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南信州 飯田の川本喜八郎人形美術館を訪ねて

  ―― 独創的な人形たち(puppet)が奏でる美しい人形劇の世界を観た

 江戸時代、幕府は財政の緊縮や社会の安寧のためと称して、江戸や上方では、しばしば庶民にも質素倹約を求め歌舞音曲などの芸能の禁止令を敷いてきた。また、時々の時代によっては、芸能への人気の流行・廃りによってもその盛・衰が左右されることもあった。

 こうした時期には、いままで江戸や上方で活躍していた場を失った芸人たちは、比較的禁令のゆるかった各地方や芸能文化を渇望する地域などへ食い扶持を求めて旅芸人となって下っていった。 
 
 遠州街道や三州街道(飯田街道)などの街道によって、普段でも上方の伝統文化を取り入れてきた南信州の中心地、飯田やその周辺には、300年以上の昔から人形浄瑠璃が定着し、黒田人形、今田人形(飯田市)、早稲田人形(下伊那郡阿南町)、古田人形(上伊那郡箕輪町)といった人形芝居の歴史がいまに伝わっている。

 こうした土壌のある飯田市では、近年、毎年8月の上旬には、国の内外から様々なスタイルの人形のプロ劇団からアマチュア・学生劇団までが参加する、日本最大級の人形劇の祭典「いいだ人形劇フェスタ」(国際児童年の1979年から開始)が開催されている。

 今回この町を訪れ立ち寄った「川本喜八郎人形美術館」は、そんな人形劇に縁の深い飯田市の中心部に建つ新しいビルの中にあった。

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 「川本喜八郎人形美術館」の入り口
 川本喜八郎人形美術館」は、川本喜八郎が制作担当し1982年10月から84年3月までNHKテレビで放送して大人気となった『人形劇 三国志』で使われた人形80体を中心に、アニメーション人形など総数200体の貴重な人形が収蔵され、展示が行われている。

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 2階のエントランスホールには、主君の劉禅に奉った上奏文、「前出師表」の竹簡を背に、『人形劇 三国志』の蜀の宰相、諸葛孔明の等身大の木目込み人形が出迎えている。

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 3階の常設展示場内の展示作品は撮影禁止とされているので、この人形は開館にあわせて記念撮影用に制作された。

 (この後、常設展示場で観ることになる諸葛孔明の人形は、制作者が気が済むまで何度も手直しをしたものといわれ、特にその容貌は鬼気迫る出来に感じられた。)  

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 『人形劇 三国志』の関羽と張飛を従えた劉備の人形
 (人形美術館のポストカードから)

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 3階の常設展示場内の展示状況
 (人形美術館の紹介画像から)  
 
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 NHKテレビ番組『人形劇 三国志』で使われた人形たち
 (人形美術館の紹介画像から) 
 人形たちの衣装は、新しく人形用に染められたものではなく、あえて一体ごとに探し出した古布を使って精巧に制作されており、その深みが美しくリアリティをより高めている。

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 3階のホワイエ
 川本喜八郎の年譜や人形の制作過程などを展示している。   

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 川本喜八郎(1925年~2010年)
 東京都渋谷区千駄ヶ谷に生まれ育ち、人形美術家・アニメーション作家としてNHK人形劇『三国志』や『平家物語』などの人形美術を手がけたのをはじめ、世界的にも活躍し、人形たちの美しさと動きが多くのファンを魅了してきた。

 飯田市で1990年に開かれた人形フェスティバルに初めて参加し、以来何度も訪れ土地の人々との交流を通じて、この地が「人形たちが生きている一番ふさわしい場所」と認め、飯田市に寄贈した人形たちを基に2007年に「川本喜八郎人形美術館」が開設した。
 
 なお、生地の東京都渋谷区の渋谷ヒカリエ8階には「川本喜八郎人形ギャラリー」があり、『三国志』や『平家物語』の人形40体ほどを展示している。 

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下から動かす棒づかい人形
 人形の頭(かしら)につけた胴串を下から支え、人形の手足につけた細いつかい棒(針金)によって操作する。これにより、表情豊かな表現が可能となっている。

 川本人形の特色は、重量のある木や粘土ではなく、粘土原型から取った石膏の型に和紙を貼り付けて作成した軽い頭だが、着色や質感を高めるために表面を薄い羊皮で覆っているところだ。  

 また、頭表面に薄い羊皮を使ったことで、羊皮の伸縮によって「語り人形」の動く下あごの溝を隠す効用もある。  

 しかし、文楽の人形とは異なり、一体を下から支えて一人で演ずるために頭などの軽量化が図られているものの、それでも豪華な衣装などを合わせるとかなりの重量となり、操作する人形操者の負担は大きいと思われる。
 
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 「川本喜八郎人形美術館」
 飯田市本町1-2
 JR飯田駅・高速バス飯田駅前から徒歩12分

 今回の展観には、当館を管理・運営する特定非営利活動法人「いいだ人形劇センター」のS女史にアテンドいただき、当方の素朴な問いにも適切な解説をいただいたことに感謝している。

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 古い民家を活用したカフェ「ひらのや」
 昼食は、人形美術館のすぐ隣にレトロ調の民家を活用して整備した飲食街、「並木横丁 いこいこ」にあるカフェ「ひらのや」で、カレーセットやサンドパンセットのランチをパートナーとともに楽しんだ。

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〇 今日の一献 春爛漫の京都・嵐山をてんこ盛りで楽しむ その3

―― 保津川渓谷の観光トロッコ列車に乗る

 嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車は、JR山陰線の複線化によって使われなくなった保津川渓谷沿いのルートを平成3年(1991)に観光路線として復活させた路線で、いまや年間100万人の観光客で賑わう。

 トロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅間7.3kmを、平均時速25kmのゆったりした速度で、保津川渓谷の景観を楽しみながら25分で結んでいる。

 この日は、トロッコ嵐山駅から乗車した。

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 トロッコ嵐山駅はホームと駅の高低差が大きく、60段の階段で谷底の路線・ホームへ降りる。

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 トロッコ亀岡駅寄り先頭車を先にして、列車がホームに入ってくる。
 この路線には動力車の付け替え設備がないので、トロッコ亀岡駅方面へはトロッコ嵯峨駅寄りにあるDE10形ディーゼル機関車1104号機がトキ25000形貨車を改造したアールデコ調の5両編成のトロッコ客車を押している。

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 並行する山陰本線の列車が通り過ぎる。

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 峡谷の眺めを楽しみながら列車が走る。
 景観の良いところでは列車は徐行し、観光案内もアナウンスされる。
 この路線は外国人観光客にも人気が高く、年間の乗客の1/3を占めるといわれる。

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 観光客で満席のトロッコ客車内
 手前の和服姿の女性たちは、中国語で話をしていた。

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 トロッコ保津峡駅ではサービス停車する

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 終点トロッコ亀岡駅で下車し車で帰る。
 この駅のある亀岡市は明智光秀が治めた亀山城の城下町で、保津川下りの乗船場や湯の花温泉郷などの観光地でもある。

00-嵯峨野トロッコ列車の路線案内図

 嵯峨野トロッコ列車の路線案内図


(了)




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〇 今日の一献 春爛漫の京都・嵐山をてんこ盛りで楽しむ その2

―― 屋形船で大堰川の船遊び

 急峻な谷が迫り流れが速い保津峡を抜けると川幅が広がって流れは弱まり、一の井堰辺りまでの水域では屋形船やボートをゆったりと楽しむ姿が見られる。

 もともと平安時代には、嵐山には貴族の別荘などが設けられており、9世紀には嵯峨天皇の舟遊びや、清和天皇の宮廷鵜飼が行われたりしてきたことから、いまでは屋形船の舟遊びは嵐山の春・秋の風物詩ともなっている。
 
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 渡月橋の遊覧船・ボートの「北乗船場」
 北乗船場から屋形船に乗船する。

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 むかしはボートの漕ぎ手は、男性としたものだったが、いまでは女性連れでボートを楽しむたくましい女性が増えた。

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 昨日は、季節はずれの雪を見たというのに、きょうは暖かい春の日の下でゆらゆらと川舟に身を委ねて川岸を眺めていると、「敷島の大和心を人と問わば、、、」と思わず口ずさむ。

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 下流の渡月橋方面

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 船外機付の高速で近づく物売りの船
屋形船が川上に進んでいくと、甘酒や熱燗酒などの飲み物やおでん、みたらし団子などを売る、物売りの船が近寄ってきて楽しい。

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 保津川下りの船
 上流の亀岡から渡月橋まで、16kmの保津峡の急流を下る観光船「保津川下り」はスリリングな船旅で人気が高い。

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 屋形船の所要時間は30分ほど。上流の2mほどの船竿が着かなくなったところでUターンして戻る。

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 室町幕府将軍の足利尊氏が開いた、京都市右京区嵯峨にある臨済宗天龍寺派大本山の霊亀山天龍寺の勅使門

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 ハスの池、放生池でジッとして動かない青サギ

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 立ち食いの和服姿の列


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 野宮神社
 学問・恋愛成就・子宝安産等の祭神を祀るこの神社は、源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。

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 竹林の小径を辿って次のお楽しみ、トロッコ列車の駅へ向かう。

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 JR山陰本線が竹林の道に交わる踏み切り。



〇 今日の一献 春爛漫の京都・嵐山をてんこ盛りで楽しむ その3
―― 保津川渓谷の観光トロッコ列車に乗る に続く



〇 今日の一献 春爛漫の京都・嵐山をてんこ盛りで楽しむ その1

―― サクラと和服姿が似合う渡月橋周辺

 この季節 どこに行っても京都には、美しいサクラを愛でる多くの名所があって楽しめる。
 
 今回は、小学校の春休みの孫たちと共に、京都市街の西のはずれにあるサクラの名所、嵐山に行ってきた。

 嵐山周辺には、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、シダレザクラ、ヤエザクラなど1,500本が植えられており、樹種によって開花時期がずれることから、花見の期間が長く楽しめる。

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 嵐山の美しい景観を引き立てているのは、何といってもゆったりと流れる川幅の広い桂川にかかる直線の木橋、渡月橋だろう。
 (正確には、今の渡月橋の橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製だが、欄干は木造。)
 
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 近頃では和服レンタルがブームとなって、若い女性たちの和服姿が目立ち、古都の風景に溶け込みながら情緒を添えるようになってきている。
 
 和服体験は外国人観光客にも人気なようで、スカーフを被った和服姿のイスラム系女性や、中には、はっとして振り向かせるような絶滅危惧種の大和撫子を思わせる和服が似合う女性が、中国語で会話しながらすれ違うことがあったりして面白い。

 この日も人出で賑わう渡月橋の周辺では、和服姿の女性たちの姿が目立った。

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 和服体験は外国人観光客にも人気なようで、和服が似合う女性が、中国語で会話しながらすれ違うことがあったりして面白い。

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 春爛漫のサクラの眺めは、人の気持ちを浮き立たせる。

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 料亭「京都吉兆」

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 人気の「よーじやカフェ嵯峨野嵐山店」は、平日にもかかわらず長蛇の列が続いていて入店を断念した。

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 保津川の「一の井堰」と水路
 渡月橋が架かる川は、正式には淀川水系の桂川だけど、古来の通称は、渡月橋を挟んで下流が「桂川」で、上流は「大堰川(おおいがわ)」または「保津川」と呼ばれている。
 この一の井堰は、農業用灌漑用水のために設けられている。

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 京都市のマンホールの蓋
 古都の京都に因んだ、「御所車」の車輪がデザインされている。



〇 今日の一献 春爛漫の京都・嵐山をてんこ盛りで楽しむ その2
―― 屋形船で大堰川の船遊び へ続く



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〇 今日の一献 信長の無念が漂う 安土城跡 その2

―― 発掘・整備が進み 詳らかになりつつある幻の城

 安土城天主台跡から下山する帰り道のコースに、信長が築城時に建立した摠見寺(そうけんじ)がある。

 摠見寺は天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中に位置し、創建時には近隣にあった現超光寺や甲賀・長寿寺など多くの寺院の建物を移築し、当時は本堂をはじめ22棟の建物が立ち並び、城下の町人の通行が許されていた百々橋口道から城内を訪れる人々が、この伽藍群を見ながら境内を通ることを予定していたと考えられる。
 こうした堂塔伽藍を備えた壮大な寺院が城内に建てられているのは、後にも先にも安土城だけである点にも注意を払いたい。

 このように、ある意味では信長の仕掛けた装置の一つである摠見寺は、本能寺の変の直後の天主・本丸炎上時には類焼を免れ残ったものの、江戸時代末期の1854年(嘉永7年)になって伽藍中枢部を焼失し、先に見たように現在は大手道脇の伝・徳川家康邸跡に仮本堂を移している。

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  摠見寺跡から琵琶湖方面の西の湖の展望

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 焼失を免れた摠見寺の「三重塔」(特別保護建造物 重要文化財)
 1454年に建造され1555年に修理した記録が残るこの塔は、元々あった甲賀・長寿寺から移築されたものとされている。

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 焼失を免れて残る摠見寺「二王門」へ下る。
 信長に臣従した甲賀の山中俊好が、1571年に寄進したものとされる。

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 百々橋口道の石段から見上げた摠見寺「二王門」(特別保護建造物 重要文化財)

00-20180330 安土城仁王門の仁王像

 二王門の仁王像
 木造金剛二力士立像 特別保護彫刻 重要文化財に指定されている。

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 入山の有料化に伴い、現在は二王門を出て安土城下の百々橋口へと下る石段が通行止めとなっており、山中の道を回って再び伝・羽柴秀吉邸跡に出て、大手道を下り関所へと誘導している。

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 かつては、麓の道路際に見事なサクラの大木の並木があり花見も楽しめた安土城跡だが、駐車場の整備などを理由に伐採され、山麓のサクラの数は少ないが、それでもちらほら見えるサクラは満開だった。

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 この安土城跡の山麓一帯は、臨済宗妙心寺派の摠見寺が所有・管理しているが、築城時に信長によって建立されたものの檀家を持たず、幾多の経緯を経て江戸時代末期から明治期に寺領を失って衰退しており、TVの歴史ブームとともに入山する者が増加し、管理のために「入山料」を徴収するようになったのもやむをえないともいえる。

 なお、大手門は、ここから約80m下がったところにあったとされる。


 今見てきたばかりの安土城跡を後にしながら改めて思うのは、山城とはいえ、例えば南山裾帯曲輪の大手口や虎口の低い石垣、左右に家臣団の屋敷を配してはいるとしても駆け上がり易い直線に伸びる広い大手道、隅櫓や虎口も設けない七曲がり道、城下から続くほとんど塀も石垣もない百々橋口道など、これらは防御面を極端に考慮しない城の造りとなっており、われわれがこれまで抱いてきた既成の城の備えのイメージからすると、やはり特異なものに感じるのだ。

 ところで、行政が管理している施設では、危険防止のためとしてやたらと柵や建て看板などが目立つが、ここでは自己責任なのか通行止め標識だけで、かえって潔く景観にも煩わしさを感じない。

 だだし、築城の際に不足した石を補うために階段に使われている石仏の全てに、今では「石仏」の表示と賽銭缶が置かれているのは、少し艶消しだった。

 「安土城郭資料館」(近江八幡市安土町小中700)
 JR東海道線の安土駅前には、市立の安土城郭資料館がある。
この資料館の最大の見所は、20分の1のスケールで制作された精巧な安土城天主で、観覧者があると電動で内部を見られるように城の模型が二つに分かれる仕掛けがあって楽しい。

 他に屏風絵風陶磁版壁画などの展示や信長の活躍した時代を中心に資料を集めた安土文庫などが設けられている。

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 資料館内1階に展示されている幻の名城”安土城”の模型
 絵図資料などが無い安土城の姿は、当時の「信長公記」や「安土日記」、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」などの記述に基づいた研究によって、石垣は自然石をそのまま用いた野面積で、地下1階、地上6階建てで、高さは35m程と推定されている。

 また、外観は、階層ごとに壁が塗り分けられ、黒い漆塗りの窓が配された白壁の層や、朱色の八角堂の上に金色の最上階があり、青く見える瓦が葺かれ、最上階には金箔瓦が使われていたとされる。

 なお、安土城天主の構造及び外観については諸説の研究があるが、この模型は故名古屋工業大学名誉教授内藤昌氏の復元案により制作されている。
 (この復元案の諸説は、『安土城天主の構造及び外観に関する復元考察』佐藤大規 に詳しい。)

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 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える仕掛けになっている。

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 安土城の推定内部構造
 城の模型が二つに分かれて、内部構造が見える。5階の八角堂の中に、信長の姿が見えるのがご愛嬌で微笑ましい。

 城の内部は、地階から3階まで通ずる吹抜けが設けられ、地階には仏舎利の入った宝塔が置かれており、1階から3階までの各階には複数の部屋があり、壁には花鳥や中国の故事を題材にした華麗な障壁画で飾られていたとされる。

 また、八角形の5階は、外側の柱は赤色、内側の柱は金色で、壁には釈迦の説法図が描かれており、最上階6階の3.3mの正方形の部屋の壁は金色で、狩野永徳が描いた中国神話の帝王や孔子、七人の賢人などの絵が描かれ、漆塗りの鉄の扉があった。

 これまでの戦国時代の城の天守は、本来は戦のときの防御施設であり、居住する施設ではなかった。
 しかし、この安土城では、初めて石垣の上に建てられた天主に信長自身が居住し、その外観は華麗さと威容を示し、そして内部は壮大・壮麗さと宗教的空間を「見せる」ことで、見る者を畏怖させることを強く意識した政治的装置としての城だったと考えられている。

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 安土城屏風の推定復元図「屏風絵風陶磁版壁画」
 天正少年使節が信長から託された屏風絵を、ローマ法王に献上するまでの4つの場面を描いた陶磁版壁画の一部

 ところで、外国人宣教師と親交のあった信長は、自分の権力を誇示するため当時の日本画壇の代表的な画人、狩野永徳に描かせた安土城の金箔屏風をイエズス会の司祭・巡察師ヴァリニャーノに贈り、彼の帰国に同行した天正遣欧使節によってローマ法王グレゴリオ13世に献上されたとの記録が残る。

 この屏風が法皇庁で発見されれば、当時の安土城の姿を知る決定的な資料となるのだが、2007年にも地元安土町(現・近江八幡市)の派遣調査団による調査も行われたが、現在になるも発見に至っていない。

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 試着ができる信長の鎧兜

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 安土山の手前にはJR東海道線の列車が走る。

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 歴史公園「近江風土記の丘」の「文芸の郷」
 安土城跡の南東には、国の史跡・観音寺城跡のある南北に伸びる繖(きぬがさ)山(標高432.9m)を背後にして歴史公園「近江風土記の丘」があり、滋賀県下から移築された歴史的建造物をはじめ、滋賀県立安土城考古博物館(写真中央)や安土城天主信長の館などで構成される「文芸の郷」の施設がある。

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 歴史公園「近江風土記の丘」にある、旧柳原(りゅうげん)学校校舎
 1876年(明治9年)当時の高島郡新儀村の初等科小学校校舎として建設された和洋折衷の建築物。

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 JR安土駅から眺めた観音寺城跡のある繖山
 観音寺城は、室町時代から戦国時代にかけて佐々木氏、後に六角氏の居城として、繖山の頂上付近に築城された先進的な総石垣造りの山城で、二階建ての屋形はあったものの天守は無かったといわれる。
 また、山腹を整地して家臣団の屋敷も整備されていたようで、安土城の築城に当たっては、この総石垣造りや家臣団の屋敷地造成の手本になったと考えられる。

 なお、この近く、琵琶湖の西岸、今の大津市坂本穴太(穴太ノ里)の出身者の穴太衆が、それまでの寺院の石材建設の技術の高さをかわれて安土城の石垣を施工したことで、その技術水準の確かさが広く伝わり、以後、江戸時代初期まで全国各地の築城・石垣造りに携わる契機となったことも興味深い。

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 旧安土町の下水道のマンホールの蓋
 信長が勝運を期して永楽通宝を刀の鍔に刻印して愛用した、「まけずの鍔」をデザインしたもの。

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 JR安土駅から安土城跡への所要時間は徒歩で20分ほどだが、他に見て廻ることも考慮して、わたしたちは駅前のレンタル自転車を利用したが、これは時間効率もよく快適だった。

 ともあれ、お陰でこの山行を含めて、この日の全行程の歩数は、自転車走行分を除いて17,900歩を数えた。


 了




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