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〇 朝日洋子さんの油彩画『紅衣』を観に白日会展に行ってきた

―― 第45回公募の中部白日会展2019

 画家で古い友人の朝日洋子さんからご招待をいただいたので、名古屋中区の電気文化会館で開催中の第45回公募中部白日会展2019に行ってきた。

 女性には珍しく、いつも裸婦を主題に白日会会員として活躍する彼女の、今回の出品作品は、油彩『紅衣』と『裸婦習作』の2点。

 椅子に掛けて花模様の紅の鮮やかな衣を半脱ぎした、いつものお気に入りのモデルを描いた印象的でボリュームのある100号の作品は、来場者を出迎えるかのように、会場の入口付近に掛けられていた。

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 展示会の会場となった名古屋中区の電気文化会館・ギャラリー

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 朝日洋子さんの油彩100号『紅衣』(くれないのころも)
 成熟した女性の肌の白さと、背景の群青の色彩の対比。半脱ぎした花模様の鮮やかな紅の衣が、一際画面の中で色彩を際立たせている。

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 朝日洋子さんと作品『紅衣』

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 油彩20号『裸婦習作』

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 なお、先日(10月20日)発表された改組新第6回日展の報道によると、朝日洋子さん(小牧市在住)の「朝のひかり」が、第2科(洋画)にめでたく入選されたとのことだ。
 
 来年1月には展示会の開催が予定されており、さてどんな作品が観られるのか、いまから楽しみにしている。

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 第45回中部白日会展の会場風景



〇 白日会展で出会った超絶細密絵画

 近年、写真に撮った画像をも超えるといわれる、超絶細密絵画が人気だという。

 現代の日本人画家による写実・細密絵画を専門に収集・展示するホキ美術館が、2010年に千葉市に開館したことで、一躍、超絶細密絵画(miniature)への人気が高まったように思う。

 今回出かけた中部白日会展でも、当地方で活躍する画家たちの超絶細密絵画を観ることができた。


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 曽 剣雄 『チャイナドレス』

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 三輪 修 『プリマの初恋』

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てんこ盛だった『太閤秀吉シンポジウム』を聴いてきた

  ―― 秀吉出生の地 中村で、最初の城持ちの地 近江長浜と天下人の地 浪速大坂を結んで

 秀吉の生誕地の名古屋市の中村公園にある中村文化小劇場ホールで、今日(8月21日)の午後、中村区役所主催の『太閤秀吉シンポジウム』が開催された。

 現在、中村区役所では、街の賑わいや地域起しの一環として、観光ルートの整備など秀吉の生誕地に因む各種の事業を推進している。

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 会場となった、350席の中村文化小劇場ホール

 今回のシンポジウムは、秀吉の事跡の啓発に関する初めての試みで、愛知大学山田教授の「秀吉と中村区」の基調講演に始まり、女流講談師旭堂鱗林の「尾張太閤記」の講談を挟み、「秀吉が初めて城や城下町を築いた長浜」の太田学芸専門監と「天下を取った秀吉が築いた大阪城」の北川天守閣館長の講演が行われ、最後に講演者による座談会まで、息をつかせぬ、てんこ盛りの3時間だった。

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 テーマが多分にローカル色の強いと思われたシンポジウムだったが、土曜日(17日)の新聞に記事が取り上げられたのが効を奏したのか、あるいは多角的で多彩な講師陣を揃えた企画だったからか、会場となった350席のホールは、地元に留まらず県内外からの秀吉に関心を寄せる多くの聴衆で埋まった。

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 中村区内にある県立松陰高校の和太鼓クラブによるオープニング演奏

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 主催者である下山浩司中村区長のオープニングのあいさつ

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 名古屋おもてなし武将隊の豊臣秀吉によるショートトーク

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 愛知大学文学部 山田邦明教授による基調講演「豊臣秀吉と中村」

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 女流講談師 旭堂鱗林氏による講談「尾張太閤記」

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 長浜市役所学芸専門監 太田浩司氏による講演「豊臣秀吉と長浜」

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 最近発掘された長浜城の石垣跡
 城跡の一部から4.5mにわたって石垣の遺構が初めて見つかった。

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 大阪城天守閣館長 北川央氏による講演「豊臣秀吉と大阪」

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 豊臣の痕跡を消し去るため、江戸幕府は秀吉の天守台を完全に破却した上に、より巨大な天守を建てた。

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 伏見城で没した秀吉の辞世 「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。

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 出演講師による座談会

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○ 講演会と座談会の要旨

 ① 中村区内には、1000年以上前から多くの繁栄した郷や宿が存在しており、その地名は今もその名残をとどめる。

 ② 古文書に様々な記述があり、秀吉の出生・生育の場所は、中村であること以外は確定できない。

 ③ 出生・生育の地だったことから、天下人となった秀吉は中村の郷の年貢を免じたが、朝鮮出兵時に挨拶に来なかったことから腹を立て、免税を中止した。

 ④ 初めて城持ちとなった秀吉は、長浜の城下を整備し、商人・町衆を大事に扱った。また町衆も秀吉に深い好を持ち、江戸時代を通じて現在も変わることがなかった。

 ⑤ 天下人となった秀吉が築いた大坂城は、巨大だったが、後に京都に居を移し伏見で没した。しかし、秀吉の斬新な街づくりは今も大阪に残る。

 ⑥ 江戸幕府は、秀吉の城を完全破壊してより巨大な天守閣を築き、土地税を免ずることで町衆の歓心を買い大坂は商都として栄えた。
  明治以降には秀吉の人気が戻り、昭和の秀吉の天守閣再建には、不況時にもかかわらず今の価値にして600億円の民間寄付が短期間で集まった。

 ⑦ とかく信長や家康が喧伝されることが多いが、中央政権の樹立や大名と家族の集住、刀狩などの秀吉の政策は、お坊ちゃんでは出来ない既成概念を打ち破った政策として、もっと評価されてもよいのではないか。

 ⑧ 今回の講演会を契機に、これから出生地の中村と長浜、大阪とともに、何らかの連携ができるようになるとよい。

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 最後に、駆けつけた河村市長の挨拶で締めくくり、お開きとなった。


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〇 これが優曇華(うどんげ)の花とは



 ――クサカゲロウの卵 

 ピンポーンと玄関のチャイムが鳴って、モニターを見たら、隣の老婦人のニコニコした顔が見えた。

 玄関に出て行くと、お盆で作ったとオハギを持っておいでになったとのことで、思わぬ到来物に喜んだ。

 だが、次にお願いがあるとのことで、何かと思えば、自宅の玄関で珍しい「優曇華の花」が咲いたので、カメラで撮ってほしいとのこと。

 優曇華とは、はじめて聞く花の名で、お安い御用とカメラを持ってご婦人の後を附いて行ったものの、わたしが、玄関先でどこに花が咲いているのかと戸惑っていると、ご婦人がこれと指差したのが、玄関ドアの鉄枠にポツポツと糸を植えつけて、その先に1mmほどの白い米粒様のものが付いている風情のもの。

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 どこかで見たことがあるなと記憶をたどりながら撮影していると、後ろでご婦人の解説が始まった。

 長くなるので要約すると。

 これはクサカゲロウの卵で、メスが腹から出した糸の上に卵を産んだもの。

 優曇華の花とは、もともと3,000年に一度咲くといわれる仏教の経典『金光明経』に出てくる架空の植物で、咲くのが「滅多にないこと」だから珍しく、古来インドでは吉兆、不思議と日本では凶兆とされているとのこと。

 クサカゲロウは、普通はアブラムシを食べるから植物の小枝などに産卵し、その姿の珍妙さと見落としがちな小ささから、滅多に見られない植物の花として、「優曇華の花」と呼ばれるようになったようだ。

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 どこかで見たとの記憶をたどって、昨年の画像ファイルを探してみたら、2018年6月15日に自宅の庭で撮った親のクサカゲロウの画像が見つかった。

 我が家でも見かけたかもしれないけれど、きっとこの時は、親と卵を関連付けすることなく撮影しなかったに違いない。

 ともあれ、撮影してから家に帰って早速プリントして持参し、改めてオハギがおいしかったことのお礼を申し上げたのは言うまでもない。






「太閤秀吉モニュメント」が太閤秀吉功路に設置された

  ―― 秀吉の出世物語をたどるモニュメント 

 今朝、用事があって名古屋市の中村区役所へ出かけたら、庁舎内の壁に『太閤秀吉功路』にこのほど設置された「太閤秀吉モニュメント」の案内が貼ってあった。

 戦国の歴史に名高い豊臣秀吉は、尾張の国、ここ中村の百姓の子、日吉丸として誕生し、信長に仕えてからは木下藤吉郎、羽柴秀吉と、順調に出世するにしたがって名前を改め、最後は太閤にまで昇りつめて朝廷から豊臣の姓を賜った。

 これは、その中村区ゆかりの秀吉の歴史にまつわる地元の故地を、ルートで結んだ『太閤秀吉功路』の道標として、秀吉の出世過程をレリーフに刻んだ「太閤秀吉モニュメント」が今年(2019年)4月に設置されたものだ。

 新物好きで時間に十分余裕のあるわたしは、早速、区役所の帰りに「太閤秀吉モニュメント」を、順次たどって観て来たのだった。

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 秀吉が生まれてから天下統一を果たすまでの大出世ストーリーを追体験できるモニュメント8基が、JR名古屋駅太閤口を起点として、駅西銀座通りに設置されている。

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 ① 日吉丸(秀吉)、尾張国愛知郡中村で誕生
 ② 子供らの中で頭角をあらわし、諸国放浪へ
 ③ 努力を重ね、信長に認められる
 ④ 一兵卒として参加した桶狭間の戦い

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 名古屋城石垣風土台の上に、江戸時代に流行した『絵本太閤記』の挿絵をモチーフにしたレリーフが付いている。

 また、レリーフの下には、分かりやすい説明書きのプレートが付いており、それを読みながらルートにしたがって一つ一つモニュメントを歩いて辿るのが楽しい。

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 駅西銀座通商店街のモニュメント

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 ⑤ ねねと、つつましい祝言をあげる
 ⑥ 人たらしの才をみせる若き秀吉
 ⑦ 土豪の力を結集した墨俣築城
 ⑧ 稲葉山城攻略戦で大いに働く

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00-20190801 秀吉出世レリーフ 駅西銀座通り

 「太閤秀吉モニュメント」の設置場所

 なお、JR名古屋駅を起点とする『太閤秀吉功路 人生大出世夢街道』は、名古屋駅西銀座通商店街から太閤通を経由し、大鳥居から参道を通って秀吉の生誕地とされる中村公園まで続く。







わが家の庭で羽化盛ん クマゼミの羽化とニイニイゼミ

  ―― 神秘的な営みと託された者の責任 

 わが家の玄関先にある金木犀で、今夜もクマゼミの神秘的な羽化が静かに進行している。

 7月の初旬に初鳴を聞いてから、先週は羽化の途中で凶暴な蟻の集団に集られて、哀れにも失敗して落ちて死んだ姿を2度ほど見た。
 しかし、このところ朝になって新聞を取りにいくと、小枝の先に羽化した後の抜け殻を、幾つか見られるようになってホッとしている。

 また先日は、近ごろ珍しいニイニイゼミの羽化が見られたが、今夜はクマゼミの羽化が見られた。


● クマゼミの羽化の進行

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 午後になると、土中から這い出た幼虫は、羽化に適した場所を求めて木の幹を上へ上へと登っていくのが見られる。

 その動きの緩慢さに、思わず頑張れと声をかけたくなるのだ。

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 羽化に適した場所を見つけると、すべての足を動員して逆さまに位置をとり、しっかりと足場を固定してから動かなくなる。やがて日没後の鳥などに襲われない暗闇になるのを待って、まず幼虫の背が縦に割れて羽化が始まる。

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 羽化を始めた成虫の身体は柔らかく、殻から頭を先にして、重力を利用しながら濡れた柔らかい身体を繰り出してくる。

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 ほとんど殻から身体を抜け出した状態。
 翅はまだ小さく折り畳まれたままだ。

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 今度は身体を起こして殻につかまり、重力を利用して翅を下に伸ばしていき、羽化が終了する。

 そのあとは、日の出までの長い時間をかけて、翅や身体が乾いて、それに伴い外骨格が硬化するのを待つだけになる。

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 この時期、こんな神秘的な出来事が、このところわたしの家の玄関先で静かに行われているのだ。

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 この時には複数の羽化が同時に進行した。

 親セミが、木に産みつけた卵から孵った幼虫は、地中に潜ってから8年を地中で過ごすとされる。

 だから8年後に、子供たちが羽化できる環境の保持を、母ゼミがわたしたちに託してここに卵を産んでいったのだとすれば、きっとわたしたちは、その信頼に応えなければならない責任があるのだろうと思う。

 ともあれ、この神秘的な営みの観察・撮影には、ゆっくりと流れる時間につき合う忍耐と、身体を蚊に喰われてかゆい思いをする苦行を克服することを要するのだ。


● 久しぶりに見つけた 羽化したニイニイゼミ

 話は前後するが、先日の初鳴きから10日ほど経ったから、もうそろそろどうかなと思いながら、その夜は庭のオオマツヨイグサ(月見草)を撮影した後、懐中電灯の光を頼りに玄関先の金木犀の幹の辺りを探してみた。

 あった。
 そして、居た。

 初めに木の根元近くに見つけたのは、見慣れたクマゼミやアブラゼミに比べれば、本当に見過ごしてしまうような目立たない小さな抜け殻だった。

 改めて見直すと、その少し離れた上に、脱皮して羽化したばかりのニイニイゼミが、小さな身体を休めて動かずに留まっていた。

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 ニイニイゼミはわたしの幼いころには、街中の公園や神社の林などに普通に見られた小型のセミだったが、気候変動で北に勢力を広げつつあるクマゼミとは逆に、この地方では、近年なかなかお目にかかることができない希少なセミになってしまった。

 それがあろうことか、わが家の小さな庭での羽化を確認したことで、お恥ずかしながら、久しぶりにその夜は少し興奮したのだった。



愛知県の祖父江ピーマンの収穫体験に行ってきた

  ―― 近藤園芸のハウス促成栽培のピーマン 

 幼友達の親族が経営する愛知県祖父江町の農園へ「ピーマンの収穫体験に行かないか?」とのお誘いの電話を受けて、珍しくも早起きをして友人たちと行ってきた。

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 今回訪れた近藤園芸は、ビニールハウスを使ったピーマンの促成栽培をしており、ミツバチによる受粉やテントウムシなど4種類の天敵昆虫などを利用した害虫駆除で、ホルモン剤や化学合成農薬の削減に取り組み、消費者に安心できる栽培品の出荷に努力しているという。

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 70aの農地に、4カ所のビニールハウス群を設け、1ヵ所につき8,000本のピーマンを栽培しており、各区画に分けて12月から7月中旬にかけて順次収穫・出荷している。

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 今回お呼びがかかったのは、普段の収穫が一段落して、次のサイクルに向けて苗の植え付け作業への整理前に、収穫を体験してもらおうと開放したものだった。

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 収穫終期の現在、ハウス栽培のピーマンの丈は路地ものとは違って、見上げるほどに成長しており、ぶどう狩のように上を向いての収穫だったのには驚いた。

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 ハウスピーマンは、暖房・設備費などコストがかかるものの、路地ものに比べて皮・実 が柔らかく消費者好みとなり、外部遮断により、病・害虫からの保護などの栽培上の品質管理や天候に左右されない安定した出荷時期を調整できることなどが、大きな強みとなっているに違いない。

 また、病害防止のためには、収穫時に使うハサミさえ消毒を怠らず、天敵昆虫の保全のためには喫煙者をハウスに入れないなどの注意も徹底しているという。

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 せっかく来たのだからと、ご好意に甘えて、各人、用意していただいたダンボール箱一杯に収穫して家路に就いた。

 おかげで帰ってから、向え3軒両隣に留まらず、遠方にまでお裾分けして、みなさんに喜んでいただくことができた。

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 ところで、ピーマンの赤くなったものを、「辛いのではないか。」とか、「古いのではないか?」とかいって、一般に忌避する傾向があるようだ。
 だから生産者は出荷しないし、商品として売り場でも見かけることはない。

 しかし、ピーマンは熟してくると赤くなり、かえって甘さも増してくることを、私たちは単に良く知らないだけだ。
 近頃では、ピーマンの親玉みたいな大味の赤や黄色のパプリカが広く認知されてきているが、それといっしょだと思えばいいのだろう。

 今回、別に収穫してきた熟した赤いピーマンは、聞いたとおり、なるほど甘くておいしく、サラダやチャーハンに入れて色取り効果もあって、おいしくいただくことができた。


 ピーマンの生産及び販売
 「近藤園芸株式会社」
   愛知県稲沢市祖父江町両寺内83
   http://kondo-engei.co.jp/our.html



 信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その2

 ―― 信長が知略を注いだ本格的な城下町を備えた城 つづき

● 山麓を取巻く武家屋敷の帯曲輪

 小牧山の麓の東から北にかけては、信長の重臣の武家屋敷があったとされる『帯曲輪』の遺構が残る。
 帯曲輪の発掘調査では、山の北麓から東麓にかけて長さ45m程度の堀と土塁で区画された10区画以上の武家屋敷が連続して並んでいたとされ、井戸跡も復元されている。

 また、この武家屋敷群の南東端には、ひと際大きな75m四方の土塁跡があり、これは城主信長の居館跡ではないかと推測されている。

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 帯曲輪地区東部の遺構推定復元図

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 南方向へ見た帯曲輪

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 北方向へ見た帯曲輪

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 信長の館跡ではないかとされる区画


● 楽市・楽座の城下町

 これまで見てきたように、清洲の城から居を移した小牧山城は、信長の知略を込めた本格的な城であったが、同時に山麓の南に広がる旧市街地の発掘調査から、信長の城下町は、楽市・楽座の機能まで備える計画的に整備した画期的な町だったとみられている。

小牧山の公園の入口に

 小牧市史跡公園内に設置されている模型

小牧山城城下町1

 城下町の現況地図との比較図

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 小牧城下町(上御園遺跡)案内板
 小牧市堀の内5丁目の堀の内公園内


● 新たな発見が続く発掘調査

 旧尾張徳川家の徳川義親氏から「市民の役に立ててほしい。」との付言とともに小牧山の寄贈を受けた小牧市では、市民の健康と憩いの公園などとして整備してきたが、近年この史跡の地にあった小牧市役所や市立の中学校を移転させ、2008年から本格的な発掘調査を開始し、現在も調査が続けられている。

 今回の第11次発掘調査(2018年6月から)によって、本丸南斜面で新たに石垣と岩盤が発見された。
またそれに接するように、向きを揃えた2棟の礎石建物の跡も発見され、そのうち1棟の壁に沿うように玉石敷と排水溝が検出され、天目茶碗や青磁の茶碗も発見されたことで、小牧山城山頂付近には当時建物群が存在していたことが判明した。

 この発見で、場合によっては、これは信長の居館の一部とも推測され、後の岐阜城や安土城では信長は本丸に居館を設けて住んだことから、それよりも前の小牧山城山で、最初に本丸に居館を設けていたのではないかとされ、近世城郭のルーツとなる大発見となっている。

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 第11次発掘調査報告書から
 (小牧市教育委員会) 

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 第11次発掘調査地区

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 小牧山城本丸復元想像図
 現在、本丸地区には模擬天守が建てられており発掘調査もされてはいないので、どのような施設があったのかはまだ判明していない。 しかし、今回の発見により信長の居館があったのではないかとの推測ができるようになった。

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 小牧市役所本庁舎
 小牧市民でもある友人の案内で、2017年に市の教育委員会に新設された珍しい名称の、「小牧山課」(史跡係)を訪れて多くの資料をいただいた。

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 小牧市の汚水管のマンホールの蓋
 中央に「KOMAKI」の文字。周りに小牧山城(歴史博物館)、名古屋空港の飛行機、特産の桃、魚を描き、 その周りには市の花・ツツジをデザインしている。



(了)



 信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その1

  ―― 信長が知略を注いだ本格的な城下町を備えた城


 小牧山の麓に住む友人を訪ねたついでに、久しぶりに小牧山に登ってきた。

 今日は熱中症が心配される酷暑の日だったから、フィールドワークは止そうと思って出かけたものの、健康のために犬を連れて毎朝登っているという友人の言葉に、それに負けじと歳に似合わぬ無理を押しての汗だくの踏査となった。

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 篤志家によって建てられた小牧山城模擬天守閣
 現在小牧市歴史館となっている。

 むかし登ったことはあるけれど、この数十年来、いつもは高速道路を走る観光バスの行き帰りの窓から見える小牧山の模擬天守閣を眺めるだけで、あまりにも近い場所として興の向かないまま、この間ついぞここを訪れることはなかった。


● 発掘調査で定説が覆った城

 これまでの小牧山城は、勢力拡大を目指す信長の、美濃攻略のための臨時的な戦略拠点の山城だったと考えられてきた。

 しかし、近年の小牧市役所の移転に伴う城の遺構の本格的な発掘調査などによって、歴史的な再発見が相次いでおり、これまでの定説である単なる臨時的な戦略拠点だけでなく、当時は最先端となる立派な石垣や堀・曲輪を巡らせた本格的な城郭と、周到な計画に基づく楽市・楽座をも備えたわが国最初の城下町が整備されていたという報せに、俄然わたしの興味を引くようになっていた。

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 小牧市役所から見た小牧山の全容
 小牧山は標高86mで、東西600m、南北400mに広がり、総面積は、21haだ。

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 江戸時代の「尾張名所図会」後編の巻3に描かれた小牧山
 信長が美濃稲葉山城を攻略すると廃城となった。

 清洲城から出陣した桶狭間の戦いで、駿府の今川義元を討って一躍戦国の寵児となった信長は、1563年(永禄6年)小牧山城を築城して移転し、城下町も整備した。
 1567年(永禄10年)に美濃稲葉山城の攻略に成功すると、居城を稲葉山城に移転して城下町の名前をそれまでの井ノ口から岐阜と改め支配し、これに伴い小牧山城は、築城から4年間で廃城となり短命の城となった。

 この小牧山城の本格的な発掘調査は、2008年12月の第1次調査に始まり、現在も小牧市教育委員会の手で調査が続けられている。
 
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 複描した17世紀中葉の小牧山城絵図
 (名古屋蓬左文庫所蔵)

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 虎口のあった大手道の入口

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 大手道入口に建つ案内看板

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 小牧山麓の南側から山頂方向に直線に伸びる大手道がある。
 これは後に信長が整備する、安土城の大手道にも受け継がれたのではないかと考えられる。

 また途中からは、山を巡る遊歩道も整備されており、山中にある曲輪や堀跡を確認しながら散策ができる。

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 小牧山は史跡・公園として市民の憩いの場になっている。

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 復元された巨大な土塁
 平成29年3月の市役所旧本庁舎跡地の史跡整備工事で、1584(天正12)年の小牧・長久手の合戦で秀吉との合戦を前に家康と信雄の軍勢が築いた土塁や堀が復元されている。

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 山頂に向けて直線に伸びる大手道

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 尾張藩9代目藩主の徳川源明(宗睦)公の碑

 小牧山は、廃城となってから長らく捨て置かれ、江戸時代になってからは尾張藩の御領地として管理され、明治になって旧尾張徳川家の所有となっていた。
 このため、いつのころからか、地元の民間信仰施設なども設置されている。

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 小牧山吉五郎稲荷社

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 観音洞
 観音顕現伝説を遺す苔むしたチャート岩のある霊域

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 地形を利用して整備された遊歩道

 信長が天守を建てたかは不明だが、山の頂上には、1967年(昭和42年)にこの地方の篤志家が小牧市に寄贈した、秀吉の聚楽第の飛雲閣をモデルにした模擬天守閣が建つ。

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 小牧山城の模擬天守閣

 現在は市立の小牧市歴史館となっており、館内では城に関係する資料などが展示され、展望フロアからは南に濃尾平野が一望でき、北に遠く金華山の岐阜城も望むことができる。

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 南方 名古屋方面の濃尾平野

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 北方 岐阜(美濃)方面

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 金華山の山頂にある岐阜城の遠景

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 国史跡「小牧山」と歴史館の案内板

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 徳川義親公の銅像
 山頂の歴史館の前には、旧尾張徳川家の所有だった小牧山を1930年(昭和5年)に小牧市に寄贈した、義親公を顕彰する像が建つ。


● 先進的な石垣を使った曲輪

 築城から廃城までが4年間と、驚くべき短命の城だったことから、従来は美濃攻略のために土塁をめぐらせた程の簡素な城と考えられてきた。
 しかし、近年の発掘調査によって、標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を当時最先端の石垣で三重に守りを固め、中腹地域も削平した多くの曲輪が構築されていることが判明している。

 また、東麓の帯曲輪地区では、堀で仕切られた複数の重臣の武家屋敷群があったことも推定され、山の南から西にかけて城下町まで整備していることと併せてみれば、たまたま美濃攻略が短期間で成功したからであって、いまでは信長は当初からこの城を長期的視野で築城したものと考えられている。

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 発掘調査で分かってきた史跡小牧山遺構分布図

 いままで本丸地域では、露頭する巨石が散在することが知られていたが、発掘調査によって、この山で産するチャートの巨石を、高さ3~4mに積んだ石垣を後退させながら2段にした段築工法が採られていたことが判明した。

 これまでの戦国時代の城の曲輪は、土を盛り固めた土塁で築城されてきたことから、岐阜城や安土城築城以前の信長による石垣を用いた新しい城造りとして、にわかに注目を集めている。

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 発掘された本丸曲輪を取巻く石垣と石段

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 小牧山山頂付近の航空写真

 ところで、広い濃尾平野の平地の中に一つだけ抜きん出て、標高86mもの独立した山がポツンとあるのが小牧山だ。
 これまでわたしにとっては、この山は不思議に思われてしかたのなかった地形だった。

 今回訪れた小牧市役所の担当職員の説明を聞き、この山ではチャートが産出され、その巨石の多くを使った石垣が確認されるということで理解したつもりだ。
 
 つまり小牧山の地質は、古生層(秩父古生層)から成り、岩質は部分的に砂岩や粘板岩がみられるが、大部分が硬いチャートの岩石であったことから、地質時代からの長年の浸食で周りが平らになったものの、ここだけが浸食にも耐えて残丘として残ったものとみられる。

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 小牧山山頂付近にも多く見られるチャートの露岩

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 本丸曲輪地区の発掘調査結果の説明プレート

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 発掘調査で出土した石垣の状況
 (小牧市教育委員会)

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 出土した石垣間の詰石の仮置場
 発掘調査で出土した石垣は、将来の復元に向けて大石はそのままに埋め戻され、詰石はまとめて仮置きされている。

00-信長の天下統一までの軌跡と城-00

 織田信長天下統一への過程と城郭

00-櫻花滿開の小牧山全景kom03



〇 信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その2 へ続く

信長の美濃攻略の拠点となった 小牧山城 その2
 ―― 信長が知略を注いだ本格的な城下町を備えた城 つづき
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