〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その4

―― 中村区『まち歩きカード』の④「中村日赤近辺」

● カードの配布場所:「中村生涯学習センター」
        中村区鳥居通3丁目1ー3(第2水曜日、第4月曜日、年末年始等休み) 
        TEL 052-471-8121
        地下鉄東山線「本陣」下車4番出口 南西へ約300m
        http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000004483.html
● 「名古屋第一赤十字病院の周辺」(中村区道下町3丁目35)へは、
        地下鉄東山線「中村日赤」下車すぐ(連絡通路あり)
        http://www.nagoya-1st.jrc.or.jp/


〇 哀しき遊里ヶ池と弁天寺の由来
 このカードの写真は、昭和も初期に当時の中村区の中心地区にあった「遊里ヶ池」に遊びに来た兄弟(?)を撮った記念写真だろうか。
 あまりにも3人の真剣な目線が、カメラのレンズを通してこちらに向けられているから、背後の遊里ヶ池の景色を観察するのに、さすがのわたしも気後れがしてしまう。

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 だから、この3人の姿を消した画像で改めて観なおすことにする。存在期間が短かったせいもあってか、そもそも遊里ヶ池を撮った画像は稀のようだ。

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 この池は、1876年(明治9年)に開業して市内中区の大須観音近くにあった「旭廓」を街中から移転するため、1920年(大正9年)になって、それまで田畑しかなかった郊外の中村の地に「中村遊廓」用地を整備することとなり、300m四方を掘割で区画した計画地の埋め立てのため、西隣の田畑を掘り土砂を採ったことで「遊里ヶ池」(面積:2.6ha)が生まれたものだ。(水源は、庄内川からの農業用水。)

 おかげで遊里ヶ池では、ボートや魚釣り等で賑わい、中村周辺住民の憩いの場所となった。また、時にはオートバイレースの会場となったり、初期の遊郭名物だった花火大会もこの池畔で行なわれたという。
 そうした数々のイベントは、遊廓を利用する男連中だけではなく、女子供も集めて、時には県外からの見物客も訪れるほどの名古屋の名所ともなっていったそうだ。

 しかし、中村遊郭が開業してから、遊里ヶ池では、当時苦界に苦しむ娼妓の投身自殺が絶えなかったという。
 このため、自殺した娼妓の霊を慰める一方、自殺の防止をもかねて、池の中心へ南から伸びる半島の島に、女性の幸福を守る守護神の弁財天を琵琶湖の竹生島から迎えて「弁天寺」が建立された。ここでは、弁財天の他に、弁天寺には大日如来、不動明王、稲荷神、地蔵菩薩などの神仏も祀られていた。

 この写真には、そんな哀しき遊里ヶ池とともにその弁天寺に続く参道の石灯籠があり、次いで背の高い楼門と奥の本堂があるのが見える。

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 この画像は、中村遊郭と遊里ヶ池・弁天寺の関係をよく示している。
 その後、1935年(昭和10年)ころになって、遊里ヶ池は埋め立てられ、その跡地に1937年(昭和12年)名古屋第一赤十字病院(通称、中村日赤。)が建てられることになる。
(地下鉄中村日赤駅から病院へ続く地下隧道の壁に架かる図(昭和2年ころ)と昭和7年の地図を合成したもの。弁天寺が神社で地図表記されている。)


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〇 遊里の中村遊郭の盛衰
 かつての中村遊郭は、中村区太閤通6丁目の北、賑町、羽衣町、大門町、寿町、日吉町に跨る範囲で、戦後の遊郭の運営母体となった「名楽園」の由来となる南西の名楽町も遊郭のゆかりの町だ。
 現在はその面影も薄れつつあるけれど、当時は、名古屋のみならず全国にもその名を知られた一大歓楽地帯だった。

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 明治44年9月設立の中村地区内で地域開発を進める名古屋土地㈱と、旭廓土地㈱の間で、土地31,620坪の売買契約が成立し1920年(大正9年)から区画整理が始まり、1923年(大正12年)4月に移転開業した「中村遊廓」は、1925年(大正14年)には年間遊客数が、75,5940人(一日あたり2,071人)に上ったとの記録もあるという。
 さらに1937年(昭和12年)頃には最盛期となり、貸座敷138軒、娼妓約2,000人を数えた。
 
 中村遊郭は、東京の吉原に習った造りの廓で、外周を幅一間の堀で囲み、四隅の道は亀の手足のように斜めにすることで、外部から中の様子を覗くことが出来ないようになっていた。
この堀の跡は、今も道路や町境としてその名残を残している。

 また、火災の延焼を防ぐため、隣の建物の間には、高いコンクリートの防火壁も目立たないように設置されていた。

 この遊郭の特徴として、廓内のほとんどの建物は坪庭を持っており、真上から見ると屋根が口の字やコの字状となって今でもその名残を観ることができる。

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 旧中村遊郭地域の名残を示す航空写真(1975年)

 廓の建物の建築費は、一軒につき当時の金で30万円かけたともいわれ、大正末の建築技術を最大限に注ぎ込んで建築されており、近代の和風建築の文化財としての価値も高い。

 1937年(昭和12年)ごろには最盛期を迎えたが、次第に戦時体制が強化されると中村遊郭への客足も年々遠ざかって行き、 日米開戦後の1943年(昭和18年)ごろには娼家は19軒、娼妓は220人に縮小し、休業中の娼家は軍需工場の寮や宿舎に転用され、娼妓も産業戦士の名の下に工場へ駆り出されていったという。また、戦争末期の空襲で、55軒が焼失するという被害にもあった。

 終戦後、中村遊廓は名を「名楽園」と改め、貸座敷業は特殊飲食業となったが、その勢いは見るべきものはなかった。次いで1957年(昭和32年)4月に売春防止法が施行されると、開業から34年間にわたって続いた紅灯の火も、遂に消え去ったのだった。

 しかし、時に、廓の立派な建物の立ち並ぶ街の雰囲気をノスタルジックに懐かしむ向きも稀にあるようだが、江戸時代の面影の残る宿場町を観光に来て、そこに身を浸して感慨に耽るのとは違って、やはりここは女性たちにとっては苦界だったことに思いを巡らすべき場所なのだと思う。

〇 遊郭の名残を色濃く残す街並み
 戦後も映画館やパチンコ店、小料理店や赤提灯の飲み屋、商店などが集積し、中村区の庶民の一大歓楽街を形成していた。
 しかし、時代の経過とともに、近年地域住民や経営者の高齢化と施設や街並みの老朽化が進み、一方では都心地域への商業娯楽施設の集中・集積化とに相まって、街の衰退が激しい。

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 廓内の「長寿庵(旧千壽)」、「旧松岡旅館(デイサービスセンター)」、「料亭 稲本」、「料理旅館 大観荘」の4軒が、名古屋市都市景観重要建築物に指定されていたが、うち大観荘は2004年に解体された。
 また、「旧四海波」も威容を誇った廓だったが、惜しくも戦後に火災で焼失している。


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 近くのスーパーの上階から眺めると、旧遊郭の建物の坪庭が口の字やコの字状の屋根となって、今でも観ることができる。

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 在りし日の廓の施設は、特殊浴場店に転用されて営業しており、名古屋市内唯一の集中地区となっている。

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 新大門商店街シンボルアーチ


 かつての中村遊郭の廓の建物は、時とともに姿を消しつつある。そして、建物が解体された跡地には、マンションや病院、スーパーマーケット、駐車場などとなり、あたりは住宅街に変貌しつつある。
 地元では、かつての街の賑わいを取り戻そうと1991年(平成3年)には「新大門商店街」を立ち上げ、街ぐるみの活性化の努力が続けられている。

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 JR名古屋駅ビルが真近に迫る。

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 太閤通りに面した飲み屋街「大門横町」など、小料理店や赤提灯の店が残る。

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 中村観音(瑞龍山白王寺)曹洞宗
 中村区名楽町1丁目2
 廓の東南地区にある中村観音の本堂には、娼妓など無縁仏の供養のために遺骨を練り固めて建立された、高さ8mの本尊の十一面観音と、境内にはお笑い芸人、故藤山寛美氏発案の「芸人塚」と石地蔵群がある。

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 素盞男神社
 中村区日吉町18
 遊郭の北西部、かつての県立中村病院の門前に位置する。
 素盞男尊を祭神として、毎年11月の酉の日には「酉の市」が行なわれ、多くの商工業者が商売繁盛の祈願に訪れる。
 また、7月の例大祭は「輪くぐり」と呼ばれる茅輪神事が行われる。1933年(昭和8年)に千種区からこの地に移され、かつては、遊郭の商売繁盛祈願の地でもあった。 


〇 遊里ヶ池の跡地にそびえる中村日赤病院
 1920年(大正9年)ごろの中村遊郭用地の造成に伴いできた遊里ヶ池は、名古屋の名所の一つに数えられるようになったが、1935年(昭和10年)になってこの池は埋め立てられ、その跡地に1937年(昭和12年)、地域の中核的医療施設として名古屋第一赤十字病院(通称、「中村日赤」)が建てられた。
 このため、池の寿命はわずか15年だった。

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 1938年(昭和13年)ころの中村区の繁華街の地図
 遊郭の西の遊里ヶ池の跡地に、中村日赤がある。

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 現在の中村日赤病院
 昔の病院本館正面玄関をモニュメントとして残し、ナイチンゲールの像が新しい本館を見守る。
 地下鉄中村日赤駅から病院につづく地下隧道の壁には、病院の歴史をパネル展示している。
 付近の住宅地から日赤を見ると、頼もしい地域の中核的医療施設だ。

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 中村日赤の現況と今後の整備計画


〇 1955年(昭和35年)当時の中村日赤の思い出
 遊里ヶ池が埋め立てられ、その跡地に中村日赤が建設されたが、弁天寺はしばらくそのままの位置にあった。
 遊郭と住宅地を隔てていた池に代わって、今度は病院がそのバッファー(緩衝地帯)の役割を果たすようになったのだ。

 当時小学校に上がる前のわたしは、お参りに行く祖母に連れられて、北西の鳥居通り側から病院の敷地内にあった弁天寺へ何度も通った覚えがある。
 祖母は、「弁天さん」と呼んでいたが、それが寺のことか丸顔で色の浅黒い老庵主のことを指すのか、まだ幼かったわたしには判らなかった。
 遊里ヶ池のことはそのころ聞いてはいたが、昔はこんなに立派な堂宇があったのを今回はじめて知った。
 しかしその頃は、お寺の東と南には塀ができて病院の寮などの施設が迫っており、お寺はもう本堂の建物と庫裏しか残っておらず、その左前には芭蕉(バナナ)の樹が生えていた。本堂の裏手には枝垂れ柳の大木があって、雨が降ると決まって大きな水たまりが出来た。

 ある日の夕方、弁天さんのお堂が病院の西の門を出て鳥居通りを渡り、清正通りにある清正公市場の脇を北へ進み、その北方にある藤江町のお寺まで引越して行った。移動するお堂の下には、木の棒のコロが使われていた記憶がある。

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 だからこの写真は、弁天さんが移転した後のものだろう。
 多分、写真の敷地内の左中央に、三角形の草で囲まれた場所が移転した弁天寺の跡地だと思う。
 (移転後の分身を、病院内に残すことになったようだが、近年、中村日赤の施設整備が連続的に継続しており、最終的に弁天さんはあるべきところに鎮座したのかどうか、わたしは知らない。)

 伊勢湾台風の翌年に撮られたという、この写真の中央に見える真新しい3階建ての白い病棟(旧第2病棟)は、たしか結核病棟だったはずだ。
 学校に上がると、その北の広場でわたし達は、野球もやったし、昆虫採集もした。そのうち、病棟のお兄さんたちが暇にまかせて作って、高く、長く、よく飛んだ、模型飛行機の作り方を教えてもらうのに日参し、そこはわたしたちの実験場でもあった。

 お陰でだろうか、学校の健康診断のツベルクリン反応は陽性で、痛いうえに後が膿むBCGの注射をしなくて済んだ。


〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』その5 へつづく。
  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-306.html

〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その3

―― 中村区『まち歩きカード』の⑧「大鳥居周辺」

● カードの配布場所:「中村土木事務所」
        中村区香取町1丁目87(土・日・祝日休み) 
        TEL 052-411-8106
        http://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000004027.html
        地下鉄東山線「中村公園駅」下車 2番出口南西200メートル 徒歩3分
● 「大鳥居周辺」(中村区鳥居通5丁目)へは、地下鉄東山線「中村公園駅」下車すぐ 

〇 昭和初期(1930年代)の大鳥居
 この写真の左には、「尾張中村豊國神社大鳥居・併合記念豊太公大鳥居」というタイトルで、この大鳥居の高さなどの規模を当時の尺貫法で説明しているが、多分、当時流行った絵葉書写真ではないだろうか。

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 この大鳥居は、1921年(大正10年))に愛知郡中村(村名が「中」)が名古屋市(西区)に編入(合併)されたことを記念し、当時の住民が寄付を募り豊国神社の一番鳥居として建設されたもので、1930年(昭和5年)の秀吉誕生の日とされる元旦に、5万人の人出で竣工式が行われた。

 鉄筋コンクリート造りのその規模は、高さ24.2m(80尺)、柱の直径2.4 m(8尺)、柱廻り7.6 m(25尺1寸)、柱中心間距離18.4 m(61尺)、笠木の長34.5 m(114尺)で、総工費は1万4,221円50銭で大林組が工事を請け負った。
 完成当時は、世界一の大鳥居とされ、市内の各所からも眺められ、一躍名古屋の名所の一つとなった。
 わたしたちは、この巨大な大鳥居が、名古屋市に合併した喜びを示す地元住民の寄付という心意気で建設されたことに、大いに敬意を払う必要があるだろう。

 そもそも、鳥居というのは、神社などにおいて神の居まします神域と人間が住む俗界を区画するもの、いわゆる「結界」の役目を果たすものであり、神域への入口を示すもので、一種の「門」と考えられる。
 また、鳥居が朱色なのは、その色が古来、生命の躍動を表し災いを防ぐ色として神殿(場合によっては古墳の玄室の壁も)などに多く使われてきたから、当然その施設の一部である鳥居もまた朱色となったのだろう。

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 鳥居の形式は様々あって、「神明鳥居」、「八幡鳥居」、「三柱鳥居」など、およそ10種類ほどに分類されるそうだけれど、この大鳥居を見ると、まず①島木があること。次に②笠木と島木を曲線的に反らせている。③貫が柱から外に突き出ている。そして④額束がある。といった特徴から、この大鳥居は「明神鳥居」と呼ばれる形式にちがいない。

 もう一度、先ほどの写真に戻ってみよう。
 この写真は、大鳥居の北側の柱の上部に取付けられた「奉」、「納」の銘板と、下部にある「市併合記念 旧中村村民」の銘版を意図的に入れるためか、逆光にもかかわらず北から南に向けて撮影されたものだ。

 時期は、竣工してよりかなり時がたっているのだろうか、黒い笠木や柱に塗装の剥げが目立つ。季節は、辺りはまだ刈取られた田ばかりの冬景色だ。
 大鳥居の東方、太閤通りから来た単線の電車軌道が、鳥居のところで手前にカーブして、北のへ向かって伸びているのが見える。
 この軌道は、中村地内の開発事業を始めた名古屋土地(株)が、1913年(大正2年)に創業し、1926年(大正15年)に分社化した中村電気軌道が運営して、笹島付近の跨線橋、明治橋の西側を起点として、太閤通を西に進み中村公園の入口にいたるまでの間、3.2kmの路面電車のものだ。
 因みに「明治橋」駅を起点にしたこの軌道の各駅は、太閤通りを西へ、 笈瀬川―東米野(米野)―西米野・本社前―大門前(賑橋)―楠橋(上中)―稲葉地―終点「公園前」だったから、鳥居の後ろに見える建物は、当時の「稲葉地」駅ということになるだろうか。

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 中村電気軌道の営業路線
 合併前の1920年(大正9年)の地図
 ひびつ駅の北に、正方形の線の表示がある。これは、大正9年3月から整地に着手し1923年(大正12年)4月に開業する、「中村遊郭」の予定地だ。
 もちろん大鳥居の建設はこの10年後となる。


 ここで、この写真の少し妙なことに気が付く。一つは、鳥居の両方の柱の手前にそれぞれ数本の杭があることだ。これは何だろうとさらによく見ると、杭の立つ遥か向こうに広がる木々の枝と空の境界が不自然なことが判るだろう。
 わたしには、それがひどく気になって、探し出してきたのがこの画像だ。
 
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 この写真は、右手の柱の傍らに何かの資材が置かれている、竣工間もない時に撮られた大鳥居の写真だと思われるが、前の写真に比べると数段鮮明さは劣る。けれど、杭だと見えたのは、実は路面電車の架線を支える電柱だったことが判明した。
 
 つまり、この『まち歩きカード』の大鳥居の写真は、もともと絵葉書用に撮影されたのだが、中心となる大鳥居を強調したいがために、鳥居本体を切出し処理する時に、その下にある煩い路面電車の電柱も、遠くの景色に併せてすっきりと切り落としてしまったからだろうと思われる。

 わたしなら、関連の深い彼方の豊國神社をバックにして、南から順光でカメラを構え、どうせなら、中村軌道の木造単車車両が走ってくる画像を撮ったに違いないと思うのだ。
しかし、よく考えてみると、この当時のカメラでは、動く電車の撮影は無理だったかもしれないし、鳥居の南方には駅の建物が邪魔をして、鳥居全体を写し出すための後退する距離が稼げなかったか、あるいは適当な広角レンズがなかったからかもしれない。

 最後に気になったことは、文献等によると、稲葉地駅から北にカーブして終点「公園前駅」に向かう中村軌道の電車は、新たに建設された「大鳥居の下を潜っていた。」とされるものがあるけれど、この2枚の写真を何度見ても、わたしにはどうしてもそれが納得できないでいるのだ。

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 中村電気軌道は、1936年(昭和11年)に名古屋市に買収され、翌年から名古屋市交通局の路面電車が走り始めるがしばらく中村公園前を終点としていたが、1955年(昭和30年)8月に鳥居西通、1956年7月に稲葉地町まで大鳥居の前を通って延伸して中村線は複線化して全通した。稲葉地町には車庫(運輸事務所)が設置され、引き込み線が車庫へ続いていた。
 (笹島町 - 笈瀬通 -太閤通三丁目 - 大門通 - 楠橋 - 中村公園 - 鳥居西通 - 稲葉地町)
 中村公園前交差点の地下に位置する市営地下鉄東山線「中村公園」駅は、1969年(昭和44年)4月に開業し、市電中村線との連絡が行われていたが、3年後の1972年(昭和47年)3月に市電全線が廃止された。

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 『まち歩きカード』の大鳥居と同じように、北側の豊国神社の参道方面から見た、現在の鳥瞰画像。 


〇 その後と今の大鳥居
 現在、大鳥居の地点では、南から豊国通りが延伸しており、巨大な鳥居ゆえに、車両は鳥居を潜って豊国神社の参道方面へ進むことができる。また、北東からは斜めに鳥居通りが交わり、西からの太閤通り、東の鳥居西通りと合わせて五叉路を形成している。
 かつて中村軌道の「稲葉地」駅のあった辺りには、今は名古屋駅方面から鳥居通りの下を南下して豊国通りの下を高畑に向かう、地下鉄の「中村公園」駅と市バスのターミナルがある。

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 その後大鳥居は、先の戦災を免れたものの60年以上が経過し、傷みが激しくなったことから、全面的な化粧直しを行うこととなったが、その時悪しくもバブル崩壊後の長引く不況にあって募金は難航した。
 しかし、再び尾張人の心意気が発揮され、地元企業・住民4,800人から工事費8,000万円の募金にようやく成功し、1993年(平成5年)10月に修復が完了し、大鳥居は以前の美しさを取り戻すことができたのだった。

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 大鳥居西側の柱に掲げられた銘板
 誇らしげに「市併合記念 旧中村村民」とある。

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 大鳥居は、朱に塗られていることから、地元では「赤鳥居」との愛称で呼ぶことが多い。
 鳥居のすぐ西にあるビルに上ってみると、24mのその高さが実感できる。
 東に通ずる太閤通りの向こうに、JR名古屋駅のツインビルが見える。

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 「鳥居」の語源は、「神聖な鳥が留まり居るところと」からとの説があるが、高い大鳥居の上には、いつも鳩の群れが居る。

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 桜の季節、大鳥居から豊国神社に続く参道は、両側の桜並木が美しい。
 またこの参道では、毎月9日、19日、29日と、9の付く日には、近在の農家や業者が集まって、素朴な「九の市」が開催され賑わう。

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 地下鉄、バス、車など、交通の結節点となっている、現在の大鳥居の地点は、夜でも明るい。
 


 昭和30年代、わたしは自宅から鳥居通りを南下して、大鳥居の東脚詰にある饅頭屋の『孝和堂本店』の角を回って、大鳥居を見上げながら鳥居西通りを西進し、アクテノンの手前にある中学校へ、毎日一時間弱をかけて歩いて通った。
 当時の中学生の身分では、腕時計を持てるはずはなかったから、大鳥居のすぐ西にある時計屋の壁に突き出した丸時計が、遅刻を避けるための、わたしのチェックポイントだった。
 その3年間のおかげで、小学校ではひ弱だったわたしの身体は、それなりに鍛えられたものと感謝している。

〇 手造りの餅菓子が自慢の『孝和堂本店』
 太閤秀吉を祀る豊国神社の一の鳥居である大鳥居の東脚詰には、昔から饅頭屋の『孝和堂本店』がある。
 もともと、西の稲葉地の駄菓子屋だったというが、1939年(昭和14年)になって、現在の場所で店を開き、おはぎや草餅といった餅菓子を中心とした和菓子を製造・販売するようになった。
 先ほど70年が経過したが、地元はもとより、郊外から行き来する人の流れや、中村公園、豊国神社といった集客施設の近傍であることの適地性と、「手づくり、出来たて、本物の味」を固く守り、当地域では“和菓子の孝和堂本店”として名前が通っている。

 尾張地方では、子供が生まれて一歳を迎えると、「一升餅」の儀式を行う風習がある。
 これは、「この子がこれからの一生、食べ物に困らないように。」との願いを込めて、一升のもち米で作った、紅白の餅を背負わせる祝いの儀式だ。
 近年わたしの家では、お陰様で孫の祝いを相次いでさせていただいたが、この時の餅は決まってこの店で注文した。次の孫も、もうすぐ一歳を迎える。

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 先日19日は、中秋の名月だった。本当はおはぎが食べたかったが、季節ものだと、思わず月見だんごを買ってしまった。

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 『孝和堂本店』
 中村区鳥居通5丁目32
 TEL 052-471-6246
 http://www.geocities.jp/nannyaworld/

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 (名古屋・中村公園)『豊國神社大鳥居』
 大鳥居を南から撮影した、古い写真絵葉書が見つかった。

 初めにある北から撮影した大鳥居が逆光で、「裏鳥居」(うらとりい)とすれば、南からのこの順光で見る大鳥居は、いわば「表鳥居」(おもてとりい)とも呼ぶべき写真だが、どうだろう、、、。

 竣工してからかなりの時間が経っているのか、鳥居の塗装の剝げ落ちが激しい。
 中村公園へこれから向かう家族連れや、公園方向から砂埃を巻上げながらからやってくるボンネットバスと比較するとこの鳥居の大きさがよくわかる。

 中村公園が終点だった中村電気軌道の路線が見られないから、撮影された時期は、名古屋市交通局への買収後の1936年(昭和11年)過ぎのころだろうか。


〇 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策巡りを楽しむ その4 につづく。
  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-305.html




〇 今日の一献 中秋の名月 2013

―― 台風一過の名月は美しかった。

 昨夜、9月19日は十五夜だった。
 今年の夏も激暑の日が続いたが、台風が去って、急に秋めいてめっきり涼しくなった。
 台風が塵などを吹き飛ばしてくれ、高気圧が列島を覆って、澄み切った夜空に大きな美しい満月が昇ってきた。

 2013年 9月 19日 20時 44分 6秒(名古屋)
 ユリウス日  2456554.98970
 月   齢  14.005
 月の位相   180.277
 月の輝面比  99.999%
 月の地心距離 374,759km
 月の方位   118.426
 月の高度   36.892


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〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その2

―― 中村区『まち歩きカード』の②「納屋橋周辺」

②『まち歩きカード』2 「納屋橋周辺」
● カードの配布場所:「名古屋国際センター」情報カウンター
             中村区那古野一丁目47番1号 名古屋国際センタービル
             電 話 052-581-0100
             http://www.nic-nagoya.or.jp/japanese/nicnews/index.php
             地下鉄桜通線「国際センター」駅下車すぐ
● 「納屋橋周辺」(中村区納屋橋西交差点東)へは、
             地下鉄東山線・鶴舞線伏見駅⑧番出口徒歩8分、
             地下鉄桜通線国際センター駅③番出口徒歩8分


〇 1953年(昭和28年)の納屋橋周辺
 これは、今からちょうど60年前に撮られた、納屋橋界隈の写真だ。
 納屋橋の東南の多分当時ここにあったカブトビール名古屋支店の建物の上階の窓から、橋を入れながら北西方面に向かって撮ったものだが、笹島から栄方面へ走る路面電車やオート三輪車に混じって、ワイシャツ姿のサラリーマンが連立って出歩き、あるいは立ち止まって会話を交わしている。メインストリートである広小路の車や人の通りが少ないから、きっと初夏の平日の昼飯時前後のショットなのだろうと思う。

カード納屋橋 02

 写真に見る、橋の西北の袂には納屋橋饅頭の店があり、西詰角には1961年(昭和36年)に閉館した寄席の富士劇場と上方演芸会の看板が上がっている。並木の向こうの3階建ての寄棟の大きな屋根は、火災で焼失した初寿司本店だろうか。その右手遠くには、旧国鉄名古屋駅の駅舎ビルが眺められる。

 目を転じて橋の南詰には、美空ひばりが主人公の牛若丸とその幼友達の娘桔梗の二役を演じて1952年9月に封切りされた、松竹映画の「牛若丸」(大曾根辰夫監督)の看板が揚がり、その上には、1997年(平成9年)に廃業した山一證券の名古屋支店の看板がある。
 そして看板の向こうには、今は錦通り(錦二丁目)へ移転した静岡銀行名古屋支店のビルが見える。

 このころ手前の東南の橋の袂には蛇屋があって、店の棚には裸電球に照らされて、生きたマムシが入ったガラス瓶が並んでいたが、確か、マムシの生血を酒に入れて精力剤として飲むためだと親父に聞いた覚えがあるが、いずれにせよ幼心にもひどく怖かったという記憶がある。

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〇 「堀川七橋」と「日本百名橋」の一つに数えられる納屋橋
 そもそも納屋橋は、1610年(慶長15年)の堀川掘削とともに架けられた「堀川七橋」の一つとして、広小路通の堀川に架かる橋だ。
 橋が架けられた当時の橋の界隈は名古屋城下の南端にあたり、西の烏森とご城下を結ぶ柳街道が走っていた。碁盤割の城下町の納屋橋付近から上流部には、商人たちの蔵が並び、橋の下流左岸には年貢米を収納する大規模な藩の蔵が設けられていた。

 昔の橋は木造で何度も架け替えられたが、1886年(明治19年)に広小路通が名古屋駅前まで延伸されると、広小路通はメインストリートとなり、納屋橋も石造りの長さ15間(約27.2m)、橋幅7間半(約13.6m)に広めて改築された。1898年(明治31年)からは名古屋市電の栄町線が橋を通るようになった。また、1910年(明治43年)には、工期4年をかけて当時としては最も斬新な鉄石混合の橋として大改修もされた。

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 1913年(大正2年)になって、鈴蘭灯を付けた大きな石造りの柱や青銅鋳鉄の欄干と中央部に張出しテラスを持ち、川の中に橋脚の無い鋼製アーチ橋として、美しい西洋風の近代的な橋へ改築された。
 現在の橋は、1921年(大正10年)に改修された橋を基に、1981年(昭和56年)に架け替えられたものだ。(構造:単純鋼鈑桁橋)

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 欄干の中央には、堀川開削の総奉行を務めた 「福島正則」の家紋の中貫十文字が大きく彫られている。さらにその両脇には、郷土三英傑の「五つ木瓜」紋の信長、「五三の桐」紋の秀吉、「三つ葉葵」の家康の紋が彫られており、「日本百名橋」の一つに数えられ、名古屋市の都市景観重要建築物にも指定されている。

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 今年、2013年(平成25年)5月には、鋼製アーチ橋として大正2年に架橋されてから、架橋100年を迎えた。

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 納屋橋の西北から東の伏見・栄方面を望む
 鈴蘭灯を付け石造りの柱や青銅鋳鉄の欄干と中央部に張出しテラスが見える。その向こうは、橋の角地に建つ鉄筋コンクリート造3階建地下室付の事務所ビル「旧加藤商会ビル」が見える。

 
 名古屋のメインストリートである広小路の納屋橋の周辺は、繁華街である名古屋駅と伏見・栄地区の接点に位置することから、むかしから飲食店、映画館など色々な集客施設が集積し、広小路をぶらぶら散策する「広ぶら」などの人々で賑わいに溢れた時代もあった。
 しかし、近年は集客地域の複数分散化などにより、その地位の低下が著しいが、最近の堀川の浄化を始め納屋橋地域の環境改善と市民ボランテイアの様々な活動などとに相まって、再び多くの市民の視線が集まりつつある。

〇 納屋橋の袂の旧加藤商会ビル(地上3階・地下1階)
 旧加藤商会ビル(中区錦一丁目15-17)は、1916年(大正5年)に、外米などの輸入貿易を行っていた加藤商会の本社ビルとして煉瓦造りで建てられ、1931年(昭和6年)に現在の鉄筋コンクリート造りのビルに建て直されたが、外観デザインは変わらず、煉瓦調のタイルや柱頭飾りなどに大正期の建築意匠的特徴がうかがわれる。
 1935年(昭和10年)には、加藤商会の創業者でビルの所有者だった加藤勝太郎がシャム国(現在のタイ王国)から名誉領事に任命された事で、1945年(昭和20年)まで、シャム国の領事館が置かれた。

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 2000年(平成12年)には、ビルを取得した中埜産業から名古屋市に寄付され、翌年4月、国の登録有形文化財に登録された。
 近年、修復改修工事が行われ、2005年(平成17年)以降はタイ料理店が入店し、また地下1階には市民向けギャラリーが置かれている。

〇 伊勢門水と納屋橋饅頭
 この絵は、近代名古屋を代表する風流人、伊勢門水が、100年前の大正2年5月5日、鋼製アーチ橋が架橋された時の渡り初めに抜擢された現在の「納屋橋饅頭」と「長命うどん」の3代の家族が、羽織袴、花嫁姿、刀に羽織、打掛に前結びの帯、烏帽子・直垂、担ぎ姿という出立で、納屋橋を渡っている姿を描いたもので、いま納屋橋饅頭本店の饅頭の贈答箱の掛け紙となっている。

 このとき、竣工式を一目でも見ようと納屋橋に押しかけた市民は、6万人を越す盛況ぶりだった。

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 何が商機となるのかわからないものだ。

 それまでの伊勢屋の屋号から「納屋橋饅頭」とし、三和弁のうどん屋の屋号も「長命うどん」に変えてこの渡り初め式に参加したことで、その名は名古屋だけでなく全国に知られる事となり、以後、店は大いに繁盛したという。

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 『納屋橋饅頭本店』
 1896年(明治29年)創業の納屋橋饅頭の本家本元。創業以来、納屋橋の西北端に店舗・工場があったが、2007年(平成19年)に広小路通の柳橋交差点北東角に移転した。
  合名会社 納屋橋饅頭本店
  住所:名古屋市中村区名駅五丁目38-9
  電話:052-541-7884

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 納屋橋饅頭(酒饅頭)
 酒酵母に餅米を合わせ、2日間熟成させて酒種を造り、それに小麦粉を加えて発酵させた生地で、北海道産の小豆を使ったあんを包んで蒸して造る。
 皮には酒粕の独特な酸味と香りがあり、そして皮が餡の糖分を吸収するため、淡白で控えめの甘さが特徴となっている。
 だから、一度味わえば舌が忘れることがなく、またいつかしら懐かしく思い出すのが納屋橋饅頭なのだ。

 しかし、皮が無糖のために、日を置くと固くなるのが酒饅頭の弱点であり特徴だが、固くなった時には、それはそれ、昔は火鉢で焙って皮が香ばしい色になれば、今度はまた違った美味しさでいただけるのだ。今ならトースターを使えば簡単だ。

 およそ酒饅頭の納屋橋饅頭は、決して気取らずに、おやつ代わりに番茶とともにいただくのがツウで、生菓子と同じものだと分かる向きにはお勧め。まちがっても、遠方の分からない方へのお土産には、避けた方が賢明だと思う。

〇 伊勢門水について
 1859年(安政6年)2月、名古屋生まれの日本画家・商人で、本名は水野宇右衛門。芸名は旗商を営む屋号の「伊勢屋」に因み、さらに本名を「水の上の門」と洒落て「門水」と号した。
 自ら狂言を習得する一方、画法を独修し、狂言の画を能くした。また狂歌・戯作にも長じ、新作狂言や、長唄・常磐津の作詞なども数多く手がけた。

 友人とともに「愛知洒落部」(通称「御洒落会」)を結成し、その中心人物として活躍した。当時巷に流行した西洋カブレで粋な集まりの「倶楽部」をもじって「しゃらくぶ」と称し、徹底的に奇行、馬鹿げた遊びをして楽しんだ、名古屋の大須の生んだ一大奇人、風流人でもあった。
 著書に『名古屋祭』、『末広町話』、『和泉流狂言記』などがあり、また1960年(昭和35年)には遺稿集『御洒落傳』も刊行された。1932年(昭和7年)に74才で没した。


〇 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策巡りを楽しむ その3 につづく。
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-304.html



〇 今日の一献 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策を楽しむ その1

―― 『まち歩きカード』と①「アクテノン周辺」

〇 中村区『まち歩きカード』
 名古屋市の中村区役所では、今春、古い資料や貴重な写真などを使って、区内のまちの歴史がわかる『まち歩きカード』(8種類)を初めて作成した。

 このカードは絵ハガキ大の大きさで、裏面には、現在のまちの写真や、周辺にまつわる歴史の説明があり、表の昔の写真と比較しながら、カードを片手にまちの歴史発見の『まち歩き』を楽しむことができる。

 今回のカードの作成・配布は8種類(各3,000部)で、該当する場所の近くの施設などで手に入るから、この機会に、あなたも中村区の『まち歩き』に出かけてみませんか。 
 
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 『まち歩きカード』配布箇所マップ
 カードの配布場所や、カードで紹介されている施設・場所などをわかりやすく案内した、『まち歩きカード』配布箇所マップも合わせて発行されており、『まち歩き』の散策とカード入手のために便利で欠かせない。
 カードは、1箇所で1種類しか手に入らないから、全種類を集めるには8箇所を巡らなければならない。

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 配布箇所マップの裏表紙には、カードの配布箇所の案内が載っているが、土曜・日曜・祝日に開庁していない施設が配布場所になっているところもあり、カード入手に当たっては、勤め人などは注意を要する。
 

 本当は、初めに配布箇所マップで案内されたカードの配布場所へ行ってカードを手に入れ、そのカードで紹介された場所・施設に身を置きながら、写真や説明でそのまちなどの歴史を実感して、また次の配布場所を訪ねるという方法で、順次、『まち歩き』の散策巡りを楽しむのがこの企画の本来の趣旨かもしれない。

 しかし、先に言ったように、休日に開庁していない施設が配布場所になっているところが複数あるため、せっかく休日にあらかじめ散策ルートを決めて訪れても、肝心のカードの入手ができず、かえって『まち歩き』の散策者を深く失望させることになりかねないのではなかろうか。

 (この弊を防ぎ、また今後ともカードの種類(紹介する場所・施設)が増えることが予定されるものなら、この際、配布場所を今の役所関連の施設に頼るのではなく、休日も営業している民間の店舗などにお願いするなど、もっと民間を信用し、活用することとし、さらに砕けて楽しくなるような工夫や仕掛けも併せてあっていいのではないかと思うのは、わたしだけだろうか。)

 だから、勤め人のわたしなどは、今回は、あらかじめ先にカードを入手しておいてから、ルートを決めて『まち歩き』をすることにして、全8種類をようやくにして完全収集するためには、様々な機会と休暇などを駆使しながらもかなりの期間を要したけれど、配布場所の皆さんはとても親切で気持ちよかった。

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 完全収集した、中村区『まち歩きカード』全8種類
 ①「アクテノン周辺」、②「納屋橋周辺」、③「太閤通三丁目周辺」、
 ④「中村日赤近辺」、⑤「旧名古屋花壇(中村温泉パラダイス)周辺」、
 ⑥「中村公園周辺」、⑦「豊国神社とその近辺」⑧「大鳥居周辺」


 『まち歩きカード』(8種類)で紹介する場所・施設を、画像の上にプロットしてみた。

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 カードの完全収集にはそれなりに苦労はしたけれど、幼いころから慣れ親しんだまちを、改めてこのカードを頼りに『まち歩き』を始めてみると、わたしがそれまで知っていたはずのことが違っていたり、また別に新たな発見ができたりと、おかげで改めてなかなか興味深い、なつかしい『まち歩き』を楽しむことができた。

 せっかくだから、これを機会にこの『まち歩きカード』を基に、わたしの懐かしいむかしの記憶を織り交ぜながら、わたしなりの『まち歩き』の案内を試みてみたいと思う。

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 この鳥瞰図には、『まち歩きカード』が案内する全カードの場所が描かれている。
 地図を元に描かれたと思われるが、画家の立体視の優れた才能は驚くばかりだ。
 さすが博覧会のPRのために前年に描かれた絵図だろうか、「中村遊郭」の表示は憚られてか割愛されている。

 「名古屋市鳥瞰圖」に描かれた、中村区内の各施設
    1936年(昭和11年)汎太平洋平和博覽會:発行 現所蔵: 国際日本文化研究センター

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①『まち歩きカード』 1「アクテノン周辺」
● カードの配布場所:「名古屋市演劇練習館」
           中村区稲葉地町1丁目47
           TEL 052-413-6631
           http://www.bunka758.or.jp/scd20_top.html
● 「アクテノン周辺」へは、地下鉄東山線「中村公園駅」下車徒歩12分


〇 1953年(昭和28年)ごろのアクテノン
 この建物は、現在「名古屋市演劇練習館」となっており、今でこそ、その古代ギリシアの神殿風のデザインから、公募によって「アクテノン」というハイカラな愛称が付いているけれど、もともとは1937年(昭和12年)に、名古屋市の西部地域に上水を配水する「稲葉地配水塔」として、鉄筋コンクリート造りで建設されたものだ。

 高さ35m、最上階の約4千㎥の貯水タンクを支えるため、周りを直径1.5mの16本の柱で取り囲んでいる。

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 建設当時は、浄水場からの上水を、この建物の最上階のタンクに貯水しながら、その落差の水圧で配水していたが、その後大治浄水場の完成でポンプで圧送をするようになって、1944年(昭和19年)に運用を休止した。

 写真の撮られた時は、既に機能停止しており、建物は黒くうす汚れて長らく放置されたままだった。
 建物の手前にあるプールは、1949年(昭和24年)に開設された名古屋市営の「稲葉地プール」(25m)だった。

 当時は、今のような郊外の総合巨大プールがなく、また小・中学校のプールも完備していない時代だったから、こうした小さな市営プールが市内各所にあって、夏には水に親しむ子供たちで賑わったが、老朽化により2010年(平成22年)に廃止されて、現在は稲葉地コミニティーセンターなどになっている。

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 アクテノンのある「稲葉地公園(水道公園)」周辺
 アクテノンは、野球場などを併設した稲葉地公園の中にある。もともとこの建物は配水塔だったから、わたしたち地元の者は「水道公園」と呼んでいた。


〇 二度目の生まれ変わり、「名古屋市演劇練習館」
 1944年(昭和19年)に配水塔の機能を廃止した後、長らく放置されたままだったが、1965年(昭和40年)になって、市立の中村図書館に改装され、当時公的施設の有効活用として喧伝され市民に親しまれたが、建物内部も円形で、書架や閲覧テーブルの配置などに使い勝手が悪く、なにより読書室では、小さな声でも音の反響が大きく問題があった。
 1991年(平成3年)になって、その東部にある中村公園内に新しい図書館が出来て、再びその役目を終える。

 名古屋出身の演劇俳優、天野鎮雄氏の「若手アーチストの演劇練習施設の確保を」との提案で、1995年(平成7年)に、演劇をはじめ様々なジャンルの練習に活用される演劇練習館「アクテノン」として、またもや二度目の生まれ変わりで、いまや年間6万人以上が利用している。

 なお、この建物は、古代ギリシアの神殿風のデザインで、1982年(昭和57年)に日本建築学会から、「戦前の建築学的に重要な建物」の一つに選ばれ、1996年(平成8年)には、稲葉地公園地区の景観が国(建設省)の都市景観大賞を受けている。

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  鉄筋コンクリート造。地下1階、地上5階。延床面積:2,9996㎡
  「名古屋市演劇練習館」開館:平成7年12月1日
  『まち歩きカード』の配布場所である「名古屋市演劇練習館」では、練習館などの資料も手に入れることができる。


〇 頑なに生菓子を貫く『両嶋屋是秋』
 ところで、「名古屋市演劇練習館」のある稲葉地公園のすぐ北を東西に走る稲葉地本通りの傍に、頑なに生菓子専門を貫く「両嶋屋是秋」の店がある。

 この店は、江戸時代から続く名古屋の代表的な和菓子の老舗、「両口屋」で修業した初代が、大正13年に、のれん分けを受けてこの地で店を開き、以来約90年にわたって地域に親しまれた生菓子専門の店として、職人の技と味を守ってきた。

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 だから、今の主人は3代目となるが、祖父相伝の生菓子の意匠と味を継承する傍ら、自らの工夫と努力で新しい意匠の生菓子にも挑戦しているという。

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 この夏の両嶋屋の「夏ようかん」
 透明感が涼しげで、口に運ぼうとすると、まず抹茶の良い香りが鼻腔をくすぐり、口に入れると甘すぎない味が上品だ。


  『両嶋屋是秋』
   中村区稲葉地本通1-25
   電話:052-412-3738


〇 中村区『まち歩きカード』を片手に、散策巡りを楽しむ その2 につづく。
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