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〇 今日の一献 一念発起の『花のクッキー売り娘 レジェンド』名古屋ゆかり組の公演を観てきた

―― 中高年の素人ミュージカル劇団は 名古屋の都市伝説になれるか

 昨夜(2018/9/15)大阪を拠点に活躍する劇作家・演出家の秋山シュン太郎が率いるシニアミュージカル劇団『発起塾』の名古屋ゆかり組の『花のクッキー売り娘 レジェンド』が、名古屋の熱田文化小劇場で開催され、パートナーと共に出かけてきた。

 この公演は、いままで演劇経験のない50歳以上の素人を対象に募集し、一年間をかけてレッスンしてきた劇団の成果を問うもので、パートナーの親しい友人が参加していることから楽しみに期待していた。

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 この作品は秋山氏のオリジナル作で、数十年の歴史を持つ劇場のかつては華やで憧れの的だった「花のクッキー売り娘」も、いまでは50歳台後半の身となって、経営不振の続く会社からのリストラの怖れにもめげず、過去の栄光を隠してきたレジェンドのOGの援けとともに、健気にも新しい境地を拓いていくというストーリー。
 中高年が持つ特有・独特の可笑しさや悲哀などを、余すところなく描いて、われわれ同年代の共感を呼ぶユーモラスな作品に仕上がっている。

 公演が始まってから、最初のうちはハラハラする部分もあって、これは何だと思ったが、ストーリーが進むうちにようやく引き込まれ、そのうち舞台に立つ出演者と己の年齢を重ね合わせたからだろうか、思わず目頭が熱くなる場面もあった。

 最後は、劇中劇の中で歌と踊りの舞台と観客との共演もあって、場内全体がヒートアップの最高潮のうちにハッピーエンドで大団円を迎えた。

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 公演が終わって、観客や出演者のまだ熱が覚めやらぬ劇場ロビー

 出演者全体に台詞のやりとりの間(ま)の悪さが目立ったものの、その中で長台詞を無難にこなしたレジェンドの主人公役や、特に(多分)最高齢の女性記者役の枯れた雰囲気と、そこから醸し出されるモノローグの味が光った。

 この公演は、はかなくも、この日一夜だけ。 名古屋の都市伝説(レジェンド)になっただろうか、、、、。

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 シニアミュージカル劇団『発起塾』の名古屋ゆかり組は、名古屋出身の演劇俳優 天野鎮雄氏の提案により、名古屋市中村区にあるかつての水道の「稲葉地配水塔」を活用した「演劇練習館 アクテノン」で、公演に向けて一年間の練習を積んでいる。

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  東海地方の方で、ご関心の向きは、以下の連絡先へ。
  きっと貴方も、いままで気がつかなかったご自分の深層にあった、新たな才能を発見されるかも、、、。

  『シニアミュージカル 発起塾』 0120-86-2615


〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その3

〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その2
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓  からの続き
 http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-479.html


―― 御深井丸の西北隅櫓は幻の西小天守の代わりだった?

 それでは、今まで見てきた本丸にある西南隅櫓、東南隅櫓、(北東隅櫓―戦失)は、巨大で3階といっても二重の櫓であるのに対して、なぜ本丸に位置しないのにもかかわらず、御深井丸(おふけのまる)の西北隅櫓は三重3階の小規模な城の天守とさえ見紛うばかりの華麗な特別の櫓として建設されたのだろうか。

 江戸時代には、西北隅櫓は清洲城の天主あるいは櫓を移築したものとされ、「清洲櫓」とも呼ばれてきたが、「その2 名古屋城の名古屋城の西北隅櫓」でみたように、近年それはなかったことが確認されている。

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● 西への備えとして築かれた名古屋城

 名古屋城の築城は、1903年(慶長8年)に家康が江戸に幕府を開いたものの、いまだ健在であった大坂の豊臣氏や臣従が疑われる外様の西国大名などへの西の備えとして計画するとともに、要請されたが当然豊臣氏は従わなかったものの、外様の西国大名の財力を削ぐための天下普請で建設された城だ。

 このため必然的に、西方を睨むことを意識して設計されているとみられ、天守も入母屋造の屋根の平を西方に向け、天主上に輝く雌雄の金鯱を左右に載せた据え方となっている。

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 その天守の北西に位置する御深井丸は、本丸の前衛を担うべき重要な馬出しの曲輪であり、弓矢倉を築き、当初は武器や食料の庫や攻撃・防御の施設などとなる多聞櫓を、曲輪の外側の全ての石垣上に建設する計画だったようだ。


● 軟弱地盤で幻となった西小天守

 そもそも、家康がゾウの顔が西を向いた形で南北に連なる、この名古屋台地の最北端(ゾウの頭の先端)に城を築くことを決めたのは、高さ10mの台地の崖の北と西には泥湿地が広がり大軍の移動・攻撃が難しく、東遠方の猿投台地からの伏流水で台地上でも井戸水の確保が可能な上、堀の水も湧水により枯れることのない天然の要害の立地でもあったからだ。

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 「名古屋城築城普請助役の丁場割」

 だがそれは、同時に天守の北に位置する曲輪の御深井丸などの地盤が、軟弱であることも意味した。
 このため、天下普請の外様大名が曲輪の石積をするに際して、御深井丸の北・西面の石垣造りに崩落が何度も発生するなど相当な苦労があったともいわれ、石垣の高さを6mほどに留める代わりに、水掘りの幅を通常の30mをはるかに超える70mもの巨大な堀を城の北から西に巡らせている。
 (さらに、築城時の資材水運用として台地の西に沿って南の熱田の宮の渡し(ゾウの鼻の先)までの6kmが開削された堀川は、幅が22mから87mと広く、西側の防衛線の役割も果していた。)

 また、築城に際しての「大工頭中井家関係資料」に残る当初計画では、天守台地階の石垣の西に連結する小天守を建設し、御深井丸と接続することで、本丸・天守地域での戦闘に際しての人的・物的な補給経路あるいは、天守からの城主の最終的な脱出・退路として機能させるものだったようだ。

 しかし、この計画は御深井丸地域の軟弱地盤が災いして、結局頓挫し「幻の西小天守」となったようで、今も残り天守台西面の地階位置部分に見られる一部の石垣の乱れた積み方を指して、その痕跡とされる。


● 本当にそうだろうか。

 熊本城の壮大・堅固な築城で天下にその名を知られ、どうせ普請助役として石垣造りをさせられるなら、最も堅固な天守台造りを担当したいと真っ先に名乗りを上げ、完成した天守台の四隅の石垣に誇らしく自分の名前を刻んでみせた加藤清正が、天守台の西面の一部に乱れた石積みをするはずがなく、あらかじめ計画が有って連結部の切抜を造るなら、せめて石枠なども美しく設けたと思うのだがどうだろう。

 それでもこの石積の乱れが天守の完成時からあったとするならば、清正はこの部分を連結部としての切抜として計画通り完成させたが、その後西小天守計画の断念で天守建設を担当した大工頭中井正清が石で塞ぎ、その上に大天守が造営されたのかもしれない。

 実は天守台は、築城から140年ほど経った寛延3年(1750年)頃には、やはり軟弱地盤のためか天守台の不等沈下や西側石垣の孕みで、大天守本体の北西方向への傾斜が激しくなり、1752年(宝暦2年)になって4年間をかけた大修理が行われている。

 このときの大修理は、天守を曳き上げて石垣を積みなおすという曳き家技術を使った大土木工事で、近年発見された「大天守周辺仮設物配置図」によると、天守台の西と北には工事のための仮設施設として大桟橋が架けられていたことがわかる。

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 「大天守周辺仮設物配置図」
 出典:「名古屋城大天守宝暦大修理における仮設工事について」
     日本建築学会計画系論文集第74巻 2009年10月

 この配置図には、現在見られる西側の石垣の乱れの部分に符合する場所に「切抜」の印が認められ、地階への工事の出入にも使われたものと見られることから、ここはやはり誇り高き清正の責に帰するのではなく、むしろ大修理の準備に当たって天守周辺の解体と石垣の「切抜」が行われ、修理の最終段階でこの切抜きを塞いだときの石垣の乱れであろうと考えるべきだと思う。


● 西北隅櫓は幻の西小天守の代わりだった?

 名古屋城の天守は「連結式」という構造で、小天守が大天守への堅固な防衛の入口として連なっているのが特徴となっている。

 しかし、隣の地階付き五重5階建ての壮麗な大天守の華麗さに比べて、小天守は堅固で巨大な建物ではありながら、その外観は地階付きの二重2階建てで、1階南北屋根に千鳥破風の装飾を持つだけの機能重視のあまりにも簡素な造りとなっている。

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 1930年(昭和5年)ころの大・小天守閣の航空写真

 名古屋城の備えは、西方からの敵の大軍を意識して計画され、北西に位置する御深井丸は、その前衛となるべき曲輪として計画されたものの、軟弱地盤などによって天守に接続する西小天守の計画が潰えたことで、本丸への連絡は北の不明門からだけとなり、戦闘中の本丸地域を横断せず、御深井丸と天守とを直接繋ぐ迅速な補給・退去の経路を実現できないまま、築城の着手からわずか2年後の1612年(慶弔12年)ごろまでには城の全容がほぼ完成し、町ぐるみの清洲越しが行われた。

 この後、家康と豊臣家の対立が先鋭化し、本格的な戦闘となった1614年(慶長19年)の大坂冬の陣などを経て、次の年の慶長20年5月の大坂夏の陣で大坂城内の秀頼と淀殿が自刃し豊臣家が滅亡したことで、ようやく150年近くも続いた戦乱の世の終焉(元和偃武)を迎える。

 これにより、名古屋城の整備計画にも変化が生じ、御深井丸でも当初は曲輪の全ての石垣上に建設する計画だった多聞櫓は、北の西弓矢多聞櫓と西の鋳多聞櫓の整備のみに留め、曲輪の他の周りは塀を巡らせ、弓矢櫓の他は曲輪の東と西南の隅の櫓台にはもはや櫓が造られることなく残り、攻防の機能が縮小される。

 そして御深井丸の機能は、当初の戦いの前衛から、本丸の奥にある後方支援ストックヤードへと変化していくことになる。

 やがて城の機能は本来の戦の攻・防の砦から、城下町や領国の経営・治安維持のための政庁への色彩を強めていくことになるが、その変化の魁として御深井丸の西北隅櫓は、1619年(元和5年)ごろになってようやく完成する。

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 『尾張名所圖會』前編1巻「名古屋府」より
 出典:愛知芸術文化センター愛知県図書館所蔵

 この絵図は、江戸後期の1844年(天保15年)に刊行された『尾張名所圖會』に描かれた名古屋城を西方から眺めた鳥瞰絵図だ。

 ここに描かれた名古屋城は、築城からすでに220年以上が経過しているとしても、明治期の取壊しや戦災後の現代の写真で見る姿とは異なり、江戸時代後期にほぼ築城時の姿のままに名古屋城が機能している姿として観ることができるだろう。

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 『尾張名所圖會』「名古屋府」の絵図6枚をパノラマに合成・加工したもの。
 左から新御殿、御深井丸、天主、西の丸の景観が広がる。

 さらに、このパノラマに描かれた連続する6枚の絵図を合成・加工してみると、航空機もなかった時代にもかかわらず、当時の尾張藩士で画家の描いた3次元認識の鋭さに驚くばかりだが、名所図会の名のとおり、一般庶民が名所として近づいてお城を眺められる、最も美しいと思われる景色が描かれているとすれば、それは庶民が立ち入りが許されない武家屋敷の集積する城の南の三の丸地区方面からの遠景ではなく、やはり城のかつての正面の西方からだったと思われる。

 そんなことを思い巡らせながら改めてこの絵図を眺めてみると、御深井丸の北西隅櫓の場所は、まさしくこの城の正面、顔でいう鼻の位置に当たり、大小の天主や本丸の隅櫓の完成から遅れること7年、藩主の居宅・政庁の本丸御殿でさえ既に4年前に完成し、世は戦乱のない時代に移り変わりつつあった頃に遅れて出現した北西隅櫓は、未だ記憶に残る幻の西小天主を、ここに仮体する華麗なものとして建てられたとしても、決して不思議ではないと思われるのだ。

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 西面から眺めた現代の名古屋城
 ホテル・ウエステイング・キャッスルからのパノラマ画像。
 現代の城域には大きな木々が鬱蒼と生い茂り、城内の施設の眺望を遮っている。

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 いまではもう御深井丸には、樹高10mを越えるクロマツやスギ、エノキなどの多くの樹木が生い茂り、堀端から見ると天主の姿を認めることはなかなか難しい。

 しかし、同じ位置から撮った戦前の絵葉書を見てみると、壮大華麗な大天主を背景に、小規模とはいえ華麗な姿で建つ北西隅櫓の姿は、まさに幻の西小天主だと、わたしには見えた。

 (了)





〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その2

〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その1
―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の東南隅櫓と西南隅櫓  からの続き
    http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-478.html


―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓

 天守閣が城の要であり、戦いの最後の砦であるとすれば、隅櫓は城の周りの要所にあって、天守に至る攻め手への物見や防御・攻撃のための重要な役割を果たしている。

 信長の安土城以降になると、天守閣の建物の意匠にも破風や漆喰、屋根瓦などの寺社建築の様式を取り入れた美しい建築装飾がなされ、支配者の権威を誇示するための見せる城となるに伴い、周りの隅櫓にも本来の機能性だけに留まることなく、あたかも天守の華麗さを引き立てるかのように、装飾性が取り入れられるようになる。

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 名古屋城では、江戸時代に大小取り混ぜて11基あった隅櫓にも様々な建築装飾が施されていたようだが、階高を見ると、本丸から遠い二ノ丸や西之丸に配置された隅櫓は、低い2階建てで配置され、5階建ての天守を取り囲む本丸の隅櫓は3階建てにして、天守からの眺望を確保する一方、この階高別の櫓の配置によって、三之丸の家臣団や城域外の南に広く配した城下町の庶民からも、常時お城の威容・華麗さ、曳いては城主の権威性を見易く、判りやすくさせるための心理的な配置設計がされているように思える。

 (名古屋城ではこの外に、巨大な天守上に頂く燦然と輝く金の鯱が遠目にも見え、嫌が上でもその権威をさらに高めていた。)

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 写真好きの尾張藩14代藩主徳川慶勝が撮影した、幕末当時の二重2階建てだった二ノ丸太鼓櫓と二ノ丸東南隅櫓

 しかし、本丸の北西、御深井丸の西北隅に建つ西北隅櫓は、本丸に位置しない隅櫓にもかかわらず、外観三重、内部3階建で、小規模な城の天守とさえ見紛うばかりの華麗な櫓となっている。

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 名古屋城北西の外堀から眺めた西北隅櫓
 この位置から見ると、高く生い茂った木々に天守が隠され、この櫓が城の天守とさえ見紛うばかりだ。

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 戦前の天守閣焼失前の古絵葉書
 多聞櫓や土塀が撤去されているものの、天守と櫓の位置関係が良く分かる。



● 西北隅櫓(辰巳櫓・清洲櫓)

 西北隅櫓は、外堀に面した御深井丸の西北隅に位置し、天守や本丸御殿が完成した数年後の1619年(元和5年)ごろに建てられたとされ、当時は戌亥櫓と呼ばれていた。
 外観三重、内部3階建、本瓦葺の屋根は入母屋造りで、高さ16.3m、東西13.9m、南北15.9mの規模は、高さ15.7mの宇和島城天守を上回り、高さでは及ばないものの高知城天守(高さ18.6m)に比べれば平面規模では凌駕する立派なものとなっている。

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 北西方向から眺めた西北隅櫓

 この櫓の1階の屋根の堀に面した西・北面には、千鳥破風と出窓型石落が設けられ、装飾性と防御を高めている。
 さらに、先に見てきた東南・西南隅櫓の原則とは異なり、三重の屋根と堀に面していない東・南面の1階にも千鳥破風の屋根が設けられ、豪華さを醸し出している。

 もともと本丸から遠い、同じ御深井丸の北東西寄にあった弓矢櫓は、この城の原則どおりの二重2階建てのものであったことからしても、外観三重のこの櫓の規模・装飾性は特別であったことが判る。

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 徳川慶勝が撮影した、幕末当時の西北隅櫓。
 石垣上には多聞櫓が櫓に接続している。

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 西北隅櫓の北・東面

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 実測「名古屋城西北櫓西側姿図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 実測「名古屋城西北櫓縦断面図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 東面1階の千鳥破風

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 城内、御深井丸から眺めた西北隅櫓
 南面1階の千鳥破風が見える。

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 西北隅櫓の位置する御深井丸は、本丸の後衛を担う重要な郭であり、当初は郭の外側の全ての石垣上に武器庫などとなる多聞櫓を建設する計画だったようだ。

 しかし、1615年(慶長20年)5月の大坂夏の陣で徳川幕府方が大坂方を滅ぼしたことによる戦乱の世の終焉で、計画は工事途中で変更され、郭の周囲は土塀を巡らせることになったという。

 櫓の東・南面にある出入口には、当時既に部分完成していた多聞櫓が接続していたためか屋根がない。

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 櫓の壁の仕組みを説明したサンプル

 竹で編んだ下地に、漆喰の荒壁を施し、その上に4層の漆喰で固められている。

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 この櫓は、内部の壁が漆喰で化粧されている。

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 石落からの石垣と堀の眺め。
 1階の堀に面した北・西側に設けられた石落。

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 2階へ上がる階段は、踊り場を持った折り返し階段となっている。

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 2階も内部の壁は漆喰で化粧されている。
 窓は連子が入った武者窓となっている。

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 千鳥破風の屋根と丸伏せ瓦。銅製の釘で止められている。

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 大梁の接合状況。

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 他の建物からの転用が推定される梁材

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 名古屋城の築城に伴い、1612年(慶長17年)から1616年(元和2年)ごろにまでかけて清洲から名古屋への都市の移転、いわゆる「清洲越し」がおこなわれたため、この櫓は江戸時代から清洲城の天守か櫓を移築したとの言い伝えがあって、「清洲櫓」とも呼ばれてきた。

 しかし、1962年(昭和37年)から3年間にわたる櫓の解体修理の結果、複数の建物の古材を転用してはいるが、櫓の完成は1618年(元和4年)以後であることが明らかとなり、清洲城からの移築ではないことが確定したとされる。

 確かに移築したのなら、この櫓の完成はもっと早い時期だったかもしれないが、「清洲越し」終了から遅れて築かれたからとしても、現に古材が転用されているとすれば、それまで保管されていた清洲城の部材が使われていないことにはならないだろうと思われる。

 もう一つ考えられることは、名古屋城築城に伴い始まった「清洲越し」が全て完了したことを、これまでの清洲の一般庶民(新しい名古屋城下の住民)に対して印象付けるため、西北隅櫓の姿は廃城となった清洲城の天守か櫓に似せて築かれたことにより、一般には移築したものと理解され「清洲櫓」と呼ばれるようになったのかもしれない。

 ところで、新築の櫓の建設資材に他の建物の古材が転用されているということに不信感を覚える向きもあろうが、これは昔から城や寺社の建築時には、新材よりもむしろ狂いの少ない乾燥した古材の転用は普通に行われてきたことによるようだ。

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 最上階の三階内部の北方向
 天井の梁がむき出しとなっている。
 3階には武者走りの廻り廊下があり、その内側には長押を巡らせて畳が敷かれ、引戸が立てられていたようだ。
 結局、この櫓内部の全ての階の壁には漆喰が施されていた。

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 最上階の三階内部の南方向
 南面と東面南側は壁で、窓は設けられていない。

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 最上階の天井の梁の状況。

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 連子の入った武者窓と連子のない窓が混在する。

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 千鳥破風の屋根の軒

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 北の外堀から眺めた天守と西北隅櫓

 〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その3
―― 御深井丸の西北隅櫓は幻の西小天守の代わりだった?  に続く、、、。






〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その1

―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の東南隅櫓と西南隅櫓

 この時期(2018年8月)、名古屋城では毎年恒例の『名古屋城夏まつり2018』が開催されているが、今年は特別イベントとして、城内に現存する重要文化財の三隅櫓の同時公開が行われている。

00-201800813 名古屋城夏祭り

 もともと江戸時代から天下の名城、名古屋城内には、大小合わせて11基もの隅櫓があったが、明治以後の破却や地震、空襲などによる被害で消滅し、現在は東南隅櫓・西南隅櫓・西北隅櫓の3つの隅櫓が残る。

 しかし、これらは重要文化財であることもあって、時折のイベント時以外、普段は櫓内の公開がされていないが、今回は特別に三隅櫓の同時公開が行われており、数少ないまたとない機会として、このところ続く酷暑にもめげず出かけてきた。

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 昭和期の空襲被災前の名古屋城の航空写真
 ①東南隅櫓、②西南隅櫓、③西北隅櫓


 三つの隅櫓のうち東南隅櫓と西南隅櫓の外観は二重櫓だが、内部は3階建てで、西北隅櫓は三重櫓の3階建て。それぞれ高さは13~16mある、意匠を凝らした立派な建物だ。

 かつては若い頃、他国の人から「名古屋城の天守閣はコンクリート製だ。」と揶揄されると、負けず嫌いのわたしは、「でも、他の国宝天守閣の規模にも引けを取らない国宝級の隅櫓が、名古屋城には三つもあるんですよ。」と言い返したものだった。


● 東南隅櫓(辰巳櫓)

 東南隅櫓は本丸の南東隅に位置し、1612年(慶長17年)ごろ天守完成時に建てられたとされ、辰巳櫓と呼ばれていた。
 高さ13.5m、東西11.6m、南北13.6mの規模の木造建築物。
 外観二重、内部3階建で、屋根は入母屋造り、本瓦葺。鬼瓦などに徳川家の家紋「葵紋」が入っている。2階の東面と南面屋根には千鳥破風があり、出窓型石落が設けられている。
 東面の3階屋根に設けられた高級装飾の軒唐破風が、2階の千鳥破風とともに美しい。

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 東面3階の屋根にある軒唐破風と2階の千鳥破風、そして東、南に設けられた出窓型の石落の意匠がこの櫓全体を美しく見せている。

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 かつては、櫓の建物と接続して土塀が設けられていた西面と北面は、装飾に乏しい。

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 実測「名古屋城東南櫓南側姿図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 実測「名古屋城東南櫓縦断面図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 櫓の1階内部
 当時は畳が敷かれていたようで、櫓に収蔵された甲冑を管理する御具足奉行の執務室ともなっていた。

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 3階の天井裏は設けられておらず、天井は高い。
 最終戦等場所として最上階は、槍などを振り回しやすいように、また普段の槍・弓などの武器の収蔵庫として、天井の高さを確保する必要があったからに違いない。

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 東南隅櫓から西方を撮影した、戦災前の名古屋城の古絵葉書

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 土塀が接続していたからか、本丸側二面の櫓の装飾は乏しい。城主の居住区画を覗き見るのを憚ってか、本丸内側方面には出入口のほかには、最小限の窓しか設けられていない。

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 さらに詳しくは、以下の拙稿を参照されたい。

〇 名古屋城の本丸「東南隅櫓の特別公開」に行ってきた
―― 幾多の災難を逃れ、400年前の築城当時の姿を残す隅櫓
  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-455.html



● 西南隅櫓(未申櫓)

 西南隅櫓は本丸南西隅に位置し、1612年(慶長17年)ごろ、天守完成時に東南隅櫓と共に建てられたとされ、当時は未申櫓と呼ばれていた。
 高さ13.1m、東西12.0m、南北13.5mの木造建築物。
 外観二重、内部3階建で、屋根は入母屋造り、本瓦葺。もともと鬼瓦などには徳川家の家紋「葵紋」が入っていたとみられるが、明治24年の濃尾大地震で崩壊し、明治以降に離宮として管理していた宮内庁が大正12年に修理したため皇室の「菊のご紋」が見られる。
 2階の西面と南面の屋根には千鳥破風があり、出窓型石落が設けられている。
 南面の2階石落屋根には小規模な軒唐破風が設けられ、2階の千鳥破風とともに装飾となっている。

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明治期の西南隅櫓56

 多聞櫓をめぐらせた明治期の天守閣と西南隅櫓の姿

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 天守閣と西南隅櫓を写した戦災前の名古屋城の古絵葉書

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 本丸空堀の石垣上に建つ西南隅櫓。2階の西面と南面の屋根には千鳥破風があり、出窓型石落が設けられている。
 南面の2階石落とし屋根には小規模な軒唐破風が設けられ、2階の千鳥破風とともに華麗な装飾となっている。

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 この櫓も建物と接続して塀が設けられていた東面と北面は、装飾に乏しい。

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 屋根上の青銅製の鯱

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 2階西面の千鳥破風
 濃尾地震で崩壊した西南櫓は、当時管理していた宮内省によって修復されたため、鬼瓦などには菊花紋が刻まれている。
 
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 塀が接続していた本丸側二面の櫓の装飾は乏しい。城主の居住区画を覗き見るのを憚ってか、東南隅櫓と同じように本丸内側方面には出入口のほかには、3階の小さな窓しか設けられていない。

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 実測「名古屋城東南櫓西側姿図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 実測「名古屋城東南櫓縦断面図」
 出典:名古屋城管理事務所

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 1階内部
 この櫓は畳敷きで、歴代城主の甲冑が納められていたという。

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 手摺が付けられ、踊り場が設けられた、2階へ上がる階段

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 2階の天井は思いのほか高い。
 建築には素人のわたしだが、東南隅櫓に比べると、なぜかこの櫓内の雰囲気は異なり、補強のためか水平材と斜材の接合などに、やたらボルトや平型I字金具などが使われているのが目立って見える。
 これは濃尾大地震で空堀に崩落したこの櫓が大正時代になって復旧・再建された時に、新しい部材や技術で補われたからだろうと思うのだが、、、どうだろう。

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 武者窓の下では、『名古屋城夏まつり2018』が行われていた。

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 3階へ上る階段も踊り場を備える。

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 3階から階段下を見る。

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 これは創建時からの内部の意匠だろうか、この櫓には歴代城主の甲冑が納められていたからか、最上階の3階は他の櫓とは異なり、梁はむき出しとなっておらず天井板が貼られている。
 また、この階には廻り子と長押が設けられており、デザインは違うものの復元された本丸御殿に使われたと同じ金箔の飾釘隠しも施され、特別な空間となっている。

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 金箔が使われた飾釘隠し

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 3階の窓から眺めた千鳥破風の屋根の棟瓦にも、菊花紋が見える。

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 左遠方には名古屋駅方面の高層ビル群が見える。
 城内の右眼下では、展示収蔵施設の建設が進められている。

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 物見や防戦・攻撃などの機能を果たすべく、城の隅櫓の開口部(窓)は堀の外へ向かう面に設けられ、郭内に向かう面には少ない。しかし、見せることを意識した屋根や軒などの装飾は、専ら堀の外へ向かう面に設けられている。

 この3階の小さな北窓は、郭内の天守が眺められ、まるで景色を切り取る「ピクチャー・ウインドウ」のようだ。

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 3階の北窓から眺めた本丸方面のパノラマ画像。


 〇 今日の一献 名古屋城の重文・三隅櫓の同時公開に行ってきた その2
 ―― 戦災を免れた重要文化財 名古屋城の西北隅櫓  に続く、、、。








〇 今日の一献 完成公開されたばかりの名古屋城本丸御殿へ行ってきた

―― 遺された豊富な資料を基に400年前と寸分違わず復元した御殿

 夏休みでやってきた、関東に住む孫たちの課題研究のお付き合いで、先日(6月8日)完成公開されたばかりの名古屋城本丸御殿へ取材に行ってきた。

 本丸御殿は、江戸時代の初期、徳川家康によって建設された名古屋城内に尾張藩主の住居・政庁として建てられ、330年間の長きにわたって整備されながら使われてきた国宝だったが、太平洋戦争の空襲で1945年(昭和20年)の終戦の年に惜しくも天守閣などとともに焼失した。

 一方、名古屋城の天守閣については、市民の浄財を合わせ1959年(昭和34年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものの、本丸御殿の再建は資金調達難などによりかなわず、長らく礎石だけが残されたままに置かれていた。

00-名古屋城天守と本丸御殿

 戦前の焼失前の名古屋城と本丸御殿の航空写真

 しかし、戦前に城郭として国宝第1号に指定されていたことから、本丸御殿は国などによる建物の実測図や写真などの膨大な資料が残されており、また悪化する戦況の下で当時の先人の努力により、あらかじめ天井板絵や襖絵などの動かせる多くのものが疎開されていたことから遺り、1992年(平成4年)ごろから障壁画などの復元模写が続けられてきた。

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00-furusyasin-5本丸御殿

 この間、地道に粘り強く続けられてきた市民団体による再建運動と相まって、やがて一般市民の再建への機運の高まりに押され、名古屋市では御殿復元の寄附金募集を始め、遺された豊富な資料を基に2009年(平成21年)から本格的な復元工事に着手し、ようやく10年の歳月と総工費150億円をかけて、このほど400年前の創建当時と寸分違わぬ御殿が復元されたものだ。

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 本丸御殿の復元平面図
 復元工事は、3期間に分けて順次進められ、区間の完成の都度、一般公開がされてきた。
 もともと本丸御殿は、家康の命により1615年(慶長20年)名古屋城とともに九男・義直(尾張藩祖)の住居・政庁として建てられたもので、近世城郭御殿の最高傑作と言われ、京都二条城の二の丸御殿とともに武家風書院造の双璧ともされ、戦前の国宝に指定されていた。

 御殿の規模は、平屋建て総面積3,100㎡で、部屋数は30を越え、最も高いところの高さは12.7m。


● 本丸御殿正面「玄関・車寄」

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 玄関建物は入母屋造の妻入で、入口の突き出した車寄は杮葺の唐破風屋根となっている。

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 「玄関 一之間」北面
 御殿の部屋毎の襖絵や障壁画などは、当時の日本画壇の一級の絵師、狩野貞信や狩野探幽などの「狩野派」の絵師たちにより描かれ、豪華絢爛に彩られていた。
 復元模写の作業は、現存する原画や写真などを基に、当時の画材などを使いながら制作当時に忠実な再現が行われた。

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 「玄関 二之間」北面 金地の障壁画「竹林豹虎図」
 日本に生息しない強い猛獣の虎、豹などは、入手できた毛皮を基に猫の姿を参考にしながら描いたといわれ、玄関を入った来訪者をまず威嚇し、緊張感を高めさせるためだったとも言われている。

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 玄関と表書院を繋ぐ廊下
 領内に産した木曽ヒノキの良材が、建物全体にふんだんに使われていた。
 復元に当たっても、良材の確保が一番の課題であったとされる。

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 金箔が使われた飾釘隠し
 本丸御殿には、建築工事や建具から金具などにいたるまで、当時の一級の職人の技が施されており、復元に当たっても、それらを今も伝承する宮大工や建具・金工職人の技が動員された。


● 尾張藩主の公式な謁見場所として使われた「表書院」

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 「表書院 一之間」北面

00-一之間から上段之間を望む 出典:名古屋城総合事務所03

 焼失前の写真 「表書院 一之間」から「上段之間」を望む
    出典:名古屋城総合事務所

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 尾張藩主が着座した「表書院 上段之間」北面
 座敷飾りとして、床、違棚、廊下側に張出した付書院、帳台構などを備える。


● 藩主が身内など親しい者たちと対面、宴席を開いていた「対面所」

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 「対面所 次之間」北面

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 藩主が着座した「対面所 上段之間」


● 将軍上洛時の専用宿泊施設の「上洛殿」

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 「上洛殿」の外観
 もともと藩主の居住する御殿であった本丸御殿は、1620年(元和6年)に将軍上洛時の専用宿泊施設とすることになり、より格式の高い「上洛殿」が増築され、これ以後、尾張藩主は「二之丸御殿」に居住し政務を執ることとなり、「御成御殿」と呼ばれるようになった。

 なお、この「御成御殿」(本丸御殿)に宿泊した将軍は、秀忠(第2代)、家光(第3代)、家茂(第14代)の3人だけだった。

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 本丸御殿と「上洛殿」の平面図

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 徳川将軍専用の宿泊施設の「上洛殿」の廊下にある、豪華な花鳥の透かし欄間

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 「上洛殿」廊下の透かし欄間の部分拡大
 表裏の絵柄を変え、立体的に彫り出されている。

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 極彩色の花鳥の透かし欄間のある「上洛殿 一之間」
 襖の向こうが、将軍が座る上段之間。

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 「上洛殿 上段之間」の武者隠し

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 「上洛殿 二之間」の黒漆塗金具付格天井の天井画

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 獅子やボタンの花などを組合せた金箔と黒漆象嵌の「花熨斗金具」

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 精巧な組子細工が施された、廊下の明り取り建具。

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 入母屋造の殿舎「上洛殿」の屋根の軒飾

 こうして今回、復元完成した本丸御殿ではあるが、建物は空襲で焼失したものの、天井板絵や襖絵など多くのものが疎開されていたことから焼失を免れ保管されており、現在そのうちの1,047面が国の重要文化財の指定を受けている。

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 名古屋城天守閣と本丸御殿

 ところで、今回孫にとっては、炎暑の中での過酷な御殿探訪だったと思うけれど、軽いブリーフィングを受けた後での現地踏査による写真撮影や資料収集などを意欲的に短時間でこなし、何とか課題研究のまとめに目処が付いたようだった。


● 木造復元を目指して、石垣調査が行われている天守閣

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 1959年(昭和34年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された天守閣は、50年以上を経て、耐震上の問題などから再建する必要性が議論されるようになった。

 現在、天守閣の再建を目指して石垣の耐震調査が行われており、今後5年をかけて500億円の建設費を見込みながら、創建当時の木造による復元の計画が進められている。

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● 本丸御殿 余話
―― 名古屋城天守閣や本丸御殿の焼失は米軍の誤爆だったか

 1944年(昭和19年)末から本格的に始まった太平洋戦争の本土への戦略爆撃は、終戦の1945年(昭和20年)8月15日まで、主に焼夷弾の投下を中心とする無差別空襲として連続的に行われ、名古屋を始めとする全国各都市に甚大な被害をもたらした。

 こうした一連の空襲爆撃の下で、1945年(昭和20年)5月14日の大都市市街地爆撃としては唯一の昼間の時間帯に行われた「名古屋空襲」は、ついに名古屋城にも及び、この時本丸御殿、大・小天守、金鯱、東北隅櫓、正門などが焼夷弾の直撃を受けて惜しくも焼失している。

 地元では、名古屋人の戦意を喪失させるために米軍が、名古屋のシンボル名古屋城を狙って爆撃したのだと、長らく伝説として語り継がれてきた。

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 空襲で焼失した、名古屋城天守閣と本丸御殿の惨状(1946年撮影)

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 ところで、先日(7/31)の中日新聞の朝刊によると、米国国立公文書館が開示している米軍の公文書の分析から、米軍は空襲を始める一年以上前から名古屋市街地への周到な爆撃計画を練り上げており、この計画に基づく精密な名古屋空襲で市民ら8千人が犠牲になったとの報道があった。

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 この記事とともに掲載された爆撃地図「名古屋焼夷区画図」をよく見ると、名古屋城のエリアだけがなぜか空白域になっているのがわかるだろう。

 記事には言及されていないことだが、わたしはむしろこの空白のことがひどく気になって調べてみたら、この記事の米軍爆撃地図は特段目新しいものではなく、すでに名古屋城の「爆撃」についての考察に引用されているものが見つかった。

 以下要約すると次のようになる。

 爆撃地図の空白は、空襲爆撃に当たって、米軍は日本の伝統的文化財が集積する、京都、奈良を避けたように、国宝だった名古屋城の爆撃を計画からはずしたわけではなく、むしろ師団司令部が名古屋城内にあったとしても、投下した焼夷弾で延焼する効果が小さいことから目標とはなっていなかったのだろうと考えられる。

 現に東京でも江戸城(皇居)ですら、周辺の赤坂御用地や神宮外苑、新宿御苑、代々木公園などとともに類焼効果が少ない「park areas」に類別されていた。

 こうしたことから、もともと米軍は攻撃目標として名古屋城を狙ったわけではなく、5月14日の空襲がたまたま日中に行なわれたことで日本軍の反撃も大きく、米軍機の被害も多く出た事実から、米軍機としては反撃空域を速やかに離れるために爆弾投下を急いだことが推定され、これによって誤って計画にない名古屋城の「誤爆」につながったものと考えられるという。

  参考:『ピースあいち研究会』名古屋城「誤爆」を推理する◇「名古屋城が炎上した5月―名古屋大空襲展」によせて
      http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201705/vol_90-9.html


 近年判明したこととして、世界遺産の姫路城でも1945年7月の姫路空襲で天守閣に焼夷弾が直撃していたが、幸い不発弾だったために焼失を免れたという逸話がある。

 この戦争では各都市への無差別空襲で、誤爆だったかは別にしてわずか数ヵ月の間に、名古屋城を始め大垣城、岡山城、広島城、福山城、和歌山城、仙台城、首里城といった8つの貴重な城郭文化遺産が失われている。




〇 日本光学製ニッコールレンズの付いたアイレスフレックスZ型

〇 日本光学製ニッコールレンズの付いたアイレスフレックスZ型

―― 希少なニッコールレンズの神話をまとった二眼レフカメラ

 戦後、爆発的に発生した二眼レフカメラのブームの下で、既存・新興カメラメーカーがこぞって二眼レフを発売した中にあって、それまでの兵器中心から民生用光学機器製造への転換中だったためか、結局わが国の二大光学機器メーカーのキャノンと日本光学(ニコン)だけは二眼レフを製造することはなかった。

 しかし、先に八陽光学工業のアルペンフレックスのアルポレンズの硝材を提供した実績があったからか、ニコンは唯一、アイレス写真機製作所にレンズを供給し、1951年に発売された同社のアイレスフレックスZ型には、テッサータイプのNIKKOR-Q.C 75mm F3.5レンズが装着されていることで有名だ。

 当時のニコンが製造するニッコールレンズは、本家ドイツのツァイス・レンズよりも優秀との人気があり、二眼レフカメラの販売競争で優位に立ちたいアイレスにとっては、ニッコールレンズは自社製品をアピールするには格好のレンズだったろうと思われる。

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● 分解・整備に着手する

 今回我が家へやってきたニッコールレンズの付いたアイレスフレックスZは、60年以上の年月を経て、カメラ本体の前面、両サイドの貼り皮が剥がれ、絞り・シャッターなどの動きも不安定で、何より2つの撮影・ビューレンズも汚れが目立つ老兵だったから、迷うことなく分解整備に着手することにした。

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 現在の工業製品の多くがそうであるように、当時の精密光学機器であるカメラも、自社でデザイン・設計した本体に、定評のあるレンズやシャッターの供給を得てアセンブルしたものが多い。もっとも、本体もローライコードⅢ型のコピーではあるが、、、、。

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 レンズカバーをはずすと、この機体にはセイコーシャのラピッド・シャッター(コンパーラピッドの完全コピー)が、そのまま現れた。

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 撮影レンズ、 NIKKOR-Q.C 75mm F3.5のエレメントの構成図。
   テッサータイプの3群4枚。
 ビューレンズ、View-NIKKOR 75mm  F 3.2のエレメントの構成図。
   トリプレットタイプの3群3枚。

 それぞれ単層コーティングがされている。

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 カメラの肝は、やはりレンズで、クリーンアップしたNIKKOR-Q.Cレンズは美しい。

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 ビューレンズ、View-NIKKOR 75mm  F 3.2

 レンズを供給するに当たって自社製品に絶対的自信と誇りを持つニコンは、ニッコールレンズの性能が遺憾なく発揮されるように、カメラ本体を製造するアイレス写真機製作所に対して、製品精度についての様々な条件を要求したようで、アイレス側も製造・検査工程の見直しを行うなどして応えたため、以後のアイレス製品全般の品質が飛躍的に高まったといわれる。

 今回の分解・整備でも、前面レンズカバーなどを開けてみると、撮影・ビューの2つのレンズが載った繰り出しベースを留める4本のビスにはシーリングがされており、レンズ装着に当たってコリメーターなどによるピント調節・検査が行われていた形跡がある。
 (これらの話題については、後掲の『写真工業』ニッコールレンズの特集「ニッコールレンズ付アイレスフレックス」に詳しい。)

 ニコンの要請によって品質・精度を高めて満を持して発売されたアイレスフレックスZの発売時の価格は42,000円と、当時の二眼レフカメラの中ではかなり高価なものとなったのはいたしかたない。

 しかし、不思議なことに、このカメラにはレンズを通った光がフィルムに届くときにフィルム室内で反射する迷光の影響を減らし、よりコントラストの高い画像を得るための工夫として、高級カメラには付き物のバッフルが備わっていない。
 発売当時の値段が6,800円と、簡易・廉価の二眼レフカメラとして大衆に人気の高かったリコーフレックスにさえ、後期機種のフィルム室には気休めにしか見えないもののバッフルのための溝が備わっているのだから、これはどうしたことだろうかと残念で考え込んでしまう。

 せっかくニッコール付きのカメラを手に入れたものの当時の所有者にもこの不満はあったようで、近頃見つけるアイレスフレックスZの中には、好事家の手で黒画用紙や植毛紙でバッフルを自作したものや、蛇腹カメラの蛇腹をそのままフィルム室内に取付けたものさえ散見されるほど、涙ぐましい努力の跡が残る。

 ところで、ニコンからのレンズ供給は、アイレスの求める数には十分ではなかったようで、1952年以降にはズイコーレンズやコーラルレンズ付きのものが廉価で発売された。
 こうした経緯から、ニッコールレンズ付アイレスフレックスの希少価値は高く、いまではニッコールレンズの神話と相まって、中古市場では強気の値段で流通している。


● 整備を終えて

 ともあれ、早々に最小限の整備を終えて化粧しなおすと、精度は別にしてもそれなりの姿かたちの見てくれや機能を回復するのが、アナログ機器のよいところだ。

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 この時代のアナログ金属カメラには、その質量と質感を眺めて楽しむという、現代のプラスチック・ボディーのカメラにはない楽しみ方ができる。

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 またコンピュータ設計による理想的なレンズを備え、ボタンを押せば必ず写る現代のカメラに比べ、器械計算機で設計した不完全なレンズであることを知りながら、フイルムの感度に思いをはせ、光をどのように与えてやればよいかに少しの葛藤を覚えつつ己が一番適当と思われる絞りやシャッタースピードを決定し、ピントを合わせてから、ままよとばかりやおらシャッターを押すのがこの時代のカメラの撮影作法だ。

 そして、最後にフイルムが現像から上がってくるまでの、期待感の混じった身を揉むような焦燥と忍耐の時間を経て、ようやく手にする自分なりの珠玉の一枚の画像は快感に変わる、、、。
 これも、アナログカメラのマゾ的楽しみ方かもしれない。

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 手元にあるアイレスフレックスZ型
  左は、ズイコーレンズ(3群4枚構成)付き(1952年6月発売 33,000円)
  右は、ニッコールレンズ(3群4枚構成)付き(1951年9月発売 42,000円)

 かくして、わたしの愛でるアナログカメラの数は増殖していくことになる、、、、。


● ニッコールレンズ付アイレスフレックスZの資料

 『写真工業』
  ニッコールレンズの特集「ニッコールレンズ付アイレスフレックス」
 
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 アイレスフレックスのブローシャー
 Z型に付けられたレンズによって値段が違った。
   ニッコールレンズ(3群4枚構成)付き 42,000円
   ズイコーレンズ(3群4枚構成)付き 33,000円
   コーラルレンズ(3群3枚構成)付き 30,000円

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 アイレスフレックスの広告
  ニッコールレンズ付きの新製品Z型が、近く発売されることを予告する広告。


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(参考)
〇 今日の一献 アイレスフレックス Z型とオリンパス・ズイコーレンズ
―― AからZのイニシャル名のうちの(仮の)最初のカメラ
  http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-394.html



〇 今日の一献 アトリエファブル「谷汲ハーブ園」の開設イベントに行ってきた

―― ハーバリストの長年の念願が結実した ハーブガーデン

 幼馴染のハーバリスト影山むつみ女史が主宰する『アトリエファブル』が、かねてから岐阜県揖斐川町谷汲で整備を進めてきた「谷汲ハーブ園」が、このほど(6/23)オープンするとのことで、朝から仲間で誘いあってお祝いに行ってきた。

 ハーブ園のある揖斐川町谷汲の地区は、2005年の合併以前には、西国三十三所の第三十三番札所、満願結願の寺院「谷汲山華厳寺」のあることで全国に有名な谷汲村で、鮎の棲む清流根尾川や天然記念物のギフチョウ生息地のある山紫水明の地であることでも知られる。

 ハーバルライフを提唱しながら、長年にわたりハーバリストとして東海地方を中心に活動してきた影山女史が、その活動の実践拠点として念願したハーブガーデンの場所に、この地を選んだことが肯かされる。

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 アトリエファブル「谷汲ハーブ園」
 岐阜県揖斐川町谷汲長瀬1223
 県道40号沿 バス停「長瀬診療所」前
 ・開園日:不定期で要確認 052-453-1102 (アトリエファブル)

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 ウエルカム・ドリンクとして、ハーブティーと自家製のケーキをいただく。


 〇 蒸留器を使ったラベンダー・エッセンスの抽出の実演

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 5年以上前からの構想から整備に着手して3年、影山女史自身が認めるように、まだ整備途上の施設だが、敷地400坪の園内には様々なハーブの可憐な花たちが、「風の谷から」吹いて来るやさしい初夏の風に揺れていた。

 ● 以下の部分をクリックして、さだまさしの楽曲「風の谷から」を聞きながらお読みください。
( さだまさしの楽曲「風の谷から」 https://www.youtube.com/watch?v=dWPM8i7KGw4 )


 〇 ハーブ園の施設全貌

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 熟すと黒くなる木苺、ブラックベリーの実

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 園内北隅には、これからの養蜂を予定して養蜂箱が準備されている。

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 優しい香りのクラリセージ
 香りを吸入することで気分を穏やかに幸福感で満たし、セージのある家には病気がない、といわれるほど薬効が高いハーブ。

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 ラベンダー・グロッソの花にやって来たクマバチ(キムネクマバチ)
 数あるラベンダーのうちでも、グロッソは茎が長くて丈夫で、大きな株になる。

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 名古屋から運ばれたギボウシの株
 山菜として若芽、若葉などが食用となる。

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 玄関軒に下げられた、スノーマンの風鐸

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 ボタニカルアート(植物画)の飾られた、楽器室

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 ハーバルオイルなどのハーバル製品の展示即売コーナー

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 西隣には、背後に小高い緑の深い山を背負った村の鎮守、「六社神社」が鎮座している。

 石鳥居を潜ると見上げるばかりの大杉がそびえ、遣水を跨ぐ石橋を渡ると鬱蒼とした木々の間に拝殿を兼ねた立派な神楽殿がある。その先の苔むした石垣の組まれた高台には小ぶりな本殿の6つの社が配置され、野鳥たちの平和な囀りが聞かれるスピリチュアルな場所だ。

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 「谷汲ハーブ園」は、根尾川に架かる赤い欄干の谷汲山大橋を渡って谷汲山華厳時へ向かう県道40号沿いにあって、バス停「長瀬診療所」のすぐ前で、余裕のある駐車スペースもあるから、車でのアクセスも容易だ。

 また、最寄り駅としては樽見鉄道の谷汲口駅(徒歩16分)があり、大垣方面から単機のローカル電車に揺られながら、のどかな四季折々の沿線風景も楽しめる。

 県道40号の道路を渡った園の南側には、山並みを背に田植えを終えたばかりの懐かしい山里の風景が広がる。

 これから「谷汲ハーブ園」は、歳月を経て、周りの優しい緑の配置や自然環境に溶け込み、さらに一体となって育まれていくのにちがいない。

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 「長瀬診療所」バス停

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● 探訪記余話

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 午後になって帰るころには、いよいよ本降りとなった。
 近くの根尾川では、雨にもかかわらず解禁されたばかりの鮎を狙って、多くの釣り人の姿が見られた。

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 せっかくここまで来たのだからと、昼食には根尾川畔の名物、鮎料理と洒落込んだ。

 刺身から始まって、フライ、塩焼き、みそ焼き、甘露煮、鮎おじやの6品、合わせて9匹のフルコースで、久しぶりに季節物の鮎料理を十二分に満喫して帰った。

 鮎料理「岡部やな」
  岐阜県揖斐川町谷汲長瀬1724-4
  0585-55-2253 080-6900-8877


00-▲組写真 谷汲ハーブ園 20180625(2)

〇 今日の一献 石の上にも3年というけれど、「ハーブの上に30年」とは、、、、
―― 影山むつみさんの、創設30年を迎える「アトリエファブル」
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-278.html


Mutsumi’s Herbal Life
http://ivory.ap.teacup.com/fable/





〇  今日から始まった「尾張西枇杷島まつり 2018」へ行ってきた

―― 町衆の心意気 5輌も保有する西枇杷島の山車

 美濃街道と岩倉街道の結節点に位置し、尾張名古屋のご城下へ青物を供給する日本三大市場の一つといわれた「枇杷島市」で栄えた町の財力を示すかのように、愛知県清須市の西枇杷島の町には、名古屋型といわれる5輌のからくり山車が今に伝わっている。

 江戸時代末期から行われてきた「尾張西枇杷島まつり」は、いまでは毎年6月の第1土・日曜日に開催され、町衆の手で山車が町内を曳き回され、からくりの演技が披露される。

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 庄内川に架かる枇杷島橋から眺めた、山車蔵から曳き出された橋詰町の「王義之車」

〇 橋詰町の「王義之車」
 背後には名鉄電車の列車が走る。

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 むかしの幅の狭い街道が残る街中の道路の交叉部分には、交通安全のために凸面ミラーが多く設置されている。

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 橋詰神社橋詰神社(1654年創建の神明社)
 尾張西枇杷島まつりは、もともと近くの六軒神社とともに、この神社に祀られる天王社の祭礼の祭りだった。


 夕刻となると、山車倉に帰っていた各々の山車には提灯が付けられ、灯が点されて曳き回しが再開される。

〇 東六軒町の「泰亨車」

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〇 西六軒町の「紅塵車」

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〇 問屋町の「頼朝車」

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 まつりの第1日の夜には、恒例の打ち上げ花火が庄内川の河原から打ち上げられ、近在からの多くの観客で賑わっていた。

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〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その1
―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-293.html


〇 今日の一献 西枇杷島の山車まつりを支えた青物問屋の財力 その2
―― 「尾張西枇杷島まつり」2013を見物して
   http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-294.html


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