〇 今日の一献 墓碑銘か。『名古屋まつり わらべうた』

―― ビル壁面に名残を記す、「名古屋東照宮祭」の山車たちの鎮魂碑

 ああっ、そうか。、、、そういうことなんだ。と、わたしは独り言ちた。

 最近ではめっきり数が減ったが、それでも月に何回か4人で卓を囲むことがある。
 その店がある、名古屋の繁華街、中区の栄のテレビ塔の北にある久屋大通公園の一つ、リバーパークの辺りに、いつもわたしの気にかかる白いビルがある。

 気にかかるのは、正確に言うと、実はビルそのものではなく、ビルの道路に面した壁面に付けられた白い人造大理石の大きなプレートで、店に通う頃にはもう薄暗い時分でいつも約束の時間に急かされていて、書かれた達筆の文字も手伝って、何が書かれているのかもよく判らないままに今まで横目で見ながら通り過ぎてきた。
 
 ところが、先日(3月11日)、名古屋ウィメンズマラソン2012が名古屋市内であり、沿道からの応援に出かけた帰りに、この機会にとパートナーと共にこのビルに立ち寄ってみたのだ。

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 名古屋の繁華街の中心の久屋大通といえども、北のはずれまで来ると、流石、人通りは少ない。
 向こうは、都市高速道路の高架が走る南外堀通り。

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 かつてこの界隈は、尾張名古屋の御城下の薬問屋が多い地区だった。
 このビルは、中区丸の内三丁目にある、享保11年(1726年)創業という薬品会社の本社ビル。 
 ビルの壁に、白い陶板製の大きなプレートがある。

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 プレートには、『名古屋まつり わらべうた』と題した歌詞が達筆な文字で書かれている。

 プレートに書かれた歌詞の内容は、次のものだった。

  『名古屋まつり わらべうた』(出車の歌)
   「猩猩(しょうじょう)酒飲む 鶴は芹(せり) 雷はごろつく 二福神
    お湯取り 笛吹く 唐子は太鼓打つ 
    三条小鍛冶(さんじょうこかじ)の狐面(きつねめん)
    獅子に牡丹に 橋弁慶」 (徳川末期)        とある。

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 気が付かなければ見落とすところだが、ビルの入り口の北の壁上面には、これも同じ『名古屋まつり わらべうた』のプレートと共に、「名古屋祭」と題して山車を描いた錦絵が、神社の扁額(奉納額)のように恭しく掲げられている。

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 なおもこの絵をよく見ると、「名古屋祭」と題して名古屋城の天守閣を背景に9台の山車が描かれており、右手前には、宮の建物の屋根が見える。また、絵の中に説明書きとして「名古屋東照宮神事山車引出シ之図」とある。

 かつて尾張名古屋の御城下には、大きな祭が幾つもあった。

 その中でも、家康を奉る名古屋東照宮の「東照宮祭」、名古屋の総鎮守である若宮八幡宮の「若宮祭」、城下町の氏神である亀尾天王社(現在の那古野神社)の「天王祭」は、『名古屋三大祭り』として知られていた。

 先の大戦前まで、「名古屋祭」と言えば「東照宮祭」を指した。この「東照宮祭」は、徳川家康の三回忌の元和4年(1618)に祭礼が始まったといわれ、翌5年に東照宮が完成すると、その年の祭に、七間町が大八車を2輛組合せて「西行桜」の能人形を飾った山車を曳きだしたのが、祭礼の第一号の山車となったという。

 次の年の、元和6年に、また同じ七間町が、京都五条橋での弁慶と牛若丸の出会いの故事に因み、大立ち回りを演じるからくり人形を載せた「橋弁慶」車を造り行列に曳き出すと、これが御城下の大好評となり、これに刺激を受けた各町が競って山車・練り物を造り出した。

 その結果、宝永4年(1707)までには、山車9台が揃い、36カ町が繰り出す警固の行列が、本町通りから末広町のお旅所まで練り歩く壮大な山車行列が完成した。元治2年(1864年)の東照宮250年祭には、総勢6,800名を超える壮大なスケールの行列で、全国でも屈指の祭礼であったという。

 これら、山車9台の内訳は、「橋弁慶車」(下七間町・1620年建造)、「林和靖車」(伝馬町・1733年建造)、「雷電車」(和泉町・1652年建造)、「二福神車」(上長者町・1732年建造)、「湯取神子車」(桑名町・1658年建造)、「唐子車」(宮町・1709年建造)、「小鍛冶車」(京町・1707年建造)、「石橋車」(中市場町・1704年建造)、「猩々車」(本町・1658年建造)の9台だった。
 橋弁慶車と雷電車は、祭礼初期の山車形態の露天のからくり人形を持つ人形山だったが、他の7台は、唐破風の屋根を細い四本柱で支えからくり人形が乗せられた、いわゆる名古屋型といわれる形態だった。

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 ここまで書いてきて、ふと思うことは、いかに祭り好きの尾張藩主、七代の徳川宗春や十代の徳川斎朝の出現があり藩主催などの後押しがあったとしても、それを造り、携わり、盛り上げた、名古屋御城下の各町内の旦那衆や町衆の心意気と懐(経済力)の大きかったことに、もっと注意を払うべきだとわたしは思う。

 現代に当てはめるなら、市民の祭り・イベントに対して、地域の企業・金持ちが大枚の資金を出しあい、町内の庶民(一般市民)が労力を惜しまず主体的に参加し、これを行政が財政面や諸規制を解いて支援して盛り立てるということになるだろうか。

 その後、明治維新に中断があったけれど、藩祖義直公を東照宮に合祀した明治14年に祭りが復活してから以降は、盛大な祭礼が続いてきたが、先の大戦時には戦時下における祭りの自粛が求められ、ついに昭和12年の祭礼を最後に再び中断を余儀なくされた。

 しかし、戦争というものは無慈悲なもので、内地が戦場となってから、選りにも選って敗戦の年の昭和20年(1945年)に名古屋市域を襲った空襲爆撃によって、全く惜しくも残念にも名古屋城天守閣や東照宮の社殿をはじめ、東照宮祭の9台の山車の全てを焼失したことにより、突然「名古屋祭」の山車祭りは、終焉したのだ。

 現在の東照宮祭は、毎年4月16日と17日に行われるが、残念ながら舞楽神事などの一部を残すのみでかつての面影もなく、今日に至るも、かつての山車などが祭りのために復元されるという話もない。

 さて、件のビルは、市内中区の丸の内三丁目にあり、お城のすぐ南で今の名古屋東照宮から東の近い位置にあたり、「東照宮祭」の氏子として関わりが深かった地区だと思われる。
 
 だから、このビルのオーナーはその名を惜しんで、かつて東照宮祭や若宮八幡宮の祭礼で曳き出された山車からくりを織り込んで歌われたという、昔の『名古屋まつり わらべうた』と明治期の木版画「名古屋東照宮神事山車引出シ之図」を、ビルの壁面に刻んで残そうとしたのではなかろうか。

 しかし、なぜかわたしには、これらが戦災によって灰塵に帰してしまった「東照宮祭」の山車たちへの鎮魂碑であり、そして『名古屋まつり わらべうた』は、その墓碑銘にさえ見えてしまうのだ。



 ところで、この戦災で失われた「東照宮祭」の山車たちの中で、下七間町の「橋弁慶車」が、名古屋城の内にある能楽堂の玄関ホールに、復元され展示されているのをご存知だろうか。
 これは、昭和63年(1988年)ごろ名古屋市が観光宣伝施策の一環として復元したもので、からくり人形はコンピュータ制御の機械で自動的に稼働し、お囃子に合わせて牛若丸と弁慶が演技を行うものだったが、今は動いていない。

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 牛若丸と弁慶のからくり人形は、名古屋の人形師8代目玉屋庄兵衛の作で、コンピュータ制御の機械の設計・製作は、愛知時計電機というコラボレーションで実現したものだ。


〇 名古屋の山車
 尾張地方は、名古屋市内を始め,犬山、津島、小牧、西枇杷島などと山車祭りの盛んな地域で、この地方の山車の発祥とされる名古屋では、尾張七代藩主徳川宗春などの奨励もあり、豪華な山車やからくり人形が数多く存在したが、戦災により惜しくもその大半を焼失した。しかし、幸いにも戦災をまぬがれた山車が市内や郡部のあちこちに残り、今もこれらの山車や新たに復興された山車による祭りが行われている。
 戦災消失の唯一の救いとして、桑名町の「湯取神子車」の先代の山車が、譲渡先の東区筒井町に伝えられており、今の筒井町の天王祭と全市で行われる名古屋まつりの山車揃の時に「湯取車」として参加している。

 リンク:「名古屋市内の主要山車一覧」 http://dashi-matsuri.com/dashikan/owari/nagoyaitiran.htm

 なお、このビルの「名古屋東照宮神事山車引出シ之図」の元となった錦絵は、塚本康満氏により明治18年5月1日に制作・発行された木版画によるものとみられる。

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〇 『名古屋まつり わらべうた』

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――参考――
〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その1
 ―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して

 http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-293.html

 これら西枇杷島の山車は、当時名古屋城下で春に開催されていた、東照宮祭の古い山車や幕を買い求めたものが起源だが、山車祭を始めたものの、尾張藩の規制によって人形からくりの演技が許されたのは、1813年(文化10年)まで待たされることとなったという。
 その経過から、先の大戦で名古屋東照宮祭の9両の山車がすべて戦災で焼失したことにより、今では名古屋東照宮の祭礼の形態を引き継ぐ数少ない祭としても知られるようになった。


――追補――「陶板に残す名古屋祭」中日新聞 2013年7月17日

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〇 バルナックの庶子たち。現代版「プアマンズ・ライカ」

――コシナ ベッサR(Lマウント 35mmカメラ)

 今や世はデジタルカメラ時代だ。
 M7とMPを最後に、2009年にフィルムカメラの製造をやめて、M8、M9というデジタルカメラの製造に転向してしまったライカカメラのことを、いまさら引き合いに出してみても、何の意味があるのかとのお叱りを頂くかも知れない。

 だが、かつての35mmフィルムカメラの始祖にして、かつ長期にわたって世界の機械式カメラの頂点の座を極め続け、有難いことに今もなお、日本のメーカーが頑張って銀塩フィルムを生産しており、フィルムが使える限りは、腕は駆け出しといえどもカメラ好きにとっては、やはりライカは憧れのカメラであり続けるのだ。

 ところが、ライカには憧れるが、やはり値段が高くて買えないというわたしのような庶民層にも手が届くほどの値段で、せめてライカの感触を味あわせてくれるのが、「プアマンズ ライカ」と呼ばれる一群のカメラ達だ。

 その一つが、いまはもう生産中止となったはずだが、長野県のカメラとレンズメーカー、「コシナ」が、ライカLマウントのレンジファインダー機として、2000年3月に発表した、『ベッサR』(Voigtlander Bessa-R)だ。

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 CANON SERENAR 35mm F3.2を付けた、『ベッサR』
 
 『ベッサR』のボディーは、本家ライカの「リッチマンズ・ライカ」、フィルム式最後のライカMPのボディーが52万円ほどするのに比べ、7万円台と安かった。

 しかし、ファインダーの見やすさはかなりのもので、ブライトフレームは、35/90mm、50mm、75mmの3つをレバーで選択できる。シャッターは完全機械式で、ライカのように感覚はシルキー・エレガントではないけれど1/2000を備えるなど、十分に実用的なうえ、わたしにはうれしいレンズ透過式の露出計も内蔵している。

 何といっても、バルナック型のライカ用レンズ(ライカ・スクリューマウント・レンズ 、いわゆる Lマウント・レンズ )なら、勿論コシナの新設計フォクトレンダーレンズを始め、今まで世界各国で作られてきた全てのレンズ資産が、ごく一部のものを除いて使えることが最大のメリットだ。

 例えば、30年以上60年も前の、本家の「ライカ」(独)、ロシアのライカコピー「ジュピター」、日本製のニコン、キヤノン、コニカ、フジノン、ロッコール、トプコン、その他米英といった銘柄のライカコピーレンズが、現代版のシステムカメラとして蘇り使える事になるわけだ。
 (ただし、ベッサRは、ライカのエルマーレンズなどのような沈胴式レンズも使えるが、レンズの後端が感光センサにつかえるから、沈胴させて格納することだけは出来ない。)

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 桜の京都、高台寺からの市街
 By CANON SERENAR 35mm F3.2 

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 桜の京都、平安神宮の庭園
 画像は、レンズで決まるが、撮ろうとする意欲は、カメラのボデイで決まるような気がする。

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 桜の京都、平安神宮の南、琵琶湖疏水の流れ。

 使ってみれば判るが、『ベッサR』は、今までに積み重ねられてきた広くて奥の深いライカの世界の貴重な遺産を継承しながら、戦後すぐの当時の日本と違って、今やドイツの光学技術を遥かに凌ぐ日本のモノづくり技術力を土台に登場した、現代の新しいジャンルを拓いた頼もしいカメラではなかったかと思う。

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 TTL定点合致式距離計連動35mmフォーカルプレーンシャッターカメラ(レンズ交換式)、実像距離計式逆ガリレオ透視ファインダー、ファインダー倍率:0.7倍、距離計:二重像合致式、連動範囲:0.9m~∞、
 視野枠:35mm,50mm,75mm,90mmに対応、ブライトフレーム切り替え方式、パララックス自動補正、視野率:87%(3m時)

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 CANON SERENAR 35mm F3.2を付けた、『ベッサR』の軍艦部。
 巻上げ:一作動レバー巻上げ式、巻上げ角135°、予備角30°、二重露出防止付き巻戻し。
 巻戻しボタンおよび巻戻しクランクによる。巻戻しボタンは巻上げにより自動復帰。
 フィルムカウンター:順算式、裏ぶた開放により自動復帰。

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 機械式上下走行式メタル・フォーカルプレーン・シャッター、1/2000~1秒、
 バルブシンクロ接点:X接点(1/125秒より遅い速度で同調)。
 測光方式:TTL幕面ダイレクト実絞り、中央部重点平均測光、測光範囲:EV1~EV19(ISO100F1.4:1秒~F16:1/2000秒)。ISO連動範囲:ISO25~3200(1/3ステップ)。機械式セルフタイマーで作動時間約10秒

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 電源 LR44型アルカリマンガン電池2個またはSR44型酸化銀電池2個、
 135.5×78.5×33.5mm 395g(ボディーのみ)、ボディカラー:ブラックとシルバーの2種

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 CANON SERENAR 50mm F1.8を付けた。

 

テーマ : 花の写真
ジャンル : 写真

〇 今日の一献 黒髪、鳶色の瞳のビスクドール

 ―― 横浜人形の家から来た、横浜人形『ヨーコ』 

 わたしの家には、いくつかの人形がある。

 娘が生まれてからその時々に、娘が優しい女性に育つことを願って買い求めて来たが、親の意に反して当の娘の方は縫い包みは好きだったが、人形の方にはとんと関心が無かったけれど、そのうち娘も好きになるだろうと勝手に思い込んでいたので、知らず知らずのうちに数が増えたようだ。

 その人形の中でも、唯一、出自・素状の確かな人形が、横浜人形『ヨーコ』だ。
 なぜなら、このビスクドールには、名前を示すプレートが付いていたからだ。

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  我が家のビスクドール、横浜人形『ヨーコ』。身長は50cm

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 出自・素状が分かっていれば、少し調べれば大概のことは分かってくるものだ。

 この人形は、以前は横浜の港に近い山下公園の近くに横浜市が開設した「横浜人形の家」のショップで販売していたそうで、わたしは前にここを訪れたことがあるから、多分その時に手に入れたものと思う。

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 『ヨーコ』は、横浜市が海外との交流の機会に友好の証として贈る人形として、1982年に公募で名前を決めて制作され、1990年以降の地域ブランド育成事業「ヨコハマ・グッズ001」の特別認定商品にもなった。
 
 最初は、顔・手足がビスク(陶磁器)、身体はコンポジション製で身長70cmの、正絹と人絹の着物(和装)を着た2種類の市松人形と、洋装(色違い2種類)のものを合わせて4種類の人形が、「横浜人形の家」のミュージアムショップで販売されたが、値段が高かったこともあり、あまり売れなかったようで、しばらくして廃止された。

 その後、小型の和装と洋装の『ヨーコ』とソフトビニール製のマスコット人形「よっこちゃん」が制作されたが、これも「人形の家」でしか買えない限定商品だったがあまり人気が無く、製造メーカーの倒産などもあって、今ではいずれも販売されていない。 
 
 現在、人形の家では、『ヨーコ』の常時展示はしていないけれど、毎年9月から11月にかけての企画展の中で展示をしているそうだ。

 また、2011年11月3日の文化の日に初めて公開された、横浜市長公舎の一般公開「市長公舎OPEN!」事業の参加者の参加記録で、この初代の和装と洋装の『ヨーコ』が、市長公舎の部屋に展示されている模様が写し出されている。

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  市長公舎の部屋に展示されている、初代の和装と洋装の『ヨーコ』(身長70cm)(初の一般公開参加者の撮影記録から。)
 当時の初代人形の価格は、正絹:12万円、人絹:5万円、洋装:2万3千円したという。


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  2011年11月3日の文化の日に、初めて公開された横浜市長公舎

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 我が家に居る、かわいいビスクドールたちの一部。この他、布製、陶器製、ビニール・セルロイド製、土・木製など、いろいろな素材で出来た人形がある。

 結局、娘のためとかなんだかんだと理由を付けながら、親のわたしたちが自分達の楽しみでかわいい人形を集めてきたのではなかったかと思う。
 孫娘たちも娘と同じ形質を引き継いでいると見えて、あまり関心を示さないというより、むしろ怖がる風があって、今では人形を買い求める抑制が働いている。

 なお、今回の調べ物に関しては、先にeメールで「人形の家」にお尋ねしてみたところ、同館の学芸員の方から早速丁寧な報告をいただき、それに基づくものなどによることを記して、感謝申し上げる。 
 

〇 横浜人形の家
 世界141カ国の約1万4千点の人形と人形に関する資料を所蔵する、横浜市中区山下町18にある博物館。
1986年6月に開館し、常設展示室のほか、企画展示室、「あかいくつ劇場」、ショップ、カフェ等がある。2010年2月に常設展示室内をリニューアルした。
 常設展示室では、日本や世界の民族人形、人間国宝・平田郷陽の作品(答礼人形)、江戸後期以降のからくり人形、雛人形など貴重な人形を展示している。
 館長は、初代が兼高かおる(開館時 - 2006年)、2代目は石坂浩二(2006年 -2011 )。
 
 2012年3月31日(土)~4月22日(日)日米交流事業記念企画展の開催を予定
  「横浜とアメリカ」~友情人形交流にみる横浜~
  【展示内容】
   ◆答礼人形「ミス京都市」、「ミス青森」、平田郷陽の答礼人形(計3体)
   ◆横浜市内に残る「青い目の人形」
   ◆「佐々木資料」(写真資料) 他

〇 ビスクドール(英語:bisque doll、仏語:poupee en biscuit)
 「ビスク」とは、お菓子のビスケットと同じく、フランス語の「二度焼き=ビスキュイ(biscuit)」が語源。人形の頭部や手の材質が二度焼きされた素焼きの磁器製であったことによる。
 当初は、陶土を型に押し込んで作られた(プレスドビスク)が、後に量産可能な液状ポーセリンの流し込み(ポアードビスク)で作られるようになった。
 もともと、衣服の宣伝用のミニチュア版の衣装を着させる目的で作られた観賞用の人形(大人の女性の姿をしたファッションドール)だったが、1850年代の万国博覧会に出品された市松人形の影響や、新富裕層の台頭などにより、子供の姿をしたベベドールが登場し可動性の高いコンポジションボディの人形が作られ、玩具として量産された。
 19世紀末に、ジュモー、ブリュなどフランスの工房は黄金時代を迎え、20世紀に入ると、廉価なドイツの製品に対抗するため、フランスの工房は合併。廉価なものの量産合戦となり、1920年代には一般の子供用玩具として広く販売されるようになった。
 現在でも人気は根強く、ドイツ製の人形は数十ドル程度から手に入るが、骨董的価値及び美術性・希少性のあるものは、数万ドルで取引されているという。

〇 今日の一献 些細な陥穽か、それとも壮大なる皮肉か

―― 灯台下暗しのNHK名古屋放送センタービルの受信不能

 去る3月11日は、東日本大震災の発生から1年の日だった。

 名古屋では、市内のナゴヤドームを発着点とする「名古屋ウィメンズマラソン2012」が、何故かこの日に開催され、日本人最高の2位となった尾崎好美(30)選手が、翌日陸上女子マラソンのロンドン五輪代表に選考された。(昨年は、大震災のすぐ後だったので、中止された。)
 優勝は、2時間23分52秒でロシアのアルビナ・マヨロワ(34)で、市民ランナーを含む1万3,114人が出場し、世界最大の女性だけのマラソン大会として、英国ギネス・ワールド・レコードに認定されたそうだ。

 また、男女ハーフマラソンなどの「名古屋シティマラソン2012」も併せて開催され、両大会を合わせて2万6,615人が、春の名古屋を駆け抜けた。

 わたしは、パートナーとともにこのマラソン大会の応援に出かけ、市役所の北の名城公園のカーブのあるきつい登り坂の辺りで先頭グループの選手達を見送った。

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 名古屋市役所交差点の北の名城公園南地点は、往復コースで、坂の駆け下りと、駆け上がりの場所となるとなるから、応援の人も多い。

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 先頭グループ集団のポジション争いは熾烈だ。
 画面左から、⑯中里 麗美、⑲伊藤 舞、⑬尾崎好美、⑫渋井 陽子、少し遅れて⑪野口 みずき、24 勝又 美咲、25 宮内 洋子の各選手。


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 久屋大通公園のセントラルブリッジ下を通過する、シティマラソンの参加者集団。橋の上は、立ち止まり見物と撮影が禁止された。
 
 ウィメンズマラソンの選手たちを見送りながら、携帯ラジオと携帯電話のワンセグテレビで試合の経過と結果を聴いてから、その足でシティマラソンの応援をしながら歩いて繁華街の栄地区まで戻り、昼食のために地下街から通ずるNHK名古屋放送センタービルの地下2階にある食堂街に入った。

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 一階のNHK名古屋放送センターの正面入り口。

 まだ、後発のシティマラソンの走行が続いているはずだったので、わたしたちは携帯ラジオでニュースを聴こうとしたが、なぜか雑音が入るばかりの受信不能で、ラジオの故障かと思い選局を変えるなど何度も試みたがやはりだめで、代わりに携帯電話のワンセグテレビでも試してみたが、やはり受信は不能だった。

 とにかく空腹を満たすのが先で、放送センタービルの地下2階の食堂で昼食を摂った。
 帰りにビルの吹き抜けにあるエスカレータで、上の階に上がっていくころになると、初めてワンセグテレビの受信が可能となったが、吹き抜けから離れた地下1階のエレベーターの辺りでは、また受信が出来なくなった。

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 地下1階のエレベーターの辺りでは、携帯電話のワンセグテレビの受信は不能だった。

 このころになって、ようやくわたしは、コンクリートに囲まれた建物内やトンネル、地下街・地下駐車場などでは、放送電波は遮蔽されて電波障害が発生し、受信が出来なくなることに気が付いた。

 そのささやかな知識に気が付くと同時に、しかし待てよという気持ちが頭を擡げてくる。

 このビルは、いやしくもNHKの放送を提供している名古屋放送センターが入っているビルだろう。
 現に、1階には吹き抜けの広場になったロビー空間には「プラザウエーブ21」があり、NHKの公開放送にも使われているのだ。
 
 放送番組を制作している施設内である以上、受信できるようにしてあるのが当然と思うのだが、例えば1階で行われている公開放送を、すぐ近くの同じ放送局のビル内の地下階では聴くことが出来ないという現象が起こるのだ。

 これは、緊急災害の発生時にも、放送センタービルの地下階では、NHKはおろか民放の緊急放送も聴けないということを意味する。多分、センタービルの地下駐車場でも同じだろう。
 
 (携帯電話は電波領域が違うし、事業者が手当しているので使える。)

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 NHKの公開放送にも使われるセンタービル1階吹き抜け広場の「プラザウエーブ21」。
 当然ここでは、NHKだけでなく民放の放送の受信はできる。


 近頃では、携帯電話運営事業者の努力により、受信の困難な地下街や地下鉄などの様々な場所で携帯電話の受信障害をなくすためのアンテナ設置が進められている。
 熾烈な競争もある事業分野である上に、利用料金を徴収している事業者である以上、行政の指導があるかどうかは知らないが、利用者への利便・サービスを進める事は事業者の責務であるからだと思う。

 一方、同じように聴視料を徴収しながら、平地や山間部の電波障害にそれなりに対応しているはずの天下のNHKが、民間企業との合弁で、それもあらかじめ放送センターが入居する建物として、高さ95mの地上22階、地下4階で、延べ床面積8万m²の壮大な超高層ビルを設計・建設し、そして現在も変わらずここに入居しているのだ。

 しかし、それにもかかわらず、その足元の地下は、「灯台下暗し」のままに放置されているのではないかというこの状況に、わたしはなぜこの些細な陥穽に気が付かないのかが不思議であり、釈然としないばかりか、むしろここが放送の殿堂である壮大なる建物故に、強烈な皮肉にも思われるのだ。

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 名古屋市東区東桜にある超高層のNHK名古屋放送センタービル 。右は、愛知県芸術劇場、愛知県美術館、愛知県文化情報センターで構成された、愛知芸術文化センタービル。

 一方、名古屋駅新幹線口の「エスカ」地下街では、2009年3月に東海3県で初めて地下街の12カ所にアンテナを設置し、そこから地上で受けた電波を再送信することで、ワンセグ放送やAM、FMを受信できるようになっているそうで、それは喜ばしいことだ。

 ところがである、少し調べてみたら、あるNHKの関連子会社では、地下街遮蔽対策や、エリアワンセグ放送の可能性を広げるため、誘導灯本体の機能を妨げずにアンテナを組み込むことに成功し、広帯域特性に優れた小型アンテナ、『誘導灯アンテナ』を開発・製品化しているという。
 また、この会社は、「電波の届きにくい場所でもラジオが聞こえるようにとの願いから、AMラジオ伝送システム(アイラジオ)をNHKと共同開発し、トンネルや地下街・地下駐車場をはじめ、病院や福祉施設、ホール(ナゴヤドーム)などで、幅広く採用されている。」とのことで、どうしてこれを活用しないのか、わたしの疑問はますます深まるばかりだ。

 この日、地震発生時刻の午後2時46分には、被災して亡くなった方々に対して、全国のそれぞれの場で黙とうをささげ犠牲者の方々の冥福を祈った。

 シティマラソンの参加者も、応援者も、この時刻には走るのを止め、それぞれその場で黙とうをささげた。

 黙とうしながら、亡くなった方々のみならず、被災して今も一刻も早い復旧を待つ方々のことに思いを巡らすうちに、遅々として進まない為政者の実行力と、だからと言ってなにもできない自分自身にも腹が立つのを覚えた。

〇 このNHK関連子会社のウエブサイトによると、
 「地下街や建物内など電波遮蔽空間では、地上デジタルテレビ放送をそのまま受信することは難しく、この受信改善のためにはギャップフィラー(受信障害対策中継局)などを整備する必要がある。アンテナは地下街や建物内のため、景観を確保しつつ電波伝搬効率の良いものでなければならず、『誘導灯アンテナ』は、その課題を解決するためギャップフィラーと組合せて使用することで、ワンセグ送信機と組合せてエリアワンセグ放送にも利用でき、表示サイン灯にも組込むことができる。」とある。
 また、「地下街や地下駐車場等の電波遮蔽空間での地上テレビジョン放送(ワンセグ)ラジオ放送(AM・FM)の再送信設備の設計、施工、保守をトータルで行います。」とのことだ。

〇 NHK名古屋放送センタービル
 愛知県名古屋市東区東桜にある超高層ビルで、老朽化していたNHK名古屋放送局が民間企業と共同で複合ビルとして1991年(平成3年)7月建設された。NHK名古屋放送局以外に民間企業のオフィスや飲食店などが多数入ったビルとなっている。地下2階は隣接するオアシス21と繋がっており、飲食店街「メルサグルメプラザ」がある。
 また、平成4年度名古屋市都市景観賞を受賞。
 なお、NHK名古屋放送局は、総合テレビとFMで愛知県内向け、教育テレビ(Eテレ)と中波(AM)ラジオ放送で東海3県向けの放送を行っており、中部7県(愛知県・三重県・岐阜県・静岡県・福井県・石川県・富山県)を統括する拠点局でもある。


 (憶測で言っては大変失礼かもしれないが、多分東京都渋谷区神南にある日本放送協会(NHK)の本部施設であるNHK放送センターでは、施設全体が自前の施設だし、国際的なVIPも出入りする施設だから、きっと地下階であろうと施設内のどこででも、少なくともNHK放送の受信ができるようになっていると思う。

 しかし、ここ名古屋放送センタービルは、たまたま中心市街地の土地の有効活用のために民間企業と共同開発したことから、NHKの管理責任区分は、地下階や地下の駐車場にまで及んでいないことによるからにちがいないと、僻目のわたしは思うのだがどうだろうか。)


 この記事については、正直驚いて書きました。本当は、マラソンのことをメインに書きたかったのですが、結果的にNHK名古屋放送センターの話が中心となってしまいました。

 11日のその日、わたしは、その場で1階のNHKの受付のお嬢さんたちに、地下階での受信不能であることは問題だから、こういう指摘があったことを担当者に話しておいてほしい旨を伝えた。

 また、この記事を書くに当たって、やはり裏付け確認と別ルートの問題提起のため、NHK名古屋の聴視者相談窓口にTELしたところ、担当者(きっとOBだと思うけれど。)は、「自分は、技術担当でないから詳しくは分からないが、多分、このビルの地下階では受信できないだろうと思う。」、わたしののクレームは、「今回が初めてだと思う。この指摘があったことは、担当者に伝えておきたい。」と、言っておりました。
 
 なお、それでももう一度受信不能の確認をするため、14日には、再度NHKセンタービルを訪れ、地階(B1)での受信不可能の確認をしながら、記事中の画像撮影をした。
 
 だから、NHK名古屋へは、それなりに伝わり、課題として真剣に検討してもらえれば、来るべき災害発生時にもそれなりの対応はできるはずだが、さてどうなるでしょうか。わたしも気が付いた以上、このようにしてそれなりに責任を果たしながらこの記事をまとめたのだ。
 

 
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〇 今日の一献 山のない他国者のあこがれ 富士山を観たい その2

―― 「どこででも どっかで撮りたい 富士の山」

 静岡に仕事で足を運ぶことがある。

 大抵は、午前中に静岡の目的地に着いて、仕事をこなして夕方に帰る日帰りとなるので、ゆっくり富士山を観望する場所には行けない。そんな時でも、何とか観たいという願望は抑えられない。

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 こんな画像が、静岡駅に着いて少し時間があれば、すぐに手に入るとしたら、貴方はどうしますか。

 こんな時は、どこでもよいからとりあえず高い場所に上がってみることだと、わたしは心得ている。

 JR静岡駅の駅ビル「アスティ」は、デパート「パルシェ」が入っていて、むしろこの方が有名だが、この駅ビル「アスティ」の屋上スカイテラスには、縦の鉄棒の安全柵の傍に「富士山展望台」という場所があって、ビルの8階相当の高さにして40mほどから高いビルの間を通して、幸運であれば富士山が観望できる。

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 たとえ富士山が見えなくても、北口方面の葵タワーから、静岡の繁華街「呉服町」や「御幸通り」や、南口方面の駅のホーム、サウスポット静岡などのビルなど、静岡の街を眺めることができる。また、午後8時まで開放されているので、市街地の夜景を楽しむこともできるし、夏はビヤガーデンとなる。

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 2005年に静岡市が政令指定都市に移行し、静岡の都心は、永らく続いてきた静岡駅北口の都市再開発工事と周辺ビルの建設がひと段落し、駅ビル「アスティ」の北により高いビルが出来たりして観望を妨げはじめた。

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 だから本当は、「アスティ」の北に2010年4月に開業した高さ125mの「葵タワー」や「松坂屋北館」の屋上からの観望の方が、数段優れているのかもしれないが、保守的なわたしはまだ試していない。

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 今のコンパクトデジカメでも、15倍ズームの能力があれば、ここまで迫れる。
 2月の風の強い日だったが、幸運にも快晴に恵まれ撮ることが出来た。
 パルシエのエレベーターに乗り合わせた、二人づれの品の良いご夫人に「いつも富士山が眺められて、うらやましいですね。」と話しかけたら、とても嬉しそうに頷いておられた。


 ところで、昔から少しでも見える所には富士見台という地名が多いし、お城でも富士見櫓があったりする。また、地方にはたとえ低くても形が似ていれば本当の名前に別名で、〇〇富士という名前が付いているのも、富士山への畏敬と憧れなのだろう。

 結局、山のない他国者の憧れとして、やっぱり日本一の高さで、美しい富士山を観たいという願望は、わたしだけではないのだと思うのだ。


〇 富士山ライブカメラ 『ずっと富士山』
 実物ではないにせよ、居ながらにして富士山を観望したい欲求を満たす、ウエブサイトがある。
 2011年11月に1,000万アクセスを達成した、富士山ライブカメラ『ずっと富士山』がそれだ。
 静岡県の長泉町に本社のあるインターネット関連事業会社が、沼津市西浦木負にある駿河湾越しの富士山が見えるシーサイドカフエ「海のステージ」から高画質デジタルカメラで富士山を自動撮影して、世界中に配信している。


 リンク:『富士山ライブカメラ ~ずっと富士山~』 URL:http://live-fuji.jp/

 
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