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 信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その2

 ―― 信長が知略を注いだ本格的な城下町を備えた城 つづき

● 山麓を取巻く武家屋敷の帯曲輪

 小牧山の麓の東から北にかけては、信長の重臣の武家屋敷があったとされる『帯曲輪』の遺構が残る。
 帯曲輪の発掘調査では、山の北麓から東麓にかけて長さ45m程度の堀と土塁で区画された10区画以上の武家屋敷が連続して並んでいたとされ、井戸跡も復元されている。

 また、この武家屋敷群の南東端には、ひと際大きな75m四方の土塁跡があり、これは城主信長の居館跡ではないかと推測されている。

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 帯曲輪地区東部の遺構推定復元図

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 南方向へ見た帯曲輪

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 北方向へ見た帯曲輪

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 信長の館跡ではないかとされる区画


● 楽市・楽座の城下町

 これまで見てきたように、清洲の城から居を移した小牧山城は、信長の知略を込めた本格的な城であったが、同時に山麓の南に広がる旧市街地の発掘調査から、信長の城下町は、楽市・楽座の機能まで備える計画的に整備した画期的な町だったとみられている。

小牧山の公園の入口に

 小牧市史跡公園内に設置されている模型

小牧山城城下町1

 城下町の現況地図との比較図

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 小牧城下町(上御園遺跡)案内板
 小牧市堀の内5丁目の堀の内公園内


● 新たな発見が続く発掘調査

 旧尾張徳川家の徳川義親氏から「市民の役に立ててほしい。」との付言とともに小牧山の寄贈を受けた小牧市では、市民の健康と憩いの公園などとして整備してきたが、近年この史跡の地にあった小牧市役所や市立の中学校を移転させ、2008年から本格的な発掘調査を開始し、現在も調査が続けられている。

 今回の第11次発掘調査(2018年6月から)によって、本丸南斜面で新たに石垣と岩盤が発見された。
またそれに接するように、向きを揃えた2棟の礎石建物の跡も発見され、そのうち1棟の壁に沿うように玉石敷と排水溝が検出され、天目茶碗や青磁の茶碗も発見されたことで、小牧山城山頂付近には当時建物群が存在していたことが判明した。

 この発見で、場合によっては、これは信長の居館の一部とも推測され、後の岐阜城や安土城では信長は本丸に居館を設けて住んだことから、それよりも前の小牧山城山で、最初に本丸に居館を設けていたのではないかとされ、近世城郭のルーツとなる大発見となっている。

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 第11次発掘調査報告書から
 (小牧市教育委員会) 

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 第11次発掘調査地区

小牧山城本丸復元図640

 小牧山城本丸復元想像図
 現在、本丸地区には模擬天守が建てられており発掘調査もされてはいないので、どのような施設があったのかはまだ判明していない。 しかし、今回の発見により信長の居館があったのではないかとの推測ができるようになった。

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 小牧市役所本庁舎
 小牧市民でもある友人の案内で、2017年に市の教育委員会に新設された珍しい名称の、「小牧山課」(史跡係)を訪れて多くの資料をいただいた。

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 小牧市の汚水管のマンホールの蓋
 中央に「KOMAKI」の文字。周りに小牧山城(歴史博物館)、名古屋空港の飛行機、特産の桃、魚を描き、 その周りには市の花・ツツジをデザインしている。



(了)



 信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その1

  ―― 信長が知略を注いだ本格的な城下町を備えた城


 小牧山の麓に住む友人を訪ねたついでに、久しぶりに小牧山に登ってきた。

 今日は熱中症が心配される酷暑の日だったから、フィールドワークは止そうと思って出かけたものの、健康のために犬を連れて毎朝登っているという友人の言葉に、それに負けじと歳に似合わぬ無理を押しての汗だくの踏査となった。

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 篤志家によって建てられた小牧山城模擬天守閣
 現在小牧市歴史館となっている。

 むかし登ったことはあるけれど、この数十年来、いつもは高速道路を走る観光バスの行き帰りの窓から見える小牧山の模擬天守閣を眺めるだけで、あまりにも近い場所として興の向かないまま、この間ついぞここを訪れることはなかった。


● 発掘調査で定説が覆った城

 これまでの小牧山城は、勢力拡大を目指す信長の、美濃攻略のための臨時的な戦略拠点の山城だったと考えられてきた。

 しかし、近年の小牧市役所の移転に伴う城の遺構の本格的な発掘調査などによって、歴史的な再発見が相次いでおり、これまでの定説である単なる臨時的な戦略拠点だけでなく、当時は最先端となる立派な石垣や堀・曲輪を巡らせた本格的な城郭と、周到な計画に基づく楽市・楽座をも備えたわが国最初の城下町が整備されていたという報せに、俄然わたしの興味を引くようになっていた。

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 小牧市役所から見た小牧山の全容
 小牧山は標高86mで、東西600m、南北400mに広がり、総面積は、21haだ。

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 江戸時代の「尾張名所図会」後編の巻3に描かれた小牧山
 信長が美濃稲葉山城を攻略すると廃城となった。

 清洲城から出陣した桶狭間の戦いで、駿府の今川義元を討って一躍戦国の寵児となった信長は、1563年(永禄6年)小牧山城を築城して移転し、城下町も整備した。
 1567年(永禄10年)に美濃稲葉山城の攻略に成功すると、居城を稲葉山城に移転して城下町の名前をそれまでの井ノ口から岐阜と改め支配し、これに伴い小牧山城は、築城から4年間で廃城となり短命の城となった。

 この小牧山城の本格的な発掘調査は、2008年12月の第1次調査に始まり、現在も小牧市教育委員会の手で調査が続けられている。
 
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 複描した17世紀中葉の小牧山城絵図
 (名古屋蓬左文庫所蔵)

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 虎口のあった大手道の入口

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 大手道入口に建つ案内看板

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 小牧山麓の南側から山頂方向に直線に伸びる大手道がある。
 これは後に信長が整備する、安土城の大手道にも受け継がれたのではないかと考えられる。

 また途中からは、山を巡る遊歩道も整備されており、山中にある曲輪や堀跡を確認しながら散策ができる。

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 小牧山は史跡・公園として市民の憩いの場になっている。

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 復元された巨大な土塁
 平成29年3月の市役所旧本庁舎跡地の史跡整備工事で、1584(天正12)年の小牧・長久手の合戦で秀吉との合戦を前に家康と信雄の軍勢が築いた土塁や堀が復元されている。

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 山頂に向けて直線に伸びる大手道

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 尾張藩9代目藩主の徳川源明(宗睦)公の碑

 小牧山は、廃城となってから長らく捨て置かれ、江戸時代になってからは尾張藩の御領地として管理され、明治になって旧尾張徳川家の所有となっていた。
 このため、いつのころからか、地元の民間信仰施設なども設置されている。

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 小牧山吉五郎稲荷社

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 観音洞
 観音顕現伝説を遺す苔むしたチャート岩のある霊域

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 地形を利用して整備された遊歩道

 信長が天守を建てたかは不明だが、山の頂上には、1967年(昭和42年)にこの地方の篤志家が小牧市に寄贈した、秀吉の聚楽第の飛雲閣をモデルにした模擬天守閣が建つ。

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 小牧山城の模擬天守閣

 現在は市立の小牧市歴史館となっており、館内では城に関係する資料などが展示され、展望フロアからは南に濃尾平野が一望でき、北に遠く金華山の岐阜城も望むことができる。

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 南方 名古屋方面の濃尾平野

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 北方 岐阜(美濃)方面

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 金華山の山頂にある岐阜城の遠景

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 国史跡「小牧山」と歴史館の案内板

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 徳川義親公の銅像
 山頂の歴史館の前には、旧尾張徳川家の所有だった小牧山を1930年(昭和5年)に小牧市に寄贈した、義親公を顕彰する像が建つ。


● 先進的な石垣を使った曲輪

 築城から廃城までが4年間と、驚くべき短命の城だったことから、従来は美濃攻略のために土塁をめぐらせた程の簡素な城と考えられてきた。
 しかし、近年の発掘調査によって、標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を当時最先端の石垣で三重に守りを固め、中腹地域も削平した多くの曲輪が構築されていることが判明している。

 また、東麓の帯曲輪地区では、堀で仕切られた複数の重臣の武家屋敷群があったことも推定され、山の南から西にかけて城下町まで整備していることと併せてみれば、たまたま美濃攻略が短期間で成功したからであって、いまでは信長は当初からこの城を長期的視野で築城したものと考えられている。

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 発掘調査で分かってきた史跡小牧山遺構分布図

 いままで本丸地域では、露頭する巨石が散在することが知られていたが、発掘調査によって、この山で産するチャートの巨石を、高さ3~4mに積んだ石垣を後退させながら2段にした段築工法が採られていたことが判明した。

 これまでの戦国時代の城の曲輪は、土を盛り固めた土塁で築城されてきたことから、岐阜城や安土城築城以前の信長による石垣を用いた新しい城造りとして、にわかに注目を集めている。

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 発掘された本丸曲輪を取巻く石垣と石段

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 小牧山山頂付近の航空写真

 ところで、広い濃尾平野の平地の中に一つだけ抜きん出て、標高86mもの独立した山がポツンとあるのが小牧山だ。
 これまでわたしにとっては、この山は不思議に思われてしかたのなかった地形だった。

 今回訪れた小牧市役所の担当職員の説明を聞き、この山ではチャートが産出され、その巨石の多くを使った石垣が確認されるということで理解したつもりだ。
 
 つまり小牧山の地質は、古生層(秩父古生層)から成り、岩質は部分的に砂岩や粘板岩がみられるが、大部分が硬いチャートの岩石であったことから、地質時代からの長年の浸食で周りが平らになったものの、ここだけが浸食にも耐えて残丘として残ったものとみられる。

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 小牧山山頂付近にも多く見られるチャートの露岩

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 本丸曲輪地区の発掘調査結果の説明プレート

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 発掘調査で出土した石垣の状況
 (小牧市教育委員会)

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 出土した石垣間の詰石の仮置場
 発掘調査で出土した石垣は、将来の復元に向けて大石はそのままに埋め戻され、詰石はまとめて仮置きされている。

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 織田信長天下統一への過程と城郭

00-櫻花滿開の小牧山全景kom03



〇 信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その2 へ続く

信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その2
 ―― 信長が知略を注いだ本格的な城下町を備えた城 つづき
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-501.html








維新で破却された南信州飯田城の痕跡を訪ねて その2

  ―― その2 いよいよ城の核心 本丸と山伏の丸へ

 二の丸から冠木門を通り枡形を抜けると本丸への入り口、本丸御門(一ノ門)があった。

 この通路を除き、二之丸と本丸との間には、南北に防御のための堀切があり、いまでは北部分は埋められて道路が通るが、南部分には橋が架けられ、まだ残された深さ10m、幅15mほどの巨大な堀切を見ることができる。
 
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 南の堀切
 右が二の丸、左が本丸で、巨大な堀切は段丘の下まで続いている。

● 「本丸」と柳田國男館や長姫神社

 本丸御門(一ノ門)をくぐった本丸は、北側には石垣が設けられ、周囲には白壁の塀が巡り、南と北東には物見櫓が建てられていた。ここには藩主の本丸御殿(412坪)があり、本丸の敷地のほとんどを占めていた。

 現在は長姫神社や柳田國男館、日夏耿之介記念館などが建てられている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「本丸」

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 飯田城本丸御殿と山伏丸の復元図

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 柳田國男の胸像プレートがはめ込まれた、柳田國男館の入口
 日本民俗学の創始者・官僚であった柳田国男が、1927年に東京都世田谷区成城の自宅書斎として建てた「喜談書屋」を移築したもの。

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 柳田國男館
 イングリッシュ・コッテージの木骨様式の建物の館内では、柳田の著作や民俗学資料の展示、柳田と飯田のかかわりなどを紹介している。
 平成28年国の登録有形文化財に登録された。

 柳田國男(旧姓松岡)は、明治8年、兵庫県田原村の医者の六男に生まれ、東京帝国大学法科を卒業し農商務省農務局農政課に勤務。明治34年、元飯田藩士の柳田直平(大審院判事)の柳田家の養嗣子として入籍し、柳田姓となった。明治37年に、柳田直平の四女・孝(17歳)と結婚。

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 北側には、二の丸から本丸にある長姫神社まで直線道路が整備されている。

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 長姫神社の西の鳥居

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 西鳥居の左右に立つ石灯籠のうち、右の石灯籠の台座には寄進した柳田國男の名前が彫られている。

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 石灯籠の台座に寄進した者に混じって柳田國男の名前も見える。

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 長姫神社の本殿
 「ご三霊さま」の異称をもつ長姫神社は、飯田藩主の堀氏の系譜、堀秀政、堀親良、堀親昌の歴代の霊を祭神として祀る。
 もともと山伏丸に置かれていたが、その後城内を遷座しながら、ようやく明治33年(1900年)になってこの地に社殿が建てられ鎮座した。

● 「山伏丸」と温泉ホテル 三宜亭本館

 本丸の埋門の先、段丘の最も東の先端にある曲輪が山伏丸で、坂西氏がこの地に初めて城を築く前までは山伏の修験場であったことから、この名が付いたといわれる。
 それだからか、山伏丸から段丘を少し下ったところに熊野権現が祀られていた。
 曲輪の周囲には白壁の塀が巡らされ、南西と北東の隅に櫓があり、番所や御蔵(武庫)が建っていた。

 飯田城で最も眺めがよく、遠くに伊那山脈と南アルプスを望むことができ、現在は、温泉ホテルが建っている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「山伏丸」

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 温泉ホテル 三宜亭本館
 明治の廃藩置県後に山伏丸の土地が払い下げされ、料亭・旅館が建てられた。
 平成7年になって深度1,300mからの天然温泉の出湯に成功し、現在は飯田城址の高台に建つ“天空の城 三宜亭本館”として営業している。

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 山伏丸から眺めた、北の谷川の向こうの段丘

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 山伏丸の先端から眺めた、東方段丘崖の下。

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 飯田城の中で最も眺めがよく、手前に谷川が流れ、遠くには伊那山脈と南アルプスを望むことができる。

● 飯田城址の雑感

 飯田城は南信州の政治経済の拠点として、河岸段丘の天然の堅固な要害に守られ、中世から近世まで拡張・整備されながら長きに渡って存続してきた城だった。

 しかし、現在この城域にはこれまで観てきたように、唯一残る桜丸御門(赤門)のほかには往時を偲ぶ石垣や堀・土塁といった曲輪の遺構を見ることはできない。
 
 外様小藩で江戸時代を通して財政に窮してきた飯田藩主の堀家は、小藩生き残り策の結果幕閣を出すなど幕府中枢にあって4代の将軍に仕え、譜代となったものの出費を重ねた。
 幕末動乱期には、第11代藩主 掘親義は、京都治安維持責任者の一人、京都見廻役に任じられたことで、薩・長倒幕派の恨みも買っていた。
 これが災いし藩主の無策もあってか、明治新政府下の廃藩置県の折には、城内の全ての堀の埋立てを始め、建物や立木・石垣の解体・払い下げや破却が徹底して行われ、城の遺構は消し去られた。
(この時の払い下げなどによって、市内には城内にかつてあった二の丸の御門(市内の個人宅)、家老安富家の屋敷門(経蔵寺山門)、桜丸西門(雲彩寺山門)が今に残る。)

 また、江戸期の城下町の風情を残し、南信州の小京都といわれた城下の町並みも、1947年(昭和22年)に発生した飯田大火により市街地の8割(22万6千坪)を焼失させ、焼失家屋4,011戸、被災者は17,800人に及んだといわれている。

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 ところで、飯田城には、もともと天守閣が有ったという議論がある。
 江戸初期に描かれた絵図には天守の存在は認められないから、もともと無かったというのが通説だ。
しかし、現存する古文書などから、江戸期以前の10万石を領した織豊系大名の支配の時代には、他国の例と同じく城には当然天守が建てられていたはずだとの説があり、松本藩へ転封された小笠原秀政が、松本城乾子天守の部材として運んだ(距離90km以上)という記録も残るが真偽のほどは不確かだ。
 
 近世の城郭には規模の大小は別にせよ、城の中核施設である天守閣は付き物となっており、ここは、やはり飯田城にも有ったと思いたいところだ。
 この場合、天守閣は眺望の良い先端の山伏丸の南角にあって段丘下を睥睨していたが、三の丸の拡張と城下町の整備が進められる過程で、段丘先端に向かって高度が低下する地形では、整備後の城下町から見た天守はもはや役割を終えたものとされた。
 そして天主台に使われていた石材や土砂は、本丸北部分の石垣造成に再利用し曲輪が拡張され、部材も御殿などの整備に使われたにちがいないと、勝手な推測をしてみるのも楽しい。
 (各地点の海抜:飯田駅512m、中央交差点491m、本丸482m、山伏の丸480m、崖下の水の手交差点435m)

 だから、現在の飯田城には天守閣はない。
 しかし、中央自動車道飯田ICを降りて国道153号線を東に進んだ左手に、「お菓子の里 飯田城」の天守閣が聳え立ってるのが見える。

 この建物は諏訪の高島城の天守を模したもので、中は「赤飯饅頭」などのお菓子工場と売店になっていて観光バスが必ず立ち寄る。

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 「お菓子の里 飯田城」の天守閣
 以前、さくらんぼ狩に観光バスでこの地方を訪ねたときに立ち寄った。





維新で破却された南信州飯田城の痕跡を訪ねて

  ―― その1 河岸段丘の要害に築かれた城

 南信州の飯田城のある飯田市の中心街は、天竜川の「丘の上」に広がっている。
 
 天竜川の流れに沿って伊那谷を北上してきたJR飯田線は、伊那八幡駅(標高414m)を出ると大きく左に急曲線を描きながら3つの駅で標高を稼ぎつつ、ようやく標高差100mを克服して丘の上にある飯田駅(512m)に辿りつく。

 飯田の町は、13世紀に下伊那地方の中心地として坂西(ばんざい)氏によって城が築かれたことで始まり、江戸時代には飯田藩の城下町や荷駄を運んだ三州街道(飯田街道)などの宿場町として栄え、その面影を残す町並や伝わる伝統芸能などから「南信州の小京都」とも呼ばれてきた。

 今回訪れた南信州阿智村から少し足を伸ばして、いつかはと願っていた飯田城址に行ってきた。

● 河岸丘の東端に築かれた飯田城

 飯田城は、西の山地から流れ出る天竜川の支流の松川と谷川によって刻まれた舌状の段丘崖が天然の要害となって、東へ突き出した部分に位置している。

 さらに水堀や空堀で区画された城の曲輪は、段丘の東端に向かって、三の丸、桜丸、出丸、二の丸、本丸、山伏丸と直線に並ぶ「連郭式」に配置され、中世の段丘を利用した平山城となっていた。

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 飯田城の曲輪と惣構え
 城のほか城下町一帯も含めた外周を、堀や石垣、土塁で囲い込んだ曲輪を惣構えといい、飯田城でも城下町と北の段丘に寺社を集めて石垣・惣堀で囲い込んでいた。

飯田城の最古の絵図-脇坂氏時代のコピー

 江戸時代初期の絵図(部分)
 脇坂氏(5万5千石)時代の城と城下町

 室町時代の板西氏の築城から武田家の統治時代や織田信長軍による落城を経て、豊臣家臣の毛利秀頼やその娘婿の京極高知の時代(10万石)には三の丸の拡張や城下町の整備が進み、その後一時、江戸幕府の直轄領となるが、元和3年(1617)からの脇坂氏の時代(5万5千石)に惣構えが完成したといわれている。
 寛文12年(1672)になって城主が堀氏(2万石)に替わり、幕末まで12代飯田藩を治めた。

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 「飯田城外廓開墾之図」(明治5年)と「飯田城・城下町散策マップ」

● 「三の丸」(大手門内)と銀座通り

 銀座通りの東側にあった追手御門を挟んで北・南に堀があり、その奥から、桜丸と出丸までの広い範囲が三の丸で、武家屋敷が並んでいた。(現在の追手町一丁目・主税町・常盤町・追手町二丁目の一部)

 城内の入口に建つ追手御門(大手門)を入ると石垣の枡形があった。

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 「飯田城外廓開墾之図」(明治5年)に描かれた「三の丸」

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 銀座通りの南方を望む
 左が城下町、右が三の丸

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 銀座通りの北方を望む

● 「桜の丸」と長野県飯田合同庁舎

 長野県飯田合同庁舎の建つあたりが桜の丸で、桜が好きだった脇坂安元が曲輪内に屋敷を建て多くの桜を植えたことから、桜丸と名付けられたといわれる。
 安政2年(1855年)の大地震で、本丸御殿が壊れた後は、藩主がこの屋敷で政治を執った。
 また、桜丸御殿とも呼ばれた屋敷への正面入口となった桜丸御門(赤門)は、飯田城内に唯一残る当時の施設となっている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「桜の丸」

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 桜丸御門(赤門)
 宝暦4年(1754年)に建てられたもので、飯田市有形文化財となっている。
 明治初年の廃藩置県で、飯田城取壊しの際、この赤門だけが移築されず残り、郡役所などの正門として使われた。

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 木造入母屋造、桟瓦葺、桁行4間(7.3m)、梁行3間(4.28m)。弁柄塗であることから赤門の通称がある。
 赤門は、徳川将軍家の姫が嫁いだ大名家の門だけに許される特別の門として知られるが、この赤門は、9代藩主堀親長が、将軍綱吉の側用人柳沢家から室を迎える際に許されたものといわれる。

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 入母屋造屋根で、妻飾には木連格子とかぶら懸魚が用いられ、屋根の鬼瓦には藩主堀家の家紋「向梅」が刻まれている。

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 桜の丸内側から見た桜丸御門
 門の脇には別屋根の番所が突出して付随している。また門の上部や番所の壁には、漆喰が塗られている。
 向こうに、出丸跡にある追手町小学校の校舎が見える。

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 桜丸御殿跡に建つ長野県飯田合同庁舎

● 「出丸」と追手町小学校

 三の丸の奥にあった鐘の門(出丸御門)を入口とし、弧を描く水堀(槻堀)で区画された曲輪が出丸と呼ばれる。
 本来、城の外部に張り出して設けられるのが出丸だが、ここでは奇妙なことに城内の三の丸と二の丸の間に半円形に張り出していた。
 これは、後世に城が拡張され、三の丸ができたことで、城内に取り込まれたからとすれば納得できる。
城が拡張され三の丸ができる以前には、出丸御門が追手門(城の正門)だったとされ、絵図を見ると二の丸御門(八間門)に至る複雑で堅固な枡形が設けられていた。
 
 現在はこの堀も埋め立てられ、出丸は飯田市立の追手町小学校の敷地となっている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「出丸」

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 追手町小学校のグランドに向かう橋の下には、出丸の堀の痕跡が道路として残る。

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 小学校の校舎の脇に堀の痕跡が残る。

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 明治23年(1890年)に追手町小学校の前身の飯田尋常高等小学校がここに移転した。
 現在の建物は、昭和4年(1929年)竣工の鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建の建築面積3753㎡で、登録有形文化財となっている。

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 「水の手坂」と残る石垣
 小学校の東脇にある水の手坂を南方に下ったところに、「水の手御門」と呼ばれる櫓門があった。

● 「二の丸」と飯田市立美術博物館

 三の丸から二の丸御門をくぐると石垣の枡形・虎口があり、二の丸に至る。
 ここには重臣の家老や御典医の屋敷があって、南と北の崖ぎわには櫓が2棟建っていた。

 現在は、市立美術博物館が建っている。

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 「飯田城外廓開墾之図」に描かれた「二の丸」

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 二の丸跡地に建つ飯田市立美術博物館
 美術博物館の塀は、当時の武家屋敷の塀を復元している。

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 武家屋敷の塀内で発掘された御用水の水路跡
 城外から引き込まれた御用水は、段丘の最奥の山伏丸まで引き込まれていた。

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 美術博物館の敷地には、当地出身の日本画家菱田春草の碑が建てられている。
 また、美術博物館では菱田春草の多くの作品を収蔵・展示している。

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 美術博物館の前庭に残る、エドヒガンサクラの一本桜「安富桜」が生えている。
 樹高20m、周囲は6mの大木で、飯田藩家老の安富氏の屋敷の庭に植えられていたとされる。

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 二の丸井戸の跡の印
 消費生活センター脇の歩道上に印されている。


 『維新で破却された南信州飯田城の痕跡を訪ねて』
 ―― その2 いよいよ城の核心 本丸と山伏の丸へ つづく

  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-499.html



南信州 飯田の川本喜八郎人形美術館を訪ねて

  ―― 独創的な人形たち(puppet)が奏でる美しい人形劇の世界を観た

 江戸時代、幕府は財政の緊縮や社会の安寧のためと称して、江戸や上方では、しばしば庶民にも質素倹約を求め歌舞音曲などの芸能の禁止令を敷いてきた。また、時々の時代によっては、芸能への人気の流行・廃りによってもその盛・衰が左右されることもあった。

 こうした時期には、いままで江戸や上方で活躍していた場を失った芸人たちは、比較的禁令のゆるかった各地方や芸能文化を渇望する地域などへ食い扶持を求めて旅芸人となって下っていった。 
 
 遠州街道や三州街道(飯田街道)などの街道によって、普段でも上方の伝統文化を取り入れてきた南信州の中心地、飯田やその周辺には、300年以上の昔から人形浄瑠璃が定着し、黒田人形、今田人形(飯田市)、早稲田人形(下伊那郡阿南町)、古田人形(上伊那郡箕輪町)といった人形芝居の歴史がいまに伝わっている。

 こうした土壌のある飯田市では、近年、毎年8月の上旬には、国の内外から様々なスタイルの人形のプロ劇団からアマチュア・学生劇団までが参加する、日本最大級の人形劇の祭典「いいだ人形劇フェスタ」(国際児童年の1979年から開始)が開催されている。

 今回この町を訪れ立ち寄った「川本喜八郎人形美術館」は、そんな人形劇に縁の深い飯田市の中心部に建つ新しいビルの中にあった。

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 「川本喜八郎人形美術館」の入り口
 川本喜八郎人形美術館」は、川本喜八郎が制作担当し1982年10月から84年3月までNHKテレビで放送して大人気となった『人形劇 三国志』で使われた人形80体を中心に、アニメーション人形など総数200体の貴重な人形が収蔵され、展示が行われている。

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 2階のエントランスホールには、主君の劉禅に奉った上奏文、「前出師表」の竹簡を背に、『人形劇 三国志』の蜀の宰相、諸葛孔明の等身大の木目込み人形が出迎えている。

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 3階の常設展示場内の展示作品は撮影禁止とされているので、この人形は開館にあわせて記念撮影用に制作された。

 (この後、常設展示場で観ることになる諸葛孔明の人形は、制作者が気が済むまで何度も手直しをしたものといわれ、特にその容貌は鬼気迫る出来に感じられた。)  

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 『人形劇 三国志』の関羽と張飛を従えた劉備の人形
 (人形美術館のポストカードから)

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 3階の常設展示場内の展示状況
 (人形美術館の紹介画像から)  
 
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 NHKテレビ番組『人形劇 三国志』で使われた人形たち
 (人形美術館の紹介画像から) 
 人形たちの衣装は、新しく人形用に染められたものではなく、あえて一体ごとに探し出した古布を使って精巧に制作されており、その深みが美しくリアリティをより高めている。

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 3階のホワイエ
 川本喜八郎の年譜や人形の制作過程などを展示している。   

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 川本喜八郎(1925年~2010年)
 東京都渋谷区千駄ヶ谷に生まれ育ち、人形美術家・アニメーション作家としてNHK人形劇『三国志』や『平家物語』などの人形美術を手がけたのをはじめ、世界的にも活躍し、人形たちの美しさと動きが多くのファンを魅了してきた。

 飯田市で1990年に開かれた人形フェスティバルに初めて参加し、以来何度も訪れ土地の人々との交流を通じて、この地が「人形たちが生きている一番ふさわしい場所」と認め、飯田市に寄贈した人形たちを基に2007年に「川本喜八郎人形美術館」が開設した。
 
 なお、生地の東京都渋谷区の渋谷ヒカリエ8階には「川本喜八郎人形ギャラリー」があり、『三国志』や『平家物語』の人形40体ほどを展示している。 

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下から動かす棒づかい人形
 人形の頭(かしら)につけた胴串を下から支え、人形の手足につけた細いつかい棒(針金)によって操作する。これにより、表情豊かな表現が可能となっている。

 川本人形の特色は、重量のある木や粘土ではなく、粘土原型から取った石膏の型に和紙を貼り付けて作成した軽い頭だが、着色や質感を高めるために表面を薄い羊皮で覆っているところだ。  

 また、頭表面に薄い羊皮を使ったことで、羊皮の伸縮によって「語り人形」の動く下あごの溝を隠す効用もある。  

 しかし、文楽の人形とは異なり、一体を下から支えて一人で演ずるために頭などの軽量化が図られているものの、それでも豪華な衣装などを合わせるとかなりの重量となり、操作する人形操者の負担は大きいと思われる。
 
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 「川本喜八郎人形美術館」
 飯田市本町1-2
 JR飯田駅・高速バス飯田駅前から徒歩12分

 今回の展観には、当館を管理・運営する特定非営利活動法人「いいだ人形劇センター」のS女史にアテンドいただき、当方の素朴な問いにも適切な解説をいただいたことに感謝している。

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 古い民家を活用したカフェ「ひらのや」
 昼食は、人形美術館のすぐ隣にレトロ調の民家を活用して整備した飲食街、「並木横丁 いこいこ」にあるカフェ「ひらのや」で、カレーセットやサンドパンセットのランチをパートナーとともに楽しんだ。

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