〇 今日の一献 中津川で出会った「なめくじ」は、大阪に?

―― D51形蒸気機関車の初期型「なめくじ」D512号機

 今年の春、わたしは京都の嵯峨野嵐山にある「トロッコ嵯峨駅19世紀ホール」に立ち寄った。
 実は、トロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの7.3kmを走る嵯峨野観光線の、嵯峨野トロッコ列車に乗るための小旅行だった。
 その19世紀ホールの前庭に、大切に磨かれて置かれていた珍しい「なめくじ」D5151号機を観たのだが、その画像を整理していて、ふと昔中津川機関区で見た、同じD51初期型の「なめくじ」D512号機のことを思い出した。

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 京都「トロッコ嵯峨駅19世紀ホール」の前庭に展示されている「なめくじ」D5151号機

 で、さっそく、昔のフイルムを探し出してきて、スキャンしてみた。

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 たしか、わたしは、1972年(昭和47年)4月に、旧国鉄中央西線の中津川機関区を蒸機撮影で訪れている。
 その機関区の片隅に、珍しい「なめくじ」D512号機が置かれていた。

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 そのときわたしは、はずされたナンバープレートの代わりに標識番号が白いペンキで書かれ、メインロッドのみて放置された姿のこの蒸機は、廃車された後に解体・処分される運命のときを待っているのだと思った。
 だから、わたしは去り行く蒸機に敬意を払って、何枚かの写真を撮り、最後にその車体に寄り添って写真を撮った。

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 しかし、情報によると、この蒸機は、静態保存という形ではあるが、解体を免れ大阪市内にある交通科学博物館で余生を送っているとのことを、わたしは最近になって知った。

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 交通科学博物館での「なめくじ」D512号機の展示状況

 この蒸機について情報をまとめてみると、この車両はD51形蒸気機関車2号機として、1936年(昭和11年)に川崎車輛で製造された。最終的には愛知県稲沢市の稲沢第一機関区に所属して、関西本線(亀山まで)や名古屋臨港貨物に活躍した。その後、1971年4月に関西線で{さよなら}貨物列車を重連で牽いたのが稲沢機関区での最後で、1971年夏の間は長野機関区に貸し出しとなり、信越線で「D51ファミリー号」として運転され、終了後に返却されて12月13日には廃車となり、すぐにこの中津川機関区に転送されてきたようだ。
 1972年の正月には、中津川にあったとの情報がある。そのときの画像と、わたしの撮った画像の場所やロッドの位置が違うため、4月までに場所の入れ替えがあったかも知れない。

 その後は、大阪の交通科学博物館に展示されていたC5345号機が1972年10月に梅小路鉄道館に移籍していることから、この蒸機はおそらく中津川機関区からこのころに交通科学博物館に移籍したものだろう。

 そういえば、わたしの撮ったD512の写真を見ていただくと、煙突の上にカバーがしてある。これは、保存に向けて、雨水などが煙突から入ってボイラーに溜まり、錆などを発生させないように配慮されていたのではないかと、今になって思う。


〇 「ナメクジ」D51形蒸気機関車
 D51形蒸気機関車(全部で1,107両)のうち、初期に製造された95両は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水暖め器をレール方向に置き、それらを覆う長いカバーを持つのが特徴である。その後の通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになり、その形状から「ナメクジ」の通称もある。
 また、汽車製造会社製の22・23号機はドームがさらに運転台まで延びているため、「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれている。

〇 なお、交通科学博物館は、大阪府大阪市港区波除三丁目にある交通・科学に関する博物館。大阪環状線弁天町駅の高架下にあり、JR西日本が所有し、財団法人 交通文化振興財団が運営している。

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〇 今日の一献 二眼レフカメラによる速写の可能性

―― 関西本線 亀山機関区のD51機関車の発車を撮る

 今どきの若い人に、「カメラの速写」について話をしても、走ってくるF1レーシングカーをコーナーで待ち構えていて、1秒間に何枚撮れるかの話となるだろう。それでもひと昔前のフイルム一眼レフカメラであれば、自分の指で巻き上げることだから、枚数は自ずと限られてくる。(後期にはご存じのとおり、自動巻きとなるが、、。)
 しかし、今のカメラは巻き上げだけでなく、ピント合わせもシャッター速度の変更さえもカメラが瞬時に自動でやってくれる。今どきの「カメラの速写」とは、撮るカメラの仕様・性能の問題であって、撮る人間の能力・技量の話ではない。

 ここでは、今どきのカメラではなく、ひと昔前のフイルムカメラでもなく、昔のそれも「二眼レフカメラによる速写」についての話である。(もっと昔のカメラで速写を試みた人もあるそうだが、ここでは、もっと昔の人とは張り合わないことにする。)

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 わたしが、ここ旧国鉄の亀山機関区を訪れたのは、1972年(昭和47年)5月のことだった。
 三重県北部に位置する亀山には、当時旧国鉄の亀山機関区が置かれ、関西本線、草津線、信楽線、参宮線と紀勢本線との結節点であった。
 このため、1970年代の亀山機関区には、機関車の方向転換をする転車台、機関庫や給水・給炭塔などが設置されていた。機関車と客車、貨車との付け替えも頻繁で、駅に隣接して設置されていた機関区では、いつも多くの蒸気機関車が煙をあげていた。
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 当時、わたしの所有していた中判カメラは、ヤシカDであった。このカメラは、いわゆる二眼レフカメラで、レンズが上下に二つ付いたもので、ブローニーフイルムで縦横6cmの正方形の画像が8枚撮れた。

 しかし、ヤシカDは、フイルム巻き上げは、スタートマーク合わせの自動巻き止めだが、シャッター・チャージは独立式で巻上げと連動していないので、速写には向いていない。要するにじっくり撮るカメラなのだ。
 具体的には、撮影するときには、①絞り値と②シャッター速度を決めてから、③ピントを合わせ、④シャッターチャージ・レバーを倒してから、⑤ピント画面を見て構図を決めて、⑥シャッターボタンを押して撮影を終える。次の撮影のためには、フイルムを巻き上げなければならないが、このヤシカDは、⑦巻き上げノブにボタンが付いておりこれを押せば巻上げ止めが解除され、フイルムの巻き上げが可能になり、⑧次にカチッと音がして止められるまで巻き上げる。(下位機またはその前のモデルでは、カメラの後の穴を見ながらフイルムの後ろの紙に印刷された次の番号が出るまで巻き上げることになる。)
 
 よって、このカメラで速写するということは、この①から⑧までの一連の操作をいかにスムーズにこなすことができるかということになる。

 さて、今からD51に牽引された貨物列車が、加太越えに向かって発車しようとしている。

 わたしは、ヤシカDのF値をF8に、シャッター速度を1/100に決めて、ピントを無限遠に合わせ、ゆっくりとシャッターチャージ・レバーを倒してから、ピント画面を見て構図を決めて待つ。

 いまからわたしは、二眼レフカメラによるD51貨物列車の速写に挑戦するのだ。
 
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① 黒い煙を吐いて、ドレーンを切って、いよいよ発車した。
 (左に二人の少年が走り始めた。少し煩い画像となるかもしれない。)

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② ようやく貨物列車の編成の全体が見えてきた。加太越えに備えた後補機も見える。

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③ もう目の前を通り過ぎる。このカメラに収まりきれない。シャッタースピードが甘すぎた。

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④ 貨車の最後部の車掌車の後ろから押す、陰の立役者、後補機が通り過ぎる。
 もう何枚撮ったろうか。フイルムを巻くレバーが、軽くなった。フイルム切れか。

 このように、わたしの場合、4枚の写真を撮ることが出来た。
 天候が晴れていたおかげで、絞り値とピントを変えることなく、パン・フオーカスで撮影することができたが、反省点としてシャッタースピードはもう一つ上にすべきだったろう。普通は三脚に載せて、じっくりと1枚か2枚撮るのだが、この場合には手持ち撮影となったため、カメラを振り回しているからだ。

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 フィルム巻き上げは手動なので、うっかりすると二重露出をやってしまう。
 実例:当時、かの有名なミニ・ワーゲンといわれた、スバル360(大中古)の前で澄ましてカメラに収まるわたしだが、亀山からの帰りとて、ホッとして気が緩んだのか、うっかりして二重露出をやってしまった。それでもこの時は、運転免許の取りたてで、若葉マークが眩しい。


〇 関西本線 亀山機関区の機関車たち
 関西本線の名古屋-亀山間や、多気から分岐する参宮線はほぼ平坦な路線だったので、旅客列車は標準装備のC57型蒸機が使用されていた。また、機関区内や亀山駅構内の入れ替えには、C50型蒸機が使用されていた。
 しかし、関西本線の亀山から先には急勾配の加太越えの峠があり、草津線に直通する旅客列車はC58型蒸機やD51型蒸機の単機牽引だったが、重量のある貨物列車にはD51型蒸機が使用され、亀山から後部補機を増結して2両で加太越えに挑んでいた。また、長い加太トンネル対策として、集煙装置や重油併燃装置などの山岳装備もしていた。

〇 ヤシカD(Yahica-D)は、八洲光学工業が「ヤシカ」に社名変更した直後に発売された。機構はローライコードのコピーであり、後期の黒モデルは4枚玉ヤシノン(Yashinon)レンズ付きでシャッター速度はB・1~1/500だった。フイルム巻き上げは、スタートマーク合わせの自動巻き止めだが、シャッターチャージは独立式で巻上げと連動していない。(うっかりすると、二重露出をやってしまう。)
 しかし、スクリーンがフレネルレンズ入りでピント合わせが楽で、シャッターチャージレバーは大型で使いやすかったし、シャッターのセット後に元の位置に戻る。また、フイルムカウンターは自動復元するため、操作性は良好だった。

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〇 今日の一献 往還の かつては身を翻し、今は行きつ戻りつ

―― 機関車の 身を翻す 転車台

 愛知県犬山市の「明治村」では、毎日元気に走り回った蒸気機関車が2台ある。

 それは英国製の12号(1Bタンク機)と米国製の9号(Cタンク機)で、三等客車3両を引いて走る陸蒸気として活躍していた。平成22年12月以降、現在も、残念ながら老朽化を理由に運転を休止している。

 この陸蒸気に乗られたことのある方は、多分ご存知のことだろうが、ここの機関車は行きも帰りも常に客車の走る先頭で、前を向いて客車を牽引しているが、どうしてそんなことが出来るのか。
明治村の陸蒸気の線路は、1本(単線)であるから、多分線路の両方の端の部分で線路が円を描いてぐるっと周って方向を変えるのではないか。と考えてみる。しかしそのためには、大きな敷地が必要だが、たしか両端の終点駅にそんな場所はない。

 このような場合に使われる、蒸気機関車などの身を翻す(方向転換)ための施設を、転車台(ターンテーブル)という。鉄道用の転車台は、蒸気機関車のように片側にしか運転台がない車両や、バック運転では運転がし辛く、性能を発揮するのが限られている車両を載せて、その場で回転させて車両の向きを進行方向に向けるために用いられる設備だ。

 一般的には、蒸気機関車の方向転換に用いられ、蒸気機関車の全盛期には各地の機関区や拠点駅、起・終点駅には必ず設けられていたものだったが、蒸気機関車が廃止され、両方に運転台が設置されており方向転換の必要のない電気機関車やディーゼル機関車などが増加するにつれ、転車台は不要となり、順次撤去されていき、近頃ではほとんど見ることができなくなっている。
 (例えば、当時転車台を持たなかった大垣の樽見線のC11機関車は、帰りはバック(後向き)で貨車を牽引するのが見られた。また、転車台がないところでも運転できるように、C56機関車は、後ろのテンダー車の後尾の両方を大きな角度で切り取り、後方視認をし易いように工夫されている。)


 この転車台の転車作業が、それも人力で行われることを身近に見ることの出来たのが、明治村の陸蒸気であった。

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 12号(1Bタンク機)が、転車台にゆっくりと入っていく。転車台は、取っ手を人間が手で押して回転させるものと、電動機や蒸気圧などによる動力で回転させるものがある。明治村の陸蒸気の場合は、小さいので2人で作業できた。

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 半分の90度まで回転した。もう少しだ。

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 ようやく一周し、方向転換が出来た。やれやれといったところ。

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 もう一方の線路の終点にも、転車台があり、同じ作業で方向転換する。

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〇 12号(1Bタンク機)
 1874年(明治7年)英国シャープ・スチュアート社製。日本へ輸出され、新橋ー横浜間で運用された(23号)後に武富線に転属・運用された。その後、1911年(明治44年)尾西鉄道に移籍・運用され(12号に改番、)、1957年(昭和32年)には廃車され、犬山遊園や明治村で静態保存されていたが、1973年(昭和48年)に修復を受けて明治村の動態機となって現在に至る。
 日本の鉄道の幕開けは、明治5(1872)年9月12日(新暦の10月14日)だったから、新橋ー横浜間で運用されたこの機関車は、その2年後から運用されたことになる。


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〇 9号(Cタンク機)
 1912年(明治45年)米国ボールドウィン社製。日本へ輸出され、富士身延鉄道で運用されていたが、その後、鶴見製鉄(現在の日本鋼管鶴見製鉄所)に移籍し運用された。1973年(昭和48年)に明治村に譲渡され、現在に至る。
 

 わたしがこの機関車たちを撮影したのは、2008年の夏だったが、明治村に陸蒸気が走らないのはやはり寂しい。復活の時が早いことを楽しみにしている。

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〇 今日の一献 『キューポラのある街』は、「キュポ・ラ」もある街に変わった。

 ―― 『キューポラのある街』川口市

 わたしが中学2年のときの1962年(昭和37年)、映画『キューポラのある街』が封切りされ、たしか家族と街の映画館へこの白黒映画を観にいった記憶がある。(当時は、カラーフイルムの映画はまだ珍しく、わたしたちは「白黒映画」と「総天然色映画」と区別して呼んでいた。)
 主演は、吉永小百合で、浜田光男との共演だった。(この映画は、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。)

 この映画で初めてわたしは、キューポラというのが鋳物をつくるために鉄を溶かす溶銑炉のことであり、この映画の舞台となった川口市が鋳物工場が多く、鋳物の街として有名である事を知った。

 しかしその映画を観て以来、関東方面に足を向けて京浜東北線に乗る事はあっても、ついぞ川口駅で降りる機会もなく川口の街を知らないままに過ぎ、もうすぐ50年となろうとしていた。 

 今回、図らずも、所用でこの『キューポラのある街』川口市を訪れる機会ができた。

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 映画『キューポラのある街』の舞台となった川口市は、埼玉県南東部の荒川北岸にある人口約56万人の自治体で、特例市としては日本で最も多い人口を擁する。(駅前のペデストリアン・デッキの上の人魚像の後ろのビル壁面のモニターで、そのことを誇らしげに発信していた。なお、2011年10月11日 に、リンゴの芯のように隣接していた鳩ヶ谷市を、川口市へ吸収合併した。)

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 かつては、江戸時代から始まった鋳物産業が盛んで、1980年代ごろまでキューポラで操業する中小鋳物工場が多く最盛期には数千社に及んだという。(実際に屋外から見えるのはキューポラの排煙筒であるが、屋根から突き出たその姿は鋳物工場のシンボル的な存在だった。)
 しかし、鋳物工場であった場所は次々とマンションへと変貌していき、21世紀の現在において、川口市内の鋳物工場はごくわずかしか残存していないという。

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 2006年(平成18年)4月、JR東日本京浜東北線川口駅の駅前右側にJR川口駅東口再開発ビルが完成し、このキューポラ(Cupola furnace)の名に因んで、愛称を「キュポ・ラ」と名づけられた。
 「キュポ・ラ」には、川口市の川口駅前行政センター(4階)、川口市立中央図書館(5階と6階)、メディアセブン(7階)などの公共施設のほかに、関東地域で展開する食品流通業のマルエツ(1階)、文教堂書店(3階)、無印良品(3階)など民間の商業施設が入居しており、川口駅東口にある川口駅東口公共広場は通称「キュポ・ラ広場」と呼ばれている。

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 夜の「キュポ・ラ」から眺める、「キュポ・ラ広場」のパノラマ
 
 川口市立中央図書館(5階と6階)は、もともと青木の川口市役所付近に設置されていたそれまでの老朽化した中央図書館の代替として、「キュポ・ラ」の竣工に伴い2006年7月1日に移転開館したもので、平日は10時 - 21時、土曜日・日曜日・休日は9時 - 18時まで開館し、市民のみならず、登録し利用したい人々全てに開放されている。

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 商業施設が集積し交通拠点の駅前という立地の上に、行政センターや民間商業施設との集合体ビルという抜群の利便性と、50万冊の閲覧図書・資料を所蔵し、ビジネス書コーナーを備えた「ビジネス図書館」機能、点字書籍、外国人向けの5言語の図書・マガジン閲覧書架、未成年向け選抜図書閲覧コーナーや授乳室を備えた幼児用図書コーナーを備えており、開館以来、一日の貸出利用者は4,000人以上に上るという。(21年度の入館者数280万人)

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 図書館管理が直営にもかかわらず、利用者の便を考えて、平日は午後9時まで開館しているので、駅前が寂しくない。(閲覧図書検索機の半数を止める等の節電の工夫も行われている。)

 この図書館は、延べ床面積6,940㎡、480席の閲覧席が設けられている。(7階のメディアセブンなどと合わせればさらに大規模となる。)
 このような規模で恵まれた立地環境の場合、普通の自治体であれば、大衆動員・収容ができる劇場あるいは展示・会議施設を設置するだろうとわたしは思う。
 しかし、川口市では、あえて老朽化した図書館を建て替えるのではなく、新しい長時間滞在型の図書館として、通勤・通学・居住市民などに広く開放したものであり、川口市の誇るべき施設だ。

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〇 ところで、川口市の帰り、わたしは西川口の駅からJR京浜東北線の快速列車に乗った。川口駅を出た列車が「キュポ・ラ」を過ぎたすぐ後に、ちょうど「キュポ・ラ」の南裏に当たる沿線に、キューポラの煙突を見た気がした。しかし、わたしが確認する間もないまま、乗った列車はスピードを上げて荒川を渡って東京へと向かった。

 帰ってから調べてみたら、やはりキューポラ(5トン1基)を備える工場であった。

 川口市は今も、『キューポラのある街』であった。

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〇 今日の一献 都会のリフレクトミラー  その2

―― 川口市で見つけた街中の鏡

 昨夜は、少し過ごしすぎたような気がする。頭の中が少し重い。
 久しぶりに、仕事で苦労しあった各地の人たちと会って元気な顔を見て、中華で飯を食い、そのまま飲みに行った。そこでまた、久しぶりに彼の地の若い人といっしょに、『何日君再来』を歌った。若い小姐は、画面に出る繁体字を良く知らないので、「難しい」をしきりに連発していた。そうだろう、残念ながら世代が違うのだ。
 そのうち酒が回って、何がなんだか判らなくなってきた時分にお開きになって、皆でホテルへ帰って、、、。
 今起きたところだ。

 朝の日を浴びようと窓を開けたら、曇り空だった。
 ふと、向かいのビルを見ると、こちらのホテルの建物がそのまま、向かいのビルのガラス壁面に映っていた。

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 前に、わたしは、2011-09-26「街中の風景」の「都会のリフレクトミラー」で、「ビルのガラス壁面が鏡になって景色を映し出す、巨大なリフレクトミラーとなるものがある。少し自分で意識しながら街中を歩いてみると、見る角度を工夫するだけで、好きな建物が映っているのを見ることができる場所、いわば自分のお気に入りの、「都会のリフレクトミラー」を発見できる楽しみがある。」と書いたが、これは特に好んで見たい景色でもないが、突然いきなり「都会のリフレクトミラー」を見せられたことになる。

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 しからば、この際出発までの限られた時間ではあるが、徹底的に楽しんでみようとして、カメラを取り出した。少しズーム・アップして倍率を上げて見ると、こちら側のホテルのビルと他のビルとの間の谷間があり、きっと晴れていればホテルの後ろで昇る朝日が映って見えたはずだ。もし、暴漢がこのホテルの非常階段を使って忍び込もうとしたら、わたしはその目撃者となるだろう。

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 さらにわたしはカメラの最高値までズーム・アップする。そしたら、間抜けた姿でカメラを構える自分の姿が見えて、わたしは時間がないことを言い訳にしてもうやめた。

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 このように手前に焦点を合わせると、景色がぼけるし窓ガラスの耐火金網が視界をさえぎってうるさい。しかし、考えてみると流石、現代のPC設計のズーム・レンズは優秀で、昔のレンズのように二線ボケとかゴーストとかが出ていない。
 もっとも、それで玉毎のレンズの味ともいうレンズ表現のいわゆる癖がなくなったことで面白みは失われてしまったが。、、、
 
 
 

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