〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その8(最後)

―― 中村区『まち歩きカード』の⑤「旧名古屋花壇(中村温泉パラダイス)周辺」

● カードの配布場所:「中村区社会福祉協議会事務局」(祝日・休日・年末年始は閉庁)
     中村区名楽町4丁目7番地の18 中村区在宅サ−ビスセンター内 
     TEL 052-486-2131
     http://nakamura-shakyo.or.jp/menu1/telephone.html
     地下鉄東山線「中村日赤」駅から徒歩10分 600m
     市営バス「中村保健所南」バス停から徒歩5分
● 「旧名古屋花壇(中村温泉パラダイス)周辺」へは、
      (現「中村郵便局」所在地 中村区大宮町3-47) 
     地下鉄東山線「中村公園」駅から徒歩約12分
     市営バス 大宮町停留所下車
     http://map.japanpost.jp/pc/syousai.php?id=300121340


〇 1928年(昭和3年)開館の名古屋花壇の構想図
 この写真は、1928年(昭和3年の)に開設された、名古屋花壇(中村温泉パラダイス)の建設構想図だ。

 いままで何度も出てきた、中村地域を開発してきた名古屋土地㈱が、東京の浅草・多摩川遊園地や関西の宝塚・新世界の向こうを張って、この地に大規模遊園施設(パラダイス)の建設を計画し、同年10月に、中村遊郭の南西、中村電気軌道の電車道(太閤通6丁目)の南(現在の中村区大宮町3丁目)の敷地(1.2ha)に開設したものだ。

中村区『まち歩きカード』05

中村温泉パラダイス 工事平面図 11

 名古屋花壇(中村温泉パラダイス)の建設計画平面図
 当時の資料によると、映画館、室内スポーツ施設、スーパー銭湯、舞台付き大食堂、遊技施設などの大規模建物と、屋外にはメリーゴーランド、シーソー、滑り台、動物園、大噴水と花壇、ひょうたん池などが設置されていた。
 なお、計画図には高さ75mの東洋一となるはずだった鉄塔も描かれているが、これだけは鉄材の不足で実現されなかったという。

20131008_000.jpg

 1932年(昭和7年)の地図には、電車道(太閤通)を挟んで中村遊郭のすぐの南に「花壇」として表示されている。

まち歩きカード1-002

 名古屋花壇が紹介された、数少ない絵図
 「名古屋市鳥瞰圖」の一部に描かれた、名古屋花壇
 1936年(昭和11年)汎太平洋平和博覽會:発行 現所蔵: 国際日本文化研究センター

nagoya kadan 000

 名古屋花壇の外観、正面入り口

20131005_000.jpg

 演舞台・大食堂

20131005_004.jpg

 屋外の遊園施設

20131005_005.jpg

 屋内スポーツ施設


 1928年(昭和3年)の名古屋花壇の開園後、1929年には世界大恐慌がおこり、日本の景気も大不況の渦に巻き込まれ、次いで社会の世相にも暗い影が色濃くなっていく中で、廃園に追い込まれることになる。

 名古屋花壇の廃園後、1937年(昭和12年)10月になって、中村区が西区から分区するなど、名古屋市の区制がそれまでの6区から10区となると、旧名古屋花壇の建物の一部を改装して、中村区役所の初代(仮)庁舎として使われた。
 なお、翌年11月には、太閤通三丁目の地点に新しく区役所庁舎が完成し、移転することになる。

2013-09-13_001.jpg

05名古屋花壇0
 
 1938年(昭和13年)の中村区大宮町周辺の地図には、かつての名古屋花壇の跡地(現在の中村区大宮町3丁目)に、中村区役所の仮庁舎と時を同じくして開局した「中村郵便局」があって、西隣にはその後開設したNTT西日本中村ビル(旧電電公社中村電話局)があり、もう昔を偲ぶ面影はない。

nagoyakadan S13

〇 中村区の地域開発に尽力した吉田高朗と名古屋土地㈱
 近代の中村地域の開発・発展に大きな貢献をした人物として、忘れてはならないのが、吉田高朗だ。

 吉田高朗は、1860年(万延元年)6月、現在の中村区稲葉地に生まれた。
 村会議員、郡会議員などを歴任し、明治27年には愛知県会議員に当選し、14年間連続当選し、庄内川堤防の修築に力を注いだ。

 また、愛知農商銀行(明治27年)の創設など事業経営に参画する一方、郷・村の発展を企図して、私財を投じて秀吉の生誕地を整備し豊国神社の創祀に尽くすとともに、中村公園の開設にも尽力した。

 当時中村地域の開発を担った、名古屋土地㈱(明治44年)の創立にも関与し、土地移転・収用を円滑に進めるため、土地交換などを通じて自ら所有する則武町や愛知町の土地を失ったともいわれる。
 
 しかし、中村の名古屋市への合併を前に、1920年(大正9年)8月、60歳で逝去した。

 これまで見てきたように、現在の中村区の大部分が名古屋市に合併するのは、1921年(大正10年)のことだったが、それまでに、豊国神社や中村公園と名古屋市を接続するため、当時、全国的にも珍しい不動産会社の名古屋土地㈱により路面電車を太閤通に敷設するとともに、同社の土地開発で中村遊郭を誘致する一方、この軌道をはさんだ南側には、劇場や温泉、遊園地などを備える「名古屋花壇」を開設するなど、当時の娯楽リゾート・観光施設の開発・整備と軌道系交通機関の結合が図られた。

 これによって、名古屋市域を始め、その近隣地域からも多くの人々を引きつけ、中村地域の近代化に大きな貢献を果たすこととなった。

20131005_1000.jpg

 この図は、名古屋花壇の開館案内に関連して作成されたものだ。
 「豊国神社」や「中村公園」、「中村電気軌道」、「中村遊郭」、「名古屋花壇」など、当時のこの地域の娯楽リゾート・観光施設と軌道系交通機関が網羅されていて、興味深い。


 お陰様で、ようやく今回で、中村区『まち歩きカード』の8枚すべての紹介を終えることができた。

 中村区内には、このカードで紹介された場所のほかにも、もっと興味深い場所・見どころは多い。

 そんな場所を再発見するため、あなたもまた、お暇を見つけて区内散策にお出かけになりませんか。

 参考・出典書籍
 「中村区誌」 昭和62年10月1日発行
 「中村区史」 昭和28年5月20日発行
 「中村区歴史余話」平成4年7月17日発行










〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その7

―― 中村区『まち歩きカード』の③「太閤通三丁目周辺」


● カードの配布場所:「中村区役所」(祝日・休日・年末年始は閉庁)
     中村区竹橋町36番31号 
     TEL 052-451-1241
     http://www.city.nagoya.jp/nakamura/
     地下鉄:桜通線「中村区役所」下車 2番出口 北20メートル 徒歩すぐ
● 「太閤通三丁目周辺」(中村区太閤通三丁目周辺)へは、 
     地下鉄:桜通線「中村区役所」下車 2番出口 


〇 1961年(昭和36年)の名古屋まつりの様子
 この写真は、昭和36年の秋に開催された「名古屋まつり」の行列が、路面電車が走る中村区のメインストリートの太閤通りを西から東へ行進して来て、ちょうど太閤通り3丁目の交差点に差掛ったところを東南側のビルから撮影したものだ。

 サイドカーが先導し、その後にプラカードを掲げた女性たちを先頭に、ブラスバンドの一団が続き、その次に造花で飾られた数台の「花バス」が従っている。沿道の両脇では、それを観ようと区民が鈴生りに列をなして待ち構える画だ。

中村区『まち歩きカード』03

 右手前には、昭和13年11月に旧名古屋花壇仮庁舎から移転した、当時の中村区役所の木造2階建ての庁舎(延1,530㎡)が見える。
 この頃周辺に見える街中の高い煙突は、ほとんどが、今は探すのに苦労するほどになってしまった銭湯の煙突だ。(近年は、公衆電話ボックスも、それと同じ運命を辿っている。)
 交差点の北4階建てビルには、「ツン・ツン・ツノダのテーユー号」のラジオCMで一躍全国的に名を轟かせた、名古屋が誇る自転車メーカー「ツノダ自転車」(現在本社は小牧市)の営業所の看板が見える。

 なお、「名古屋まつり(なごやまつり)」は、毎年10月上旬の土・日に、名古屋市内全域で開催される最大の祭りで、1955年(昭和30年)に始まり、第59回の今年(2013年)は、10月19日(土)、20日(日)の両日開催される。
 このまつりのメインは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑が行進する郷土英傑行列と山車揃えだ。

〇 地域の中央を東西に貫く、主要幹線の太閤通り
 それまで中村区内には、北西から南東へ対角線に貫く古い鎌倉街道や、区内南部の端を横断する津島街道(佐屋街道)などの街道や、区内の村々を繋ぐ杣道や農道などはあったが、中村区の中央部を東西に貫く幹線道路が出来たのは、ようやく明治に入ってから整備されたこの太閤通りだった。

 まず明治36年に、郡道として中村公園まで開通し、その西の農道と接続されたが、当初は、広小路通りが名古屋駅前で止まり、東海道線などの鉄道路線も平面を走っていたため、太閤通りと広小路通りは分断されていた。
 それでも終点の笹島地点では、東海道線、中央線、関西線の跨線陸橋として、1901年(明治34年)に完成した「明治橋」が、東の広小路通りとの連絡橋となっていた。

 1913年(大正2年)10月に、太閤通りの東の端のこの明治橋から、西の中村公園前までの3.07kmに中村電気軌道の路面電車が開設され、また1923年(大正12年)9月には同区間をバスが運行されるようになると、俄かにその重要性が高まっていった。

 汎太平洋博覧会の開幕を前に1937年(昭和12年)になって、線路の高架化と駅舎が北へ200m移転したことにより、太閤通りはようやく広小路通りに貫通することになって、中村区の主要幹線としてその機能はさらに高まることになる。

20131001_0099-rのコピー

 1920年(大正9年)の中村区の地図

 昔の物資や情報が行き交う幹線ルートは、「街道」だ。

 中村区内には、北の庄内川河岸の萱津から、東宿の郷を通り中村公園の南、上・下中村を経由して南東の露橋から熱田の宮に至る「鎌倉街道」や、熱田の宮から北へ上がり、新尾頭町で西に折れて進み、岩塚から万場の宿を経由して庄内川を渡り、津島の宮へ至る「津島下街道」(あるいは津島街道をなぞりながら、津島から佐屋を経由して桑名へ続く「佐屋街道」)がある。

 また、脇街道として、名古屋城下の堀川に架かる納屋橋から西へ進み、上米野から南西に下り、烏森で津島下街道(佐屋街道)に合流する「柳街道」があった。
 
 だから1913年(大正2年)に太閤通りに開設された私鉄の中村電気軌道の路面電車は、中村区の地域開発に重要な役割を果たした(赤い線で示す。)。

2013-09-13_000.jpg

03_太閤通り00

 現在の「太閤通三丁目周辺」

 現在の太閤通りは、正式名称を「愛知県道68号名古屋津島線」(起点:中区の日銀前交差点)といい、太閤通三丁目の交差点で、黄金通り、あるいは則武通りと称する主要地方道、「名古屋市道名古屋環状線」と交差しながら、西へ進み、中村公園前の交差点から鳥居西通り、稲葉地本通りと名称を変えながら、庄内川を渡り終点の津島市まで続く。

 太閤通三丁目交差点北東には、1965年(昭和40年)に完成した公団住宅「則武アパート」(4~10階)の下に、同年1月に移転した中村区役所(地下1階、1~3階、延7,000㎡)がある。

〇 かっぱの伝説と懐かしい下町情緒が残る町並み
 JR新幹線などの線路ガードを潜って太閤通りを西に進むと、笈瀬(おいせ)通の交差点がある。
 
 1889年(明治22年)に「牧野村」、「米野村」、「平野村」、「露橋村」、「日置村」が合併したが、古の時代に、ここに伊勢神宮の荘園があったことに因んで、「笈瀬村(おいせむら)」となった。
 また、この中心部を北から椿神社の東を通り、現在の笈瀬通り南に流れる川は「御伊勢川(笈瀬川)」と呼ばれた。

 しかし、この川は、東南に隣接する場所に笹島の貨物駅が整備されたことなどで埋め立てられ、今では笈瀬本通商店街を形成する道路となっている。

oise river map0T09-22

 昔、この川には「河童(かっぱ」」が住んでいて、川でおぼれている子供を助けて「人助けのかっぱ」と呼ばれて親しまれたという伝説があり、笈瀬本通商店街では「かっぱ商店街」の愛称で、かっぱのモニュメントを設置して振興を図っている。

13-08-01_004.jpg

 笈瀬通交差点の南の商店街の入り口東西には、かっぱのモニュメントが設置されている。
 東側には、男のかっぱ像がある。

13-08-01_006.jpg

 西側には、女のかっぱ像がある。

13-08-01_003.jpg

13-08-01_001.jpg

 柳街道を辿って、太閤1丁目(旧牧野町)のJR・新幹線のガードを潜って太閤通りの二本南の道を西に進むと、笈瀬通との交差点に石組の小さな須佐之男社(祭神は建速須佐之男命・火之迦具土神)の社がある。
 この角にも、かっぱの像が座っており、その由来がプレートで読める。


● 中村区の名古屋駅を中心とする東のエリアは、商業・オフィスが集中・集積する繁華街となっており、その西方は下町の住宅街が広がっている。

 先の大戦では、この下町部分は大きな戦災を受けなかったことから、太閤通りを少し入ると、今でも大正・昭和の懐かしい木造建築物が多く残されている。

 しかし、近年建物の老朽化や所有者の世代交代などで順次消滅し、跡地は賃貸マンションや駐車場に変わりつつある。

13-08-01_000.jpg

 太閤通りを北に入った道には、懐かしい木造の民家が残る。
 周りはすでにアパートやマンションのビルが建ち並びつつある。

13-08-01_008.jpg

 所有者の世代交代があったのか、樹木が生い茂るままに放置されている。

13-08-01_010.jpg

13-08-01_009.jpg

13-08-01_007.jpg

 いまも大切に住まわれる民家には、大屋根に上がる立派な鬼がわらが聳える。

20130923_002.jpg

 太閤通りを少し入ると、戦前からの木造建築物が今も多く見られ、懐かしい下町情緒が残る。


● 笈瀬通交差点から西の太閤通り三丁目の交差点までの間には、連続して「はす交い」の建物が見られる。
 改めて、前に掲げた大正9年の地図を見ると、この米野地区には北から南に向けて斜めに流れる農業用水の「米野用水」があり、家並みや田畑が用水の流れの傾きに沿って整備されていったようだ。
 また、1924年(大正13年)に決定された都市計画でも、この「斜めの区画」はそのまま残され、この上米野が戦災を受けなかったことから、区画整理も行われなかったという。

 このため、この地区は、太閤通に対して斜めの街区が今に残ることとなり、結果として太閤通りに面する商店などは、通りに面して面(つら)を合わせて建てられたことで、この「はす交い」の建物が連続することになったそうだ。

太閤通りハスの建物 00-0000

 人の行き交う通り沿いの商店が、不整形の土地にもかかわらず、通りに面して面(つら)を合わせて建てたのが「はす交い」の建物だった。


〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』その8(最後) へつづく
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-309.html








〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その6

―― 中村区『まち歩きカード』の⑥「中村公園周辺」

● カードの配布場所:「名古屋市秀吉清正記念館」
     中村区中村町茶ノ木25 中村公園文化プラザ2階
     TEL 052-411-0035
     http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000010634.html
     地下鉄東山線「中村公園駅」下車 3番出口から徒歩10分 600m
● 「中村公園周辺」(中村区中村町字茶ノ木)へは、 
     地下鉄東山線「中村公園駅」下車 3番出口から徒歩10分 600m


〇 1910年(明治43年)ごろの中村公園の入り口
 中村公園は、1885年(明治18年)創祀の豊国神社の本殿を中心に、複数の池や藤の棚などを配した和風庭園として、1901年(明治34年)に愛知県の公園施設として開園した。

中村区『まち歩きカード』06

 現在も公園の北奥には、1910年(明治43年)11月に明宮嘉仁親王(後の大正天皇)が来名した際に植えたとする「大正天皇御手植松」や、そのとき休憩に使った「記念館」があるから、この写真は、きっとその親王来訪に合せて園内が改良・整備された時に、⑦「豊国神社とその近辺」の写真と時を同じくして撮られたものにちがいない。

 入口には中村公園と彫られた石柱が建ち、青銅製のランプを載せた立派な石造りの門柱が立っており、園域は土堤と竹矢来の塀で囲まれている。
 入口の先には、現在のひょうたん池とハス池の水路を跨ぐ橋(現在は太鼓橋)と豊国神社の本殿、左手には藤棚や立派な松の林などが見える。

06中村公園00

20130920_0009.jpg

 現在の中村公園の正門は、豊国神社の本殿前に二の鳥居を建てることになったからか、開設時の場所から東に移されている。
 今は、名古屋市の都市公園として、名古屋市が管理している。

20130920_099.jpg

 中村公園の施設案内図
 中村公園は、豊国神社とひょうたん池、関白池、太閤池、ハス池の4つの池などがある本園と、香りの園や児童球技場のある東園、そして児童園のある西園で構成されている。

 ひょうたん池の北には、加藤清正没後300年を記念し愛知県が明治43年に建築し、この年皇太子(後の大正天皇)が公園に立ち寄った際には、迎賓館として使用された「記念館」と、公園事務所がある。
 この記念館の建物は、明治期の公共木造建築物として稀少性も高く、かつては徳川園の施設(喫茶・レストラン)と並んで、名古屋市営の結婚式場として使用されていた。

07-04-08_000.jpg

 本園のひょうたん池の畔では、春には桜、初夏に下がり藤やつつじ、秋には紅葉が楽しめる。
 また、4つの池の周囲を巡る、650mの「健康散策園路」も整備されている。

2006-03-19_000.jpg

 現在、右端の場所には小さな杉板葺きの扉が現存し、傍らに「ぎんなん小学校跡地」の小さな石碑が立っているが、これは1874年(明治6年)に設置された、第2番中学内第31番銀杏小学校のあった場所かもしれない。


050417_000.jpg

〇 豊国神社と中村公園近辺の史跡など

Nakamuira Park Map 00

 この図は、豊国神社と中村公園近辺の史跡などの位置関係がよくわかる。
 ①は、先に紹介した「秀吉の霊を祀る豊国神社」だ。


130920_002.jpg

② 「諸説あるうちの一つ、豊公誕生之地」
 豊国神社本殿のすぐ右隣に、石で円形に囲まれた場所を説明する、「豊臣秀吉生誕の地」の記念碑がある。
 昔は、秀吉(幼名・日吉丸)が生まれた場所として、竹藪が丸くこんもりと生い茂っていたが、近年地元のライオンズクラブの寄付でこのように整備されたようだ。
 
 秀吉が生まれた当時の尾張の地域は、未だ統一されておらず、織田家の内部抗争が続き、中村郷の人々は過酷な税の取立てや戦のたびに狩出され、田畑も荒れて逃散する村人が絶えなかったという時代だった。
 秀吉の生地がこの地域だと伝承されているとしても、名のある武士階級の者ならいざ知らず、下層民の出であった秀吉の生まれた場所を特定することは、極めて困難なことだ。

 だから、秀吉の生誕の地といわれる場所は、ここを含めて3か所もあることになる。
 2つめは、秀吉の幼友達で弟分の加藤清正が、秀吉の生誕地に寺を建てたといわれる、常泉寺のある場所。
 3つめは、この地から800m南の太閤通りの中村中町。かつてここには、秀吉の親父の木下弥右衛門の別称、弥助の名を付けた「弥助屋敷」があったからだという説があり、有力となっている。

 ところであなたは、ご自分の出生地の場所が、どこであるのかご存じだろうか。
 地域の習慣にもよるけれど、少し以前には妊婦は実家に帰って出産し、嬰児が少し育ってから自宅に戻る風習があったから、母親の実家が出生地になった。今は自宅の周辺の病院で出産することもあるから、お母さまから正確に聞いておれば、その所在地が出生の場所となるだろう。

 秀吉の場合、この出生にまつわる記述が様々な古書にあって、それぞれ場所が違い、後世の資料では脚色を交えて奇異な記述もあるという。

 秀吉の小田原征伐の帰り、軍勢とともに尾張の中村に立寄り、小早川隆景との馬上での会話で、「昔ここで育ったけれど、悪さをして遠江の方へ出て行った。」と語ったとの古文書の記述があるから、『育ったのはこの中村だろうけれど、出生地は母親の出身地の清洲に違いない。』との説が主張されるようだ。
 しかし、馬上の気楽な会話で、本人が「ここで育った。」といえば、やはり「育った。」のであって、なにも「生まれ育った。」と正確に言わなかったから、『生まれた場所は、中村ではない。』とはならないのではないかと思うのだがどうだろう。
 清正は秀吉の遊び友達だから、秀吉の死後に清正が建てた寺の常泉寺は、秀吉の出生地に違いないとなるかもしれないけれど、年下の弟分が秀吉の育った家の場所は知っていても、生まれた場所まで本人に正確に聞いていただろうかと思うと疑問もある。中村中町の「弥助屋敷」場所については、有力説だというけれど、わたしには理解できない。

 そうこう考えていくと、秀吉の出身地は中村で良いのであって、出生地の正確な場所の厳密解は解らなくてもよいのではないかとわたしには思えるのだが、、、、。

20130920_000_20131001003421a7e.jpg

③ 「秀吉の幼名、日吉丸となかまたち」
 中村公園内の豊国神社本殿から南東すぐに、1983年(昭和58年)に設置された、石の上に腕組みをして立つ日吉丸を中心にした5人の子供たちの群像。

07-01-14_000.jpg

④ 「秀頼の補佐役、小出秀政の邸宅跡」
 中村公園本園の正門を入って右の遊具のある東端に、小出秀政邸宅跡の石碑が建つ。
 小出秀政は、1540年(天文9年)にこの地で生まれ、正室が秀吉の母・大政所の妹であることから、秀政は秀吉の叔父(叔母婿)に当たる。

 秀吉に仕え、後に和泉岸和田3万石の藩主となった。死の直前に、秀吉から秀頼の補佐を依頼された。関ヶ原の戦いでは、長男の吉政を西軍に、次男の秀家を東軍に送ったが、関ヶ原本戦で秀家が活躍したため所領を安堵され、後に出石藩小出家初代となる。

13-09-20_000.jpg

030406_000.jpg

⑤ 「加藤清正の出生地、妙行寺」
   名古屋市中村区中村町字木下屋敷22
 中村公園の東隣、清正公通りにある日蓮宗の寺院。寺の創建は不詳だが、もとは「本行寺」と号する真言宗寺院で、1294年(永仁2年)に日蓮宗に改宗されたという。その後、火災により焼失したが、加藤清正が名古屋城築城の余材を使って「妙行寺」を自分の生誕地に移築・再建したという。
 境内には、清正生誕地の石碑や、1960年(昭和35年)に建造された清正の銅像がある。

130920_000.jpg

05-04-07_000.jpg

⑥ 「秀吉のために清正が創建した常泉寺」
   中村区中村町字木下屋敷47
 名古屋城建設に関わった加藤清正が、1606年(慶長11年)に秀吉の継父宅があった地に、秀吉を祀るために創建した日蓮宗の寺。
 山号を太閤山と号し、秀吉生誕の地であるとして、境内には秀吉の銅像の他に、「秀吉産湯井の井」や日吉丸11歳の時に植えたという「秀吉手植のヒイラギ」がある。

 なお、秀吉は、1590年に小田原城征伐に勝利し凱旋の途中、この地に立寄り一宿したとされ、その時本陣を置いた場所が、中村公園の東北にある、現在の「本陣」とされる。

130920_001.jpg

⑦ 「秀吉の親戚、木下長嘯子の宅跡」
 木下勝俊は、1569年(永禄12年)にこの地で生まれ、競輪場の整備で常泉寺脇に石碑が移された。秀吉の正室、おねの甥に当たり、秀吉に仕えて若狭小浜城主ともなった。
 関ヶ原の戦いでは、東軍に属し鳥居元忠と共に伏見城の守備を任されたが、西軍が攻め寄せる直前に城を退去し、逃亡したものとして失脚した。
 その後、京都・東山に隠棲して「長嘯子」などと号し、近世初期における歌壇に新境地を開き、俳諧師・松尾芭蕉にも影響を与えた当代一の歌人として名を残した。結局、武人としてではなく、文人として生き、1649年(慶安2年)に数え年81歳で没した。

11-10-23_003.jpg

11-10-23_002.jpg

⑪ 「地元の英雄を顕彰する、名古屋市秀吉清正記念館」
   中村区中村町茶ノ木25
 この記念館は、公園の西南隅に位置し、豊臣秀吉と加藤清正に関する資料を収集・展示する名古屋市立の歴史博物館「豊清二公顕彰館」として、1967年(昭和42年)に開館した。
 1991年(平成3年)に、図書館や文化小劇場などとの複合施設として改築され、いまの館名に改めた。
 常設展では、織田信長の天下統一開始から、秀吉の天下統一、豊臣氏の滅亡までを、テーマ別に展示・解説している。

20130923_001.jpg

 中村公園周辺の史跡などをまとめてみた。


 ♪「乱れ鎮めて世を建てた 豊正二公の出たところ。桐に蛇の目は燦として わが学び舎に生えている。中村 中村 わが中村。大志にもえる おお我ら。」

 これは、わたしの卒業した、名古屋市立中村小学校(前身は、第2番中学内第31番銀杏小学校)の校歌の2番だ

 校歌の曲は、譜面を見なくても、ハーモニカぐらいは今でも演奏できる。
 だから、地元では、事々左様に子供のころから秀吉、清正のことは十分に刷り込まれているのだ。

nakamura park T9 0101

 大正9年の地図。中村公園の右の南北に流れる水路に沿った道の東の現在と同じ場所に、中村小学校の表示がある。

20131003000618a3d_20131006184048bfa.jpg

 名古屋名所 「中村公園」
 木々が大きく茂り、門柱は少し汚れ、入り口を入ったところにある橋は、太鼓橋に代わっている。多分1910年(明治43年)の公園再整備以降だろう絵葉書写真が見つかった。

「名古屋駅より西方約20丁。乗合自動車、電車の便あり。秀吉公出生の地。太閤藪、手植えの柊、産湯の井戸等あり。加藤清正もまたこの付近に生まる。種々、宝物あり。2-3丁にして中村遊郭あり。」と簡潔明瞭な説明書きがある。」

2013100300062508c.jpg

 名古屋名所 「中村公園」その2
 同じキャプション。
 ひょうたん池と池の畔に佇む3人の子供たち


〇 昭和時代の中村公園の思い出
 この写真は、名古屋名所を案内する、中村公園の写真絵葉書だが、写された時期はいつのころだろうか、
 ひょうたん池の南から北方向を見たもので、右手の小島の先の東屋(四阿)と島に架かる橋が写っており、橋の欄干には坊主頭の子供が腰かけている。
 池の向こうには、(現在の競輪場のある場所になるだろうか。)大きな寄棟の屋根の建物と右に続く大型の建物の屋根が見え、その施設の入口があるが、明治43年に建てられた記念館に関連する施設だろうか。

nakamura park000

 ところで、わたしが祖母に連れられてここに遊びに来るようになった、昭和20年代のある日のことだ。
 その時祖母は、この写真にある東屋を指さして、「遊んできていいよ。わたしはあの『おちん』で待っているから。」と言ったものだ。
 この時その言葉が、わたしの幼心にも変なものを連想させて、祖母も変なことを言うものだと思った記憶がある。
 お恥ずかしながら、よくも聞かないままに長じて、その『おちん』とは唐風の読みで、和風庭園に設置される休憩施設の東屋のことを指し、漢字では「御亭」と書くのだと、ようやく知るまでにはかなりの時間がかかったことを白状しておく。
 いまではこの公園にはなくなってしまったけれど、金沢の兼六園には開設以来、今も「船之御亭(ふなのおちん)」などがあるし、園の近くにはその名を採った料亭もあるという。(西洋の庭園の『おちん』は、英語で「gazebo」というのだそうな。)

 さて1962年(昭和37年)から6年間、藤田誠と白木みのるの人気テレビコメディ『てなもんや三度笠』の生番組が放映された。この番組のオープニングに、藤田の「あたり前田のクラッカー」というCMフレーズが使われたから、わたしたち同世代の者は今でも覚えているはずだ。

 このころ、中村公園の太閤池(貸しボートが楽しめた。)では、子供たちの間で「びん釣り」というのが流行った。
 池の小魚を採るのに、紐に付けたビンに餌を入れて、そのまま水に投げ込んで、しばらくして紐を引いてビンを上げれば、ビンの中に元気に数匹の小魚が泳いでいるという、極めて簡単な釣法だ。
 太閤池以外の池では岸が岩で囲ってあって、引き上げる時にぶつけてビンが割れることが多かった。そして、この餌となったのが、この前田のクラッカーをつぶして粉状にしたものだったのだ。餌は不思議と他のものではだめで、ビンも牛乳瓶ではだめで、広口のネスカフェ・コーヒーのビンでなくてはならなかった。

 そして、その採れた小魚は、体が板のように薄く鮮やかに腹部が虹色に光る、今では淡水魚の絶滅危惧種となってしまった、「イタセンパラ」だった。もちろん、今や中村公園の池では見られない。

〇 地域の最大規模の喫茶店cherry(チェリー)
 中村公園の参道をすこし南に下がった西側に、喫茶店「cherry(チェリー)」はある。
 10台以上の駐車場を備え、30基くらいのテーブル、120席以上の堂々たる規模で、喫茶店としてはこの地域では多分最大級だと思う。 

20130923_000_20131001004617dac.jpg

 店内は、壁やシートなどがベージュとグレーでシックに統一され、手入れもよく行き届いているから、もう40年以上も経っているとはとうてい思えない。洋風のゆったりした店内とは対照的に、窓の外には和風庭園が楽しめる。店内をガラスの引き戸で仕切れば、ピアノパーテイもできる機能を備える。

 コーヒーのおつまみにバターピーナッツが付いてくるのと、しばらく経って口直しの煎茶が出るのも、この地方の古い喫茶店の伝統のままだ。
 だから、ここは安心して訪れることができるし、長居してもいいと思う。

 なお、ランチタイムは、オムライス、チャーハン、エビフライなど人気メニューは豊富だが、ほかの店とは違って、定休日が金曜日。それとモーニングサービスの時間が、朝6:30~9:00までと早く終わるから注意が必要だ。



〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』その7 へつづく
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-308.html



 
 





〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その5

―― 中村区『まち歩きカード』の⑦「豊国神社とその近辺」

● カードの配布場所:「豊国神社」
     中村町木下屋敷68
     TEL 052-411-0003
     http://toyokunijinjya.main.jp/
     地下鉄東山線「中村公園駅」下車 3番出口から北へ徒歩10分 600m
● 「豊国神社とその近辺」(中村区東宿町1丁目)へは、 
     地下鉄東山線「中村公園駅」下車 3番出口から北へ徒歩10分 600m


〇 ようやくかなった、出生地の豊国神社の創祀
 この写真は、1910年(明治43年)ころの豊国神社だというから、今年で103年もむかしのものだ。
 太閤秀吉の名で誰もが知っている豊臣秀吉を祀る豊国神社は、京都の東山にある秀吉の霊廟(正確には阿弥陀ヶ峰)の豊国神社(1599年創建)を始め、中村の社を合わせて全国に9社あるそうだ。
 
中村区『まち歩きカード』07

 この地は、秀吉の出生地として定説となっているが、秀吉の死後、豊臣家に代わった家康政権と徳川家による名古屋の城下の建設・支配で、江戸時代を通じて永い間秀吉を顕彰することを制約され憚られてきた。

 明治に入ってその制約が解かれると、生地で秀吉を祀ろうとする地元住民の運動が俄かに盛んとなり、当時の県令の協力も得て1885年(明治18年)にこの場所に豊国神社が創祀されたものだ。
 
 因みに、死後秀吉は、後陽成天皇から正一位の神階と「豊国大明神」の神号が下賜され京都の豊国神社に祀られたが、江戸時代になって徳川幕府により大明神の神号を剥奪され、社も廃絶されたままとなる。
 しかし、1868年(明治元年)になって、明治天皇が「天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣である。」として豊国神社の再興を布告し、1873年(明治6年)には別格官幣社に列格されたという背景があったことも、この運動を活気づけたものと思われる。

 写真に写る神社の社や神域の規模は竣工時のままだろうか、創祀から25年も経過しているのに狛犬や石灯籠もなく、村の鎮守の社よりも小さく貧しく見える。それに比べて公園の左奥にわずかに見える立派な建物は、写真が撮影されたこの年に、加藤清正生誕300年を記念して建てられた「記念館」にちがいない。
 
nakamura_park-T9.jpg

 これは、1920年(大正9年)の地図だ。
 豊国神社が中村公園(1901年(明治34年)開設)の中に表示されているが、時系列的には豊国神社などの史跡・名勝の周囲を囲んで公園ができたということだ。


〇 「太閤さん」の名で親しまれる豊国神社
 現在の豊国神社は、中村区東宿町の地にあって、あとに紹介する『まち歩きカード』⑥「中村公園」の中村公園の中に有り、周囲には秀吉や加藤清正などの出生地やその親戚縁者にちなむ史跡が数多い。

 いまさらだけど、秀吉は尾張国愛知郡中村郷の下層民の家の子日吉丸として1537年(天文6年)にこの地で生まれ、諸国流浪の末に17歳で織田信長に仕えると、1598年(慶長3年)に61歳で死ぬまでに、木下藤吉郎、木下秀吉、羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉と、出世しながら名前を変えた。
 そして渾名も、猿、木綿塔吉、豊太閤などと呼ばれた。

 そんなこともあって、豊国神社のことを、この地域では尊崇と親しみを込めて、「太閤さん」と呼んでいるのだ。

0IMAGE000.jpg

07豊国神社00

 当然、この中村の地域には、地名で木下屋敷や日吉町、道路は太閤通り、豊国通り、千成通り(秀吉の馬印)、本陣通り(秀吉が小田原征伐の帰路立寄った)、それ以外には日吉公園、豊公橋、名駅新幹線側出口が「太閤口」。
 それから太閤、千成、日吉、豊臣、本陣といった小学校名や、おまけに秀吉の家紋である「五七の桐」(太閤桐)の校章など、全国に知られる出世頭の天下人、あこがれの「秀吉」に因んだ銘々は数知れない。

2013-09-20_0002.jpg

 大鳥居から参道を500m北に行ったところに、豊国神社の二の鳥居がある
 秀吉は、武神として「豊国大明神」の称号を得ているから、この金銅製の鳥居も、明神鳥居の形式で建てられている。

2013-09-20_003.jpg

2011-10-23_0001.jpg

 豊国神社の本殿と鳥居
 本殿入り口の左右の提灯には、太閤秀吉の紋どころ、「五七の桐」(太閤桐)がある。
 創建時には本殿だけで、村の鎮守の社に比べてもほんの小さな社だったが、その後の数次にわたる拡張整備で立派な神社となっている。


 昔から秀吉は、日輪が母親に宿り正月元旦に生まれたと信じられており(現在の有力学説では1537年旧暦2月6日とされる。)、豊国神社では旧正月1日には「生誕祭」がおこなわれる。

 また、5月18日直前の日曜日には、例祭の「太閤祭り」が開催され、還暦を祝う豊太閤頭巾行列、子供の成長と出世を願う出世稚児行列が練り歩き、地元の神輿、太閤出世太鼓、新治郎太鼓などが奉納されている。

20050326_000.jpg

 社殿自体は小ぶりの質素なもので、拝殿向かって右側には、秀吉の絵姿が掲げられている。
 
2011-10-23_000.jpg

 秀吉公の馬印にちなんで、絵馬は瓢箪形だ。




〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』その6 へつづく
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-307.html

 
 
最新記事
カテゴリ
プロフィール

2011deko

Author:2011deko
でこちんの
  『いつか ありしこと。』
   のブログへようこそ!
(掲載写真は、クリックする
と、拡大写真になります。)

性 別:男性
住 居:愛知県
趣 味:ブログのカテゴリー

天気予報

-天気予報コム- -FC2-
月別アーカイブ
来場者数
検索フォーム
リンク