〇 今日の一献 そのままで、何も足さない、何も引かない、潔さ。その2

―― 丹後半島の旅 7  宝は持ち腐れたか 『天空の城 竹田城』 その2

〇 宝の持ち腐れになった堅固な城
 「山城の郷」の資料によれば、最後の城主、赤松広秀の命により、それまでの土塁の城からこの壮大で堅固な石垣の城郭へと建設が進められたが、その労力の主体は専ら領内の農民だった。
 当時のあまりにも過酷な徴用で、田畑を耕す暇もなく、地元では「田に松が生えた。」という言い伝えがあるという。
 
 そもそも、赤松広秀(1562年(永禄5年)―1600年(慶長5年))は、1570年(元亀元年)の父・赤松政秀の死(毒による暗殺)、その後の兄・赤松広貞の早逝で、家督を継承した当時は播磨国龍野城の城主で、羽柴秀吉による中国攻めに対して初めはこれに抵抗したものの、1577年(天正5年)に降伏し秀吉に従った。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げたことで、但馬竹田城2万2,000石を与えられた。また、九州攻めや小田原征伐、朝鮮出兵などにも参戦している。
 また、文化人の一面として、朱子学京学派の設立儒学者、藤原惺窩((ふじわら せいか)の教えを受けるとともに、その誼から1597年の慶長の役(丁酉再乱)で捕虜となった、朝鮮儒者・姜沆(カン・ハン)とも交友を持ち、1600年に対馬経由で朝鮮に帰国する支援もしたという。

 しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、広秀は西軍に属して敗北した。
 このとき、東軍の亀井茲矩は、西軍に与した宮部長房の因幡鳥取城を攻撃していたが、秀吉も苦戦した堅城でなかなか陥落せず攻めあぐねたため、策を図って西軍の広秀を寝返らせ、城下の焼き討ちという共同作戦によってようやく落城させた。

 この焼き討ち(焦土戦術)が家康の逆鱗に触れたので、茲矩は焼き討ち実行役の広秀が一人首謀者であると申し出て責任回避をしたことから、戦後に広秀(38歳)は家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃させられて赤松家は断絶し、竹田城はあえなく廃城となった。

 関ヶ原の戦いにおいて、西軍から東軍に寝返った大名のうちでは、この広秀が唯一の死亡者であるという。
 (一方、亀井茲矩は、その後、因幡高草郡2万4,200石を加増され、3万8,000石の鹿野藩初代藩主となった。)
 
 これ以後、時代は徳川の世となり、支配者の城は、戦いの山城から支配・経営のための平城へと立地は移り、山城の竹田城は打ち捨てられ、永らく顧みられることはなかった。

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 城址の縄張り曲輪図。
 中央の天守台を頭、南北の二つの千畳曲輪を翼に、花屋敷曲輪を尾に見立てると、まさに飛翔する鳥の姿のように美しく配置されていることが分かる。
 山上の険しい地形にありながら、曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の城郭となっている。

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 北東の北千畳へ続く、大手口の石段と石垣。

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 三の丸から大手口を見下ろす。
 安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口は枡形を有する。

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 天守台から二の丸、三の丸、北千畳を望む。
 麓の円山川の堤の桜は、すでに満開だったが、高所にあるここの桜はまだ早い。

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 近江穴太衆による穴太流石積み技法が用いられた、二の丸の野面積みの石垣。

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 最高所の天守台跡からはパノラマの眺望が開け、下界の竹田の城下町や左右の北・南千畳の曲輪まで眺められる。

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 天守台跡から見られる竹田の城下町。
 赤松氏の居館跡として、発掘が行われた推定地とJR竹田駅が見える。

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 天守台跡からの全周パノラマ画像

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 本丸へと続く虎口と、天守台(右)
 天守台へ登る登り口や、石段、穴蔵などが無いことから、天守脇にある付櫓か本丸にあった建物と連結して、その内部から階段等によって天守閣に登ったと考えられている。
 (従って、いま天守台へ上がるには、備え付けの梯子で上ることになる。)
 天守台の大きさは10.7m×12.7mの規模の少しいびつな形で、いくつかの礎石跡が確認でき、その柱間は6尺5寸の京間で建てられた事を示しているという。

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 南二の丸下から二の丸、本丸、天守台を望む。
 江戸時代には、高さ10m超えの石垣が一般化してくるが、ここの本丸の天守台南側の石垣は10.6mあり、この時代としては高くて立派なものといわれる。

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 南二の丸下から二の丸、本丸、天守台を望む視点で、当時の天守閣や櫓を推定復元した画像は、迫力がある。
  (これは借用したCG画像)

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 北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群の標高は331mと、ほぼ同じ高さに造られており、本丸の標高が351mだから、標高差は20mとなる。
 これにより、平面構成だけでなく、立面構成にも高度な計算により3つの曲輪群が計画的に配置されていることになるという。

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 天守台から頭をめぐらせれば、城跡の全ての縄張りが一目で見渡せる。
 南二の丸、南千畳を望む。


〇 宝として蘇った、竹田城
 時が流れ、400年後の現代。

 2007、08年度に、竹田城跡を訪れた観光客は2万人台前半で推移していたが、近年になって、雲海に浮かぶ城の美しさがネット上で評判を呼び、山歩きや歴史ブームとも相まって『天空の城 竹田城』の人気は一気に全国区となり、2011年度には3年前と比べ4倍以上に急増し、過去最高の9万人を突破したという。
 (仕事で3年前にここを訪れたというわたし達のツアーの添乗員のお姉さんは、当時はこれほど観光客は混んでいなかったとぼやきながら、盛んに予定時間の遅れを気にしていた。)

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 また、雲海が早朝よく見られる9-12月だけでも、09年度1年間の3万5千人をも上回る、4万7千人が訪れ、地元の朝来市のホテルの宿泊者数は5年前の約5倍となったそうだ。

 地元の朝来市役所では、今年(2012年)の4月から「竹田城課」を新設し、観光客の受け入れ態勢の強化と、城跡及びJR竹田駅周辺の城下町を最大限に活用した、まちづくりを目指すという力の入れようだという。
 麓の休憩施設の整備が急務となっていたJR竹田駅前には、最近、市の補助金や商工会の経営支援を活用し、空き家を再生した飲食店が相次いでオープンした。

 JR竹田駅構内には、地元住民で構成される和田山町観光協会「和田山観光ボランティアガイド」の事務局が置かれ、養成講座を受講した20人ほどが在籍し、竹田城跡や城下町の寺町通りのガイドを中心として活躍している。
(わたし達がお世話になったガイドさんに、どういう人がガイドさんになるのかと尋ねたら、笑いながら「暇な人。」との答えが返ってきた。「それだけでなくて、きっと志の高い方達なんでしょうね。」と、わたしは申し上げた。)

 せっかく、地元領民の汗と涙の多大な労苦によって築かれた堅固な城も、この城を舞台に国の興亡をかけて華々しく戦われることが一度もなく、結局、判断ミスによる城主赤松広秀の切腹で、赤松家が断絶したことで廃城となり、宝の持ち腐れとなってしまったのだ。

 (むしろ、ここが戦場とならず多数の血が流れることがなかったこと、そして徹底的な城の破壊も受けなかったことの方が幸運であって、良かったのかもしれないが、、、。)

 しかし、400年の時を経て、いまや、竹田城跡は但馬地方屈指の観光地としてスポットライトが当てられ、今度は地元の経済を大いに潤す貴重な宝として、ようやく復活しようとしているようにわたしには見えるのだ。

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〇 竹田城関係情報
① 「竹田城跡ライブ画像」朝来市役所HP  http://www.city.asago.hyogo.jp/0000001040.html
② 邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 / 但馬・竹田城  http://inoues.net/club2/takedajyo.html


 ところで、2012年5月16日付けの読売新聞によると、雲海に浮かぶように見える「天空の城」国史跡・竹田城跡は、ロマンチックなムードをかき立てると評価され、NPO法人地域活性化支援センター(静岡市)から『恋人の聖地』として、今年(2012年)4月に認定された。

 恋人の聖地は、センターが少子化対策と地域活性化を狙いに2006年から進めているプロジェクで、全国の観光地の中からプロポーズにふさわしい場所を聖地に認定することで、地域の新たな魅力づくりのきっかけにする取り組みという。
 聖地には、今回の竹田城跡を含めて全国で111か所が選ばれており、審査では、ファッションデザイナーの桂由美さんやタレントの早見優さんら選定委員から、「魅力的な場所」と高く評価されたといい、近く聖地の銘板を城跡と山麓に設置するとのことだ

 申請した市商工会では、今後、市や観光協会、産学連携をしている大学などと協力して、聖地をアピールする構えで、「天空のウエディング」、「ラブソングコンサート」、「婚礼家具作り体験」などの構想もあるという。

 しかし、ただでさえ観光客の増加による荒廃を危ぶむ向きもある中、現在の竹田城跡が、さらに俗化するこのではないかとわたしは心配するのだが。


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 城跡に憩う恋人たちの姿は、絵になる。確かに、城跡はロマンチックなムードをかき立て、「恋人の聖地」に認定されるだけの価値がある。


〇 播但線と竹田駅
 播但線は、兵庫県の姫路駅から兵庫県朝来市の和田山駅に至るJR西日本の鉄道路線だ。兵庫県の中央部を流れる市川・円山川に沿って、山陽本線と山陰本線を結ぶ陰陽連絡路線でもあり、路線距離は、65.7km、その間に起終点駅含んで18の駅を持つ。

 普通列車が、電化区間の姫路駅 - 寺前駅間と、非電化区間の寺前駅 - 和田山駅間で運行されており、姫路駅 - 寺前駅間は1時間あたり1 - 2本。寺前駅 - 和田山駅間は1時間から1時間半に1本程度となっている。

 竹田駅(たけだえき)は、兵庫県朝来市和田山町竹田字中町西側にある、播但線の駅で、1906年(明治39年)の山陽鉄道の新井駅 - 和田山駅間の延伸と同時に開業した。重厚な造りの木造瓦葺きの駅舎が、現役で使われており、簡易委託駅(福崎駅管理)のため、早朝と夕方以降は無人となる。

 現在は、普通列車のみ停車し、1日平均の乗車人員は138人(2010年度)。

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 キハ41 2001 – 2005気動車
 1999年の播但線電化に際して、キハ47形1000番台に運転台を増設して両運転台化したもので、非電化で残る同線寺前 - 和田山の単行運転用に5両が改造され、ワンマン運転で単行又は2両連結で運用されている。




(了)

〇 今日の一献 そのままで、何も足さない、何も引かない、潔さ。その1

―― 丹後半島の旅 6 宝は持ち腐れたか 『天空の城 竹田城』

 「旦那さん、旦那さん、ほら列車が見えますよ。」とガイドの女性(おばさん)が、指さしながらわたしを呼んだ。

 わたし達は、今回の丹後半島の旅の最後の目的地、但馬の竹田城を訪ねるため、ボランティアガイドさんの案内で竹田城のある虎伏山(標高353.7m)の頂に向かって、山道を登っていたところだった。
 下を見ると、木々の切れ間から芥子粒ほどの2輌編成の赤いキハ41 2000気動車の普通列車が、竹田駅を出て円山川に沿って、トコトコと姫路方面に走り去るのが見えた。

先ほどわたしは、和田山発姫路行きの播但線C57重連蒸気機関車が牽引する客車を、車で追いながら撮影するため、40年前にこの地を訪れたことを、あまりの懐かしさに、登りながらガイドさんに話したからだった。

(そのころは、全国の路線から蒸機が消える時期だったこともあり、当時のわたしの関心は専らそちらに向かっていた時だから、例え竹田城がここにあることを聞いても、多分寄ることなく、ひたすら蒸機を追っていたにちがいないと思う。)

 〇今日の一献 「生野の道は遠ければ、、」 播但線のC57重連列車を追って
  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-27.html

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 2輌連結の普通列車、キハ41 2000気動車が行くのが見えた。播但線の非電化区間の和田山―寺前間は、1時間に1本程度走る。
 円山川の堤の桜は満開だ。


 竹田城は、兵庫県朝来市の北部、和田山町にある虎伏山の山頂にある。1431~1443年(嘉吉年間)に当時の但馬の守護大名、山名宗全が、出石城の出城として播磨や丹波から但馬への侵略路を押さえるため、この地に13年をかけて土塁で砦(小規模な要塞)を築いたものと伝えられ、山名氏の武将、太田垣氏が7代にわたり城主となって治めていた。
 1441年(嘉吉元年)に征夷大将軍足利義教が重臣赤松満祐によって暗殺された、嘉吉の乱を挟んで、但馬の山名氏と播磨国守護、赤松氏の間で度々軍事的衝突が起き、当時の竹田城は播磨国と但馬国の国境を守る拠点として、また播磨国を平定するための出撃の拠点ともなっていた。

 時代が移り、1580年(天正8年)になると、羽柴秀吉の第2次但馬征伐で、秀吉の弟、羽柴秀長が6,400の兵を引き連れ但馬攻めを開始し、竹田城はさしたる抵抗もせず降伏することになる。

 その後、1585年(天正13年)に秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広・はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広通・広秀・広英といった。)が城主となり、朝来郡2万2000石を領有する。
 そして、この最後となる城主、広秀によって、豊臣氏と徳川氏が中央で覇権争いしていた1600年頃の文禄年間から慶長の初期にかけて、現在のような堅固な石垣積みの城郭が完成したといわれる。

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 竹田城を中心とする衛星写真画像。
 円山川の流域の移動か、あるいは戦略上の都合でか、城主の太田垣氏と赤松氏の居館地は、それぞれ異なる場所にあったと推定されている。


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 竹田城址の西側高台に設けられた観光拠点基地、「山城の郷」から、虎伏山頂の竹田城跡を望む。大型バスはここまでで、ここからは歩くかマイクロバスに乗換えて上る。

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 樹木が少ないので、「山城の郷」から竹田城の石垣がよく見える。

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 途中の駐車場(トイレがある最後の場所。)で、ボランティアガイドさんと落ち合い、説明を聞きながら山道を登る。
 そして、竹田城址の入り口に至る。


 この城の素晴らしいところを、次に上げてみよう。

① 現在、ほとんどの山城は、山と一体化するほど樹木に覆われて全体がよく見えないが、この城は山上にありながら城跡を覆う樹木が少ないことから、山麓周辺からも城全体の石垣をよく観望することができる。
 また、最高所の天守台跡に立つと、下界のパノラマの眺望が開け、さらに城跡の全ての縄張りが一目で見渡せる。

② 虎伏山の標高は353.7mで、麓のJR竹田駅の海抜が99.1mと、その差254.6mだ(参考:岐阜城(金華山)328.9m)。
 高さは、向かいの金梨山(海抜484.4m)に比べて低いけれど、居館跡のある竹田駅周辺から見上げる城址は、より高い位置に見え、街道を行く者に対して支配者の圧迫感を感じさせる十分な効果がある。
 また、円山川の流れる竹田城跡の周辺では、秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生し、雲海に包まれた竹田城跡の姿は幻想的で、まさに「天空に浮かぶ城」を思わせることから、『天空の城』とロマンチックな異名でも呼ばれる。

③ 安土城と同じように、自然石を巧みに配置して積む技術を持っていた、近江穴太衆(おうみあのうしゅう)の手による石垣を、400年を経た今でも完全な姿で見ることのできる石垣遺構として、全国屈指のものであること。
 (石垣の石材は、この山や山麓から集めたもので、山頂付近の4ヵ所を含め、合計6ヵ所の採石跡が確認されており、花崗岩で最大のものは5tと推測されている。
 この城址を、「日本のマチュピチュ」とまで呼ぶ向きもあるようだが、石垣の石を現地で調達したというところに共通点はあるものの、標高2,430mにあるペルーのマチュピチュは、遺跡面積約13km²の自作自農の段々畑を有する太陽観測都市であったのに比べ、竹田城址は軍事上の城・砦であったことが異なるのだ。)

④ 現存する城の遺構は石垣だけで、復元した櫓や塀とかの後世に手を加えた建造物や、他に景観を壊すような、柵、手摺り、看板、ゴミかご、トイレといった便益施設さえもここにはまったくなく、石垣があるだけで、何も足さない、何も引く必要のない、潔さがある。
 (ただし、地元の人の手によって、草刈、清掃など、手入れはよく行き届いている。)

⑤ 城域の規模は、南北400m、東西100mで、面積は18,473㎡に及び、中央の天守台上から見ると、天守台を頭として南北の二つの千畳曲輪を翼に見立てると、花屋敷曲輪が尾に当る。
 そうすると、この城の曲輪は、まさに飛翔する鳥の姿のように美しく配されたものであり、当時の建築群は天守、櫓の総数20基ほどあったと推定される。
 また、麓から見た姿は虎が臥せているようにも見えることから、別名「虎臥城」(とらふすじょう)とも呼ばれており、国の史跡に指定されるとともに、「日本100名城」にも選定されている。

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 『天空の城 竹田城』
 朝霧の雲海に包まれた竹田城跡の姿は幻想的で、まさに「天空に浮かぶ城」に見える。
 (「山城の郷」のHP画像から借用。)


 次に、その2へ続く。
〇 今日の一献 そのままで、何も足さない、何も引かない、潔さ。その2
 ―― 丹後半島の旅 6  宝は持ち腐れたか 『天空の城』 竹田城

  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-118.html

〇 今日の一献 天の配剤か、「金環日食」。庶民の束の間の幸せ。

―― 『天地明察』。日本で25年ぶりの金環日食

 「時間ですよ。」どこか耳の遠くで、呼ぶ声が聞こえた。「ん。そうだ、今朝は、」と思い直して、枕元の時計を取り寄せ、午前5時20分過ぎを確認してから飛び起きた。いつもは起こされても、だらだらと時間を過ごしてなかなか起きられないのだが、今朝は特別の朝なのだ。3階から下りて、トイレに飛び込んで、小さな窓から東の空を見る。明るい、そして太陽が見えた。
 
 先週から今日の天気は、曇りや場合によっては雨との絶望的な予報もあって、観測用の太陽ゴーグルを買うことも躊躇われて、一昨日になって、「悪くても曇り」と聞いて、ようやく東急ハンズでパートナーの分も併せてゴーグルを買った。本当は、この季節の日の出時間や日が昇る方向を調べれば済むのだが、それもしないで朝早く起きて見て、隣の3階の家に太陽が隠れていたら、先になるべく早く職場の近くの公園まで出かけて日食を観望することにして、終わってからそのまま出勤すればよいと横着に考えていたのだ。

 だから、幸運にも家から太陽の昇るのが見えたことで、わたしは慌ただしく家を出ることなく、ゆっくりと朝食とお茶を楽しみながら、自宅のベランダで観望してから出勤できることになったのだ。

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 少し雲があるが、ほとんど晴れて、予報が外れた幸先の良い予感がする午前6時前の東の空。

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 午前6時30分前。予定通り、右上から少し欠けてきた。

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 午前7時少し前。月が太陽を横切りながら、隠し始める。

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 午前7時少し前。針で円形状に穴を開けたボール紙を翳すと、平行光線で欠けた太陽の形が、アイロン台に映し出された。

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 午前7時10分ごろ。テレビではマスコミが、先に進む南の中国アモイでの金環日食の中継を流して、この天体ショーを煽り始めた。

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 午前7時15分過ぎ。急速に蝕が進み始める。この頃になると、厚い雲が広がり始めて、ゴーグルでは見にくい。

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 午前7時25分ごろ。厚い雲が光を弱めて、肉眼でも触の進み具合が分かる。

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 午前7時30分ごろ。ほとんど金環日食に向けての秒読み段階に入った。
 依然として雲が厚く、流れが遅い。それでも良く見えるから、かえってこの方が美しいのかもしれない。

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 午前7時31分ごろ。ようやく雲が薄まって、またゴーグルが必要になる。金環日食3分間の最大の見せ場。

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 午前7時31分ごろ。ほぼ正中(正しく理想的)な金環日食画像。
 (後日の画像処理によって、雲の中から浮かび上げることができた。)

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 午前7時31分ごろ。当地方では、雲に遮られながらも、この時完全に金環となり、金環日食が完成した。(追記)
 (この画像は、後日友人のM.A君から恵送いただいたもの。)

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 午前7時32分ごろ。月が下に向かって動き、金環が崩れ始める。

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 午前7時33分ごろ。再び、穴を開けたボール紙を通して見えた欠けた太陽。おそらく、公園などでは欠けた太陽の木漏れ日が、地面に美しく描き出されているにちがいない。

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 午前7時36分ごろ。月が去り始め、金環が崩れて、太陽は細い弓となる。

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 午前7時45分過ぎ。日食の復元が進む。

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午前7時58分過ぎ。もうわたしの出勤の時間となる。後ろ髪を引かれる思いで残念だが、タイムアップでこれまで。

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 いまや、PC上で日食のシュミレーションが何度でも簡単にできる時代となった。
 (星座のフリーソフト「ステラ シアター ライト」による。)

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 最後に、おまけとして、今回の金環日食の経過をまとめてみたので、ご覧いただきたい。


 今日は、1987年9月に沖縄で観測されて以来、日本では25年ぶりの金環日食だったそうで、朝からテレビでは実況中継が放送され、ネットでも画像のライブ配信が流された。

 マスコミの伝えることによると、日食が観測可能だった九州から東北地方南部にかけての天気はおおむね曇りだったが、天の配剤か、幸運にも雲の切れ間から世紀の天体ショーが見られ、各地で早朝から観望する人であふれたそうだ。

 大震災や原発の崩壊・停止とその復興の遅れ、電力危機、円高・エネルギー高騰と景気の停滞、社会福祉の崩壊の危機と増税の行方、それに対して的確に応えようとしない政治など、暗い話ばかりで国民の気持ちが滅入っているこの時、今朝の感動的な天体ショーは、現代の『天地明察』の暦法であるコンピュータの計算予測の通り発現し、わたしを含めてまさに庶民にとっては束の間の幸せを満喫させてくれたものであったにちがいないと思うのだ。


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 ここに写っていないジッツオの三脚以外、あまりにもチープでプアな機材を使用したので、本当は載せるのを躊躇われたが、何分にも記録として、これだけでもできますよという意味を込めて掲載することにした。デジカメは、太陽ゴーグルの1枚を切ってレンズに両面テープで貼り付けたLumixと普通のFuji Finepix で撮影した。

〇 今日の一献 身も蓋もある、マンホールの蓋

―― 丹後半島の旅 5 出石のマンホールの蓋(manhole cover)
 
 近頃、わたしが旅をする時の密かな楽しみの一つに、旅先の街中の路上で見つけるマンホールの蓋がある。

 なぜ蓋かというと、このマンホールの蓋というのは、それぞれの自治体が鋳物メーカーに発注しているもので、近年では、観光客向けに町のPRをという意識も手伝って、その地域の名産とか特色といったお国自慢をモチーフにした、カラー付のデザイン蓋までが導入されており、それぞれの町の特色あるデザインが、見ていてなかなか楽しいもので飽きることがないからだ。

 しかし、いざこの町の蓋のデザインはなにかという時、よほどその気になって探さないと不思議となかなか見つからないもので、また、カメラに撮ることを失念したまま町を出てから、しまったと思っても後の祭りだという事も多い。
 
 丹後半島の旅で訪れた兵庫県豊岡市の出石の町は、もともと江戸時代の旧出石藩の城下町で、1889年(明治22年)の町村制施行で出石町が発足し、2005年(平成17年)の合併で、出石町を始めとする5町が豊岡市に組み込まれたもので、元の町役場は、現在豊岡市の支所となっている。

 先にも書いたが、出石の城下町は「但馬の小京都」とも呼ばれ、出石城から北への碁盤の目状に整備された美しい町割が残る。
 そこに、武家屋敷や酒蔵、古い家並み、日本最初の時計台の辰鼓楼、沢庵和尚が首座だった大徳寺、禁門の変で逃れた桂小五郎の潜伏地、明治期の芝居小屋、陶器の出石焼き、椀子ならぬ出石皿そば、コウノトリの営巣・生息地などといった、有形無形の歴史的、文化的な魅力が、全国から多くの観光客を惹きつけている。

 そんな出石の町のマンホールの蓋に描かれているデザインモチーフはというと、この地の町並み保存地区の中心ともなっている、日本最初の時計台の「辰鼓楼」だ。

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 汚水のマンホールの蓋
 出石のシンボルである「辰鼓楼」と町の花「テッセン」が、デザインされている。

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 電気の共同坑の蓋
 街並み景観保存のため、電線は地中化されている。
 これにも、「辰鼓楼」と街並みがデザイン化されている。
 「どうしてうちの店が、絵柄に入っていないのだ。」というクレームが来るのではないかと怖れていては、このデザインはできない。

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 カラー付デザインの消火栓の蓋
 これも赤と黄色の紅葉をあしらって、中心はやっぱり「辰鼓楼」のデザインだ。
 蓋のデザインモチーフは、揃って「辰鼓楼」。これしかないという潔さだ。

 どこかの自治体のように、「あれも、これも、それも」と、5つの輪の中に10項目もの観光施設などと、おまけに市章や町の花までてんこ盛りに詰め込んで、欲張り過ぎてなにがなんだか焦点がぼけてしまい、分かりにくくて身も蓋もないデザインの蓋があるのは頂けない。

 
 そもそも「辰鼓楼」(しんころう)とは、1871年(明治4年)に、出石城三の丸の大手門脇の櫓台に建設された鼓楼で、当時は1時間ごとに太鼓で時(辰)を告げたことからこの名がある。
 1881年(明治14年)に、旧藩医の蘭方医がオランダ製の機械式大時計を取り寄せ寄贈したもので、今でも三代目となる時計が時を刻み続け地元に親しまれる、我が国最古の洋式時計台として、豊岡市出石伝統的建造物群保存地区を代表する建造物なのだ。

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 かつての大手門の脇の櫓跡の石垣に建つ「辰鼓楼」。
 手前が堀の一部となる。

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 「辰鼓楼」の時計塔屋。瓦屋根とのバランスが美しい。
 

 (日本最古の時計台としては、札幌農学校演武場(1878年完成)に時計塔(札幌の時計台)が設置されたのも同じ年の1881年といい、どちらが古いかははっきりしないという。)
 
 ところで、この他に、出石の町で出会ったことは多い。

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 街中に普通にある蔵。
 山陰地方の雨や雪の湿度対策の通気のためか、蔵の屋根が壁から浮かして(離れて)載っている。

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 出石の町のある豊岡市は、コウノトリの営巣・生息地として知られる。これは、酒屋の店の看板、模型のコウノトリ。

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 仙石氏家老屋敷の枝垂れ桜も満開だ。

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 昼飯に出た、名物「出石皿そば」と赤米の定食セット。
 江戸時代中期に信濃国上田藩から国替えとなった仙石氏が、上田からそば職人を連れてきたのがその始まりとされ、幕末の頃、屋台売りで持ち運びが便利なように小皿に蕎麦を盛るようになって、現在の割り子そばの形態となったそうだ。

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 出石の観光施設の軒下に営巣したツバメ。
 泥と枯草を唾液で固めて巣を作る。4-7月ごろに産卵し、一腹卵数は3-7個。主にメスが抱卵し、抱卵日数は13-17日。その後の巣内での育雛日数は20-24日で、1回目の繁殖の巣立ち率は概ね50%程度と推定されている。

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 ツバメの翼は大きく、飛行に適した細長い体型で、脚は短く歩行には不向きなことから、巣材の泥を取るとき以外は、めったに地面に降りることはない。飛ぶ昆虫などを空中で捕食し、水面上を飛行しながら水を飲む。
 北半球の広い範囲で繁殖し、日本で繁殖するツバメは、主に台湾、フィリピン、ボルネオ島北部、マレー半島、ジャワ島などで越冬する。

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 巣立ち前のツバメの雛。(別所で撮影した、参考画像)
 季節が早いので、ここではまだこのような雛は見られなかった。
 雀のように穀物を食べず、害虫を食べてくれる益鳥として古くから大切にされ、農村部を中心に大切に扱われてきた。「人が住む環境に営巣する」という習性から、地方によっては「ツバメの巣のある家は安全である。」という言い伝えもあり、巣立っていった後の巣を大切に残しておくことも多い。

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 城の内堀の役目を果たした、谷山川の流れ。
 向こうに見える疑似木橋は、復元された登城橋。この橋を右に渡って、城内に入る。

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 出石の街の地勢
 右下の山が、有子山城跡のある有子山。その北山麓に出石城が位置し、北に向かって城下町が広がる。
 領民支配と施設運営上から見れば、地図の左から中心に延びる山麓に城を築くこともできたのだろうが、防御・戦略上、山系・水系など地勢の選択が優先されたのだろうか。


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 昔あることがあってその反省として、わたしは観光地に出かけるとき、その土地についての予備知識を、あらかじめあまり詰め込まないで出かけることにしている。その代り、多くの出会いは少ないが、それでも訪ねた土地の家並みとか住む人、自然の風景などを観ながら、それがほんのささやかなことでも、自分の力でなにがしかの発見が出来たり感じたりすることの方が楽しいからだ。

 だから、わたしはいつも落ち着きのない子供のように、頭を忙しく動かしながら歩いている。
 近頃では、とうとうマンホールの蓋にまで興味が広がってしまい、道を歩く足元にまで注意を払わなければならなくなった。


〇 今日の一献 そのままで、何も足さない、何も引かない、潔さ。その1 へ続く
 ―― 丹後半島の旅 6 宝は持ち腐れたか 『天空の城 竹田城』

 http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-117.html

〇 今日の一献 「カプサイシン」への期待と効用

―― 丹後半島の旅 4 出石の魔除け、厄除けの唐辛子飾り
 
 唐辛子がトマト、じゃがいもなどと並んで、中南米が原産だと初めて知った。
 なかでも、メキシコでの栽培の歴史は、紀元前6,000年にまで遡るほど古いそうだ。

 功罪半ばする15世紀末のコロンブスの大西洋横断の成功は、新大陸から収奪した色々なものを旧大陸にもたらしたが、唐辛子は、まさしくコロンブスが求めていたインドの胡椒と間違えて伝えたもので、だから英語圏では唐辛子のことを「 red pepper」(赤胡椒)と、胡椒と混同した名前で呼んでいる。
 辛い四川料理で代表される中国に伝わったのが、意外にも明末期の17世紀半ばと新しく、同じく辛い料理・食品がお国自慢の朝鮮半島へは、これも意外にもポルトガル人宣教師が1542年に日本に伝えた(南蛮胡椒)後に、日本から朝鮮出兵の結果として伝来した(倭辛子)というのが現在の通説とされる。
 
 丹後半島の旅で立ち寄った、兵庫県豊岡市の出石(いずし)の城下町。観光客で賑わう土産物商店街をパートナーと共にひやかしながら歩いていて、とある土産物屋の店先で見つけたのが、この魔除けの唐辛子飾りだ。
 
 赤い唐辛子が、赤米の稲藁で整然と編み込まれており、唐辛子の連続する赤と先端の穂先が趣を添えた手造りのデザインは、掛物とすれば、なかなかの風情があって美しいだろう。

 傍らの手書きの説明書きには、「魔除け 災いや、魔物を避けるためのお守り」とある。
 店のおばさんの話によると、持つ人の年の数だけ唐辛子を編み込んで、魔除け、厄除けとして家の玄関や室内の壁に吊るしておくと良いそうだ。

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 赤米の穂付の藁で唐辛子を編み込んだ、魔除け。
 「魔除け 災いや、魔物を避けるためのお守り」
 丹後地域では、天平時代から古代米といわれる「赤米」が栽培されていたそうで、今日再び神事や御祝いなどに用いるため栽培されるようになったという。飴、酒や麺などに使った土産品もある。

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 赤い唐辛子を赤米の稲藁で編み込み、手造りのデザインが美しい。

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 隣の普通のものは、このようにして、束ねて吊るして乾燥させた状態で売っている。台所の壁に吊るしておき、必要に応じて取って使う。


〇 唐辛子飾りの効用
 ここ出石の御城下では、「魔除け、厄除けの唐辛子飾り」は、ここだけでしか見られなかったが、旅から帰ってから少し違和感を感じて調べてみると、大体次のようなことが分かってきた。

 まず、「藁で編んだ唐辛子」は、秋に収穫した唐辛子の乾燥・保存方法の一つとして、この様式が採用されてきたのだろうが、唐辛子の鮮やかな赤と藁という素朴な素材の造形は、それが白壁に掛けられていればなおさらに見た目にも美しく、また室内の壁飾りともなる

 飛騨高山白川郷や、岡山県真庭市のふるさとふれあい特産館、都内日本橋・にいがた館NICOプラザでも、「唐辛子すだれ」、「縄ない唐辛子」などの名でこうした作品の展示が見られ、それぞれ似たようなものが各地に分布存在しているように思われる。

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 たまたま、週刊誌最新号の表紙となった、「藁で編んだ唐辛子」
 特に説明書きは見当たらなかったが、これで、また全国の認知度も高まるだろう。


 次に、肝心の唐辛子の魔除け、厄除けの効用であるが、国内ではこれについての情報は少ない。

 例えば、雛飾りの一形態の吊り雛で有名な、雛伊豆稲取の「雛の吊るし飾り」や福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」などの(吊るし)細工物の中に唐辛子が見られるが、この場合、唐辛子に「(防虫効果から)大事な娘に悪い虫(悪い男)がつきませんように。」とか、「小粒でもピリリとしているように。」という願いの意味性は認められるが、唐辛子そのものに「魔除け、厄除け」の意味性は薄い。

 しかし、強いて言えば、これらの細工物の中のウサギ(の目)、(赤い)金魚などの「赤色は、魔を除き厄を払う。」とされていることや、昔は唐辛子に防虫効果があると信じられてきたということから敷衍してみれば、唐辛子の「赤」と「虫除け」が転じて、「魔除け、厄除け」の意味性が付加された地域があってもよいのかもしれない。

 隣の韓国では、唐辛子の赤くて辛いのを鬼が嫌うと信じられており、子供が生まれると、邪気を払うために、唐辛子を編み込んだ紐を玄関に吊るす風習があるといわれる。

 また、インドのヒンズー教では、唐辛子・レモン・唐辛子の順に糸で通した「魔除け飾り」を、家の入り口に下げる風習があるようだ。

 さて、中国だが、「古来から中国では、唐辛子は魔除けとして使われていて、風水においても赤は“魔除け”を意味し、赤唐辛子は悪い物を退け、幸運を呼び込むものとされています。」また、「魔除け唐辛子はその一つ一つが「身代わり守り」でもあり、持つ人に起きる災い、邪気を除くごとに唐辛子が身代わりになって欠けてくると言われており、強い邪気を除けたときには、一粒そのまま落ちるという言い伝えがあります。」との口上で、色付きのガラス製の「唐辛子の魔よけ」ストラップやキーホルダーが、現地ではお土産として売られているという。

 確かに中国では、「赤」色には特別な意味があって、国旗から春節のお祝いごとなどにも、何でもかんでも赤色がふんだんに使われるお国柄だが、「唐辛子の魔除けは、古来から」というのはどうも眉唾で、むしろ近年になって、唐辛子の赤と形をモチーフとした手軽で安いお土産に、「魔除け、厄除けのお守り」のストーリーを付加したのではないかと、わたしは考えるのだが、、、どうであろうか。

 この辛い唐辛子を料理に使って食べれば、その強い辛みを感じることによって、体温上昇で発汗し脂肪を燃焼させ、胃を刺激して食欲を増進させる。だから塩分が少なくても薄味と感じないから、日本食に問題だといわれる塩分摂取量も抑えられ、健康にもよい。

 現に、中国南部や東南アジアなどの暑い地域では、「鷹の爪」と呼ばれる小さくて辛さの強い青唐辛子の甘酢漬けにしたものを、中華料理の合間に好んで食べるが、初めは辛くて食べられないけれど、一度慣れればこれが無いと物足らないと感じるようになる。

 現地の中華レストランでは、普通に漬物感覚で出されるが、スーパーなどではビン詰が手軽に手に入るので、当時わたしの家では、アマ(阿媽)がいつも冷蔵庫で保存しておいたものを食卓に必ず出してくれたものだ。
 マレー料理やインド料理では、トマトケチャップのようにペースト状にした「チリソース」を多用するが、これも同じ理由によるものと思われる。

(それでだが、丁度この季節、近くの園芸の店で「鷹の爪」の苗が出ていたので、庭で育ててみようと初めて買い求めたが、さて、秋に向けてどうなっていきますか。)

〇 唐辛子についての補足
 原産地が暑いところだから、タネの発芽温度は20から25℃と高温。だから3月から4月に種をまき、4月中旬以降に植え付け、花が咲き実の成る夏から秋にかけて順次収穫するか、晩秋に株ごと引抜いて収穫し、根だけを切り離して風通しの良い日陰に逆さに吊って乾燥させる。青いうちに収穫すれば青トウガラシ、赤くなるまで完熟させ乾燥させて使うもよいが、辛さに変わりはない。

 辛味の由来は、果実の中で合成されるアルカロイドの「カプサイシン」及びその同族体であって、カプサイシノイドと総称される一群の化合物。鮮やかな赤色はカプサンチンやカプソルビンという赤い色素は唐辛子に特有のもので、強い抗酸化作用がある。

 多くの効用が唱えられていて、脂肪燃焼効果、血行促進効果、食欲増進効果等々があり、唐辛子から作られるトウガラシチンキが凍傷の外用剤、育毛剤に使われるのは、血行促進効果が認められていることによる。ビタミンAとCが豊富なため、夏バテの防止に効果が高い上に、殺菌作用があって、食中毒を防ぐともいわれる。

 地域によって、様々な名称で呼ばれ、インカの人々はアヒ、アステカの人々はチリと呼び、スペイン人がそれをチレと変化させた。英語圏のレッドペッパー(red pepper)以外では、ギリシャの香料商人は、チリ・ペッパーと呼んだのをハンガリー人がパプリカと変え、イタリア人はぺぺローネと呼んだ。ドイツでは「インドのコショー」を意味するインディアニフヒェル・プフェッフェルと呼ぶそうだ。

 日本では、かつてうどんやそばの薬味で使われるだけだった「唐辛子」だが、昭和初期に家庭に普及したカレーやウスターソースなどの原料として使われるようになると、契約栽培から始まった北関東を中心に盛んに栽培されるようになり、昭和38年ごろには国内生産量が年間7,000トンに上り、海外へも輸出していた。
 しかし、その後の円高傾向の影響で価格競争にさらされ輸出が難しくなったことや、収穫・乾燥など手作業が中心で、手間のかかる唐辛子栽培は敬遠されるようになり、現在では、国内生産は年間200トン程度にまで減少しており、国内消費量の80%以上を中国から輸入しているという。

〇 尾張中村の小出氏が支配した出石のご城下
 ところで、出石のご城下は、室町時代の但馬国の守護大名、山名氏の居城があった有子山の有子山城(連郭式山城)を、1580年(天正8)に羽柴秀吉が第二次但馬征伐で奪い、代わって前野氏が城主となり、次いで関西の岸和田城から転封された尾張中村出身の小出秀政(こいで ひでまさ)が入城し支配した。慶長9年(1604年)になって、出石藩第2代藩主、吉英(よしまさ)が廃城し、代わって有子山の麓に出石城とその城下町を築いたことに始まる。

 しかし、小出氏は、元禄9年(1696年)に当時3歳であった第9代藩主、英及(ふさつぐ)の死亡で無嗣改易となり、後に藩主となった仙石氏の城下町となってから発展し、明治維新を迎える。

 出石は、城下町の碁盤の目状に整備された町割が美しく、「但馬の小京都」とも呼ばれ、現在「豊岡市出石伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。


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 満開の桜の出石城の本丸西櫓。
 天守閣を持たなかったが、城址には、櫓、石垣、堀が残り、登城門や橋などが復元されている。 

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 出石城(梯郭式平山城)の正面全景。左右に本丸隅櫓が見える。
 背後に見えるのは、山頂に有子山城址のある有子山(標高321m)。

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 出石城跡から、城下町方面を望む。
 北方に農地が続く盆地の入り口が開け、南端に山を背景にして城が位置する。
 戦略上の都合により、このような位置に城を設けたのだろうが、盆地の南に位置することで逆光となって見にくいし、山かげの上、背後の山からの豊富な湧水で城郭域はジメジメしており、支配者の施設や健康にも少なからぬ影響を与えたのではないかと思う。
 
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 本丸に咲くヤマザクラ



〇 今日の一献 身も蓋もある、マンホールの蓋 へ続く
 ―― 丹後半島の旅 5 出石のマンホールの蓋(manhole cover)

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