〇 長野県伊那谷の松川町へ「さくらんぼ狩り」に行ってきた

―― バスで行く「さくらんぼ」と「元善光寺」と「水引」と

 長野県下伊那郡松川町は、近世の伊那街道で発展した大島宿や片桐宿のあった地区の村が合併して出来た町で、さくらんぼをはじめ、りんご、なし、すももなどの果物の栽培が盛んな地域で、観光農園としても広く観光客を受け入れている。

 今回はパートナーと娘たちが語らって決めた、孫たち同伴の「さくらんぼ狩り」のバス旅行に同行することになったが、果物に目の無いのはやはり女性で、男子はわたしを含め2名だけだった。

00-P1410932.jpg

 山にかかる雲行き速いが、幸いにもバスは梅雨時の雨雲を避けるように走る。
 
00-P1420114.jpg

 さくらんぼの果樹は、ハウス栽培されている。

00-P1420072.jpg

 20世紀最高の品種と絶賛されるルビー色の「佐藤錦」(糖度20)。
 大正元年(1912年)に山形県の佐藤栄助氏がナポレオンに黄玉を交配してできたとされる品種で、昭和50年代以降圧倒的な支持と人気で植栽が増え、さくらんぼの最主力品種になっている。

00-P1420075.jpg

00-P1420035.jpg

00-P1420051.jpg

 佐藤錦に天香錦を交配し、佐藤錦より大粒の晩生種の「紅秀峰」
 糖度が高く甘い、また酸味とのバランスが抜群に良く高価

00-P1420086.jpg

 「さくらんぼ狩り」の秘訣は、なるべく奥の樹で太陽が良くあたる場所で、色の鮮やかな熟した実がお勧めとのこと。なお「さくらんぼ狩り」は、果物狩りの中でも一番元が取れる「狩り」だとか。

00-P1420107.jpg

 参加者の皆さん、団体扱い30分食べ放題の参加料2,000円の元が取れて満足したようだったが、わたしは15分も経たずにギブアップした。

00-P1420116.jpg

 さくらんぼ農場の傍らにあった、ヘメロカリスの花
 日本原産のキスゲなどから欧米で改良された学名:Hemerocallis(デイリリー)。夏緑性多年草で、見慣れた黄色のキスゲより形がよく、綺麗に開いた花は一日花。


● 観光バスのコースには、「元善光寺」参詣が入っていた。
 推古天皇10年(602年)ごろ、仏教を信奉した蘇我氏が宗教争議に破れたためか、難波の堀に打ち捨てられていた阿弥陀如来像をこの地の住人、本多善光が拾い上げて故郷に奉ったことに因む定額山元善光寺(坐光寺)は、長野県飯田市座光寺にある。

00-P1410999.jpg

 その後、皇極天皇元年(642年)に勅命により本尊が長野市へ遷座され、その寺が善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、それまでの「坐光寺」の名称が改められ、元善光寺と呼ばれるようになったという。現在は、寺のある地名にその名をとどめる。本尊は善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)。天台宗。
現在の本堂は宝永四年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されている。

00-P1420002.jpg

00-P1420001.jpg

 矢場の軒裏に多くの千社札や金的成就の札が上がる。

00-P1410989.jpg

 客殿前柱の貫頭両端の木鼻に施された唐獅子の彫刻

00-P1410985.jpg

 境内のガクアジサイ

00-IMG_20170717_0001.jpg

00-P1420003.jpg

● 伝統工芸の「飯田水引」のアート工芸品
 江戸時代に飯田和紙に付加価値を付けて盛んになった伝統工芸の飯田水引は、明治の断髪令で元結が廃れて一度は衰退したものの、昭和に入って金封、結納品、水引細工などの生産が増え、現在では全国の約70%を生産しているという。

00-P1420005.jpg

 梅雨前線の活動で、所によっては大雨になったところがあったようだが、お蔭様でわたしたちは雨の影響を受けずに済むことができた。

 若いころには何の苦にもならなかった車の運転も、大切な娘や孫を乗せての遠出に自信がなくなってきたこの頃では、ガイド付きの観光バスの小旅行は、わたしにとってはすこぶる快適なものとなっている。




〇 今日の一献 三重県伊勢市の「お伊勢さん菓子博2017」へ行ってきた

―― 雨降り頻る中、遥々行って、見たが、買って食べられなかった 工芸菓子の展覧会

 明治44年(1911年)の東京市から始まって、戦時中の中断を挟みながら、ほぼ4年ごとに全国巡回で開催されてきた全国菓子大博覧会が、今年は4月21日から三重県伊勢市で開催された。

 招待券をいただいたものの、些事にかまけて時を過ぎ、いよいよ最終日が明日に近づいた土曜日、強い低気圧の接近で雨降り頻るのもめげず、遥々パートナーと三重県伊勢市へ出かけたのだった。 
 
00-P1110141.jpg

 展覧会の会場となったのは、伊勢市朝熊町にある敷地面積28,645㎡のスポーツイベント、コンサート、見本市などの多目的施設、三重県営のサンアリーナとその周辺。

00-パノラマ 菓子博-00

 11,000人収容のメインアリーナには「お菓子のテーマ館」と「全国お菓子出会館が設置されている。

00-パノラマ 菓子博-12

 メインオブジェは、巨大な工芸菓子で表現された、歌川広重の浮世絵「伊勢参宮・宮川の渡し」
 三重県内の100人の職人の分業による幅10m奥行き5.5mの和・洋菓子で制作された巨大な風景が展示されている。

00-P1100982.jpg

 巨大工芸菓子の「伊勢参宮・宮川の渡し」の一部

 この展覧会は、もともと街の和菓子屋さんたちが加入する組合の全国組織が開催してきた経緯から、物産展ではなく、職人の技を見せる工芸菓子の展示が中心で、菓子類の大量製造メーカーやパン、クッキー、ケーキ店などは参加していない。

 展示されている精巧な作品群は、全て食べられる菓子の素材で制作されたものばかり。
 全てが食べられるはずだけれど食べてもいいよと出されても、菓子職人の精魂込めた技と努力を思えば、食べるのが惜しまれて、どこから食べていいのかも分からなくて、きっと手を出せないだろうなと思う。

00-P1110110.jpg

00-P1110116.jpg

00-P1110119.jpg

 和菓子職人の渾身の技が光る花鳥風月の造形は、見る者を唸らせる。

00-P1110071.jpg

00-P1110087.jpg

 愛知県安城市の両口屋菓匠の出品「御所車」

00-P1110021.jpg

00-P1110123.jpg

00-DSC08571.jpg

 飴やチョコレートなどの材質を生かして、洋菓子職人も負けてはいない。

00-DSC08579.jpg

00-DSC08567.jpg

00-P1110127.jpg

00-P1110018.jpg

 日本の春夏秋冬の美しい季節の移ろいを、その造形に生かした「生菓子は、和菓子の真髄だ。」と思わず呟いたら、「本当にそう。」と背後でご婦人の声が聞こえた。

00-P1110010.jpg

 古くから伝わる、落雁などの干菓子の成型用の型

00-P1110050.jpg

00-P1110025.jpg

 各県の郷土菓子・土産品の展示

000-P1100971.jpg

000-P1100969.jpg

 三重県下の高校の合作による力作が目を引いた。

00-パノラマ 菓子博-01

 あいにくの雨。
 それでも全国の菓子のお土産を買うのに行列の待ち時間は70分とのアナウンスで、「ネットの取り寄せでどこでも買えるさ」と、諦めたから土産はなし。
 
00-パノラマ 菓子博-16

00-IMG_20170516_0001.jpg

 かくして、24日間にわたって開催され、昨日幕を閉じた「お伊勢さん菓子博2017」の入場者は、合計584,100人だったという。

 なお、わたしの記憶では、むかし学校から名古屋開催の展覧会を見に行った思い出があるが、それは1961年に愛知県庁前の広場で開催された15回展覧会だったようだ。

00-P1110140.jpg

 ついでに、会場内で見つけた、中央に旧伊勢市市章入り亀甲模様の汚水管マンホールの蓋






〇 今日の一献 京都東山の『将軍塚』と青龍殿の舞台へ行ってきた

―― いにしえの都鎮護の故事を残す 京都のまちを観望する新スポット

〇 天台宗青蓮院の飛地境内にある『青龍殿』
 
 古の都京都の古刹や街を歩き回るのも楽しいが、それまで見て廻った街を高い視線から眺められるところといえば、いままでは展望の開けた東山の麓にある清水寺の舞台や高台寺の境内、あるいは駅前の京都タワーの展望台からだったと思う。

 今回訪れた天台宗青蓮院の飛び地として標高200mを超える東山山頂にある境内の『青龍殿』の舞台は、京都観望の新しいスポットとして、これから脚光を浴びることになるに違いない。

00-DSC08153.jpg

00-P1090929.jpg

 天台宗青蓮院の『青龍殿』の枝垂れ桜
 京都の街中の桜の季節は少し過ぎたとはいえ、標高のある東山山頂の境内の桜はまだ十分に見応えがあった。

00-P1090935.jpg

00-P1090948.jpg

 『青龍殿』は、京都市東山区の粟田口、知恩院の北にある天台宗比叡山延暦寺の門跡として1150年に開山した青蓮院(しょうれん)の飛び地境内として、東に離れたちょうど八坂神社の裏手に当たる、京都大学の花山天文台などがある東山の山頂の3,000坪の広い敷地内に将軍塚大日堂とともにある。

00-DSC08174.jpg
 
 もともと北野天満宮の前にあった大正時代に建設された木造の武道館「平安道場」を青蓮院の大護摩堂としてここへ移築し、併せてその付属施設として山腹にせり出した大舞台(1,046㎡)が建設されたもので、2014年の10月から公開されている新しい施設だ。

00-P1090962.jpg

 『青龍殿』の裏手から山腹にせり出した標高216m総ヒノキ造りの大舞台は、清水寺の舞台の4.6倍の1,046㎡にも及び、右手に比叡山や大文字山、目の前に銀閣寺、北に吉田山と京都大学、鴨川に沿って西に京都御所、そして左手にかけて京都の市街地中心部などと、180度のパノラマを観望できる。
 また、舞台中央には、ガラスの茶室『光庵』が設けられている。

00-青龍殿-00

 青蓮院の飛び地境内の全容。
 『青龍殿』と大舞台(左)、大日堂(右上)、将軍塚(中央)、東部展望台(右手前)

00-パノラマ 20170416 京都-01

00-DSC08187.jpg

 北方面の眺め

00-P1090956_edited-1.jpg

 北方面、左の加茂川と右の高野川の合流点の森が、下鴨神社のある糺の森

00-P1090954.jpg

 北方面、左手前が金戒光明寺、右は真正極楽寺。
 左向こうの山は、吉田神社のある吉田山

00-DSC08164.jpg

 西方、京都御苑(京都御所)

00-パノラマ 20170416 京都-001

 東部の展望台
 もともと京都五山の送り火(大文字焼き)を観賞するために設置されたものという。


〇 いにしえの都鎮護の故事を残す『将軍塚』と枯山水式庭園

 境内には『将軍塚』と呼ばれる、直径20m、高さ2mの円墳型の塚が残されている。

00-P1090974.jpg

 この場所は、奈良から長岡に都を遷したものの、うち続いた災厄に嫌気がさした桓武天皇が、和気清麻呂とともにこの地に登り、その進言に従って京都盆地に平安遷都することを決めたといわれる。

 『将軍塚』は、794年(延暦十三年)の平安京遷都に当たって、天皇は新しい都の平安・鎮護を願って大刀を帯びて弓を持った甲冑姿の2.5mもの大きな土製の将軍の像を造らせ、ここに埋めるように命じたとの故事が残る。

00-P1090970.jpg

 源平盛衰記や太平記には、国家の大事があると『将軍塚』が鳴動したという伝説が残る。

00-DSC08166.jpg

 境内に広がる枯山水式庭園庭園には、200本の桜や220本の紅葉を始め源平垂れ桃、藤、シャクナゲ、サツキ等が植えられ、春の桜、秋の紅葉の名所となっている。

00-DSC08193.jpg

00-DSC08194.jpg

00-P1090968.jpg

00-DSC08196.jpg

00-P1090976.jpg

00-DSC08169.jpg

00-DSC08150.jpg

 東山の山越えの東方には、眼下に山科の里が眺められる。


 ● 天台宗青蓮院の将軍塚『青龍殿・大日堂』
    京都市山科区厨子奥花鳥町28
   京都駅から タクシー 20分
   蹴上から タクシー 10分

   京阪バス(70番) 通年:土・日・祭日運行
   11月は毎日運行、4月・5月の連休運行

00-DSC08198.jpg
























〇 今日の一献 京都の名園「無鄰菴」庭園へ行ってきた


―― 明治の元老 山縣有朋が愛した庭園・別邸

 幕末・明治という激動の時代に活躍し日本の歴史に名を残す、明治の元老 山縣有朋が、築庭・造園に高い見識と手腕をもち築庭構想の巧みな名手であったことを初めて知った。
 
 以前、仕事で上京した折に、たまたま現在は結婚式場としても使われている東京目白台の「椿山荘」を訪れたことがあって、そこが有朋の住んだ元邸宅だったとは聞いていたが、その庭園の設計まで自ら行ったとは知らないでいた。

 今回訪れた、京都の有朋の別邸「無鄰菴」庭園は、東京の邸宅「椿山荘」や小田原にある晩年を過ごした「古稀庵」とともに『山縣三名園』として、有朋が残した近代日本庭園の傑作だといわれている。

00-P1090870.jpg

 「無鄰菴」庭園への出入口
 「無鄰菴」のある敷地は、明治初期の廃仏毀釈令に伴う南禅寺の寺領の徴収後に別荘地として払い下げられたもので、南禅寺のすぐ西、琵琶湖疏水の南畔にある。
 有朋は京都の別邸としてこの地を入手すると、数年の準備期間を置いて明治27年(1894年)に造営に着手し、明治29年には完成させている。

00-garden-map-1024x445.jpg

 敷地は、東西に細長い三角形で、広さは約3,100㎡あり、北西隅に数寄屋造りの母屋、南西に藪内流燕庵写しの茶室、南西隅に煉瓦造り二階建て洋館が配置されており、中央部分から東全面に向けて日本庭園が広がっている。

00-P1090830.jpg

 常人なら、入手を避けたい変形の土地の形状を逆手にとって、敷地の南・北両面に樅・檜・杉などの常緑樹を多く配置し、近くに続く東山の山並みを借景とするために東奥を開けて遠近感を強調している。
東奥に設けた琵琶湖疏水を引き入れた三段に落ちる滝から流れ出た水は、浅い池を経て勢いを殺いだせせらぎとして曲線を描きながら手前に向かって流れる。
 また、造園当初は芝生だったといわれる開放的な丘は、今では自然に広がった50種の苔で覆われている。

00-パノラマ 20170416 京都-05

 こうしたこの庭の心地よい景色には、有朋の造園構想のセンスとそれを実現した造園師の手腕が遺憾なく発揮されているのだと思う。

 なお、この庭園は1941年に京都市に寄贈され、1951年には国の名勝に指定された。

00-パノラマ 20170416 京都-07

 庭園から北西の数寄屋造りの二階建母屋方面を見る。

00-P1090821.jpg

 母屋のガラス窓を通して庭園を見る。

00-P1090825.jpg

 揺らぎのある景色
 むかしの透明ガラスは歪みやゆらぎがあり、母屋の建設当時のガラス窓を通して見ると風景がゆらゆらして見えるのも、また趣がある。

00-P1090848.jpg

 馬酔木の花が咲く庭。
 園内には樅、檜、杉といった常緑樹が多く、花の咲く梅、桜などの樹種は見当たらない。

00-P1090856.jpg

 滝から流れ出た水の勢いは、一旦、木々に囲まれた浅い池塘で淀む。

00-P1090853.jpg

 東の最奥では、琵琶湖疏水から引き入れた水を三段に設けた滝で落とし、沢飛石を配した瀬落ちとともに、水音が心地よく響く。

00-P1090857.jpg

 自然に広がった50種の苔が露地を覆う。

00-P1090863.jpg

 敷地の南西にある古儀茶道・藪内流の茶室、「燕庵」写しの茶室。 

00-P1090861.jpg

00-P1090862.jpg

 茶室の付属施設の灯篭と手洗い石

00-P1090865.jpg

 東奥から流れ出て庭園を巡った疎水の水は、途中茶室脇の南からの流れと合流し、最後に西に辿りついてから揺らぎながら敷地外に流れ出る。

 明治の元老山縣有朋が愛した庭園・別邸のここ「無鄰菴」は、かつては日露戦争の開戦方針など日本の歴史を作った秘密会議の場ともなったといわれる。

00-P1090876.jpg

 名園「無鄰菴」庭園の正面入口は、西の小路に面している。

00-P1090881.jpg

 両側に道路が巡る三角形の敷地の、東の頂点となる場所。
 右は琵琶湖疏水のある仁王門通り。
 
 
 ところで、有朋が「無鄰菴」と名付けた邸宅は、有朋の郷里である長州・下関の草庵が初めで、次いで京都の木屋町二条に購入した別邸に名付け、ここ南禅寺参道前の別邸が三番目の「無鄰菴」となったといわれる。

 なお、「無鄰菴」の名の由来は、最初の草庵が周りに隣家が無かった事からだといわれており、この三番目の「無鄰菴」も周りは三方が道路で囲まれ隣家がないことで、なるほどと納得できる。

00-murinnann.jpg

 名勝 「無鄰菴」
 京都市左京区南禅寺草川町31番地
 指定管理者 植彌加藤造園株式会社
 京都市営バス 南禅寺・疏水記念館・動物園東門前
 京都市営地下鉄東西線:蹴上駅から徒歩約7分

00-パノラマ 20170416 京都-06

 琵琶湖疏水の「蹴上インクライン」と船溜り。中央に「琵琶湖疎水記念館」がある。

00-P1090793.jpg

 「蹴上インクライン」の桜のトンネル

00-P1090804.jpg

 南禅寺入口の橋上から見た「蹴上インクライン」

00-DSC08124.jpg

 南禅寺の山門

〇 今日の一献 清流長良川に沿って ~観光列車「ながら」が走る その1

―― 長良川鉄道(越美南線)で郡上八幡から「美濃和紙とうだつの上がる町並み」の美濃市まで

 岐阜県郡上市にある大日ヶ岳から流れ出た長良川は、岐阜県を南下し三重県を経て伊勢湾に注ぐ延長166kmに及ぶ木曽三川のひとつで、その水の清らかさは柿田川や四万十川とともに日本三大清流に数えられている。
 
 この清流長良川に沿って、岐阜県北濃駅から美濃太田駅間72.1㎞を走るのが第三セクターの長良川鉄道(越美南線)で、ちょうど一年前の2016年(平成26年)4月から岐阜県初の観光専用列車として観光列車「ながら」が運行を始めた。

 わたしたちが訪れたこの日は、あいにくの雨模様だった。

00-P1090271.jpg

 郡上八幡駅(岐阜県郡上市八幡町稲成)
 毎夏「郡上おどり」が開催され、年間120万人の観光客が訪れる城下町にある郡上八幡駅は昭和4年に建設された木造駅舎で、この時は駅の外修工事が行われていた。
 ホームは単式と島式の2面3線の地上駅で、二つのホームは跨線橋で結ばれている。トイレは改札内外にある。

〇 観光列車「ながら2号」の連結作業

00-P1090247.jpg

  13:12に単機で北濃を発って13:52に郡上八幡に着き駅舎側の本線単式ホームに待機する、観光列車「ながら」『森』号(301号車)。

00-P1090244.jpg

 島式ホームに待機する観光列車「ながら」鮎号(302号車)

 わたしたちが乗る観光列車「ながら2号」は2両編成で、この『森』号と『鮎』号がここで連結される。
 観光列車「ながら」の『森』号と『鮎』号は長良川鉄道が所有する、1998年から富士重工業が製造した軌間1.067m、車長16mのナガラ300形軽快気動車を改装したものだ。

00-DSC08059.jpg

 運転手さんたちが駅舎から出てきた。いよいよ連結作業が始まる。

00-DSC08037.jpg

 まず『森』号の北濃側の貫通扉を開き、『鮎』号の接近を待つ。

00-DSC08044.jpg

 『鮎』号は駅構内の北濃方面にあるポイント切り替え場所へ移動し、スイッチバックして本線に入り、『森』号と連結する。
 『森』号の貫通口から跨線橋と接近する『鮎』号が見える。

00-▲組写真 長良川鉄道-99

 『鮎』(302号車)がゆっくりと近づき、連結器を合わせて連結した後、双方のステップを下ろしてから貫通扉の幌をボルトで止めて連結作業が完了する。

00-パノラマ 20170408-00

 観光列車「ながら2号」の編成が完了し、乗客が乗車する。
 観光列車「ながら」1号車の『森』号は観光案内付きのビュープラン観光専用車(定員37人)で、観光列車「ながら」2号車となる『鮎』号はランチプランなど食堂専用観光車(定員25人)となっている。

 観光列車「ながら」は期間限定の土曜・休日運転列車で、ビュープラン観光専用車『森』号の乗車には事前予約が必要で区間運賃の他に乗車整理券500円(おとな・こども同額)が必要となる。またランチプランなど食堂専用観光車『鮎』号への乗車は、予約の他に別途料金となる。

 今回、わたしたちは観光案内付きのビュープランを選択したので、『森』号に乗車することになる。

 観光列車「ながら」の改装にあたっては、JR九州の豪華寝台列車「ななつ星」などのデザイン制作で有名な工業デザイナーの水戸岡鋭治氏が担当したもので、車体は上品なロイヤルレッドを基調とし、内装には岐阜県産材ヒノキが多用されたお洒落な車両になっている。

00-P1090296.jpg


 駅構内の跨線橋から眺めた、下り線ホームに入ってきた14:12着の定期列車303(右)。

00-P1090305.jpg

00-P1090267.jpg

 観光列車「ながら」1号車の『森』号の側面ロゴステッカー
 
00-P1090291.jpg

 ロイヤルレッドの車体の外装は、お洒落で上品だ。

00-P1090277.jpg

 ワンマン運転の『森』号の運転席

00-DSC08042.jpg

 運行は、基本的には全便ワンマン運転が行われており、運転席脇には運賃支払いボックスが設置されている。

00-DSC08053.jpg

 車内は岐阜県産のヒノキが多用された内装で、明るい。
 車両後部には、観光案内と土産品販売用の暖簾の下がるカウンターが設けられている。

00-P1090286.jpg

 座席は木製折り畳みテーブル付きのボックスシートとロングシートの混用となっている。

00-DSC08051.jpg

 貫通扉の窓には「長良」のロゴステッカーが貼られている。

00-P1090275.jpg

 観光列車「ながら」2号車の『鮎』号の側面ロゴステッカー

00-P1090273.jpg

00-P1090276.jpg

00-P1090307_201704160006333f3.jpg

 『鮎』号は食堂専用観光列車となっており、車内は仕切りカーテンが付いたコンパートメントボックスシートが配置されている。

00-P1090298.jpg

00-P1090309.jpg

 長良川鉄道の観光列車「ながら」の案内パンフレット

00-IMG20170411.jpg

 長良川鉄道(越美南線)の路線図
 大昔、中学の地理で白地図に越美線を描くときに気がついたことだが、美濃太田を起点として岐阜県下を北へ続く越美線は、なぜか北濃でいったん途絶え、24km先の福井県の九頭竜湖駅から改めて発して南福井まで続いていることを不思議に思ったことがある。
 
 この路線は当初国鉄の越美線として、美濃太田から南福井まで連絡する路線として計画されたが、岐阜と福井の県境にある標高差420mの油坂峠があまりにも急峻すぎて、鉄道を通すにはループトンネルやスイッチバックなどの大工事が必要だったことからついに全線開通が断念され、北路線を越美北線、南路線を越美南線として現在も分断されたままに残ったものだ。

 昭和の国鉄分営化の結果、福井県側の越美北線はJR西日本が継承し、岐阜県側の越美南線は1986年(昭和61年)に開業した第三セクターの㈱長良川鉄道が営業運転している。







最新記事
カテゴリ
プロフィール

2011deko

Author:2011deko
でこちんの
  『いつか ありしこと。』
   のブログへようこそ!
(掲載写真は、クリックする
と、拡大写真になります。)

性 別:男性
住 居:愛知県
趣 味:ブログのカテゴリー

天気予報

-天気予報コム- -FC2-
月別アーカイブ
来場者数
検索フォーム
リンク