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〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その2

〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その1
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の東南隅櫓と西南隅櫓  からの続き
    http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-478.html


―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓

 天守閣が城の要であり、戦いの最後の砦であるとすれば、隅櫓は城の周りの要所にあって、天守に至る攻め手への物見や防御・攻撃のための重要な役割を果たしている。

 信長の安土城以降になると、天守閣の建物の意匠にも破風や漆喰、屋根瓦などの寺社建築の様式を取り入れた美しい建築装飾がなされ、支配者の権威を誇示するための見せる城となるに伴い、周りの隅櫓にも本来の機能性だけに留まることなく、あたかも天守の華麗さを引き立てるかのように、装飾性が取り入れられるようになる。

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 名古屋城では、江戸時代に大小取り混ぜて11基あった隅櫓にも様々な建築装飾が施されていたようだが、階高を見ると、本丸から遠い二ノ丸や西之丸に配置された隅櫓は、低い2階建てで配置され、5階建ての天守を取り囲む本丸の隅櫓は3階建てにして、天守からの眺望を確保する一方、この階高別の櫓の配置によって、三之丸の家臣団や城域外の南に広く配した城下町の庶民からも、常時お城の威容・華麗さ、曳いては城主の権威性を見易く、判りやすくさせるための心理的な配置設計がされているように思える。

 (名古屋城ではこの外に、巨大な天守上に頂く燦然と輝く金の鯱が遠目にも見え、嫌が上でもその権威をさらに高めていた。)

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 写真好きの尾張藩14代藩主徳川慶勝が撮影した、幕末当時の二重2階建てだった二ノ丸太鼓櫓と二ノ丸東南隅櫓

 しかし、本丸の北西、御深井丸の西北隅に建つ西北隅櫓は、本丸に位置しない隅櫓にもかかわらず、外観三重、内部3階建で、小規模な城の天守とさえ見紛うばかりの華麗な櫓となっている。

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 名古屋城北西の外堀から眺めた西北隅櫓
 この位置から見ると、高く生い茂った木々に天守が隠され、この櫓が城の天守とさえ見紛うばかりだ。

00- 名古屋城 hokuseisumiyagura 離宮

 戦前の天守閣焼失前の古絵葉書
 多聞櫓や土塀が撤去されているものの、天守と櫓の位置関係が良く分かる。



● 西北隅櫓(辰巳櫓・清洲櫓)

 西北隅櫓は、外堀に面した御深井丸の西北隅に位置し、天守や本丸御殿が完成した数年後の1619年(元和5年)ごろに建てられたとされ、当時は戌亥櫓と呼ばれていた。
 外観三重、内部3階建、本瓦葺の屋根は入母屋造りで、高さ16.3m、東西13.9m、南北15.9mの規模は、高さ15.7mの宇和島城天守を上回り、高さでは及ばないものの高知城天守(高さ18.6m)に比べれば平面規模では凌駕する立派なものとなっている。

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 北西方向から眺めた西北隅櫓

 この櫓の1階の屋根の堀に面した西・北面には、千鳥破風と出窓型石落が設けられ、装飾性と防御を高めている。
 さらに、先に見てきた東南・西南隅櫓の原則とは異なり、三重の屋根と堀に面していない東・南面の1階にも千鳥破風の屋根が設けられ、豪華さを醸し出している。

 もともと本丸から遠い、同じ御深井丸の北東西寄にあった弓矢櫓は、この城の原則どおりの二重2階建てのものであったことからしても、外観三重のこの櫓の規模・装飾性は特別であったことが判る。

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 徳川慶勝が撮影した、幕末当時の西北隅櫓。
 石垣上には多聞櫓が櫓に接続している。

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 西北隅櫓の北・東面

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 実測「名古屋城西北櫓西側姿図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 実測「名古屋城西北櫓縦断面図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 東面1階の千鳥破風

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 城内、御深井丸から眺めた西北隅櫓
 南面1階の千鳥破風が見える。

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 西北隅櫓の位置する御深井丸は、本丸の後衛を担う重要な郭であり、当初は郭の外側の全ての石垣上に武器庫などとなる多聞櫓を建設する計画だったようだ。
 しかし、1615年(慶長20年)5月の大坂夏の陣で徳川幕府方が大坂方を滅ぼしたことによる戦乱の世の終焉で、計画は工事途中で変更され、郭の周囲は土塀を巡らせることになったという。

 櫓の東・南面にある出入口には、当時既に部分完成していた多聞櫓が接続していたためか屋根がない。

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 櫓の壁の仕組みを説明したサンプル

 竹で編んだ下地に、漆喰の荒壁を施し、その上に4層の漆喰で固められている。

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 この櫓は、内部の壁が漆喰で化粧されている。

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 石落からの石垣と堀の眺め。
 1階の堀に面した北・西側に設けられた石落。

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 2階へ上がる階段は、踊り場を持った折り返し階段となっている。

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 2階も内部の壁は漆喰で化粧されている。
 窓は連子が入った武者窓となっている。

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 千鳥破風の屋根と丸伏せ瓦。銅製の釘で止められている。

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 大梁の接合状況。

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 他の建物からの転用が推定される梁材

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 名古屋城の築城に伴い、1612年(慶長17年)から1616年(元和2年)ごろにまでかけて清洲から名古屋への都市の移転、いわゆる「清洲越し」がおこなわれたため、この櫓は江戸時代から清洲城の小天守か櫓を移築したとの言い伝えがあって、「清洲櫓」とも呼ばれてきた。

 しかし、1962年(昭和37年)から3年間にわたる櫓の解体修理の結果、複数の建物の古材を転用してはいるが、櫓の完成は1618年(元和4年)以後であることが明らかとなり、清洲城からの移築ではないことが確定した。

 ここで新築の櫓の建設資材に、他の建物の古材が転用されているということに不信感を感じるところもあるが、昔から城や寺社の建築時には、新材よりもむしろ狂いの少ない乾燥した古材の転用は普通に行われてきたことによるようだ。

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 最上階の三階内部の北方向
 天井の梁がむき出しとなっている。
 3階には武者走りの廻り廊下があり、その内側には長押を巡らせて畳が敷かれ、引戸が立てられていたようだ。
 結局、この櫓内部の全ての階の壁には漆喰が施されていた。

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 最上階の三階内部の南方向
 南面と東面南側は壁で、窓は設けられていない。

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 最上階の天井の梁の状況。

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 連子の入った武者窓と連子のない窓が混在する。

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 千鳥破風の屋根の軒

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 北の外堀から眺めた天守と西北隅櫓

 ところで、いままでいくつかの隅櫓について見てきて、にわかに湧いた素朴な疑問は、「なぜ同じ城内にあるにもかかわらず隅櫓は同じ格好をしていないのだろうか?」ということだ。

 完成期日が決められた同機能の複数の建築物を、最も効率的・合理的に完成させるためには、階高、建築面積などの規模、柱立てや屋根、窓、石落しの配置・数と建築装飾の様式などといった基本要素を盛り込んだ基本的な設計ができれば、あとはその設計を基に方角などが異なるそれぞれの建設場所によって、いくつかの要素を組み替えるだけで、同じ格好の整然と統一した櫓群が完成するはずだ。

 それにもかかわらず、今見てきたようにこの名古屋城の隅櫓群は、階高などの基本要素には統一性があるものの、それぞれの隅櫓の意匠・装飾などに各々の個性の主張が認められ、なぜか素人目にも規格性・統一性を欠いたものとなっているのがわかる。


 ここで中途となってしまうがとりあえずこの稿はこれまでとし、この素朴な疑問は、わたしの後日への宿題にしたいと思う。(了)






〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その1

―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の東南隅櫓と西南隅櫓

 この時期(2018年8月)、名古屋城では毎年恒例の『名古屋城夏まつり2018』が開催されているが、今年は特別イベントとして、城内に現存する重要文化財の三隅櫓の同時公開が行われている。

00-201800813 名古屋城夏祭り

 もともと江戸時代から天下の名城、名古屋城内には、大小合わせて11基もの隅櫓があったが、明治以後の破却や地震、空襲などによる被害で消滅し、現在は東南隅櫓・西南隅櫓・西北隅櫓の3つの隅櫓が残る。

 しかし、これらは重要文化財であることもあって、時折のイベント時以外、普段は櫓内の公開がされていないが、今回は特別に三隅櫓の同時公開が行われており、数少ないまたとない機会として、このところ続く酷暑にもめげず出かけてきた。

000-名古屋城天守と本丸御殿

 昭和期の空襲被災前の名古屋城の航空写真
 ①東南隅櫓、②西南隅櫓、③西北隅櫓


 三つの隅櫓のうち東南隅櫓と西南隅櫓の外観は二重櫓だが、内部は3階建てで、西北隅櫓は三重櫓の3階建て。それぞれ高さは13~16mある、意匠を凝らした立派な建物だ。

 かつては若い頃、他国の人から「名古屋城の天守閣はコンクリート製だ。」と揶揄されると、負けず嫌いのわたしは、「でも、他の国宝天守閣の規模にも引けを取らない国宝級の隅櫓が、名古屋城には三つもあるんですよ。」と言い返したものだった。


● 東南隅櫓(辰巳櫓)

 東南隅櫓は本丸の南東隅に位置し、1612年(慶長17年)ごろ天守完成時に建てられたとされ、辰巳櫓と呼ばれていた。
 高さ13.5m、東西11.6m、南北13.6mの規模の木造建築物。
 外観二重、内部3階建で、屋根は入母屋造り、本瓦葺。鬼瓦などに徳川家の家紋「葵紋」が入っている。2階の東面と南面屋根には千鳥破風があり、出窓型石落が設けられている。
 東面の3階屋根に設けられた高級装飾の軒唐破風が、2階の千鳥破風とともに美しい。

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 東面3階の屋根にある軒唐破風と2階の千鳥破風、そして東、南に設けられた出窓型の石落の意匠がこの櫓全体を美しく見せている。

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 かつては、櫓の建物と接続して土塀が設けられていた西面と北面は、装飾に乏しい。

000-名古屋城東南櫓南側姿図B1220600_edited-1

 実測「名古屋城東南櫓南側姿図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 実測「名古屋城東南櫓縦断面図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 櫓の1階内部
 当時は畳が敷かれていたようで、櫓に収蔵された甲冑を管理する御具足奉行の執務室ともなっていた。

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 3階の天井裏は設けられておらず、天井は高い。

00- 名古屋城 大手門・東南隅櫓

 東南隅櫓から西方を撮影した、戦災前の名古屋城の古絵葉書

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 土塀が接続していたからか、本丸側二面の櫓の装飾は乏しい。城主の居住区画を覗き見るのを憚ってか、本丸内側方面には出入口のほかには、最小限の窓しか設けられていない。

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 さらに詳しくは、以下の拙稿を参照されたい。

〇 名古屋城の本丸「東南隅櫓の特別公開」に行ってきた
―― 幾多の災難を逃れ、400年前の築城当時の姿を残す隅櫓
  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-455.html



● 西南隅櫓(未申櫓)

 西南隅櫓は本丸南西隅に位置し、1612年(慶長17年)ごろ、天守完成時に東南隅櫓と共に建てられたとされ、当時は未申櫓と呼ばれていた。
 高さ13.1m、東西12.0m、南北13.5mの木造建築物。
 外観二重、内部3階建で、屋根は入母屋造り、本瓦葺。もともと鬼瓦などには徳川家の家紋「葵紋」が入っていたとみられるが、明治24年の濃尾大地震で崩壊し、明治以降に離宮として管理していた宮内庁が大正12年に修理したため皇室の「菊のご紋」が見られる。
 2階の西面と南面の屋根には千鳥破風があり、出窓型石落が設けられている。
 南面の2階石落屋根には小規模な軒唐破風が設けられ、2階の千鳥破風とともに装飾となっている。

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00-名古屋城 天守閣と東南隅櫓-00

 天守閣と西南隅櫓を写した戦災前の名古屋城の古絵葉書

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 本丸空堀の石垣上に建つ西南隅櫓。2階の西面と南面の屋根には千鳥破風があり、出窓型石落が設けられている。
 南面の2階石落とし屋根には小規模な軒唐破風が設けられ、2階の千鳥破風とともに華麗な装飾となっている。

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 この櫓も建物と接続して塀が設けられていた東面と北面は、装飾に乏しい。

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 屋根上の青銅製の鯱

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 2階西面の千鳥破風
 濃尾地震で崩壊した西南櫓は、当時管理していた宮内省によって修復されたため、鬼瓦などには菊花紋が刻まれている。
 
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 塀が接続していた本丸側二面の櫓の装飾は乏しい。城主の居住区画を覗き見るのを憚ってか、東南隅櫓と同じように本丸内側方面には出入口のほかには、3階の小さな窓しか設けられていない。

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 実測「名古屋城東南櫓西側姿図」
 出典:名古屋城管理事務所

000-名古屋城西南櫓縦断面図 B1520700_edited-1

 実測「名古屋城東南櫓縦断面図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 1階内部
 この櫓は畳敷きで、歴代城主の甲冑が納められていたという。

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 手摺が付けられ、踊り場が設けられた、2階へ上がる階段

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 2階の天井は思いのほか高い。
 建築には素人のわたしだが、東南隅櫓に比べると、なぜかこの櫓内の雰囲気は異なり、補強のためか水平材と斜材の接合などに、やたらボルトや平型I字金具などが使われているのが目立って見える。
 これは濃尾大地震で空堀に崩落したこの櫓が大正時代になって復旧・再建された時に、新しい部材や技術で補われたからだろうと思うのだが、、、どうだろう。

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 武者窓の下では、『名古屋城夏まつり2018』が行われていた。

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 3階へ上る階段も踊り場を備える。

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 3階から階段下を見る。

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 これは創建時からの内部の意匠だろうか、この櫓には歴代城主の甲冑が納められていたからか、最上階の3階は他の櫓とは異なり、梁はむき出しとなっておらず天井板が貼られている。
 また、この階には廻り子と長押が設けられており、デザインは違うものの復元された本丸御殿に使われたと同じ金箔の飾釘隠しも施され、特別な空間となっている。

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 金箔が使われた飾釘隠し

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 3階の窓から眺めた千鳥破風の屋根の棟瓦にも、菊花紋が見える。

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 左遠方には名古屋駅方面の高層ビル群が見える。
 城内の右眼下では、展示収蔵施設の建設が進められている。

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 物見や防戦・攻撃などの機能を果たすべく、城の隅櫓の開口部(窓)は堀の外へ向かう面に設けられ、郭内に向かう面には少ない。しかし、見せることを意識した屋根や軒などの装飾は、専ら堀の外へ向かう面に設けられている。

 この3階の小さな北窓は、郭内の天守が眺められ、まるで景色を切り取る「ピクチャー・ウインドウ」のようだ。

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 3階の北窓から眺めた本丸方面のパノラマ画像。


 〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その2
 ―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓  に続く、、、。








〇 今日の一献 完成公開されたばかりの名古屋城本丸御殿へ行ってきた

―― 遺された豊富な資料を基に400年前と寸分違わず復元した御殿

 夏休みでやってきた、関東に住む孫たちの課題研究のお付き合いで、先日(6月8日)完成公開されたばかりの名古屋城本丸御殿へ取材に行ってきた。

 本丸御殿は、江戸時代の初期、徳川家康によって建設された名古屋城内に尾張藩主の住居・政庁として建てられ、330年間の長きにわたって整備されながら使われてきた国宝だったが、太平洋戦争の空襲で1945年(昭和20年)の終戦の年に惜しくも天守閣などとともに焼失した。

 一方、名古屋城の天守閣については、市民の浄財を合わせ1959年(昭和34年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものの、本丸御殿の再建は資金調達難などによりかなわず、長らく礎石だけが残されたままに置かれていた。

00-名古屋城天守と本丸御殿

 戦前の焼失前の名古屋城と本丸御殿の航空写真

 しかし、戦前に城郭として国宝第1号に指定されていたことから、本丸御殿は国などによる建物の実測図や写真などの膨大な資料が残されており、また悪化する戦況の下で当時の先人の努力により、あらかじめ天井板絵や襖絵などの動かせる多くのものが疎開されていたことから遺り、1992年(平成4年)ごろから障壁画などの復元模写が続けられてきた。

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00-furusyasin-5本丸御殿

 この間、地道に粘り強く続けられてきた市民団体による再建運動と相まって、やがて一般市民の再建への機運の高まりに押され、名古屋市では御殿復元の寄附金募集を始め、遺された豊富な資料を基に2009年(平成21年)から本格的な復元工事に着手し、ようやく10年の歳月と総工費150億円をかけて、このほど400年前の創建当時と寸分違わぬ御殿が復元されたものだ。

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 本丸御殿の復元平面図
 復元工事は、3期間に分けて順次進められ、区間の完成の都度、一般公開がされてきた。
 もともと本丸御殿は、家康の命により1615年(慶長20年)名古屋城とともに九男・義直(尾張藩祖)の住居・政庁として建てられたもので、近世城郭御殿の最高傑作と言われ、京都二条城の二の丸御殿とともに武家風書院造の双璧ともされ、戦前の国宝に指定されていた。

 御殿の規模は、平屋建て総面積3,100㎡で、部屋数は30を越え、最も高いところの高さは12.7m。


● 本丸御殿正面「玄関・車寄」

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 玄関建物は入母屋造の妻入で、入口の突き出した車寄は杮葺の唐破風屋根となっている。

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 「玄関 一之間」北面
 御殿の部屋毎の襖絵や障壁画などは、当時の日本画壇の一級の絵師、狩野貞信や狩野探幽などの「狩野派」の絵師たちにより描かれ、豪華絢爛に彩られていた。
 復元模写の作業は、現存する原画や写真などを基に、当時の画材などを使いながら制作当時に忠実な再現が行われた。

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 「玄関 二之間」北面 金地の障壁画「竹林豹虎図」
 日本に生息しない強い猛獣の虎、豹などは、入手できた毛皮を基に猫の姿を参考にしながら描いたといわれ、玄関を入った来訪者をまず威嚇し、緊張感を高めさせるためだったとも言われている。

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 玄関と表書院を繋ぐ廊下
 領内に産した木曽ヒノキの良材が、建物全体にふんだんに使われていた。
 復元に当たっても、良材の確保が一番の課題であったとされる。

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 金箔が使われた飾釘隠し
 本丸御殿には、建築工事や建具から金具などにいたるまで、当時の一級の職人の技が施されており、復元に当たっても、それらを今も伝承する宮大工や建具・金工職人の技が動員された。


● 尾張藩主の公式な謁見場所として使われた「表書院」

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 「表書院 一之間」北面

00-一之間から上段之間を望む 出典:名古屋城総合事務所03

 焼失前の写真 「表書院 一之間」から「上段之間」を望む
    出典:名古屋城総合事務所

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 尾張藩主が着座した「表書院 上段之間」北面
 座敷飾りとして、床、違棚、廊下側に張出した付書院、帳台構などを備える。


● 藩主が身内など親しい者たちと対面、宴席を開いていた「対面所」

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 「対面所 次之間」北面

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 藩主が着座した「対面所 上段之間」


● 将軍上洛時の専用宿泊施設の「上洛殿」

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 「上洛殿」の外観
 もともと藩主の居住する御殿であった本丸御殿は、1620年(元和6年)に将軍上洛時の専用宿泊施設とすることになり、より格式の高い「上洛殿」が増築され、これ以後、尾張藩主は「二之丸御殿」に居住し政務を執ることとなり、「御成御殿」と呼ばれるようになった。

 なお、この「御成御殿」(本丸御殿)に宿泊した将軍は、秀忠(第2代)、家光(第3代)、家茂(第14代)の3人だけだった。

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 本丸御殿と「上洛殿」の平面図

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 徳川将軍専用の宿泊施設の「上洛殿」の廊下にある、豪華な花鳥の透かし欄間

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 「上洛殿」廊下の透かし欄間の部分拡大
 表裏の絵柄を変え、立体的に彫り出されている。

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 極彩色の花鳥の透かし欄間のある「上洛殿 一之間」
 襖の向こうが、将軍が座る上段之間。

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 「上洛殿 上段之間」の武者隠し

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 「上洛殿 二之間」の黒漆塗金具付格天井の天井画

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 獅子やボタンの花などを組合せた金箔と黒漆象嵌の「花熨斗金具」

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 精巧な組子細工が施された、廊下の明り取り建具。

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 入母屋造の殿舎「上洛殿」の屋根の軒飾

 こうして今回、復元完成した本丸御殿ではあるが、建物は空襲で焼失したものの、天井板絵や襖絵など多くのものが疎開されていたことから焼失を免れ保管されており、現在そのうちの1,047面が国の重要文化財の指定を受けている。

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 名古屋城天守閣と本丸御殿

 ところで、今回孫にとっては、炎暑の中での過酷な御殿探訪だったと思うけれど、軽いブリーフィングを受けた後での現地踏査による写真撮影や資料収集などを意欲的に短時間でこなし、何とか課題研究のまとめに目処が付いたようだった。


● 木造復元を目指して、石垣調査が行われている天守閣

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 1959年(昭和34年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された天守閣は、50年以上を経て、耐震上の問題などから再建する必要性が議論されるようになった。

 現在、天守閣の再建を目指して石垣の耐震調査が行われており、今後5年をかけて500億円の建設費を見込みながら、創建当時の木造による復元の計画が進められている。

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● 本丸御殿 余話
―― 名古屋城天守閣や本丸御殿の焼失は米軍の誤爆だったか

 1944年(昭和19年)末から本格的に始まった太平洋戦争の本土への戦略爆撃は、終戦の1945年(昭和20年)8月15日まで、主に焼夷弾の投下を中心とする無差別空襲として連続的に行われ、名古屋を始めとする全国各都市に甚大な被害をもたらした。

 こうした一連の空襲爆撃の下で、1945年(昭和20年)5月14日の大都市市街地爆撃としては唯一の昼間の時間帯に行われた「名古屋空襲」は、ついに名古屋城にも及び、この時本丸御殿、大・小天守、金鯱、東北隅櫓、正門などが焼夷弾の直撃を受けて惜しくも焼失している。

 地元では、名古屋人の戦意を喪失させるために米軍が、名古屋のシンボル名古屋城を狙って爆撃したのだと、長らく伝説として語り継がれてきた。

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 空襲で焼失した、名古屋城天守閣と本丸御殿の惨状(1946年撮影)

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 ところで、先日(7/31)の中日新聞の朝刊によると、米国国立公文書館が開示している米軍の公文書の分析から、米軍は空襲を始める一年以上前から名古屋市街地への周到な爆撃計画を練り上げており、この計画に基づく精密な名古屋空襲で市民ら8千人が犠牲になったとの報道があった。

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 この記事とともに掲載された爆撃地図「名古屋焼夷区画図」をよく見ると、名古屋城のエリアだけがなぜか空白域になっているのがわかるだろう。

 記事には言及されていないことだが、わたしはむしろこの空白のことがひどく気になって調べてみたら、この記事の米軍爆撃地図は特段目新しいものではなく、すでに名古屋城の「爆撃」についての考察に引用されているものが見つかった。

 以下要約すると次のようになる。

 爆撃地図の空白は、空襲爆撃に当たって、米軍は日本の伝統的文化財が集積する、京都、奈良を避けたように、国宝だった名古屋城の爆撃を計画からはずしたわけではなく、むしろ師団司令部が名古屋城内にあったとしても、投下した焼夷弾で延焼する効果が小さいことから目標とはなっていなかったのだろうと考えられる。

 現に東京でも江戸城(皇居)ですら、周辺の赤坂御用地や神宮外苑、新宿御苑、代々木公園などとともに類焼効果が少ない「park areas」に類別されていた。

 こうしたことから、もともと米軍は攻撃目標として名古屋城を狙ったわけではなく、5月14日の空襲がたまたま日中に行なわれたことで日本軍の反撃も大きく、米軍機の被害も多く出た事実から、米軍機としては反撃空域を速やかに離れるために爆弾投下を急いだことが推定され、これによって誤って計画にない名古屋城の「誤爆」につながったものと考えられるという。

  参考:『ピースあいち研究会』名古屋城「誤爆」を推理する◇「名古屋城が炎上した5月―名古屋大空襲展」によせて
      http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201705/vol_90-9.html


 近年判明したこととして、世界遺産の姫路城でも1945年7月の姫路空襲で天守閣に焼夷弾が直撃していたが、幸い不発弾だったために焼失を免れたという逸話がある。

 この戦争では各都市への無差別空襲で、誤爆だったかは別にしてわずか数ヵ月の間に、名古屋城を始め大垣城、岡山城、広島城、福山城、和歌山城、仙台城、首里城といった8つの貴重な城郭文化遺産が失われている。




〇 日本光学製ニッコールレンズの付いたアイレスフレックスZ型

〇 日本光学製ニッコールレンズの付いたアイレスフレックスZ型

―― 希少なニッコールレンズの神話をまとった二眼レフカメラ

 戦後、爆発的に発生した二眼レフカメラのブームの下で、既存・新興カメラメーカーがこぞって二眼レフを発売した中にあって、それまでの兵器中心から民生用光学機器製造への転換中だったためか、結局わが国の二大光学機器メーカーのキャノンと日本光学(ニコン)だけは二眼レフを製造することはなかった。

 しかし、先に八陽光学工業のアルペンフレックスのアルポレンズの硝材を提供した実績があったからか、ニコンは唯一、アイレス写真機製作所にレンズを供給し、1951年に発売された同社のアイレスフレックスZ型には、テッサータイプのNIKKOR-Q.C 75mm F3.5レンズが装着されていることで有名だ。

 当時のニコンが製造するニッコールレンズは、本家ドイツのツァイス・レンズよりも優秀との人気があり、二眼レフカメラの販売競争で優位に立ちたいアイレスにとっては、ニッコールレンズは自社製品をアピールするには格好のレンズだったろうと思われる。

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● 分解・整備に着手する

 今回我が家へやってきたニッコールレンズの付いたアイレスフレックスZは、60年以上の年月を経て、カメラ本体の前面、両サイドの貼り皮が剥がれ、絞り・シャッターなどの動きも不安定で、何より2つの撮影・ビューレンズも汚れが目立つ老兵だったから、迷うことなく分解整備に着手することにした。

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 現在の工業製品の多くがそうであるように、当時の精密光学機器であるカメラも、自社でデザイン・設計した本体に、定評のあるレンズやシャッターの供給を得てアセンブルしたものが多い。もっとも、本体もローライコードⅢ型のコピーではあるが、、、、。

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 レンズカバーをはずすと、この機体にはセイコーシャのラピッド・シャッター(コンパーラピッドの完全コピー)が、そのまま現れた。

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 撮影レンズ、 NIKKOR-Q.C 75mm F3.5のエレメントの構成図。
   テッサータイプの3群4枚。
 ビューレンズ、View-NIKKOR 75mm  F 3.2のエレメントの構成図。
   トリプレットタイプの3群3枚。

 それぞれ単層コーティングがされている。

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 カメラの肝は、やはりレンズで、クリーンアップしたNIKKOR-Q.Cレンズは美しい。

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 ビューレンズ、View-NIKKOR 75mm  F 3.2

 レンズを供給するに当たって自社製品に絶対的自信と誇りを持つニコンは、ニッコールレンズの性能が遺憾なく発揮されるように、カメラ本体を製造するアイレス写真機製作所に対して、製品精度についての様々な条件を要求したようで、アイレス側も製造・検査工程の見直しを行うなどして応えたため、以後のアイレス製品全般の品質が飛躍的に高まったといわれる。

 今回の分解・整備でも、前面レンズカバーなどを開けてみると、撮影・ビューの2つのレンズが載った繰り出しベースを留める4本のビスにはシーリングがされており、レンズ装着に当たってコリメーターなどによるピント調節・検査が行われていた形跡がある。
 (これらの話題については、後掲の『写真工業』ニッコールレンズの特集「ニッコールレンズ付アイレスフレックス」に詳しい。)

 ニコンの要請によって品質・精度を高めて満を持して発売されたアイレスフレックスZの発売時の価格は42,000円と、当時の二眼レフカメラの中ではかなり高価なものとなったのはいたしかたない。

 しかし、不思議なことに、このカメラにはレンズを通った光がフィルムに届くときにフィルム室内で反射する迷光の影響を減らし、よりコントラストの高い画像を得るための工夫として、高級カメラには付き物のバッフルが備わっていない。
 発売当時の値段が6,800円と、簡易・廉価の二眼レフカメラとして大衆に人気の高かったリコーフレックスにさえ、後期機種のフィルム室には気休めにしか見えないもののバッフルのための溝が備わっているのだから、これはどうしたことだろうかと残念で考え込んでしまう。

 せっかくニッコール付きのカメラを手に入れたものの当時の所有者にもこの不満はあったようで、近頃見つけるアイレスフレックスZの中には、好事家の手で黒画用紙や植毛紙でバッフルを自作したものや、蛇腹カメラの蛇腹をそのままフィルム室内に取付けたものさえ散見されるほど、涙ぐましい努力の跡が残る。

 ところで、ニコンからのレンズ供給は、アイレスの求める数には十分ではなかったようで、1952年以降にはズイコーレンズやコーラルレンズ付きのものが廉価で発売された。
 こうした経緯から、ニッコールレンズ付アイレスフレックスの希少価値は高く、いまではニッコールレンズの神話と相まって、中古市場では強気の値段で流通している。


● 整備を終えて

 ともあれ、早々に最小限の整備を終えて化粧しなおすと、精度は別にしてもそれなりの姿かたちの見てくれや機能を回復するのが、アナログ機器のよいところだ。

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 この時代のアナログ金属カメラには、その質量と質感を眺めて楽しむという、現代のプラスチック・ボディーのカメラにはない楽しみ方ができる。

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 またコンピュータ設計による理想的なレンズを備え、ボタンを押せば必ず写る現代のカメラに比べ、器械計算機で設計した不完全なレンズであることを知りながら、フイルムの感度に思いをはせ、光をどのように与えてやればよいかに少しの葛藤を覚えつつ己が一番適当と思われる絞りやシャッタースピードを決定し、ピントを合わせてから、ままよとばかりやおらシャッターを押すのがこの時代のカメラの撮影作法だ。

 そして、最後にフイルムが現像から上がってくるまでの、期待感の混じった身を揉むような焦燥と忍耐の時間を経て、ようやく手にする自分なりの珠玉の一枚の画像は快感に変わる、、、。
 これも、アナログカメラのマゾ的楽しみ方かもしれない。

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 手元にあるアイレスフレックスZ型
  左は、ズイコーレンズ(3群4枚構成)付き(1952年6月発売 33,000円)
  右は、ニッコールレンズ(3群4枚構成)付き(1951年9月発売 42,000円)

 かくして、わたしの愛でるアナログカメラの数は増殖していくことになる、、、、。


● ニッコールレンズ付アイレスフレックスZの資料

 『写真工業』
  ニッコールレンズの特集「ニッコールレンズ付アイレスフレックス」
 
00-ニッコールレンズ付きアイレスフレックス-01

00-ニッコールレンズ付きアイレスフレックス-02

 アイレスフレックスのブローシャー
 Z型に付けられたレンズによって値段が違った。
   ニッコールレンズ(3群4枚構成)付き 42,000円
   ズイコーレンズ(3群4枚構成)付き 33,000円
   コーラルレンズ(3群3枚構成)付き 30,000円

アイレスフレックス00

 アイレスフレックスの広告
  ニッコールレンズ付きの新製品Z型が、近く発売されることを予告する広告。


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(参考)
〇 今日の一献 アイレスフレックス Z型とオリンパス・ズイコーレンズ
―― AからZのイニシャル名のうちの(仮の)最初のカメラ
  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-394.html



〇 今日の一献 アトリエファブル「谷汲ハーブ園」の開設イベントに行ってきた

―― ハーバリストの長年の念願が結実した ハーブガーデン

 幼馴染のハーバリスト影山むつみ女史が主宰する『アトリエファブル』が、かねてから岐阜県揖斐川町谷汲で整備を進めてきた「谷汲ハーブ園」が、このほど(6/23)オープンするとのことで、朝から仲間で誘いあってお祝いに行ってきた。

 ハーブ園のある揖斐川町谷汲の地区は、2005年の合併以前には、西国三十三所の第三十三番札所、満願結願の寺院「谷汲山華厳寺」のあることで全国に有名な谷汲村で、鮎の棲む清流根尾川や天然記念物のギフチョウ生息地のある山紫水明の地であることでも知られる。

 ハーバルライフを提唱しながら、長年にわたりハーバリストとして東海地方を中心に活動してきた影山女史が、その活動の実践拠点として念願したハーブガーデンの場所に、この地を選んだことが肯かされる。

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 アトリエファブル「谷汲ハーブ園」
 岐阜県揖斐川町谷汲長瀬1223
 県道40号沿 バス停「長瀬診療所」前
 ・開園日:不定期で要確認 052-453-1102 (アトリエファブル)

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 ウエルカム・ドリンクとして、ハーブティーと自家製のケーキをいただく。


 〇 蒸留器を使ったラベンダー・エッセンスの抽出の実演

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 5年以上前からの構想から整備に着手して3年、影山女史自身が認めるように、まだ整備途上の施設だが、敷地400坪の園内には様々なハーブの可憐な花たちが、「風の谷から」吹いて来るやさしい初夏の風に揺れていた。

 ● 以下の部分をクリックして、さだまさしの楽曲「風の谷から」を聞きながらお読みください。
( さだまさしの楽曲「風の谷から」 https://www.youtube.com/watch?v=dWPM8i7KGw4 )


 〇 ハーブ園の施設全貌

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 熟すと黒くなる木苺、ブラックベリーの実

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 園内北隅には、これからの養蜂を予定して養蜂箱が準備されている。

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 優しい香りのクラリセージ
 香りを吸入することで気分を穏やかに幸福感で満たし、セージのある家には病気がない、といわれるほど薬効が高いハーブ。

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 ラベンダー・グロッソの花にやって来たクマバチ(キムネクマバチ)
 数あるラベンダーのうちでも、グロッソは茎が長くて丈夫で、大きな株になる。

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 名古屋から運ばれたギボウシの株
 山菜として若芽、若葉などが食用となる。

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 玄関軒に下げられた、スノーマンの風鐸

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 ボタニカルアート(植物画)の飾られた、楽器室

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 ハーバルオイルなどのハーバル製品の展示即売コーナー

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 西隣には、背後に小高い緑の深い山を背負った村の鎮守、「六社神社」が鎮座している。

 石鳥居を潜ると見上げるばかりの大杉がそびえ、遣水を跨ぐ石橋を渡ると鬱蒼とした木々の間に拝殿を兼ねた立派な神楽殿がある。その先の苔むした石垣の組まれた高台には小ぶりな本殿の6つの社が配置され、野鳥たちの平和な囀りが聞かれるスピリチュアルな場所だ。

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 「谷汲ハーブ園」は、根尾川に架かる赤い欄干の谷汲山大橋を渡って谷汲山華厳時へ向かう県道40号沿いにあって、バス停「長瀬診療所」のすぐ前で、余裕のある駐車スペースもあるから、車でのアクセスも容易だ。

 また、最寄り駅としては樽見鉄道の谷汲口駅(徒歩16分)があり、大垣方面から単機のローカル電車に揺られながら、のどかな四季折々の沿線風景も楽しめる。

 県道40号の道路を渡った園の南側には、山並みを背に田植えを終えたばかりの懐かしい山里の風景が広がる。

 これから「谷汲ハーブ園」は、歳月を経て、周りの優しい緑の配置や自然環境に溶け込み、さらに一体となって育まれていくのにちがいない。

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 「長瀬診療所」バス停

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● 探訪記余話

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 午後になって帰るころには、いよいよ本降りとなった。
 近くの根尾川では、雨にもかかわらず解禁されたばかりの鮎を狙って、多くの釣り人の姿が見られた。

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 せっかくここまで来たのだからと、昼食には根尾川畔の名物、鮎料理と洒落込んだ。

 刺身から始まって、フライ、塩焼き、みそ焼き、甘露煮、鮎おじやの6品、合わせて9匹のフルコースで、久しぶりに季節物の鮎料理を十二分に満喫して帰った。

 鮎料理「岡部やな」
  岐阜県揖斐川町谷汲長瀬1724-4
  0585-55-2253 080-6900-8877


00-▲組写真 谷汲ハーブ園 20180625(2)

〇 今日の一献 石の上にも3年というけれど、「ハーブの上に30年」とは、、、、
―― 影山むつみさんの、創設30年を迎える「アトリエファブル」
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-278.html


Mutsumi’s Herbal Life
http://ivory.ap.teacup.com/fable/





〇  今日から始まった「尾張西枇杷島まつり 2018」へ行ってきた

―― 町衆の心意気 5輌も保有する西枇杷島の山車

 美濃街道と岩倉街道の結節点に位置し、尾張名古屋のご城下へ青物を供給する日本三大市場の一つといわれた「枇杷島市」で栄えた町の財力を示すかのように、愛知県清須市の西枇杷島の町には、名古屋型といわれる5輌のからくり山車が今に伝わっている。

 江戸時代末期から行われてきた「尾張西枇杷島まつり」は、いまでは毎年6月の第1土・日曜日に開催され、町衆の手で山車が町内を曳き回され、からくりの演技が披露される。

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 庄内川に架かる枇杷島橋から眺めた、山車蔵から曳き出された橋詰町の「王義之車」

〇 橋詰町の「王義之車」
 背後には名鉄電車の列車が走る。

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 むかしの幅の狭い街道が残る街中の道路の交叉部分には、交通安全のために凸面ミラーが多く設置されている。

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 橋詰神社橋詰神社(1654年創建の神明社)
 尾張西枇杷島まつりは、もともと近くの六軒神社とともに、この神社に祀られる天王社の祭礼の祭りだった。


 夕刻となると、山車倉に帰っていた各々の山車には提灯が付けられ、灯が点されて曳き回しが再開される。

〇 東六軒町の「泰亨車」

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〇 西六軒町の「紅塵車」

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〇 問屋町の「頼朝車」

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 まつりの第1日の夜には、恒例の打ち上げ花火が庄内川の河原から打ち上げられ、近在からの多くの観客で賑わっていた。

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〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その1
―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-293.html


〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その2
―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-294.html


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〇 なばなの里の「ホタルまつり2018」に行ってきた

―― 光芒を引いて飛翔する ゲンジボタルの饗宴

 かねてから三重県長島のなばなの里では、この季節になると施設の中を流れる清流の岸に発現するホタルの観察会「ホタルまつり」が開催され、多くの観客で賑わう。

 うちのパートナーが年間パスポート会員となっていることから、わたしたちは折々の季節の花を愛でにここを訪れるのだが、今夜はゲンジボタルを観に出かけた。

 ゲンジボタルの成虫は、体長15mmほどと国内では大型のホタルで、幼虫が清流に棲むカワニナを食餌としながら生育することから、世界に分布する2000種のホタルのうち、タニシを食餌とするヘイケホタルとともに8種の水生ホタルの一つとされている。

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 毎日午後8時に定点観測している「なばなの里」のWebサイトによると、わたし達の訪れた夜(6月3日)のボタルの発現数は、810匹だったとのことで、これは既にこのところ数年のピーク数を上回って発生しているようだ。

 (2018 発現数の推移:6/3 810匹←6/2 820匹←798←327←355←312←355←290←204匹←)

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 日中は川岸の草木の葉の裏などに休んでいるホタルは、日没とともに光を点滅させながらメスを求めて飛翔を始め、午後8時ころにはピークとなり、やがて疲れたのか午後10時すぎまでには飛ぶ数を減らしていく。

 先に、5月一杯まで名古屋城の外堀で発現していた、か細く短い時間で点滅を繰り返しながら飛翔する陸生のヒメボタルは、写真に写すと鎖線の光跡となるが、6月ごろから発現する水生のゲンジボタは、力強く長時間発光しながら飛ぶ光跡は線となって残る。

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 世界に2000種も生息するホタルは、主に熱帯から温帯にかけての多雨地域に分布するが、それぞれの場所によって発生時期や発光の仕方にも特徴があるようだ。

 かつて熱帯地方の半島マレーシアで観察した水生のホタルは、乾季には数を減らすものの年間を通じて発生し、川岸の木々に群れて留って発光を繰り返すのが見られた。

 経験的には、ホタルの発光は、しばしのインターバルを置きながら点滅を繰り返すうち、次第に周囲のホタルの発光と競うかのようにシンクロ(同調)しながら強い発光を繰り返し始めるときがシャッターチャンスとなる。

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 「ヒメを追い つづくゲンジも ホタル酔い」


 なばなの里
 三重県桑名市長島町駒江漆畑270

 「ホタルまつり」
 http://www.nagashima-onsen.co.jp/2018_nabananosato_hotaru/






〇 古代の聖域の花飾りか 豊橋の「賀茂しょうぶ園」

―― 「しょうぶ園 賀茂の丘への 花飾り」

 「賀茂しょうぶ園」は、愛知県豊橋市の中心部からかなり離れた北部の、もう新城市や豊川市の方が近い石巻地区の賀茂町にある賀茂神社の参道入り口一帯を、市の観光開発事業として1970年(昭和45年)に整備・開設された花ショウブを中心とした大規模な庭園だ。

 5月の下旬、そろそろ花ショウブが見頃との報を聞き、わたしの属する地域の写真クラブの仲間とともに初めて撮影に訪れた。

 花ショウブは、水はけの良い原野に生い茂るアヤメから園芸種として改良されてきた豪華な美しい花で、湿り気のある土地を好み、花びらの付け根が黄色く色づいているのが特徴で、古くから梅雨の風物詩として日本人に愛されてきた。

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 天平元年(729年)に、山城国の賀茂別雷神社を勧請して創建されたといわれる賀茂神社の参道入り口には、水路を跨ぐ赤い太鼓橋が架かっており、その向こうに広大なしょうぶ園が広がっている。

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 赤く塗られた太鼓橋は印象的で、このしょうぶ園の一つのモニュメントともなっているようだ。

 敷地面積9,900m2という広大なしょうぶ園には、江戸系、伊勢系、肥後系と呼ばれる3系統の300種の花ショウブ、3万7,000株が植えられており、毎年5月下旬から6月中旬の開花時には「花しょうぶまつり」が開催され、夜間にはライトアップも行われて観光客で賑わう。

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 特に、江戸時代後期から武士による園芸品種としての改良が進み、変化に富み多彩な「江戸系」と呼ばれる花ショウブが有名だ。
 このショウブは、白と紫の網目のコントラストが鮮やかで美しい。

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 弁が垂れ、はかなげな雰囲気をもつのが特徴の「伊勢系」の花ショウブ。
 外花被が3枚で三英花とも呼ばれる。

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 近くに流れる間川からの導水だろうか、水門を備えた立派な水路が整備されている。

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 「芯」と呼ばれる立派な雌しべが立った、花ショウブ。
 この芯が花弁とマッチして立つことで、花全体の姿を美しく際立たせる。

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 園内は整然と区画され、ショウブの造園面積は3,700m2に上る。

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 熊本で武士階級の手で改良が進められた、ボリューム感のある豪華な花が特徴の「肥後系」と呼ばれる花ショウブ『新玄海』。

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 開花した花ショウブの花期は、わずか三日間と短命で、その短い間に刻々と変化するはかない花の美しさを愛でるものとされる。

 株は次々と花を咲かせるが、このときは、まだ園全体では3分咲きとのことだった。

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 園内の池で栽培されている、6月から11月にかけて花を咲かせる水生多年草の「ヒツジグサ」

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 水路脇に連続して植えられた、アジサイも咲き始めていた。

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 しょうぶ園の背後には、賀茂神社のある丘陵地の森が広がる。

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 しょうぶ園を抜けると、高低差の大きい丘陵地を上がる森の中の長い参道が続き、その先に1200年以上の歴史を刻む賀茂神社の本殿が鎮座する。

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 賀茂神社境内の神山古墳(円墳)
 長い参道の途中の木々の間には、古墳時代後期(6世紀頃)のものと見られる直径28m、高さ3.5mの県内有数の円墳の神山古墳が、ほぼ完全な形で残されており、未調査のために詳細は不明であるものの、市の指定史跡とされている。

 このほか、この丘陵地には、かつては弁天塚古墳(前方後円墳)や行者山古墳、照山古墳、小照山古墳などといった、この地域を支配した古代の豪族の墳墓がいくつか点在し古墳群を形成していたものとみられ、そうした古代の聖域であったからこそ、何らかの霊験灼然を感ずるこの賀茂の丘陵上に、後の時代になって賀茂神社が鎮座されたものと考えられる。

 そのように考えてみると、この「賀茂しょうぶ園」は、賀茂神社のみならず、古代の聖域である賀茂の丘陵に、ショウブの花を供えて飾るための役割も果たしているのではないかとさえ、わたしには思えてくるのだ。

―― 「しょうぶ園 賀茂の丘への 花飾り」

20180525 豊橋 賀茂神社しょうぶ園

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 平成30年度花しょうぶまつりは、6月10日(日曜日)まで。
 (日没から午後9時00分までライトアップ)

 『賀茂しょうぶ園』
 豊橋市賀茂町字鎌田地内
 入場及び駐車場 無料
 花しょうぶまつり期間は、JR豊橋駅からから臨時直行バスが運行(所要時間:約40分)
 東名高速道路・豊川ICから、所要時間10分







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