〇 今日の一献 名古屋で眺めた『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』2018-1-31

―― 地球に最も近づいた満月が月内に2度発現して、それが皆既月食した

 今回の皆既月食は、『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』というそうだ。

 いつのころからか、月が地球に最も近づいているときの満月を、「スーパームーン」と呼ばれるようになって、おまけに、月内に発生した2度目のスーパームーンを、「ブルームーン」といい、さらに、皆既時の月が血のように赤く見えるから、「ブラッドムーン」というそうな。

 だから今回の皆既月食は、『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』となるわけだ。

 どうやらこの呼称は、近年、西洋から持ち込まれたようにみえる。

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 月食前の『スーパー・ブルームーン』
 (20:10)

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 食の進行
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 皆既月食の始まり 『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』
 2018年 1月 31日 21時 51分 名古屋
  月   齢 14.439 
  月の輝面比 99.999% 
  月の地心距離 360,145km 
  平均との比率 93.690% 

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 皆既中の『スーパー・ブルー・ブラッドムーン』
 (22:15)
 今回もわが家のベランダから撮影したのだったが、名古屋市内では皆既後に雲が広がり、食の復元過程は雲の切れ間を縫っての撮影となった。

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 食の復元中の月
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 (23:50)

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 曇天の中、月食後の『スーパー・ブルームーン』
 (0:45)

000-▲組写真 201802の皆既月食画像

 ともあれ、貴重な画像を手に入れたからには、後始末としていつものようにまとめてみたので、大方の披露に供したい。

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 当夜の撮影機材
 SONY α550 
 SIGMA 70-300mm F4-506 DL MACRO
 GITZO R. No1 521








〇 今日の一献 秀吉写真クラブ撮影会 [Sunsetダイヤモンド富士」への序章

―― 自然とは思い通りにはならないもの ましてや富士山をや、、、

 新年事始めの秀吉写真クラブ撮影会、「西湖の樹氷まつりとSunsetダイヤモンド富士」の撮影のため、2018年2月3日の節分の日早朝7時、メンバー4人がいつものクラブサロン「れんげ」へ集合。

 コーヒーとモーニングサービスで軽く腹ごしらえをしながらのブリーフィング後の雑談に移行した頃、このまま長くなるのを早々に切り上げて出発し、東名高速を一路東に向けて疾走を始めた。

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 高速道路から遥か彼方に富士山が見えるのを確認すると、いよいよ期待が高まる。

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 高速を下りて一般道に入ると、辺りは雪の世界となる。


● 西湖樹氷まつり2018会場

 この季節、当地の冬の風物詩ともなっている西湖野鳥の森公園で行われている、西湖樹氷まつり2018会場で樹氷を撮影。

 山の天気の変化は目まぐるしく、晴天にもかかわらず、富士山の方角は雲に覆われ、フレームに捉えられず残念だった。

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 木の枝などで作ったオブジェに長期間水を噴きかけ、夜間の零下の気温で凍結させた樹氷が制作・展示されている。

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 森の中の池溏にある樹氷のオブジエ

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● 御坂峠から眺める笠富士と河口湖

 雪が残るきついカーブの山道が続く御坂道を登ること暫し、むかし東国遠征の日本武尊が越えたと伝わる標高1,520mの御坂峠へ。

 ここからは、頂上に雲を頂いた笠富士と眼下には河口湖が眺められた。

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 峠の脇にある「天下茶屋

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 ひとしきりの撮影後、峠の脇にある「天下茶屋」で、山梨名物「ほうとう鍋」で昼食。

 初めて食した「ほうとう鍋」は、白味噌仕立ての水団鍋といったところ。
 味は別にしても、寒い身体にはご馳走に感じる。

 御坂峠「天下茶屋」
 昭和9年開設、かつて徳富蘇峰が新聞で紹介し、井伏鱒二の作品「大空の鷲」や太宰治の小説「富獄百景」に現れる。
 山梨県南都留郡富士河口湖町河口2739

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 御坂隧道(全長396m・幅員6m・高さ4m)
 昭和6年竣工した隧道の河口湖口の扁額には、当時の内務大臣安達謙蔵の揮毫による「天下第一」の文字が刻まれている。
 冬季期間は通行止めとなっている。


● 河口湖畔から狙った[Sunsetダイヤモンド富士」

 われわれの到着時には、手前に部分凍結した河口湖を置いて、やがて訪れる日没前の太陽が富士に架かって煌くダイヤモンド富士の姿をカメラに収めようと、既に多くのカメラマンが湖畔に砲列を敷いていた。

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 待つこと暫し、いざその時分の到来になって、それまで山頂まで姿を見せていた富士は、遣らずの雨ならぬ厚い雲が広がり始めて富士を隠し、とうとう日没を過ぎても毫も姿を現さす、かくしてダイヤモンド富士の撮影は序章のままで終わった。

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 しかたがないので、先日の皆既月食で、月が湖畔の柵に忘れていった月のうさぎを最後に撮影して、納鏡して帰路に就いた。

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 発車後の車内でしばらくの沈黙の後、誰が言い出したか「次、またリベンジしましょう。」の言葉に、一同無言で首肯したことだった。

 なお、この日の旅程は600数十キロ。これを一人で運転していただいた、H氏の運転の腕前の確かさとご苦労に感謝したいと思う。






〇 今日の一献 エミール・ガレの世界が広がる 大一美術館へ行ってきた

―― 地域で光る、東海地方唯一のガラス工芸美術館

 『灯台下暗し』とはこのことだ。
 お恥ずかしながら、同じ中村区内に住みながら、しかも昨年にはもう開館20周年を迎えたという、主として19世紀末フランスのガラス工芸家エミール・ガレの作品群を展示する大一美術館へ、遅ればせながらパートナーとともに行ってきた。

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 大一美術館は、パチンコメーカーの大一商会が、企業メセナの一環として同社オーナーの収蔵品を元に1997年(平成9年)5月に開館したもので、美術館の敷地は、同社のもと工場跡地に建てられている。

 ここでは、展示物の写真撮影が可能となっている。

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 正面玄関の二重扉を開けて入ると目の前に、ロビー天井から垂れ下がる火炎のような巨大なガラスのシャンデリアに圧倒される。
 この作品は、アメリカの現代ガラス工芸作家デイル・チフーリの1997年の作品で、600個のガラスで構成され、重さは500kgもあるという。

 正面の階段を上がった2階は、この現代作家チフーリの作品の展示場で、1階ホールの左手から入ったところからガレ作品群の世界が広がる。

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 目玉作品の一つ、エミール・ガレの「鯉文月光色花器」1878年パリ万博出品。
 ジャポニズムの影響を色濃く受け、葛飾北斎の「魚濫観世音」をモチーフにした作品。

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 葛飾北斎の「魚濫観世音」

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 「昆虫と風景文花器」1880年
 エミール・ガレの肖像写真を写し込んでみた。

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 シャルル・マルタン・エミール・ガレは、陶磁器ファイアンス焼きと家具の工場の息子として1846年5月フランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。ガラス製造の技術を習得し、1878年のパリ万国博覧会に出品してから認められ、アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸、陶器などの巨匠となった。1904年9月白血病により死去(58歳)した。

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 展示場の風景

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 左上:「アラベスク文様花器」1889年
 右上:「ダリア文花器」1890年
 左下:「王妃マルゴ文花器」1880年
 右下:「ローズ・ド・フランス」1900年

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 「蜻蛉文漆風碗」1884年(伊万里焼茶器風ガラス碗)

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 「ジャンヌ・ダルク文花器」1889年のパリ万博出品

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 「好かれるための気遣い」
 1889年のパリ万博出品(青緑の4層ガラス)

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 「龍文花器」1890年(エジプト様式図柄作品)

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 「花形花器」1900年(中世風作品)

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 「ジャンヌ・ダルク文ランプ」1903年

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 「菊に蝶文ランプ」1900年(左手前)
 「紫陽花文ランプ」1900年(右)

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 日本の文化工芸品に多大な影響を受けた作品群(陶器作品)
 左上:「薩摩写獅子香炉」1870年
 右上:「装飾扇 菊に蝶」1878年
 左下:「獅子形陶器」1884年
 右下:「蝶文水差し」1880年
 
 わたしたちがエミール・ガレの一連の作品群に、なぜかしら深い親しみを感ずるのは、きっとこのジャポニズム(日本文化趣味)に強い影響を受けた作品が多いからに違いない。

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 「古代船形人物文飾り花器」1884年(陶器作品)

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 「蛙と魚文貝形陶器」1883年(陶器作品)

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 ● アメリカの現代ガラスアートの先駆者 デイル・チフーリの作品展示

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 2階には、現代作家チフーリの作品ガ展示されている。 

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 ベネチアで修行したチフーリの作品は、ベネチアングラスの系譜を色濃く感じさせる。

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 デイル・チフーリの肖像写真とその作品
 1941年アメリカワシントン州タコマ出身。ワシントン大学でテキスタイルデザインや建築学を学んでいる時にガラスに出会い、ヴェネチアでガラス工芸を習得し、アメリカ・デザイナー研究所賞、視覚芸術家賞などを受賞し、現代ガラスアートの先駆者として世界で最も注目される作家のひとりとなった。イングランド滞在中の1976年、自動車事故で左目が盲目となった。1992年には、アメリカで初めての人間国宝に認定されている。


● ピエール・オーギュスト・ルノアールの作品展示

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 ルノアールの「ビスケットを持つ幼児」(1896年)
 収蔵品の企画展、同時開催の「2大巨匠名品との出会い」3月4日まで

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 「花帽子の若い娘」(1895年)

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 館内のミュージアム・ショップ

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 市中心部から少し離れた西部地域に立地する施設だが、高品質でエレガントな企画展示が行われており、ガレ作品を中心とする東海地方唯一のガラス工芸美術館として、訪れて決して期待を裏切られることはないと思う。

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 大一美術館
 名古屋市中村区鴨付町1-22
 開館時間:10:00 – 17:00
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、12月30日~1月1日









〇 今日の一献 郷土戦国武将の故事を訪ねて 清須城へ行ってきた

―― 桶狭間の戦い、清須同盟、清洲会議、清洲越しなどの歴史の舞台となった城

 冬休みでやって来た、武将・歴史好きの孫とともに清洲城へ行ってきた。
 昨年の夏休みには、郷土戦国武将の故事を訪ねて名古屋城、犬山城、岡崎城などを訪れたが、今回は年末に、わが家の近くの秀吉・清正の生誕地である中村公園にある豊国神社や寺々などを巡ったのだった。

 ご存知のとおり、清洲城は織田信長が那古野城からここに移り、小牧城へ移る前の10年間居城とした城(清洲古城)で、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにはこの城から出陣している。

 また、1562年(永禄5年)の家康との同盟の盟約、「清須同盟」、1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が倒れた後の織田家の跡目相続会議、「清洲会議」、関が原の戦い後の1607年(慶長12年)には、家康の九男、後の尾張藩祖の徳川義直が入城するなど、歴史上の重要な舞台となった。

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 馬を駆って馬上から弓を射る、天守内の信長像

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 天守最上階から見下ろすと、眼下に五条川が流れ、赤い欄干の大手橋が架かる。
 本来の清洲城の位置は川の対岸にあり、新幹線の左手の清洲公園(二の丸)から右(本丸・北曲輪)にかけて曲輪が続いていたとされる。

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 後期清洲城と城下町の復元ジオラマ

 清須会議の後、この城は次男織田信雄が相続し、2重の堀、大天守・小天守などが造営(後期清洲城)されたが、度重なる五条川の氾濫に悩まされる。

 大阪方の備えとして、水攻めを怖れた家康は、東方にある高台の広い名古屋台地に名古屋城と城下町を建設し、1609年(慶長14年)に人も物も全て町ぐるみの移転、「清洲越し」が行われると、この城は廃城となり町は廃墟となった。
 (江戸時代になって街道が整備され、ひとや物流が活発になると、清須の宿として復活する。)

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 かつての清洲城の曲輪域を貫いて新幹線が走る。

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 天守から東方8kmの、「清洲越し」先の名古屋の城下町を望む。

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 天守などの文献資料が乏しく、現在あるのは旧清洲町の町制100周年を記念して、平成元年に京都の伏見城を参考に桃山時代の城を想像しながら再建された模擬天守だが、それでもその姿には力が篭められ堂々として美しい。

 なお、後期清須城の曲輪の研究については、鈴木正貴著『後期清須城本丸考』愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第13号(2012年.5月)に詳しい。

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 後期清須城本丸周辺の想定復元図
 『後期清須城本丸考』から

清須城曲輪2_jpgのコピー

 ● 清洲城
 愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
 休館日:月曜日〈休日の場合は直後の平日〉、12月29日から31日
 ただし、桜の花見期間・清洲城信長まつり期間は開館








〇 今日の一献 孫に引かれて 『あいち航空ミュージアム』へ行ってきた

―― 航空機の開発・生産の伝統の地で実機を展示する博物館

 関東に住む孫が冬休みの年末年始にやってきたので、昨年(2017年)11月にオープンしたばかりの県営名古屋空港に併設された『あいち航空ミュージアム』へ、孫を連れてパ-トナーとともに行ってきた。

 鉄骨造2階建ての施設(延床面積7,900m²)のフロアには、戦後初の国産旅客機「YS-11」などの実機が置かれ、2階フロアには、日本の航空史に残る名機百選の模型やサイエンスラボがあり、また展望デッキからは県営名古屋空港に離着陸する飛行機も眺められる。

 ものづくりの盛んな愛知県は、戦前・戦後を通じてわが国の航空機の開発・生産の伝統のある地で、現在では航空宇宙産業の拠点ともなっている。

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 あいち航空ミュージアム2階のエントランス
 
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 地上フロアには、戦後初の国産旅客機「YS-11」などの実機が並ぶ。
 2階フロアには、名機百選の模型コーナーやサイエンスラボがある。

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〇 戦後初の国産旅客機「YS-11」
 YS-11は、第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機で日本の高度経済成長期を象徴する存在となっている。
 1962年8月に初飛行に成功し、1973年(昭和48年)3月の生産終了までに182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造された。
なお、製造は三菱重工業、川崎重工業、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立ては三菱重工業の小牧工場が担当した。

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 乗員= 2名、定員= 56~64名
 全長= 26.3m、全幅= 32.0m、全高= 8.98m
 自重= 14,600kg、最大航続距離= 2,200km
 最大巡航速度= 470~480km/h

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 この機体は、航空自衛隊のYS-11P輸送機仕様 52-1152号機
 1965年3月に初飛行し、要人や幹部の移送のためのVIP仕様で航空自衛隊に導入され、52年後の2017年5月に総飛行時間2万3,872時間で退役し、生まれ故郷に戻ってきた機体だ。
 
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 2階フロアの名機百選の模型展示

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 名機百選の模型の一部
 左上:「アンリ・ファルマン複葉機」1909年(明治42年)
 右上:日本海軍夜間戦闘機「月光」1943年(昭和18年)
 左下:日本陸軍戦闘機「飛燕(三式戦闘機)」1943年(昭和18年)
 右下:朝日新聞欧州往還機「神風号」1937年(昭和12年)

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 地上フロアにある航空整備士職業体験コーナー(航空機の離着陸シミュレーションも体験できる。)

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 インストラクターの説明で、航空機の点検整備の体験ができる。

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 〇 「八〇式名市工フライヤー」

 2017年1月に70mの初飛行に成功した、名古屋市立工業高校の生徒が製作した八〇式名市工フライヤー。
 2010年の試作1号機から数えて7年の、6機目の機体。

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 トイレの中には「YS-11」の操縦席が広がる。

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 展望デッキからは、県営名古屋空港を離着陸する航空機が眺められる。

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 1階「飛行機の工房」に展示されている「零戦五二型甲」。

〇 旧日本海軍の主力艦上戦闘機「零戦五二型甲」
 零式艦上戦闘機は、第二次世界大戦時の大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機で、零戦(ゼロ戦)の略称で知られ、航続距離2,200km、20mm機関砲2門の重武装と優れた格闘性能を生かして米英の戦闘機に対し優勢に戦い、戦局に寄与した。
 終戦時まで主力戦闘機として運用され、爆撃、特攻任務にも使用された。この「零戦五二型甲」は、その派生型の「三菱4708」号機。

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 この機体は、1944年に旧三菱重工業大江工場(名古屋市)で生産され、1983年にミクロネシアのヤップ島で発見されたゼロ戦の残骸の部品を使うなどし、2年かけて復元されたもの。

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 『あいち航空ミュージアム』
 愛知県西春日井郡豊山町豊場(県営名古屋空港内)
 10:00-19:00(休館日:火曜/祝日の場合は翌日)

 なお、隣接する三菱重工業小牧南工場内のMRJ最終組立工場5階フロアには、「MRJミュージアム」が開設され、展示室(約1,150㎡)や2階のMRJ実機の製造作業を見学することができる。



〇 今日の一献 いまも佇む 中村公園の「ラジオ塔」

―― 機能を失い、朽ちるに任せたままの歴史的遺物

 いまも時々訪れる名古屋の中村公園は、子供の頃からわたしの遊び場だったが、気がついたときには、この施設はもうここにあった。

 時折、ブツブツと音がしたことがあるけれど、何のための施設か分からなかったが、大人に聞くと「ラジオ塔」だということだったが、その時のわたしの関心はそこまでで、以後はずうっとそのままになっていた。

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 生誕地に因んで秀吉の馬印から名前を取った、桜の季節の「ひょうたん池」。

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 松の木立に囲まれて目立たない場所に、「ラジオ塔」がある。

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 先日訪れたときに気になって寄ってみたら、太く育った松の木立に囲まれて「ラジオ塔」は、まだそこにあった。

 帰ってから調べたら、市発行の『名古屋の公園』の中の「昭和18年の名古屋市公園一覧」の施設に中村公園の「ラジオ塔」が出でいるのがこれだろうから、少なくとも1943年以前には、もうここに建てられていたことになる。

 そもそも「ラジオ塔」は、正式には「公衆用聴取施設」といい、ラジオ受信機とスピーカーが内蔵された高さ2~3mの塔で、1925年(大正14年)にラジオ放送が始まってから、当時はまだ高級品だったラジオを一般に普及させるため、1930年ごろに大阪・天王寺公園にラジオ塔が設置されたのを始まりとして、全国の公園や神社の境内に広がっていったとされ、1941年には全国で460基あったことが確認されている。

 その後、非常時の情報伝達の機能やラジオ体操の会場の役割を担ってきたが、やがてラジオの一般家庭への普及やテレビの出現により、ラジオ塔の役割は廃れていき、いまではその存在すらも忘れ去られたのだろうと思われる。

 その『名古屋の公園』によると、当時は市内の7つの公園に設置されていたようだが、このうち今も残るのはこれを含めて3基のみという。

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 改めて近づいてよく見ると、わたしが幼いころに気づいた当時には、松の根が太く張ったせいか傾いていた塔は、その後に造られた土台の上に垂直に直されて建ってはいるが、やはり建設から70年以上を経て、壁には亀裂が入り屋根は苔むした、朽ちるに任せたままの状況で、そのうち上部から崩壊するのではないかとの予感さへ伝わる。

 聞くところによれば、所によっては、地域に残るラジオ塔が修復・再建されたり、中には国の登録有形文化財に指定されたものもあるという。

 そんなことを思いながら見回すと、20mほど離れたところに、公園管理事務所があるのだが、、、、、。










〇 今日の一献 洛北の紅葉を訪ねて 江戸時代の文人石川丈山が愛した詩仙堂

―― その4 江戸時代の文人石川丈山が愛した一乗寺の詩仙堂

 石川丈山は、1583年(天正11年)安城市和泉町で生まれ、譜代武士として家康に仕えていたが、浪人となってから漢詩に頭角を顕し、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通し煎茶の祖ともいわれる江戸時代初期の文人だ。

 比叡山西麓にある「詩仙堂」は、1641年(寛永18年)に石川丈山が自分の隠居のため、でこぼこした土地に建てた住居という意味の「凹凸窠」の名で造営し31年間隠棲した山荘で、国の史跡に指定されている。

 名古屋中村生まれの洛東の隠者、木下長嘯子の歌仙堂に倣って、中国の詩家36人の肖像を狩野探幽に描かせた「詩仙の間」があることから、いつしか「詩仙堂」の名で知られるようになった。

 現在は、曹洞宗の六六山「詩仙堂丈山寺」となっている。

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 正面の入口「小有洞」

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 詩仙堂の玄関を通して見える庭園

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 3階建の「嘯月楼」や窓の形が珍しい。

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 嘯月楼の間と庭園

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 造園の名手といわれた丈山の設計した庭園は、土地の高低差を利用して眺望を確保しながら、唐様回遊式庭園となっている。

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 玄関上にある丈山当時の特異な建築、3階建の「嘯月楼」。

0-20171110-3 panorama 詩仙堂庭園

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 カエデの裏紅葉

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 高い位置にススキの群を植え、紅葉とともに仰ぎ見せる工夫がされている。

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 回遊式庭園の下部にある池に映る紅葉

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 時折鳴り響く音の主は、ししおどしとして知られる、この太い竹筒でできた「添水 」(そうず)だった。

 六六山 詩仙堂丈山寺
 京都市左京区一乗寺門口町27
 叡山電鉄「一乗寺駅」から徒歩15分
 市バス「一乗寺下り松町」から徒歩7分

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 一乗寺下り松「宮本・吉岡 決闘之地」の石碑
 行きの右手に気がついていたが、詩仙堂の帰り道に立ち寄った。狸谷不動明王道を下りてきて、曼殊院道とが分岐する場所にこの石碑がある。

 「一乗寺下り松の決闘」とは、この場所で江戸時代の初め宮本武蔵が吉岡道場一門の剣士数十人と決闘を行ったという有名な伝説があり、この石碑は大正10年に広島県呉の剣士により建立されたもので、傍らに立つ黒松は当時から4代目の松という。

〇 今日の一献 洛北の紅葉を訪ねて 京都大原の還りは叡山電鉄に乗って

―― その3 叡山本線の終着駅、叡電「八瀬比叡山口」から「一乗寺」へ

 大原からの帰りは、国道367号を走るバスで叡電「八瀬比叡山口」駅まで出て、そこから次の目的地、詩仙堂のある駅「一乗寺」に向かう。
 
 八瀬流域では八瀬川と呼ばれる高野川の流れの岸も、紅葉が進んでいた。

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 川中にはアオサギが佇み、小魚を狙っていた。

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 叡電「八瀬比叡山口」駅の秋明菊
 叡電「八瀬比叡山口」駅は、「出町柳」を始発駅とする5.6kmの叡山本線の終着駅で、叡山ケーブル・叡山ロープウェイを乗り継いで、比叡山山頂に向かう西の入口となっている。

 かつては、行楽客で賑わったこの路線も、交通手段が多様化したいまでは、寂れつつある。

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 1925年(大正14年)の開業以来の面影を残す木造駅舎。

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 叡山本線の終着駅特有のドーム状のトレイン・シェッドが、かつての栄光の香りを残す。
 1987年(昭和62年)導入の、アイボリーを主体に山をイメージした緑の帯を塗装した700系711号車がやってきた。

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 比叡山の麓の紅葉が美しい。
 ホームは3面2線の櫛形ホームとなっている。

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 アイボリーを主体に、山をイメージした緑の帯塗装の700系711号車

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 叡山電鉄の路線図

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 座席の色は紺で、すべてロングシート。天井が白、壁と床は薄いグリーンに塗られている。
 途中駅で、先生に引率された幼稚園児たちが乗ってきた。

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 新緑をイメージした黄緑ラインの723号車とすれ違う。

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 鞍馬線を走る、デオ800形電車のギャラリートレイン「こもれび」
 デオ800形電車は、叡山電鉄で初めて片運転台構造と2両永久連結を採用したもので、2003年から、815 - 816号車の編成でスカートが追加され、ギャラリートレイン「こもれび」として就役している。

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 「修学院」駅には、車庫が併設されている。
 レトロな緑の作業用車両・Zパンタの「デト1001」や赤色塗奏の消防・救急電車、「えいでん まとい号」が留置されているのが見える。

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 4つ目の駅の「一乗寺」で下車。
 途中の駅で幼稚園児たちが順次降りていったが、自転車で待っていた母親に聞くと、スクールバス代わりに使っているとのことだった。

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 駅を出て東へ、道を真っ直ぐに山に向かって町を抜け、しばらく坂を上がると、その先に目的地の詩仙堂がある。




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