターニョ制作の、サン・ロマーノの戦いでシエナを破った『傭兵隊長ニコロ・ダ・トレンティーノ』のフレスコ画が掛る。
 初期の都市国家は、それぞれの国で自前の軍隊を保有していたが、時代が下ると.維持費がかかる事から必要最小限以外は保有しなくなり、都市間などの戦争をする時には必要に応じて、普段は小領主をしている専門の傭兵(隊長)を雇うのが普通となっていく。
 異教徒との戦いは別にして、傭兵隊長同士の戦いでは、お互いの損失を避けるために戦争が長引くことになり、かえって支払う報酬が高くつくこともあったという。

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 フィレンツェの大司教座聖堂は、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ドゥオーモ、ジョットの鐘楼の三つの独立した建築物で構成されている。



● サン・ジョヴァンニ洗礼堂
 フィレンツェの大司教座聖堂の建物で最も古く12世紀に建設されたビサンティン様式の八角形の洗礼堂が、サン・ジョヴァンニ洗礼堂で、フィレンツェの守護聖人ヨハネ(聖ジョヴァンニ)を祀っている。

 現在修理中で、金色に輝く素晴らしいモザイク画が描かれた内部を覗うことはできなかったのは残念だった。
 しかし、この洗礼堂にある1452年にロレンツォ・ギベルティが制作した東側の金の扉は、ミケランジェロが「天国の扉」と呼んで賞賛したことから、一躍有名となったルネサンス美術の先駆けとなる作品だ。

 現在設置されている扉はレプリカで、現物はドゥオーモ付属博物館に所蔵されている。

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 サン・ジョヴァンニ洗礼堂の 「天国の扉」
 旧約聖書の物語の場面を、10枚の黄金のパネルで表わし、左上から「アダムとイヴ」の物語から始まっている。

0P1520901シナイ山のモーゼ Battistero東門

 シナイ山頂で、神から十戒を授けられるモーゼの物語を描いたレリーフ


▲組写真 フエレンツエ 天国の扉000

 実は、この礼拝堂の北側には、新約聖書の物語を描いた青銅製の扉があるが、1401年に開催された扉の制作コンペに応募して最終審査に残ったのが、ギベルティとブルネレスキだったが、ブルネレスキは共同制作を嫌ってギベルティに優勝を譲り、ローマへ建築の修業に出る。

 こうして当時22歳のギベルティが扉の制作に取り掛かり、20年の歳月をかけて「新約聖書」の物語を刻んだ22枚のパネルを完成させたのだった。

 一方、ローマへ修業に出たブルネレスキは、その後ローマで成功し大建築家となってフィレンツェに戻り、世界最大のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラを完成させたという因縁話がついている。

 
● ジョットの鐘楼
 画家であり建築家でもあったジョットが設計し、1334年に建築がはじまったが、1337年に死去し、その後を継いだアンドレア・ピザーノとフランチェスコ・タレンティによって建築が続けられ、高さ85mのゴシック様式の鐘楼が完成した。

 大聖堂と調和した、3色の大理石の装飾と窓の装飾が繰り返しされた構造で、414段の階段を上り鐘楼の最上階まで上がるとフィレンツェの街全体が見渡せる。

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ジョットの鐘楼
 聖堂よりも100年早く完成した。基底部分には、ピサーノが彫った「芸術と職業」のレリーフがある。


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● サンタ・クローチェ教会
 サンタ・クローチェ広場に面して建つこの教会は、1228年に聖フランチェスコがフィレンツェ初のフランチェスコ会の教会として建造したものを引き継ぎ、信者の増加などに伴い新たに建設が始められ、1294年に完成したゴシック様式の建物で、1443年に現在の大きさとなり、フランシスコ会の教会としては世界最大のものとなっている。

 教会の内外は、ジョットやその弟子たちの作品で装飾されている。
 なお、現在のファサードの装飾は、1863年に取り付けられたものだ。

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 この教会が有名なのは、ミケランジェロやガリレオ・ガリレイ、作曲家 ロッシーニの埋葬場所となっていることからでもある。

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 サンタ・クローチェ教会のファサードには、ユダヤの「ダビデの星」とも呼ばれる六芒星が描かれている。
 ファサードの装飾の制作者がユダヤ人のニコロ・マタスだったからという向きもあるようだが、ここに描かれている装飾的な六芒星は、「生命」を表し、普通にキリスト教会の祭壇やファサードに使われて来たものだ。なお、輪郭線だけのシンプルな六芒星は「死」を象徴するという。


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教会の傍らに建つ、ダンテの像
 「神曲」の著者、ダンテは、1265年にフィレンツェで生まれた。党派抗争から逃れるためフィレンツェを出たダンテは、ラヴェンナで「神曲」を執筆しラヴェンナで死に、葬られている。
 フィレンツェは遺体の引き取りを要求したが拒否されたため、現在もサンタ・クローチェ教会の中には主のいない空の墓碑が置かれている。

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 この像は、1865年にダンテの生誕600年を記念して、彫刻家のエンリコ・パッツィにより制作されたものだ。

 当初は広場の中央に設置されたが、1530年に始められ今では毎年6月のフィレンツェの守護聖人ヨハネの祝日にこの広場で開催される、中世風の装束に身を包んだ選手たちによって激しくボールを奪い合う、「カルチョ・ストーリコ」(中世サッカー)の試合の邪魔になることから、教会の正面左手に移設されている。


〇 今日の一献 Ciao l'Italia その6の2 フィレンツェにつづく



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