〇 今日の一献 秀吉写真クラブ撮影会 [Sunsetダイヤモンド富士」への序章

―― 自然とは思い通りにはならないもの ましてや富士山をや、、、

 新年事始めの秀吉写真クラブ撮影会、「西湖の樹氷まつりとSunsetダイヤモンド富士」の撮影のため、2018年2月3日の節分の日早朝7時、メンバー4人がいつものクラブサロン「れんげ」へ集合。

 コーヒーとモーニングサービスで軽く腹ごしらえをしながらのブリーフィング後の雑談に移行した頃、このまま長くなるのを早々に切り上げて出発し、東名高速を一路東に向けて疾走を始めた。

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 高速道路から遥か彼方に富士山が見えるのを確認すると、いよいよ期待が高まる。

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 高速を下りて一般道に入ると、辺りは雪の世界となる。


● 西湖樹氷まつり2018会場

 この季節、当地の冬の風物詩ともなっている西湖野鳥の森公園で行われている、西湖樹氷まつり2018会場で樹氷を撮影。

 山の天気の変化は目まぐるしく、晴天にもかかわらず、富士山の方角は雲に覆われ、フレームに捉えられず残念だった。

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 木の枝などで作ったオブジェに長期間水を噴きかけ、夜間の零下の気温で凍結させた樹氷が制作・展示されている。

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 森の中の池溏にある樹氷のオブジエ

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● 御坂峠から眺める笠富士と河口湖

 雪が残るきついカーブの山道が続く御坂道を登ること暫し、むかし東国遠征の日本武尊が越えたと伝わる標高1,520mの御坂峠へ。

 ここからは、頂上に雲を頂いた笠富士と眼下には河口湖が眺められた。

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 峠の脇にある「天下茶屋

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 ひとしきりの撮影後、峠の脇にある「天下茶屋」で、山梨名物「ほうとう鍋」で昼食。

 初めて食した「ほうとう鍋」は、白味噌仕立ての水団鍋といったところ。
 味は別にしても、寒い身体にはご馳走に感じる。

 御坂峠「天下茶屋」
 昭和9年開設、かつて徳富蘇峰が新聞で紹介し、井伏鱒二の作品「大空の鷲」や太宰治の小説「富獄百景」に現れる。
 山梨県南都留郡富士河口湖町河口2739

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 御坂隧道(全長396m・幅員6m・高さ4m)
 昭和6年竣工した隧道の河口湖口の扁額には、当時の内務大臣安達謙蔵の揮毫による「天下第一」の文字が刻まれている。
 冬季期間は通行止めとなっている。


● 河口湖畔から狙った[Sunsetダイヤモンド富士」

 われわれの到着時には、手前に部分凍結した河口湖を置いて、やがて訪れる日没前の太陽が富士に架かって煌くダイヤモンド富士の姿をカメラに収めようと、既に多くのカメラマンが湖畔に砲列を敷いていた。

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 待つこと暫し、いざその時分の到来になって、それまで山頂まで姿を見せていた富士は、遣らずの雨ならぬ厚い雲が広がり始めて富士を隠し、とうとう日没を過ぎても毫も姿を現さす、かくしてダイヤモンド富士の撮影は序章のままで終わった。

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 しかたがないので、先日の皆既月食で、月が湖畔の柵に忘れていった月のうさぎを最後に撮影して、納鏡して帰路に就いた。

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 発車後の車内でしばらくの沈黙の後、誰が言い出したか「次、またリベンジしましょう。」の言葉に、一同無言で首肯したことだった。

 なお、この日の旅程は600数十キロ。これを一人で運転していただいた、H氏の運転の腕前の確かさとご苦労に感謝したいと思う。






〇 今日の一献 郷土戦国武将の故事を訪ねて 清須城へ行ってきた

―― 桶狭間の戦い、清須同盟、清洲会議、清洲越しなどの歴史の舞台となった城

 冬休みでやって来た、武将・歴史好きの孫とともに清洲城へ行ってきた。
 昨年の夏休みには、郷土戦国武将の故事を訪ねて名古屋城、犬山城、岡崎城などを訪れたが、今回は年末に、わが家の近くの秀吉・清正の生誕地である中村公園にある豊国神社や寺々などを巡ったのだった。

 ご存知のとおり、清洲城は織田信長が那古野城からここに移り、小牧城へ移る前の10年間居城とした城(清洲古城)で、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにはこの城から出陣している。

 また、1562年(永禄5年)の家康との同盟の盟約、「清須同盟」、1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が倒れた後の織田家の跡目相続会議、「清洲会議」、関が原の戦い後の1607年(慶長12年)には、家康の九男、後の尾張藩祖の徳川義直が入城するなど、歴史上の重要な舞台となった。

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 馬を駆って馬上から弓を射る、天守内の信長像

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 天守最上階から見下ろすと、眼下に五条川が流れ、赤い欄干の大手橋が架かる。
 本来の清洲城の位置は川の対岸にあり、新幹線の左手の清洲公園(二の丸)から右(本丸・北曲輪)にかけて曲輪が続いていたとされる。

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 後期清洲城と城下町の復元ジオラマ

 清須会議の後、この城は次男織田信雄が相続し、2重の堀、大天守・小天守などが造営(後期清洲城)されたが、度重なる五条川の氾濫に悩まされる。

 大阪方の備えとして、水攻めを怖れた家康は、東方にある高台の広い名古屋台地に名古屋城と城下町を建設し、1609年(慶長14年)に人も物も全て町ぐるみの移転、「清洲越し」が行われると、この城は廃城となり町は廃墟となった。
 (江戸時代になって街道が整備され、ひとや物流が活発になると、清須の宿として復活する。)

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 かつての清洲城の曲輪域を貫いて新幹線が走る。

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 天守から東方8kmの、「清洲越し」先の名古屋の城下町を望む。

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 天守などの文献資料が乏しく、現在あるのは旧清洲町の町制100周年を記念して、平成元年に京都の伏見城を参考に桃山時代の城を想像しながら再建された模擬天守だが、それでもその姿には力が篭められ堂々として美しい。

 なお、後期清須城の曲輪の研究については、鈴木正貴著『後期清須城本丸考』愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第13号(2012年.5月)に詳しい。

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 後期清須城本丸周辺の想定復元図
 『後期清須城本丸考』から

清須城曲輪2_jpgのコピー

 ● 清洲城
 愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
 休館日:月曜日〈休日の場合は直後の平日〉、12月29日から31日
 ただし、桜の花見期間・清洲城信長まつり期間は開館








〇 今日の一献 洛北の紅葉を訪ねて 江戸時代の文人石川丈山が愛した詩仙堂

―― その4 江戸時代の文人石川丈山が愛した一乗寺の詩仙堂

 石川丈山は、1583年(天正11年)安城市和泉町で生まれ、譜代武士として家康に仕えていたが、浪人となってから漢詩に頭角を顕し、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通し煎茶の祖ともいわれる江戸時代初期の文人だ。

 比叡山西麓にある「詩仙堂」は、1641年(寛永18年)に石川丈山が自分の隠居のため、でこぼこした土地に建てた住居という意味の「凹凸窠」の名で造営し31年間隠棲した山荘で、国の史跡に指定されている。

 名古屋中村生まれの洛東の隠者、木下長嘯子の歌仙堂に倣って、中国の詩家36人の肖像を狩野探幽に描かせた「詩仙の間」があることから、いつしか「詩仙堂」の名で知られるようになった。

 現在は、曹洞宗の六六山「詩仙堂丈山寺」となっている。

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 正面の入口「小有洞」

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 詩仙堂の玄関を通して見える庭園

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 3階建の「嘯月楼」や窓の形が珍しい。

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 嘯月楼の間と庭園

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 造園の名手といわれた丈山の設計した庭園は、土地の高低差を利用して眺望を確保しながら、唐様回遊式庭園となっている。

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 玄関上にある丈山当時の特異な建築、3階建の「嘯月楼」。

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 カエデの裏紅葉

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 高い位置にススキの群を植え、紅葉とともに仰ぎ見せる工夫がされている。

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 回遊式庭園の下部にある池に映る紅葉

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 時折鳴り響く音の主は、ししおどしとして知られる、この太い竹筒でできた「添水 」(そうず)だった。

 六六山 詩仙堂丈山寺
 京都市左京区一乗寺門口町27
 叡山電鉄「一乗寺駅」から徒歩15分
 市バス「一乗寺下り松町」から徒歩7分

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 一乗寺下り松「宮本・吉岡 決闘之地」の石碑
 行きの右手に気がついていたが、詩仙堂の帰り道に立ち寄った。狸谷不動明王道を下りてきて、曼殊院道とが分岐する場所にこの石碑がある。

 「一乗寺下り松の決闘」とは、この場所で江戸時代の初め宮本武蔵が吉岡道場一門の剣士数十人と決闘を行ったという有名な伝説があり、この石碑は大正10年に広島県呉の剣士により建立されたもので、傍らに立つ黒松は当時から4代目の松という。

〇 今日の一献 洛北の紅葉を訪ねて 京都大原の還りは叡山電鉄に乗って

―― その3 叡山本線の終着駅、叡電「八瀬比叡山口」から「一乗寺」へ

 大原からの帰りは、国道367号を走るバスで叡電「八瀬比叡山口」駅まで出て、そこから次の目的地、詩仙堂のある駅「一乗寺」に向かう。
 
 八瀬流域では八瀬川と呼ばれる高野川の流れの岸も、紅葉が進んでいた。

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 川中にはアオサギが佇み、小魚を狙っていた。

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 叡電「八瀬比叡山口」駅の秋明菊
 叡電「八瀬比叡山口」駅は、「出町柳」を始発駅とする5.6kmの叡山本線の終着駅で、叡山ケーブル・叡山ロープウェイを乗り継いで、比叡山山頂に向かう西の入口となっている。

 かつては、行楽客で賑わったこの路線も、交通手段が多様化したいまでは、寂れつつある。

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 1925年(大正14年)の開業以来の面影を残す木造駅舎。

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 叡山本線の終着駅特有のドーム状のトレイン・シェッドが、かつての栄光の香りを残す。
 1987年(昭和62年)導入の、アイボリーを主体に山をイメージした緑の帯を塗装した700系711号車がやってきた。

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 比叡山の麓の紅葉が美しい。
 ホームは3面2線の櫛形ホームとなっている。

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 アイボリーを主体に、山をイメージした緑の帯塗装の700系711号車

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 叡山電鉄の路線図

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 座席の色は紺で、すべてロングシート。天井が白、壁と床は薄いグリーンに塗られている。
 途中駅で、先生に引率された幼稚園児たちが乗ってきた。

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 新緑をイメージした黄緑ラインの723号車とすれ違う。

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 鞍馬線を走る、デオ800形電車のギャラリートレイン「こもれび」
 デオ800形電車は、叡山電鉄で初めて片運転台構造と2両永久連結を採用したもので、2003年から、815 - 816号車の編成でスカートが追加され、ギャラリートレイン「こもれび」として就役している。

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 「修学院」駅には、車庫が併設されている。
 レトロな緑の作業用車両・Zパンタの「デト1001」や赤色塗奏の消防・救急電車、「えいでん まとい号」が留置されているのが見える。

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 4つ目の駅の「一乗寺」で下車。
 途中の駅で幼稚園児たちが順次降りていったが、自転車で待っていた母親に聞くと、スクールバス代わりに使っているとのことだった。

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 駅を出て東へ、道を真っ直ぐに山に向かって町を抜け、しばらく坂を上がると、その先に目的地の詩仙堂がある。




〇 今日の一献 洛北の紅葉を訪ねて 京都大原「三千院」に行ってきた

―― その2 大原の里と三千院の綾錦

● 四方を山に囲まれた 大原の里
 大原の里は、京都市街の北東部、比叡山の西の山麓の高野川上流に位置し、およそ1300年前から京都へ魚介類を運んだ鯖街道の名で知られる若狭街道が貫く盆地の里だ。

 また、平安時代から都への木材や薪炭の供給地となり、鎌倉時代からは大原の柴や薪、農産物などを頭に載せて京の町まで行商した「大原女」でも知られ、その習俗は昭和初期まで約800年続いた。

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 高野川の谷に向かって下る、大原の棚田の眺望

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 里の風景

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 バス停から三千院へは「大原女の小径」の坂道が続く。

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 土産物屋が並ぶ小径に沿って、呂川の清流が流れる。 

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● 三千院の紅葉の綾錦
 この地にある寺院群は、比叡山の北西麓にあることから延暦寺の影響が強く、三千院も最澄が延暦年間(782 - 806年)に構えた「円融房」がその起源とされる天台宗の寺院だが、幾多の移転の後に、12世紀(平安末期)からあった阿弥陀堂のある現在地に、1871年(明治4年)に本坊が移ってきたものだ。

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 寒暖の差が大きい山間の盆地の大原の里にある天台宗の魚山三千院では、紅葉はすでに盛りを迎えていた。高い石段の御殿門の周りの紅葉が美しい。

 この日、TVの放送クルーに導かれた東京からのタレントのグループが複数見られた。

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 「聚碧園」の池に映る紅葉

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 宸殿前に広がる庭園「有清園」の中にある、苔むした杉木立と入母屋造で杮葺きの「往生極楽院」が佇む風景は、あまりにも有名だ。

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 国宝の阿弥陀三尊が安置された「往生極楽院」正面
 ここで、妙なことに気がつく。
 寺の正門である「御殿門」を入って、客殿から右回りで廊下を通り、「宸殿」から前に広がる庭園「有清園」を通して「往生極楽院」にある阿弥陀三尊を遥拝しようとするのだが、なぜか肝心の往生極楽院の建物は後ろを向いた配置となっている。
 だから阿弥陀三尊へのお参りは、堂の正面へ有清園をぐるっと廻らなければならないことになる。

 三千院の本堂である東の金色不動堂や奥の院の観音堂へ向かう道すがら、お参りをすれば良いといえばそれまでだが、わたしにはこの配置がひどく不思議に思えて、改めて寺の経緯を調べてみたわたしなりの推測は次のようなものだ。

 もともと平安末期からあったこの池や杉木立に囲まれた「往生極楽院」は、南(朱雀門方面)から遥拝するように南に向けて配置されていたが、明治になって移ってきた今の三千院が、南に十分な土地が無かったことで、西から北へ往生極楽院を取り込む形で右回りの配置で堂宇を整備したことで、結果的にこうなったのではないかということだがどうだろう。

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 有清園の苔むした「わらべ地蔵」たち

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 有清園の池畔に咲く白椿

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 紅色に塗られた朱雀門には、紅葉の綾錦がよく映える。

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 今が盛りの三千院参道の紅葉。

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 何度も京都を訪れながら、その見た目のイメージの悪さから、今までついぞ口にしたことが無かったニシンそばを、パートナーとともに初めて味わった。
 このとき、蕎麦屋の窓越しに綺麗な和装の女性が見えて、思わず撮ってみた。

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 京都名物ニシンそば
 初めて味わったニシンそばは、わたしにとってはやはりイメージ通りの味だった。




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