〇 今日の一献 放鳥ならぬ放蝶の功徳

―― 一日一善の放生(ほうじょう)

 わたしたちは生きるために、日々の食事で魚介類、鳥獣類の動物や穀類、根菜類などの植物といった、活きとし生きるものの命をいただきながら、命を繋いでいる。

 だからそのことに感謝するとともに、お与えの分以上の殺生を戒め、時には捕獲した魚や鳥獣を野に放す(放生)という善い行為を行えば、その報いとして福徳,利徳,利益,神仏の恵み(功徳)が得られるにちがいないという、仏教の思想がある。


 ある施設のトイレの中に迷い込んだ青筋アゲハチョウが、外に出られなくなって困って飛び回っていた。
 
 しばらく後に、用を足しにまたトイレに寄ったら、蝶はまだ居た。
 眺めていたら、あいも変わらず人の気配に驚いて飛び回ったりするうちに、そのうち疲れたのか、天井に止まって動かなくなった。

 きっと、天井に付いた蛍光灯の光に誘われて、トイレに飛んで入ったまでは良かったが、いざ出ようとしても、トイレ内の照明の眩い明るさに比べL字型にクランクした出入り口の外は暗く、上下空間を合わせて、蝶にとっては迷路となって出られなくなっているのだ。

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 わたしの前にも用を足しに来た人はあったであろうし、また後にも人は来るだろうけれど、ここは気が付いたものが何かするのが道理だろうからと、わたしはこの蝶の窮状を救ってやることにした。

 では、どうしたかというと、意外に簡単だ。
 昆虫は光に導かれるという生態があるから、照明のスイッチ操作を工夫して、わたしの手の届くところまで誘い出して捕まえた。

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 アゲハチョウの仲間の内でもこの青筋アゲハは、普段は激しく活発に飛び回る方なので、正直なところ捕まえられるか心配だったが、パニックの後の疲れからか蝶は意外とたやすくわたしの指に納まった。

 外に出て放してやると、意外にもすぐに飛んで行かず、しばらく床に止まったまま動かずにいた。

 それで、よく観察できたのだが、幸いあれほどパニックに陥って激しく飛び回っていた割には羽根の破損もなく、また鱗粉を散らして模様を失うこともなかったようで、まずまずこの救出は成功したのだと、わたしは密かに自賛してみた。

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 一日一善、放鳥ならぬ放蝶の功徳を施し、わたしは一人気分が良かった。

 ところで、毎年お盆が近付くと、ウナギ供養などと称してウナギの関係業者が行う放流供養など、普段生き物を扱って生業を立てている業界などの供養行事がマスコミにニュースとして取り上げられることが多くなるけれど、まさにこれが殺生を戒める仏教の戒律である「殺生戒」を元として、捕獲した魚や鳥獣を野に放す行為である、「放生」なのだ。

 だから、タイやカンボジア、中国でもそうだったけれど、仏教が盛んな東・南アジアの仏教国の寺院の前では、今でも籠に入れた雀などを売る「放鳥屋」が商売になっている。

 かつては日本でも、日常的に「殺生の戒め」や「放生」の教えが定着しており、落語の『後生鰻』や、まくらに「放し亀」が語られたり、俳句・川柳にも詠まれたりしてきたが、明治以降の旧来の陋習を破り西洋合理主義の好いとこ取りで成功した現代日本では、その代わりに宗教心が希薄になった結果、「お金を払って鳥を逃がしてやると功徳になってご利益がある。」といわれても、その意味が解らずに面食らう日本人観光客が居ることになる。

 (「生き物の命を粗末にしない。」、「お天道様がみている。」という教えが廃れていくと、弱い者いじめや隠れた場所では何をしてもよいという風潮が蔓延ることにつながるのだ。)

1『江戸名所図会』の挿絵「俤のはし」
 『江戸名所図会』の「俤(おもかげ)のはし」に描かれた「放生屋」
 東京の神田川に架かる「俤の橋」のたもと左に、放し亀などを売る者が描かれている。
 横に渡した棒に紐でつり下げられているのは亀で、下に置かれた籠には雀が、たらいには鰻が入っているのにちがいない。


 それでも、今も日本に残る「放生」の宗教儀式を「放生会」(ほうじょうえ)といって、奈良の猿沢の池に放生する興福寺(4月)や東京早稲田にある放生寺の法要(10月)が有名だ。
 意外にも、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられて、全国八幡社の総元締めである宇佐八幡宮(大分県宇佐市)で、720年(養老四年)から始まった放生会(「仲秋祭」10月)が日本での始まりとされ、なぜかここでは巻貝の蜷(にな)流しが行われているそうだ。

追記 何かの縁(えにし)
(2013/07/22)
 それで、今日の午後だったが、わたしは用を足しにいつものトイレに行ったのだが、出てきてエレベーターのある所まで戻ろうとしたら、ひらりと目の前を飛び過ぎるものがあった。
 蝶だ。
 わたしはゆっくりと、その後をついていった。

 風が強かったが、その蝶は風に負けないように抗って飛びながら、わたしが立つ周りを一回りしてから床に止まった。
 あいかわらず風が、施設のコリドールの円柱の間を強く吹き抜けていたが、それでも閉じた羽根を凛と立てたまま、時には風に翻弄されながらも、わたしの目の前の床に留まり続けていた。

 その蝶は、種類は同じ青筋アゲハだったが、決して、先週わたしが出会ったあの蝶であろうはずがないのだけれど、不思議と何かの縁を感じた。

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Before we take a meal at the table, we always say that "Ita daki masu." in Japanese which means appreciations for the earth and creatures.
For the purpose of maintaining our human life, we take a food of all of the dishes on the dining table, that means take the life of creatures in the world, not only an animal but also a plant.
Meanwhile, for the Westerner, a cow & a pig are edible animals, but like a whale & a dolphin does not, because of seem to be the higher animals of near to a human being.
In addition, they seem to think that the meals had been given by God's mercy.

  

〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その2

―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して

〇 山車まつりを支えた青物問屋の財力
 西枇杷島の山車まつりを経済的に支えた本格的な青物市場の起源は、徳川家康による名古屋の城下町の建設とそれに伴う消費地・ご城下への生鮮食料品の青果物の安定供給のための市場開設だったと考えられる。

 もともと、清州城下に青物を供給するため、二つの街道の交わる枇杷島(橋のたもと辺り)で下小田井の市場が開かれていた。しかし、名古屋城の築城(1612年(慶長17年))と城下の整備を行い、清洲越による名古屋への人口移動を進めるため、1608年(慶長13年)ごろに渡船に代わる手段として枇杷島橋の整備を行うとともに、1614年(慶長19年)に、地元の山田九左衛門らに命じて市場を開設して問屋業を始めさせた。

 これにより、この地は、濃尾平野の農村地帯の生産物が美濃街道や岩倉街道を通じて集積し、枇杷島橋を渡って円滑に大消費地・名古屋へ供給する最適地となって毎日市が立つようになると、市場の繁盛と共に橋詰や庄内川の堤防の上に数百戸の商家が軒を連ね、次第に街道筋と市場を中核とする商業の町、枇杷島の基礎ができあがっていった。

 記録によれば、1671年(寛文11年))には、戸数436、人口1,865であったといわれ、下小田井の市は、名古屋市内南部にある「熱田の魚市場」に対して「枇杷島の青果市場」として、城下町名古屋の台所を預かるようになり、「江戸の神田」、「大坂の天満」と共に、「三大青物市場」と言われるほどに発展することになる。

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 江戸期以降、美濃街道(東海道宮の宿-中仙道垂井宿)と岩倉街道(岩倉-枇杷島)などを使って、濃尾平野の農村地帯の生産物が下小田井の市場に運ばれた。
 青物問屋の取り扱った品目は、蔬菜に留まらず、海産物・薪炭・綿・茶・寒天など、多種にわたっていた。

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 江戸時代の『尾張名所図会』に描かれた、庄内川の花見
 左に枇杷島橋が描かれ、対岸のはるか向こうに名古屋城の天守閣が見える。
 枇杷島橋は、中島に大橋と小橋が架かる。

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 問屋記念館 (清須市西枇杷島町西六軒20番地)
 江戸時代の青物市場(問屋)の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の住居を、1992年(平成4年)に移築復元し、記念館として開放されている。
 明治の初期に建てられ、美濃街道を形成してきた町家のなかでも江戸時代の青物問屋の様式を伝える貴重な建物だ。母屋98.82㎡、離れ屋52.80㎡

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 生産者と仲買業者で賑わう、当時の山田九左衛門家のジオラマ(問屋記念館)

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 江戸時代の『尾張名所図会』に描かれた、下小田井青物問屋の賑わい
 
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 「にしび夢だいこん」のモニュメント(橋詰町内)
 下小田井の市の賑わいをしのぶため、『尾張名所図会』(前の画像)の中に描かれた、「大根を担いだ男」をモニュメントに再現したもの。


〇 枇杷島市場の移転と山車まつり
 1614年(慶長19年)に青物市場が開設されてから、拡大する取扱量と新政府によるご維新の風潮のなか、1868年(明治元年)には枇杷島橋の東にも青物市場が開設され、次いで1910年( 明治43年)になって、愛知県市場取締規則によって下小田井の市の名称は、「枇杷島市場」となる。

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 1900年代初頭の西枇杷島青物問屋の風景

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  枇杷島市場問屋配置図 (昭和5年3月の青物市場調査)


 1955年(昭和30年)には、対岸の名古屋市西区内(東枇杷島)に新市場が建設され、西枇杷島地区を離れて「中央卸売市場枇杷島市場」として移転・開場したが、移転先が近隣地であったことから、西枇杷島地区には市場に関係する居住者が多かったという。
 その後、1983年(昭和58年)になって、名古屋の北部に隣接する西春日井郡豊山町(北名古屋市)地内において青果と魚を扱う総合市場「中央卸売市場北部市場」が開設され、300年にわたって続いた枇杷島市場の名称も幕を閉じることとなった。

 なお、2005年(平成17年)には、西枇杷島町、新川町、清洲町が合併し、新たに「清須市」となった。

 清須市の資料によると、5両の山車は、清須市指定有形民俗文化財(昭和60年4月20日)の第1号から5号に指定されており、その所有者は、各々の町内会となっている。

 2000年(平成12年)に発生した、東海豪雨の大水害を契機として、これまでに進められてきた庄内川補強工事の影響などにより、旧問屋街周辺は民家の移転や改築と堤防周辺の改修が進み、かつての面影もなくなりつつある。

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 美濃街道沿いに、修復保存しながら今も残る町屋

 最近の「清須市の自治会区域図」の中から、山車を保有する町内会の世帯数を取り出してみると、下の表のようになる。

 そもそも、この限られた地域に、5両もの山車が今も運行されていることは驚くべき事なのだ。青物問屋の財力が相当あった当時にあっても、毎年、山車を曳くことは負担が大きいことから、2~3年に一度の割で曳いていたそうだ。

 現在は、文化財継承の見地から、行政からのそれなりの支援があると聞くが、山車曳の運行にあたっては、人形の操り方、囃子方、曳き方などを始めとする有形・無形の人手と、準備・練習のための膨大な時間を要することから、それぞれの町内では、若手の後継者不足が切実な課題になりつつあるといわれる。

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現在の枇杷島橋から名古屋駅方面を望む



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〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その1

―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して

 古くから伝わる建物や街並み、あるいは、まつりや人の技などといった、有形・無形に残る古い文化やその暮らしに触れたとき、ひとは久しぶりに遠い記憶がよみがえり、なぜか懐かしく感じられて、暫くの間そのままそれに浸っていたいという欲望に陥るものだ。

 それが昂じると、ときにはそこでの生活に憧れ、棲んでみたり、それが叶わないまでも、そこに暮らすひとたちを羨んだりすることもあるかもしれない。

 しかし、一見、煌びやかで華やかそうに見えるそうした文化や、気楽で穏やかそうに見える暮らしにも、実はその維持・保存や生活・活動を支えようとする、わたしたちの窺い知れない直向きなひとの意欲と情熱と、莫大な努力と労苦が、日々の営みの中で絶え間なく注ぎ込まれ、積み重ねられてきたにちがいないのだと思う。


〇 「尾張西枇杷島まつり」の起源と5両の山車
 名古屋の西の境を南北に流れる庄内川で接する、清須市の一部、旧西枇杷島町で古くから行われてきた「尾張西枇杷島まつり」は、毎年6月の第1土・日曜日に開催される。

 今年(2013年)は、6月の1日、2日にまつりが開催され、からくり人形を乗せた五輌の山車の勇壮な曳きまわしと華麗な打ち上げ花火が披露され、旧美濃路街道の枇杷島大橋から新川町手前までの地域(約1.4㎞)を中心として200店もの露店が並び、20万人ともいわれる見物人で賑わった。

 このまつりの開かれる西枇杷島の町は、庄内川に架かる枇杷島橋から西に続く美濃街道の宿場町「清須宿」の街並みと、橋から北に続く岩倉街道の結節点(追分)に当たり、江戸時代には江戸の神田、大坂の天満と並んで三大青物市場と称された、「下小田井の市」の中心として栄えた町だ。

 そして、この繁栄と豊かな財力を背景として、各町内会ごとに立派な名古屋型山車が作られるようになり、江戸時代末期の1802年(享和2年)に橋詰町(王義之車)、問屋町(頼朝車)、西六軒町(紅塵車)の3両の山車が、須佐之男命を祀る橋詰神社・六軒神社・松原神社の祭礼に出たのが最初といわれ、1805年(文化2年)の東六軒町(泰亨車)、1872年(明治4年)の杁西町(頼光車)の参加により、現在の5両となっている。

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 この山車は、当時名古屋城下で春に開催されていた、東照宮祭の古い山車や幕を買い求めたものが起源だが、山車祭を始めたものの、尾張藩の規制によって人形からくりの演技が許されたのは、1813年(文化10年)まで待たされることとなったという。
その経過から、先の大戦で名古屋東照宮祭の9両の山車がすべて戦災で焼失したことにより、今では名古屋東照宮の祭礼の形態を引き継ぐ数少ない祭としても知られるようになった。

 〇 今日の一献 墓碑銘か。『名古屋まつり わらべうた』
 ―― ビル壁面に名残を記す、「名古屋東照宮祭」の山車たちの鎮魂碑

   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

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 これは、1975年(昭和50年)に撮影された、枇杷島町内の航空写真だ。町内を通る美濃街道の町並みの特徴が良く分かる。

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 西六軒町の紅塵車
 美濃街道と岩倉街道との追分にある枇杷島橋のたもとの橋詰町から問屋町、東六軒町、西六軒町、杁西町がその繁栄と財力の証として5両の山車を曳く。


 そもそも、「山車」とは、天から神が降りる際の目標物としての依代の役割を果たすものとされており、橋詰町、問屋町の氏神は橋詰神社で、東六軒町と西六軒町は六軒神社が氏神で、いずれも天王社で牛頭天王を祀り、疫病退散を願う祭りとなっている。

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 美濃街道に沿って両側に建ち並ぶ町屋と露店、そして浴衣姿の女性が、まつりに華を添える。

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 東六軒町の泰亨車
 夜祭りに向けて、提灯が山車に付けられた。

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 橋詰町の王義之車
 山車蔵から曳き出された山車の後ろを、赤い名鉄電車が通り過ぎる。

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 杁西町の頼光車

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 まつりを楽しむ人の流れと問屋町の頼朝車(振陽車)

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 美濃街道を跨ぐJR東海道線を列車が走り去る。

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 橋詰町の氏神、橋詰神社

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 まつりの初日の夜には、恒例の打ち上げ花火が庄内川河畔で打ち上げられる。


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〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青果物問屋の財力 その2 に続く
  ―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して   
 
  http://2011deko.blog.fc2.com/

〇 今日の一献 古いフィルムライブラリーから見つけた、流星画像

―― 2001年11月19日深夜の『しし座流星群』

 先日、古いネガフィルムを整理していて見つけたのが、この流星の画像だ。

 整理整頓があまり上手くないわたしでも、幸いネガのフォルダーに2001.11と、日付が書いてあったので、これは2001年11月に日本を含む東アジア全域で見られた、『しし座流星群』の大出現の時に撮った写真のネガの一本だろうということは思い出せた。 

 それで、24枚のネガをざっと点検してみたら、その中の一枚だけに、流星と思しき画像が写っているのが見つかった。

〇 2001年11月のしし座流星群

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 冬の南の空に南中したオリオン座の左下を東上から流星が横切っている。

 流星は、何時、何処で発現して見えるかわからないから、シャッターをバルブ(B)で開放にしておく必要がある。そうして、流星が見えたらシャッターを閉じてからフイルムを巻く。撮影はこの繰り返しとなる。

 星を自動追尾できる赤道儀があれば、天体の運行で移動する星たちは、より鮮明で止まっているように写るのだが、赤道儀を所有しないわたしは、機械式のカメラを三脚に載せてシャッタースピードを開放にして撮影したのだろう。
 だからこの画像のオリオン座の星たちは光跡となって写っている。
 (多分この画像は、開放撮影が簡単にできるから、当時よく使用していたNIKON-FE2で、レンズは50mm、F1.4で撮影したものだと思う。)

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 撮影時間の推定
 撮影された日付を11月19日と仮定しておいて、画像をもとに天文(プラネタリウム)ソフトで時刻を推定してみると、19日の2時50分前後となると思われる。

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 同時刻のしし座とオリオン座の位置関係
 このとき、左上にあるしし座の獅子の首近くの放射点方面がら放出された流星物質が、オリオン座の見える近くで地球の大気圏に突入した時、大気との摩擦で燃焼して光ることで流星として見えたにちがいない。


 本当は、星野写真を真面目に撮るには、自動追跡装置のある赤道儀が必須となるところだが、残念ながらわたしには資金上の都合で手が届かないから、この辺が限度だろう。しかし、少なくとも以前、KLで南十字星を撮影したように、高感度フイルムを使い、口径の大きな広角レンズのカメラで撮るべきであったろうと少し反省するのだ。

 ところで、この2001年11月18日から11月19日未明にかけて見られたという、しし座流星群の大出現について、改めて振り返ってみよう。

 まず、しし座流星群の母天体とされるのは、公転周期33.231年のテンペル・タットル彗星で、この彗星がまき散らして去った流星物質の残渣帯(ダストレイル)に、公転する地球が近付くと、地球の引力に引き寄せられて大気層で微細なダストが明るい流星となって見えるわけだ。だから、しし座流星群は、毎年11月14日頃から11月24日頃まで出現するのが見られ、11月17日頃に極大を迎えるとされている。

 ただ、2001年11月の流星群については、イギリスのデイヴィッド・アッシャーという学者らが計算した、流星群の出現予測どおりの時刻と規模で発現し、その予測が正確に的中したことに意義がある。

 この時、アッシャーらはダストトレイル理論による計算で、極大が、日本時間の午前2時31分と午前3時19分で、特に日本で3時19分頃には大出現が見られると予測していたが、実際の極大時刻は3時20分前後となり、ほぼ完璧に予測どおりだったという。
 そしてその極大時には、1時間あたりに3,000個から4,000個の流星が見られ、また午前1時から夜明け頃までの5時間にわたって、1時間あたり1,000個以上が出現したという一大天体ショーとなった。

〇 2013年11月のしし座流星群
 それでは、今年(2013年)の11月のしし座流星群はどうかというと、11月18日の午前1時に、極大が予想されているけれど、この日は月齢が15で満月だから、残念ながら月の光が邪魔になって眼視の条件は悪いとされている。
 また、この後も当分の間は,2001年11月のような流星数が1時間あたり1,000を越えるような流星雨は見られないだろうといわれている。

 次に流星雨が期待できるのは、遠い先のことだけれど、2094年だそうだ。
 それまで待てない向きには、数百レベルまで回復するかもしれないといわれるのが、2033年から2035年頃と2037年。さらに、テンペル・タットル彗星の公転周期に連動して、33年後の2061年や2069年も数百程度は期待できるというが、どうだろうか。

〇 今年(2013年)期待できる、『ペルセウス座流星群』
 ところで、耳よりな話だが、今年のこれから、それも1ヵ月先に観望が期待できる流星群があるという。

 それは、毎年7月20日頃から8月20日頃にかけて出現し、8月13日前後に極大を迎えるペルセウス座流星群だ。

 特に今年は、極大が予測される8月13日の午前3時ごろには、上弦の月は既に沈んでいるから月明かりの影響もなく、ペルセウス座の放射点の高度も十分に高い位置にあり、観測条件はここ数年では最高の条件が整うとされている。

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 ペルセウス座流星群の母天体とされるのは、公転周期133.28 年のスイフト・タットル彗星で、極大頃には1時間あたりに30個から60個の流星が出現し、年間最大級の活動を見せる。また、極大の前後数日間は1時間に10個以上の出現があるという。
 (このほか,多くの流星数が見られることでは、シブンギ座流星群(1月に終了)とふたご座流星群(12月)があり、『年間三大流星群』といわれる。)

 決して煽るつもりはないのだが、今回これだけの条件が揃うのは数年に一度といわれており、次は8年後の2021年まで好条件が揃わないそうだ。

 だから観測のお勧めは,8月の12日22時から13日夜明けまでで.夏休み期間中だから、家族揃って空の広い場所に出かけて観望を楽しむのも良いかもしれない。


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Today's One

〇 これは、TVアンテナ蝕か?

 天体の運行に伴い発生する星のイベント、いわゆる天体ショーは、あらかじめ計算されたものとして予測されている。
 その中でも月蝕は、地球が太陽と月の間に入って、地球の影を月が通過することで発生する天体現象だ。

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 しかし、近所の家の屋根に付けられたTVアンテナによって発生した見かけ上の月蝕は、単に月が人工物のアンテナの後ろを通過したもので、蝕とは言わないのだろう。



 
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